あいをしるひと②
あてなんかない。だけどみゆは、マキをほってはおけなかった。手を差し伸べることを教えてくれたのは、マキだから。なんの勝算も見えなくても、それが、悲しんでいるのがマキなら、みゆは全力でなんとかしたいと思ってしまう。
小学生のとき、母が何日も帰らないことがあった。一日、二日ならよくあることだったが、そのときは長かった。食べられるものがどんどんなくなっていって、お米を炊こうとしても、失敗してしまう。
どうしようもなくてみゆは、泣きながら祖母の家を目指した。近くには住んでいたけれど、幼くて、しかもろくに食べていないみゆにはものすごく遠く感じた。
もう歩けない、途中で座り込んだみゆに声をかけてくれたのはマキだった。何度か会ったことがあったその知った顔に安心して、ついには声を上げて泣き出してしまったみゆに、マキは大丈夫だよと言って自分の家に招き入れてくれた。
マキが料理は苦手なんだと言いながら、恥ずかしそうに出してくれたのは、シチューがかかったご飯だった。家での食事と言えば、出来合いのものが主だった。酷いときは、一日パンで過ごしたこともある。マキの作ったシチューご飯は、どんなご馳走よりも美味しく感じた。
マキには笑顔でいてほしい、絶対に。一人で乗り越えようとしているマキは見たくない。元の通りに戻すのは無謀なことだと分かっている。だけどみゆは、それを願ってしまっている。
「みーこじゃん、久しぶり!」
中学生で覚えた夜遊びの延長線上に、みゆはいまだに乗っかっていた。ここにいるのは、みゆでもワタシでもない、みーこ。もともと、みゆのアイデンティティはブレていた。よく分からなかったのだ。世の中にはワタシがたくさんいるのに。なんでみゆはみゆなのに、と駄々をこねていた。 自分をワタシと呼ぶことに違和感を覚えて、埋もれたくなくて、子どもみたいなワガママを、みゆはずっと持っていた。
「あさーよるー元気だったー?」
ここでは、呼び名は自分で決める。なんだっていい、好きな名前で好きなように過ごすのだ。それができない環境にいる人間が、ここには集まってくる。
あさとよるは双子の姉弟。弟のよるは、ある日突然声が出なくなってしまったことがある。
よるは、声変わりが遅かった。それをクラスメイトにからかわれ、気持ち悪い声だと言われてしまったのだ。
自分では気にしているつもりはなかったのだが、体とは不思議なもので、気がつくと声が出なくなってしまっていた。
失声症だと、医者に言われたとよるはあさに伝えた。だけど、それがどういうものなのか、あさにはよく分からなかった。ストレスや緊張で声が出なくなってしまうそうだ。
あさは、とにかくもう一度弟の声が聞きたくて、いろんなことを試した。その甲斐あってか、よるの声は出るようになった。しっかりと声変わりを果たして。
少しだけ、誰にも言えないし、言うつもりもないが、ほんの少しだけ、あさは残念だった。今のよる声も、もちろん好きだ。だけど、変声期前の、あのコロンとした涼し気な声の方が、あさは好きだった。
安堵と、少しだけの不満。あさが気づかれないように丁寧に丁寧に隠したその不満に、よるは気づいてしまった。燻る葛藤にも、もちろん気づいている。
数年声が出ない間、特に困ったことはなかった。だから、よるは昔よりずっと無口になった。あさの葛藤をなるべく和らげようと、それはよるの精一杯の配慮だった。
双子の家は、そこまで問題があるわけではなかった。嫁姑のいざこざがあった、というくらい。それがそこまで重い問題にならなかったのは、お互いのいないところで愚痴るくらいに母と祖母が留めていたからだろう。
だけど、悪いことは重なるもので。祖父が死んだ後、わりとすぐに祖母は認知症になった。おまけに、よるが喋れなくなった。
そして父親は、仕事に逃げた。逃げた先が、不倫やギャンブルや酒じゃなかっただけ、マシかもしれない。ただ、あまりにも当時の家は殺伐としていた。
祖母はニコニコと少女のように笑ったり泣いたり、かと思えばなんの反応も示さずぼんやりしていたり。ときには、祖父から買ってもらった指輪がないと家中をひっくり返して大騒ぎしたり、ご飯を食べさせてもらえないんだと近所中にふれ回ったりした。
ふと気づくと、母親までぼんやりとしていることが増えた。ここまできて父親がやっと危機感を持ち、母親の負担を減らそうと動いた。遅すぎるくらいだったが、それでも少しずつ落ち着きを取り戻していった。
「元気だよ」
久しぶりに見たみーこの顔を、よるはじっと見つめる。その顔は、あまり元気なようには見えなかった。話せない間に身につけた観察眼は、なかなかによるの武器になっている。
みーこに初めて会ったとき、よるはずいぶんと輪郭のハッキリした子だと思った。まるで、彼女だけが切り取られているみたいで、すごく不思議な気分になった。
これが一目惚れというものなのだろうかと思ったが、すぐに違うと思い直した。多分、みーこは誰かに見つけてほしいのだと思う。それが誰なのかはよるには分からないけれど、きっとずっとみーこはその人を求めてるんだろう。
「元気そうには見えないなぁ。なんか、疲れてる?」
「んーちょっと人を探してるんだけど、手がかりとかないし、難しくて。やっぱ、素人には無理だよねー」
「それは確かに」
「人探しのプロって…探偵とか?」
「えーでも、なんか怖いじゃん」
「んー分かるけど…まぁ、とりあえずウチらも探してるみるよ」
「ありがとーあとで、顔送っとく!」
「あんま期待しないでね?」
「だいじょーぶ、他でも頼んでみるから!」
特に事情も聞かずに協力を申し出てくれる二人に、みゆは安心した。初めて会ったのが中学校に上がったころだから、もう六年ほどの付き合いになる。三人一緒に集まることがなかなかできなくなって、次第に大好きだった場所から離れていった。
それは大人になったということなのかもしれないが、寂しいことでもある。時間は決して戻らない。分かってはいるけど、あのときのこの場所を、みゆは求めてしまう。
救いだった。あのとき、手を差しのべてくれた、この場所が。マキやショウと同じくらい、みゆにとっては救いだった。なにもなくて、なにも持てなくて、大事なものは全部持っていかれてしまうから。そうやって身構えて生きていたみゆの心をほぐしてくれた。
「ちょっと、いいかな?」
飲み物取ってくるねと、双子がその場を離れたときだった。そう声をかけられ振り向くと、男が立っていた。
見たことがない男だ。若者が多く集まる場所で、なんだか異質に見えた。みゆの警戒を感じ取ったのか、男は少し距離をとった。
「あーいや、人を探してるだけなんだ。この子、見たことないかな?」
「…ワタシは知らないかな」
「そうか、ありがとう。もしどこかで見かけたら、ここに連絡くれるか?」
差し出された名刺を受けとると、でかでかと探偵、と書いてあった。訝しげに名刺と男の顔を交互に見るみゆに、男は苦笑いを浮かべる。
その反応には慣れていた。探偵という職業は男一ゴトウをずいぶん怪しく見せるようだ。みゆは、無言で名刺に書かれた番号に電話をかける。
『はい、ゴトウ探偵事務所です』
「あの、依頼したいんですが」
『はい。今、ゴトウが出ているので、折り返しお電話させていただいてよろしいでしょうか?』
「…こっちからかけ直していいですか?」
『もちろんです!明日は朝からおりますので』
「分かりました、ありがとうございます」
『とんでもない、お待ちしております』
通話を終えると、みゆはゴトウに向き直った。信じてやってもいいと言われているようで、ゴトウも居住まいを正す。
警戒心の強い人間をゴトウは、それなりになにかがあったんだろうと思っている。もしくは、親の教育が行き届いているか。目の前にいる少女は、きっと前者だろうとゴトウは思う。
いや、警戒するのはいいことなのだ。それは、意外と簡単に薄れてゆくから。少しずつ少しずつ、相手のうちに入り込んでいくのが上手い人間というのがいる。営業、勧誘、スカウト、あるいは犯罪まがいのなにか。そういう類は、人の警戒心を薄めるのが、ものすごく上手い。
「どうしたの、その子」
ゴトウは、体の力をそっと抜いた。若者の警戒にはつい身構えてしまう。通報されたり、大声で叫ばれたことも過去にあった。
「それを今、調べてるんだよ」
「ふーん」
「そういえばさっきさ、オトモダチと人探しがーとか探偵がーとか喋ってなかった?」
「……聞いてたの?」
しまった、間違えたか。険しくなった少女の表情に、ゴトウはまた焦る。あぁ、やっぱり俺はこういうのヘタクソなんだよな、なんて自分の頬を引っぱたきたい衝動に駆られる。
「いや、ごめん」
「オジサン…ほんとに探偵?」
「よく言われる、めっちゃ言われる」
頭を抱えて、情けなくも項垂れる。ゴトウは元々、教師だった。教師としての、最後の年。初めて受験生を受け持ったゴトウは、ただただ追われていた、あっという間だった。もっと大事に過ごしていれば、とも思う。
だけどとにかく、慌ただしかった。子どもらしい無邪気さと奔放さで、ずいぶん振り回されもしたが、子どもたちはかわいかった。進路を決めるという大きな決断をする生徒たちが、誇らしかったし、心から応援した。
そう、あれは卒業式の少し前だった。名残を惜しむように笑って過ごす生徒たちを、あとは見守るだけというとき。一人の生徒が、いなくなった。知らせを受けたゴトウは、心当たりをしらみ潰しに当たったが、見つけられなかった。両親と、学校と、警察と。みんな探したが、見つからなかった。
そして、見つからないまま卒業式を迎えた。世間には、親や学校を責めるような声も少なからずあったが、周りは誰もゴトウを責めなかった。だけど、ゴトウ自身が、自分を責めていた。
切り替えようとゴトウも頑張ったが、どうしてもダメで、ついには退職を決めた。ずいぶん止められた、ありがたいと思った。でも、ダメだった。もう向き合えないと、そう思ってしまった。
救いだったのは、ゴトウが教師を辞めたあとすぐに件の生徒がひょっこりと帰ってきたことだ。
彼の志望校は実は、両親が決めたもので、彼自身は別の高校に進学したかったそうだ。一旦は飲み込んだものの、やはり嫌になって、家出をし、訪れた先で知り合った人の家に泊まらせてもらったりしていたが、ある日なんだか急に怖くなって、帰ってきた。
申し訳なさそうにそう話す彼に、ゴトウはとにかく無事でよかったと言った。来年、行きたかった高校を受験すると告げた彼に、ゴトウもやっと肩の荷が降りたような気持ちになった。
「おれ、その子知ってるよ」
背後からかけられた声に、二人は同時に振り向く。
「あさは?」
「あっち」
指された方を見ると、ちょっと微妙な雰囲気であさがそこにいた。
「…修羅場?」
「大丈夫だと思う。円満に別れたとは言ってたし」
「モトカレとモトカノに同時に遭遇するのすごいね」
「モトカレとモトカノが一緒にいんのもすごいよね」
「えーっと…」
「あ、おれはよる。あっちは双子の姉のあさ、バイセクシャル」
「…なるほど」
「受け入れが早い。オジサンなのに」
「元教師で、現探偵だぞ。そのくらい受け入れるわ。ってそれより、君、よるくんはこの子知ってるのか」
「うん。ちょっと前にここ来てたよ。メイクでだいぶ顔変わってたけど。そんで、なんか変わった子だった」
「というと?」
「なんか、ずーっとそわそわしてた」
「一人だった?」
「うん」
「分かった、ありがとう」
バタバタと去っていくゴトウの背中を見送って、みゆはため息をつく。昔から知ってる人でもないかぎり、年上の男性というだけで妙に緊張してしまう。よるのことだって、初めは少し警戒していたくらいだ。
「めっちゃ気まずい」
入れ替わりで戻ってきたあさが、疲れた顔でうなだれている。あさは誰とでも仲良くなれるし、好奇心が旺盛だ。だから、と言っては語弊があるかもしれないがトラブルも多い。慎重派のみゆや、人を見るのが上手いよるとは違って、どこにでもガンガン進んでいく。
「付き合ってるんだって、あの二人」
「相変わらずおもろいことやってんね」
「どうやったら、モトカレとモトカノが付き合うんだよ」
「わかんないよ、あたしにも」
突っ伏したカウンターは、いやにひんやりとしていた。気持ちいいなぁとあさがそのまま目を閉じると、ふと、手にくしゃりとした感覚があった。
「なにこれ、写真?」
「あ…」
「忘れてっちゃたんだ…あの人、ほんとのほんとに探偵なの…?」
事情を聞いたあさは、ふーんとなにか考え込んだ。その顔が、悪巧みをしてるときのだとよるは気づいたが、黙っていた。あさの悪巧みが、本当の悪事だったことはないからだけど、なによりよるはあさの発想がおもしろくて好きだったから。
「明日さ、これ届けてあげよーよ。そんでさ、情報提供したし、忘れ物届けてあげたんだから、言うこと聞いてもらお。みーこの探し人、探してもらおーよ」
「いやいや、そんな…」
「悪いなぁ、その発想」
「抜けてる探偵さんが悪いよねーこれは」
ニコニコとした笑みに、みゆはよると顔を見合わせる。もし、本当に探してもらえるのなら、自分が探すよりもいいだろう。ゴトウが了承してくれることを祈りながら、みゆは写真の中の女の子を見る。どうかこの子も見つかりますようにと、そっと鞄に写真をしまった。
