龍のゆりかご ―― 龍母神という慈悲の影
人はなぜ、恐ろしいはずの「龍」に「母」という名を冠し、そこに守護を求めるのだろう。
空を裂き、雷を呼び、荒れ狂う嵐の化身である龍。畏怖の対象でしかないはずのその巨大な存在に、古人は「母」という柔らかな温度を重ね合わせた。それが「龍母神」という伝承である。
中国やベトナムの神話において、龍母は荒ぶる龍を産み、あるいは育てた母として語られる。天から降り立ち、海を岩山に変えて我が子を護る母龍の姿は、母性というものが持つ、時に暴力的でさえあるほどの烈しい防衛本能を象徴しているようだ。それは単なる優しさではない。我が子を、あるいは愛する者を守るためなら、山をも動かし、海をも割るという強い意志の顕現だ。
一方で、日本の湿り気を帯びた土壌に根付く「龍母」や「乳母神」の伝承は、より静謐で、私たちの暮らしに近い。
たとえば、池の底に棲む龍神が、時に老女の姿を借りて現れる話。あるいは、村の子供たちを見守る乳母(おんば)として、ひっそりと水を守り続ける龍神の逸話。これらは、龍という超越的な力が、私たちの日常という「ゆりかご」に溶け込んでいることを示唆している。
私たちが「龍母神」という言葉に惹かれるのは、おそらく、自分の内側にある「強さ」と「慈しみ」の矛盾を、そこに投影しているからではないだろうか。
社会の中で戦い、傷つき、時には龍のように牙を剥かなければならない日もある。けれどその内側には、誰かを守りたい、温めたいという静かな母性のような核がある。龍という「荒々しい権力」と、母という「包容する慈愛」。その二つが一つになった龍母神は、私たちが目指す、あるいはそうありたいと願う「強くて優しい在り方」の理想形なのかもしれない。
夕暮れ時、池の畔に立ち、水面を眺める。
そこには鏡のように空が映り、風が渡る。もしその深淵に龍の母が眠っているのだとしたら、彼女は何を思うだろう。
激動の時代を生きる私たちに、彼女はただ静かに、凪いだ水面のように寄り添ってくれるはずだ。荒れ狂う嵐をその背に負いながら、その瞳の奥には、すべてを慈しむ静寂を湛えて。
龍は龍のままに、母は母のままに。
相反するはずの二つの属性は、神話の中で溶け合い、今日も私たちの不安をその大きな翼で包み込んでいる。
