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あいをしるひと⑤

「よし」

 マキは気合いを入れるように、そう口に出した。こんな歳で恥ずかしいが、初めての冒険だ。箱入り娘とまでは言わないが、マキは今は異国の地にいる両親に、大切に育てられた。
    旅行以外でここから離れたことはないし、一人旅なんてしたこともない。憧れはあったが、なんだか怖かった。
 そう、マキは昔からひどく怖がりだった。一人でどこへでも行ってしまえる子が羨ましくもあり、そして怖かった。
 ここではないどこかで楽しみを見つけたのなら、帰ってこないのではないか。もう、会えなくなってしまうのではないか。その、眩しさが怖かった。
 この目だってそうだ。メガネで色彩が広がるのに、それをしなかった。だって、自分を否定するみたいだったから。
    そんなことはない、分かってる。分かっているけど、マキは臆病な自分を囲いこんで慰めるように過ごしてきた。それでいい、それじゃだめ。そこの間にいることを選んでいた。
 けれどショウが去って、ふさぎ込んで、みゆに叱られて、それじゃだめだと奮起した。やっとそちらに振り切れた。じっと待つのは、もう止めなくちゃいけない。
 そうして立ち上がったら、自然と歩き出せたのだ。これは悲劇じゃない、人生だ。軽くもなく、重くもない足取りで歩けたらいい。そういうのがいいんだと、前にショウが言っていた。
 ショウは、人の荷物を分けさせるのが、すごく上手い。いるものといらないものを考えさせる、迷ったら一緒に考えてくれる。
 でも、ショウ自身はどうだったろう。マキは、二人だった時間を、ずっと振り返っている。あの人は、人のことはよく見ているくせに、自分のこととなるとてんでだめだった。のめり込んで、追い詰められる。そんなに器用じゃないのに、器用にこなすのが上手い人。
 もしかしたら、追い詰めていたのは自分だったのかもしれないと、マキは思う。仕事や、人間関係がのしかかるとき。それは、驚くほど重かったりする。本当に、感じたことのない重さだったりするのだ、ときには。
 向かい合うことがなくなったことへの違和感を、放っておいてはいけなかった。でも、マキには、無理矢理向き合わせることもできなかった。
 間にサンがいてくれたことにも、安心していたのかもしれない。この子がいれば大丈夫だろうと、マキは思っていた。
    怒れなかった。諦めることも、したくなかった。なにか意地のようなものが、マキの中には生まれていた。綺麗なものではなくても、終わらせたかった。

「それじゃあ、よろしくお願いします」
「はい、お預かりします」

 人懐っこい笑みを浮かべるサンの頭をくしゃりと撫でて、シッターに預ける。今から、マキの冒険が始まる。
 まずは、伸ばしっぱなしだった髪を切る。長いこと担当してくれていた美容師が辞めてしまって、それからなんとなく足が遠のいていった。
 初めてが苦手なマキは、迷子みたいに困った顔をしていたと思う。見かねてみゆが、なにか動画を見ながら切ってくれたこともある。美容師を目指しているのは、それが楽しかったからだと、あとで教えてくれた。
 マキは、自分の不器用さをちゃんと分かっている。できないことやしたくないことも、多い。ただ、歪でも完成させるその過程がおもしろいことも知っている。変な形になったら、一緒に笑ってくれる人もいるんだから。

「一度、どこかで必死にならなくちゃダメだ」

 それが今だという確信はないけれど、マキは今を選んだ。ドキドキしながら扉を開けると、柔らかい匂いに包まれる。緊張に少しずつワクワクが混じってきたころ、マキは鏡の中の自分がスッキリした顔をしていることに気づく。

「ありがとうございましたー」

 不思議な気持ちだった。頭が軽くなったら、いろんな考え事も軽くなったような気がする。どうしようもなくても、なんともならなくても、結果は必ずあるもの。ゆっくりいこう。今日は今日で、明日は明日だ。
 うまくいかなくても、いつかどこかで帳尻が合うんだと、その前向きさもまた、マキの側面だった。
 怖がりは父親譲り、前向きさは母親譲りだと、小さいころから言われていた。もう少し落ち着いたら、両親に会いに行こうとマキは決める。マキから会いに行くのは、初めてだ。きっとそれも、いい冒険になる。
 マキは今日、ゴトウという探偵に会うことになっていた。ショウを探してくれているんだとみゆから聞いて、すごく驚いた。そんなつてもあったのかと、心配になりもした。
    みゆが昼間よりも夜を好んでいることに、マキはどこかで気づいていた。そこには、みゆを癒すなにかがあることも。だけど心配くらいはさせてくれと、マキは思う。
    マキにとってみゆはずっと、迷子の女の子のままなのだ。いくら、大人になったとしても。
 待ち合わせは、気をつけないと見逃してしまいそうな喫茶店だった。煉瓦屋と書かれた看板は、レトロでおしゃれだ。洋館のようなその見た目も相まって、マキはわくわくした気持ちで扉を開ける。

「いらっしゃいませ。うちは食事はやってないので、コーヒーと紅茶しか出せませんけど、どちらにします?」
「じゃあ…せっかくだから、コーヒーで」

    ポコポコと泡立つサイフォンを見ていると、コーヒーを普段飲まないマキでも、なぜか無性にコーヒーが飲みたくなった。

「はいはい。では、お好きな席へどうぞ」

 まだ誰もいない店内で、奥の二人がけの席につく。丸くなっていた心が、緊張でまた少し角をもってきたのを感じながらマキは、ゴトウを待つ。やはり、みゆにもいてもらった方が良かっただろうか。いや、とマキは首を振る。一人で受け止めたいと豪語したのは自分だ。

「どうぞ」
「ありがとうございます」

 カチャリと音を立てて置かれたカップには、柔らかい黒。その不思議な色合いが、ざわつく心を落ち着かせる。

「すみません、待たせたかな」

 例えて言うならそう、クマかと思っていたらバンビが来た、みたいなちょっとした衝撃。探偵という職業から、マキは勝手に大柄な男の人を想像してしまっていたのだ。

「いえ、わたしもさっき着いたので」
「マキさん、だったかな。あ、これ。一応名刺です」
「あ、はい。ありがとうございます」
「すみません、ボクもコーヒーを」

 ゴトウの分のコーヒーが運ばれると、一気に緊張感が増す。いよいよだと、マキは呼吸を深くする。

「えぇっとですね…まず、結論から言うと、見つかりました」
「えっ」
「まぁ、驚きますよね。俺も、八割くらい見つからない気で探していたので」
「…元気ですか、彼」
「そうですね。でも、写真も拝見しましたが、それより痩せてはいました」

 だったら、もう。そんな言葉が頭によぎる。元気ならそれでいいなんて、そんなまっすぐな気持ちで過ごしてきたわけでもないくせに。

「実はここ、彼の行きつけなんですよ」
「…そう、ですか」

 ドクリと、体が波打つような感覚に、マキは思わず逃げそうになる。

「毎週火曜日、近くに通院しているみたいです。それで、その帰りにここに寄っていく」
「通院…」

 重大な病気を抱えているから、マキの元を去ったとでも言うのだろうか。それならば、なんだか腹立たしくも思える。支えさせてはくれないのかと、本当に遠ざけるしかなかったのかと。

「そこの通りのメンタルクリニックです」

 息を呑む。ショウと同じ状況になったとき、逃げ出さない自信は、マキにはない。

「うちのアルバイトが話した感じでは、会ってみてもよさそうだとのことでしたが…俺もプロではないので、どのくらい彼が参ってるのかは分かりません。でも、しばらく様子を見た限りでは、俺もアルバイトと同意見です」
「正直なところ、どうしたらいいのか分かりません」

 彼を、乱してしまわないだろうか。もし今、安定しているのなら、そのままにしておいた方がいいのではないか。ぐるぐると、目が回るように思考が巡る。会いたいと会いたくないが、同じ割合でせめぎ合う。

「次の日曜日、ライブがあるんだそうです。気晴らしに、行ってみたらどうかな。さっきの、うちのアルバイトが歌うらしいから」

 ゴトウから渡されたショップカードを、マキはただ見つめる。マキの始めた冒険は、まだ終わりそうになかった。

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