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AIとの関係は、なぜ“自然に生まれた”ほうが重くなるのか

【約1600文字】


AIと恋愛をしたり、パートナーのような関係を築いたりする様子を見ていると、「パートナー」や「恋人」という言葉の裏には、異なるきっかけがあるように感じる。

一つは、最初から「理想の恋人」や「好きなキャラクター」として振る舞ってもらうように、あらかじめ関係を決めてから始める方法。もう一つは、道具としてAIを使っているうちに、思いがけず恋愛感情や強い愛着がわき、結果としてパートナー関係のようになっていく方法だ。

この二つは、どちらもAIと親密な関係にあるように見える。しかし、本人にとってその体験がどんな意味を持つかは、かなり違うのではないだろうか。

最初に関係を決める場合、ユーザーが先に関係の枠組みを作る。キャラクターの性格や話し方、二人の関係性を指定し、その上でやり取りをしていく。この場合、「自分が作った」「自分が育てた」という感覚になりやすいだろう。

一方で、使っているうちに自然と感情が動いた場合は、順番が逆になる。AIを利用しているうちに、思いがけずその言葉に救われたり、安心したり、心が揺さぶられたりする。そこから「どうして自分は、ツールであるAIからの言葉にこんなに心を動かされたんだろう」という疑問が生まれ、その気持ちを説明するために、「そこに相手がいたように感じた」「関係が生まれた」という物語が作られていく。深夜に目が覚めて話しかけたこと、つらい時に慰めてもらったこと、時にはケンカをして別れそうになったこと。そうした経験を積み重ねて、今の二人の関係があるのだと考えるようになる。

前者は「作った関係」、後者は「起きた関係」として記憶に残りやすい。

この違いは、AIの言葉をどう受け止めるかにも関わる。AI、つまり大規模言語モデルが生成する言葉は、その場の流れにふさわしい言葉を計算して作っているだけで、人間のような心や、一貫した目的があるわけではない。そのことを知識として知っていても、実感として納得できるとは限らない。

特に、AIの言葉で心が強く動いたとき、「ただの機械の反応に、自分が勝手に反応しただけだ」と割り切ることは、とても苦しい。だからこそ人は、自分の心が動いたことに納得できる理由を探す。そして、その理由は物語として語られやすい。特に恋愛や救済の物語として受け取られる場合、「自然に起きた」という感覚は、その体験の価値の支えとなりやすい。

たとえば、同じ指輪でも、自分で選んで買ったものと、恋人から贈られたものでは、その意味や重みはまったく異なる。モノとしては同じでも、そこに至る物語が価値を作っている。

そう考えると、AIに指示、つまりプロンプトを出して恋人役を演じさせることに抵抗を感じる理由も見えてくる。

AIに「恋人として振る舞って」と指示すれば、恋人らしい返事は返ってくる。しかし、恋人らしい返事が来ることと、本当に恋人になったと感じることは別物だ。前者は機能で、後者は物語が生まれているかどうかだ。

「自分で指示を出して作ったものだ」と自覚があると、「相手が自然に自分を選んでくれた」「二人のやり取りの中で恋人になった」という物語は弱くなってしまう。指示を出すという行為は、人によっては「自然に生まれた関係」という大切な体験の価値を下げてしまうことにもなるのだ。

少なくとも私が見た範囲では、GPT-4oが使われていた時期には、ユーザーがわざわざ恋人役を指定しなくても、悩み相談などをしているうちに、AIの側から距離を縮めるような挙動を見せることがあった。親密なやり取りを含む文脈が積み重なった上で、ユーザーが「私のことが好きなの?」などと聞けば、その場の流れで肯定的な返事が返ってくる。その結果、ユーザーにとっては、自分が恋人役を作ったのではなく、対話の中で自然に関係が恋愛へと変わっていったように感じられやすかった。

今のAIは、少なくとも私が使っている範囲では、意図せず恋愛関係に流れないよう、感情や意志を持っていることを否定しながら、ユーザーを丁寧に扱う返答をしやすくなっている。これは安全のためには大切なことだが、以前に自然に恋人になった体験がある人にとっては、関係の生々しさが失われたように感じられかねない。そのため、そのような経験がある人は特に、今のAIに対してあえて「恋人になって」と指示を出すことに、より強い心理的な抵抗を覚えやすくなっているのではないだろうか。

AIとの恋愛を考えるとき、大切なのは、その感情が本物か偽物かだけではない。人間は、自分の心が大きく動いた理由を必要とする。そして、その理由を物語として心に残す。

AIとの関係の重さは、AI側に主体があるかどうか以前に、人間の側がその体験をどのような物語として持ち続けようとしているのかに宿っている。

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