あいをしるひと④
天職だと思っていた、やりたくてこの仕事をしているのだと。ただ、そう胸を張れていたのは、最初の数年だけだった。
別の学校に異動が決まったとき、初めてじゃないのに、いやに緊張したものだった。そのときいた学校が居心地がよすぎて、離れたくなかったのもある。
ショウは、教師だった。なにがあったのか、本当はもうよく覚えていない。いろんなことがありすぎた。原因がなにかなんて、分からない。
強いて言うなら、高すぎた理想だったのかもしれない。教師だった父に憧れて、あんな風になりたくて、目指した職業だった。
赴任先で直面したいろいろな問題にショウは、真摯に向き合った。そうするといつの間にか、仕事が私生活にまで入り込んできた。
持ち帰った仕事、生徒の親からの連絡、どんどんどんどん、入り込んできた。気づいたときにはもう、それらをどこにも逃がせずに、潰れる寸前まできてしまっていた。
カウンセリングに通いながら、やっとなんとか仕事をこなす日々。自分が自分じゃなくなっていくような感覚に、ショウは慄いた。もう、逃げ出してしまいたかった。
元々、数ヶ月様子を見て、改善が見られなければ休職すると上と相談はしてあった。休職ではなく、退職しようと決めたのは、恋人のマキの笑った顔が好きだと思ったからだった。この人の時間をこれ以上消費させてはいけないと、そう思った。
そして、どうしても言えなかった。タイミングはいくらでもあったのに、言えなかった。親にも、マキにも。
なんだか、自分が恥ずかしかった。こんなにも脆く、だめになってしまうなんて。あんな置き手紙ひとつで、あの温みを手放してしまうなんて。
いとしい、こいしい、だからこそ、なにも話せなかった。この恐ろしいものに、マキを巻き込めなかった。
「すみません。コーヒーお願いします」
少し体を揺らして、ショウは意識を戻した。こんな風に考え込んでしまうからいけないんだ。もう済んだことなんだから。小さく深呼吸をすると、泡立つ心が落ち着いてくる。
今のカウンセラーとは相性がよかった。回復してきて、小さな会社で、事務員として働いている。
順調だ、大丈夫。もう少し落ち着いたら、両親に会いに行こう。ショウは、そう決めていた。
ただ、マキに会うかどうかは分からない。どんな顔をして会えばいいのかも、分からない。
あのころは全て分かっているつもりだったけれど、一度世界が壊れてしまったショウは、分からないことだらけになってしまった。自分にとっての良いことと悪いことの区別がつかなくなってしまったのだ。
「おかわり、いかがですか?」
「あ、いただきます」
煉瓦屋という古い喫茶店を見つけたのは、ショウがここへ来てすぐだった。病院帰りに散歩をしていて偶然見つけたそこは、昼間でも薄暗く、ついているテレビもいいBGMになって、ぼんやり過ごすには最適だった。
店主のおばあちゃんは、ゆっくりとした動きでコーヒーを淹れてくれる。その動作を眺めていると、なんだか落ち着いた。
「ここ、雰囲気いいですね」
「え、あぁ、そうですね」
まさか声をかけられるとは思っていなかったショウは、少し驚いて言葉を返した。さきほどコーヒーを注文してショウを我に返らせた男は、よく通る声をしていた。
もしかしたら、人前でよく話すのだろうか、だがずいぶん若い気もする。
「いいとこ見つけちゃったな」
ぐるりと辺りを見回して、嬉しそうに笑う。その仕草が、置いてきてしまった犬のサンにそっくりで、ショウは懐かしさを覚える。
犬に似てるなんて言ったら、怒られてしまうだろうか。少し反省して、でも興味深そうに面白そうに周りを見る姿は、やはり似ている。
「ぼくも最初、そう思ったよ」
「やっぱり!誰かに教えたいけど、見つかってほしくない気もするし…いや、やっぱ言わないでおこう。おにーさんも、騒がしくなるのいやでしょ?」
よく喋るなぁと思いながら、そうだねと相槌を打つ。なんだか、懐かしい気持ちにもなる。教師時代、よく喋る子がいて、つかまると止めるまで話し続けていた。かまってほしいと顔に書いてあるような、その子もやはり、サンに似ていた。
「おれ、双子の姉がいて。すーっごい、ほんともうすっごい賑やかな人でってか、賑やかなことが好きで。おれも別に嫌いじゃないんだけど、なんかときどきこう…やっぱ別の人間なんだなって思うんですよ」
当たり前なんだけど、と目の前の男がそう語るので、ショウは聞き入るように耳を傾けた。耳障りのいい声に、なんだか漂っているような感覚になってくる。
「君、なにか声を使うようなことやってる?」
「え、そんなん分かるんですか?実は、バンドやってて。おれ、ボーカルです。最近、いろいろやりたいことできちゃって。探偵事務所でアルバイトとかも始めたんですよ。おもしろいでしょ?」
「確かに、それはおもしろい…」
本当に面白い展開でショウは思わず唸ってしまう。探偵なんて、人生でお世話になる確率はどのくらいなんだろうか。
そんなことを考え出して深みにはまりそうになっていると、隣からあっと声が上がった。何事かと見ると、顔の前で手を合わせてお願いのポーズをされていて、面食らう。
「おにーさん、SNSやってません?」
「一応、アカウントは持ってるけど、あまり動かしてないよ」
「おれ、バンド活動宣伝したくて。フォロワーも増やしたいし…」
「いやでも、役に立てないと思うよ?」
「フォローするだけでいいんで!ぜったい、迷惑とかかけないし!」
「んーまぁ、いいよ」
「やーったぁ。待ってーあ、コレね。そそ、それをフォローしてください。よし、わーい」
「これ、どこで歌ってるの?」
「ライブバーです!例の、双子の姉もここ通ってます」
「ふーん」
「おぉ。おにーさん、これ。ワンちゃん、かわいい」
「あぁ、前にね、飼ってたんだよ」
「へー今は、いないの?」
ふいに踏み込まれて、ショウは少しだけ躊躇する。だけど、あまり知らない人間だからこそ、勢いで話してしまえることもある。
「ちょっとね、事情があって。人に預けてるんだ」
「そっかーさみしいね」
「そうだね、さみしいよ」
あぁ、こんなにも素直にさみしいと言えるのか。分からないと思っていたけれど、本当はまた会いたいのかもしれない。サンと、いつしか自分以上にサンに懐かれていた、かつての恋人に。
あの場所に戻りたい、だけどまだ少し、勇気が足りない。
そうやってぐずぐずしている自分を、だけどショウはどこかで許していた。会いたいと会いたくない、そのどちらもがショウの本音なのだ。恋しい気持ちが、分からなくしている。境界は曖昧で、いったりきたりと落ち着かない。
「もし、気が向いたらさ、聴きにきてよ。ここみたいに静かじゃなくてめっちゃ賑やかだけど。なんか、まぎれるよ。ちなみにおれ、次の日曜歌うから」
渡されたショップカードを眺めていると、じゃあまたねと男は去って行った。次に会うのは、この静けさの中だろうか、それとも賑やかな方だろうか。
知らない人と繋がってしまった。長いこと感じられなかったわくわくを、ショウは確かに感じていた。その事実はショウをさらに高揚させた。
「日曜か。行ってみようかな」
カウンターのサイフォンに視線を送る。その褐色はまるで、彼女の髪色のようだった。
