【ピリカ文庫】うつりべに
伸ばしていた髪を切った。
春にはまだ少し遠い、晴れた日だった。
わずかに軽くなった頭を、そっと撫でる。別に、なにかがあったわけじゃない。ただの思いつき。
見上げた空の視界のはじっこに、看板があった。モデルだろうか、女優だろうか、とにかく、きれいな人が凛とたたずむ広告だった。
あのショートカットに憧れて、髪を切ろうと思ったんだ。あんな風にはなれずとも、あんな風にまっすぐ立っていたくて。
「おはよー」
「おはよ!」
月曜日の朝の教室は、いつもより、少しだけ騒がしい。課題が終わらない、今日は当たりませんように、昼食後の体育がユウウツ、などなど飛び交う話題はさまざまでもどこかみんな楽しそうで、どの会話にも参加していなくても、すぐに話に交じれるくらい、誰も声を潜めていない。
「あれ、髪切ったんだ?」
「うん、昨日」
「バッサリいったね、でも似合ってる!」
「ありがとう」
ふいに話しかけられる。友だちというには、遠い。でも、ただのクラスメイトとも呼べない、そんな距離感。近くはない、でも遠くもない。そんな子が、学校にはたくさんいる。
「そうだ、これあげる!」
「…あめ?」
「そーこの間、風邪で休んだときノート貸してくれたじゃん?お礼」
「そんなのいいのに」
「でも、嬉しかったんだもん」
「んーじゃあ、もらう。ありがと」
にこにこしながら、あめを三つ手渡される。離れていく手をなんとなく見つめていると、下の名前なんていうの?という質問がとんできた。そろそろ新しい学年に上がるというこの時期に、今さらそれ聞くのと笑う。だって、次はクラス替えないし、また一年一緒じゃんとちょっと気まずそうに言う彼女に、また笑ってしまった。
「さき」
「あたし、かな!」
大きく笑って名を告げて、かなは自分の席に戻っていく。それをわたしは、じっと眺める。
この、決して広くはない教室のいろいろを眺めるのが好きだ。行ったり来たりする、みんなの視線が止まらない朝のざわつきは、心地よい。交じれていると、安心できる。
ふわりと、少し前の記憶が、よみがえってきた。あんな明確な拒絶は、初めてだった。どちらが悪いわけでもない、自分を責めるつもりもない。
わたしは、本当は、自覚なんてしたくなかった。けれど、気づいてしまったから。
角はないし、とげとげもしていない。避けられているわけでも、外されているわけでもない。でも、そこには、わたしの目の前には常に、まるくてうすいけどそこそこしっかりとした隔たりが、確かにあった。
それを、うまく隠せないときがあって。たまに、ごくたまに、気持ちがぐにゃりと歪むときがある。どうしていいか分からなくて、とにかく走る。走って疲れて眠ってやっと、戻れる。
「戻るなんて、まるで悪いことみたい」
あの大きな笑顔とは対照的な、小さな小さな呟きは、誰にも拾われることはない。悪いことなわけがない、そう思いつつ、その隔たりの前にどうしても出たいと思ってしまう。こんな、うすい膜のような隔たりなんて、壊してしまいたいと。
「はーい、席ついてー」
静かになった教室に、教師の話し声だけが響く。この瞬間わたしは、急に一人になったような感覚に陥ってしまう。でも、嫌いじゃないんだ。この中途半端な静けさも、先程までのざわめきも、どちらも嫌いじゃない。
体育館裏には、梅の木がある。とてもきれいなのに、ここには、あまり人が来ない。なんでも、この梅の木は呪われているんだそうだ。
来るとしたら、用務員さんくらいで、生徒は寄り付かない。それをいいことに、わたしはたまに消えるようにここに来る。
屋上に続く階段の踊り場、三階のはじっこの空き教室、校舎裏の外階段。人気のスポットはたくさんあるけれど、いまだにここはわたしだけの場所だ。
誇らしげに、豪快に枝を伸ばす梅を眺めていると、いつものように掃除をしている用務員さんがやって来た。
「今年も、きれいに咲いたね」
「はい」
そうやって、それだけの会話を交わすと、彼は行ってしまう。いつも、余計なことは言わないで、わたしに必要なことだけ落としていく。
白いつぼみが咲くと紅くなるのを移り紅というんだと教えてくれたのも、あの用務員さんだった。あの日、初めてここに来た日に、内緒話をするように、教えてくれた。
開かないと中身が分からない、まるでわたしみたいだと、そのとき思った。
“お前が分からない”
初めて告白されて、付き合った人だった。大切にしたかった。だけど、どうしても言えないことがあった。言おうとしても、喉の奥につっかえて出てこないことがあった。
女の子あつかいしないでほしい
わたしに性別を押し付けないでほしい
ずっとずっと心の裡にあったものが、よく分からずに閉じ込めていたものが、彼と付き合いだしてから、しっかりとした言葉になっていった。分かってくれとも言えずに別れを告げられて、それからだ。あの隔たりを見つめるようになったのは。
いつか、誇らしく思えるだろうか。自分がほんとは紅いんだと気づいて、思っていたのと違う色だったことに気づいて、いつかそれを受け入れられる日が、くるだろうか。咲いたあとのその色を、誇らしいと思えるだろうか。
「わたしは、あなたをきれいだと思うよ」
ただ、あなたを見ると泣きそうな気持ちになるけれど。口には出さずに、息を吐く。まだ寒い、暖かさが恋しい季節に咲く花はとてもきれいだ。
「いた!」
自分を探す声に驚いて振り向く。なにかあったのか聞くと、首を振ってただ探してただけだと言う。今朝交換したばかりのお互いの名前を呼び合うと、さっきまでのひとりぼっちの気分は引っ込んでいった。
「白いつぼみもきれいだったけど、今の紅い色もすごくきれい」
「ほんと、そうだね」
どんな色でもきれいだと言えることが、眩しくて。いつかわたしも、こんな風になんでもきれいだと言えるようになりたい。
しろもあかも、つぼみもはなも、ほんとは全部美しいんだと。これが自分だとまっすぐ立てるように、そうなれるように、梅の木の下で、そっと祈った。
突然現れたもの、他人と自分を分けるもの。嫌なもののように感じたそれを、そっとなでる。
違うんだ、守られていたんだ。
これは扉で、いつでもここから出ていい。出たくなければ、出なくていい。同じように感じられなくても、一緒にいていい。
「教室もどろっか」
「うん」
わたしに似ているうつりべにを見上げる。
もうわたしは、みんなと色が違うことを、悲しまない。
了
