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掌編小説│忘却の旅人

☪︎ 雨の街

 そこは、雨の降る街でした。

 毎日毎日、飽きることなく降りつづけて、地面が乾くことはありません。
 霧雨のようにやわい雨の日もあれば、痛いほど大粒の雨の日もあります。
 その街の空は、晴れることを知りません。

 朝も昼も夜も、絶え間なく降りつづいています。

***

 その日は、あたたかな小糠雨が降っている日でした。
 耳を澄ませても、雨の音はかすかです。
 街に住む人はみな家で過ごしているのか、昼間だというのにだれも歩いていませんでした。静まりかえった雨の街はどこかうらさびしく、温もりが恋しくなります。

 濡羽色の外套に身を包み、シルクハットをかぶった旅人は、太陽を知らない空を見上げました。肩に乗っかったおおきな鳥が早く雨宿りをしろとでもいうかのように旅人の頭をつつきます。旅人は、持っていたトランクケースから傘を取り出してさしてあげました。

 さて、今日の宿はどこにしましょう。

***

宿屋 あまやどり

 雨が降りしきる静かなこの街に、ひっそりと佇むすこし古めかしい宿を見つけました。
「宿屋あまやどり」と書いてあるのが見えます。
窓のガラスはくもっていましたが、宿の中から灯ったあたたかな光がさそってくれているようにも思えます。

 はたして宿は空いているでしょうか。

 旅人は、あたたかなセピア色のランプが灯る扉をそっと開けました。
 しゃらん、という涼やかな金属の音色が響きわたります。来客を知らせるためのものなのでしょう。奥からやさしげな雰囲気の主人が出てきてくれました。

「おや、お客さんとはめずらしい。雨の街へようこそ。今日はあったかい雨だったとはいっても、だんだんと強くなってきたから冷えただろう。ほら、その子も一緒にこちらへ来るといい。暖炉の前はあたたかいよ。いまお茶を持ってくるからね。……ああ、大丈夫、宿は空いているから大歓迎だよ」

 旅人がなにかをいう前に、主人はまるで心を読んだかのように言いました。その行為をありがたく受け取ります。おおきな鳥はぶるりと羽根をふるわせると、さっそく暖炉の前を陣取っています。なんて図々しいのでしょう。
 旅人も、暖炉のそばに置いてあった椅子にそっと座ります。ふっと、体がゆるんだ気がします。

 パチパチと暖炉の火が爆ぜる音がしずかに響いています。小糠雨は夜になって強さを増し、窓の向こう側からさあさあと雨音が聞こえてきます。
 そこへ、湯気の立ったマグカップを持って主人が戻ってきました。

「はちみつを入れた甘いミルクティーだよ。慣れていないと、雨の街は疲れてしまうからね」

 そういってあつあつのマグカップを渡してくれます。
 息を吹きかけ、そうっと一口を飲みます。ほわりと香る紅茶の香りが鼻腔をくすぐり、やさしい甘さが喉を通っていきます。じわり、とお腹のあたりがあたたかくなるのを感じました。自然と、ほう、と息を吐きます。

 ようやく人心地がついた旅人は、宿のなかを見まわしました。お客を受け入れるであろうこの場所には、いくつものランプが灯され、やわらかな光でうめつくされています。
 さきほど外から見えたあたたかな光は、きっとこのランプたちだったのでしょう。すこし古びてはいるものの、丁寧に手入れがされていることがわかります。
 しばらくきょろきょろと観察していると、主人はやさしい声で問いかけてくれました。お客がいることがうれしいのか、声がはずんでいるように聞こえます。

「お客さんは旅人かい? 今日はだれもいなくてね、貸切状態だよ。好きな部屋を選ぶといい」
 そういって、あまやどりにある部屋を紹介してくれました。

 つきのあまおと
 しろがねのあまいと
 しずくのささやき
 しろのあましずく
 ひかりのあまだれ

「変わった名前の部屋ばかりだろう? これにはちゃあんと意味があるのさ。吟遊詩人が泊まったときに残した詩歌を聴ける部屋、とある音楽家が残した楽曲が流れる部屋、きらきら光る雨が降っているようなしつらえの部屋……どこか気になる部屋はあるかい?」

 旅人は、主人の話を聞きながらじっと考え込みます。どの部屋も魅力的で、選ぶのが難しいからです。
 宿の外から、さああああ、と少し強くなった雨音が聴こえてきます。主人がいうように、夜になって勢いを増したようでした。けれど、その音はどこか静かで、うとうとと眠くなってしまいそうな優しい雨音でした。ふと窓の外を見れば、雨が銀色に光っていました。不思議です。月あかりも見えないこの雨の街で、どうして雨が光をはなっているように見えるのでしょう。
 雨に魅入られている旅人に、主人はふっと頬をゆるめました。

「雨が輝いているように見えるだろう。だれも、それがなぜなのかは知らないんだけれどね、夜の雨のうつくしさは格別なんだ。……もし、この輝きが気に入ったのなら、『しろがねのあまいと』の部屋をおすすめするよ。どうだい?」

しろがね、という言葉がすとんと胸に落ちてきました。
まさに降る雨は銀色の光をはなつ糸のようで、すべての音を吸い込んでくれるような、そんな静けさがありました。旅人はこくりとひとつ頷いて、宿の代金をカウンターへ置きます。

「はい、ちょうどだね。ああ、お茶のお代はいらないよ。あれは雨に慣れていない人へのサービスなんだ。じゃあ、部屋を案内しよう。そこのおおきな鳥は……一緒に寝るかい? 暖炉の前が気に入ったのならそこでもいいし、自由にしてもらってかまわないよ」

 人のいい笑顔を浮かべて主人が言いました。
 旅人はちらりと相棒であるおおきな鳥に視線を向けます。ふいっと視線を逸らしたところを見ると、どうやら暖炉の前が気に入ったようです。旅人は、かすかにため息をひとつだけ吐いて近くに寄り、くちばしを優しく撫でました。おおきな鳥は、「早く行け」とばかりにくるる、と喉を鳴らします。

「賢い子だね。暖炉の前が気に入ったようだから、案内しようか。こっちだよ。階段が急になっているから気をつけて」

 ギシギシと音を立てながら宿の階段を上がっていきます。主人がいったとおり、かなり急な階段となっていて、登るときよりも降りるときのほうが滑りそうです。
 階段を上がると、右側には雨を見るためか大きな窓がはめられ、たえず雨粒が窓を叩いています。左側には紹介された部屋の扉が並んでいました。
 それぞれ雨を模したプレートに、部屋の名前が書かれています。
 宿の主人は『しろがねのあまいと』と書かれた部屋の前で立ち止まると、扉を開け、振り返ってにっこりと旅人に笑いかけました。

「ここが『しろがねのあまいと』だよ。部屋にあるものは自由に使っていいし、なにか足りないものがあったらそこの電話で知らせてくれるかい? ああ、そうだ、その外套コートは預かるよ。雨に濡れてしまっただろう? こちらで乾かしておこう」

 至れり尽くせりな主人の言葉に、旅人はけれどゆるりと首を横に振った。

「ああ、それは大事なものなんだね。分かったよ。じゃあほら、このタオルでしずくを払うといい。この部屋はとくに雨がうつくしく見える部屋だ。運がよければ、音楽のようなしらべが聴こえるかもしれないよ。……じゃあ、ゆっくりと体を休めておくれ」

 旅人が多くを語らずとも、主人は分かってくれたようでした。ふわふわのタオルだけを旅人に手渡して、階下へと戻っていきます。旅人は、そのうしろ姿に一度頭を下げると、案内してもらった部屋へと足を踏み入れました。

***

宿屋あまやどり『しろがねのあまいと』

 部屋に入ると、まだあかりがついていないはずなのに、ぼんやりと銀色に部屋に光が差し込んでいました。光の根元をたどれば、部屋にあるおおきな窓に行きつきます。そして、窓に沿うようにしてあたたかみのある木の机と椅子が置いてありました。そこから街の様子を眺められるようになっているようでした。
 しん、と静まり返った部屋を満たす、耳心地のよい雨音が心身を包み込んでいきます。無意識に、ほう、と息を吐いていました。
 旅人は荷物を床に置くと、あかりをつけないままでそっと椅子に座り、仄かに銀に光っている雨糸をじっと見つめました。

 あのおおきな鳥も、暖炉の前で雨の音を聴いているのでしょうか。
 暖炉のあたたかさに負けて、うとうとしている姿が浮かび、旅人はほんのりと笑みを浮かべました。その瞬間、

 ────しゃらん……

 と、涼やかな音が聴こえた気がしました。
 見回しても、楽器も何もありません。宿屋の来客を知らせる音に似ているけれど、それよりももっと透明な音がします。それは、なにかの装飾がこすりあわせて生まれる涼やかな音色と、絶えず降りそそぐ雨音が重なりあって、まるで音楽のように聴こえます。

 これが、主人のいっていた“音楽のようなしらべ”でしょうか。

 静寂を破るほどではない、けれども確かに耳朶に響く音が旅人の心をゆっくりとほぐし、満たしていきます。そうそう、そういえば宿の主人が言っていました。この部屋は“とある音楽家が残した楽曲が流れる部屋”だと。
 だとすれば、きっとこれがその音楽なのでしょう。

 カタン、と身じろぎをしたせいで、机が大きな音を立ててしまいました。途端、音がふっと止んでしまいます。旅人は残念に思いながらも、机に引き出しの感触を見つけ、気になってキィと開けてみました。
 そこには、古ぼけた緑色で、金色の装飾が施されている小さな手帳のようなものが入っていました。はしっこはところどころ擦り切れ、ずいぶん長いことこの場にとどまっていたことが分かります。
 ……だれかの忘れ物でしょうか?

 旅人は、ぱらぱらと読む前に手帳のようなものをさらいます。
 筆跡がそれぞれ異なるように見えたので、もしかしたらこの部屋に泊まった人たちの日記なのかもしれません。
 あかりがなくとも、不思議な銀色の雨の光で、かろうじて文字が読み取れます。旅人は、居住まいを正すと、その名もなき手帳のような日記のようなそれに目を落とします。

 ペラ、とページをめくる旅人の手が、最初で止まりました。
 少し文字が震えているような、けれどそれもうつくしい装飾のような、不思議と引き込まれる筆跡です。
 どうやら、不思議な光景をこの場所で目にしたようでした。

 ざああ、とひときわ雨の音が強くなります。
 そして、止んでしまったうつくしいしらべが、どこからともなく旅人の耳元へと運ばれてきました。その音色に酔いしれながら、目の前の日記から目を離せませんでした。

或る音楽家の手記

ぼくは、銀色の雨が降るなかで舞う少女を見た。
いや────妖精だったのかもしれない。

その日は、やわい雨が降り続いている夜だった。
銀の月は灰色の雲に覆われ、姿を見せることはない。
けれど、細い絹糸のような雨はまるで銀の月が照らしているかのごとくきらきらと光り、あたりをまるでぼうっと明るく照らしているように見えた。

月も見えない夜に、どうして明るく見えるのだろう?
ぼくはそう不思議に思って“あまやどり”の部屋から外を眺めていた。

そこへ、ふっと人影が見えた。
雨のなか、傘もささずにうつくしい装束をまとった少女が、いつの間にかそこにいたんだ。
どこから顕れたのかも分からない。
聞こえないと分かっているのに、ぼくは息を潜めてその少女を見つめた。

青みがかった黒い髪に、三日月と雨粒をあしらったような銀色の髪飾りが揺れた。
動きやすそうな薄手の白い服の下から、濃い青の布地が見える。
首と腕にはこの雨のためにあつらえたかのような、美しい銀の装飾を嵌め、ふわり、と一度回る。
その拍子に見えた足は裸足で、足首にも同じような銀色の装飾具が嵌められていた。

しゃらん────

聴こえるはずもない祈りにも似た音が、ぼくの耳に届いた気がした。
少女の体は淡く光を帯びているように見える。
雨は彼女を歓迎するかのようにあたたかく包んでいる、ように見えた。

遠目で少し見にくかったけれど、白い服の裾には小さな雫が刺繍されているようで、
動くたびに銀の輝きを帯びている。
しずかな雨に打たれて、その輝きはいっそう増したように感じる。

少女は足を交差させ、深く、深くお辞儀をした。
……だれに?
分からない。
だけど、ぼくにはそう見えた。

少女は月の見えない天空を見上げると、
まるで羽根があるかのように、軽やかに舞いはじめた。
伴奏は、やわく降る雨の音のみ。
そして装飾が擦れ合って出す、幽かで涼やかな響き……

────しゃらん

また音が聴こえた。
窓に遮られたこの場所からは聴こえるはずもない音が。
幻聴だろうか。
いや、幻聴だろうとどうでもいい。

ぼくは呼吸を忘れ、その光景に魅入られた。
……どれくらい、そうしていたのか分からない。
だれも、その場にはいなかった。
だれもその舞を見ることはなかった。ぼく以外には。

そうして、少女はまた深くお辞儀をする。
そこで舞が終わったのだと、ぼくは感じた。

そこから先の記憶はあまりない。
少女はいつの間にか消えていた。
ぼくが呆然としすぎていたからだろうか?
だが、ぼくは窓の外から視線を逸らしてはいなかったはずだ。

窓の外を見ても、少女が舞っていた存在は消えていた。
足跡も、あの幽かな音さえもすべて。

……雨の街には、夜に妖精が舞うのだろうか。
雨が降り止まぬこの街は、妖精が舞っているからなのだろうか。
分からない。
でもぼくはこの光景を歌に残そうと思う。

しろがね雨糸あまいと

ぼくは、この歌をそう名付けよう。

(日記はここで途切れている)

 ああ、これは──……、この部屋の由来となった音楽家の手記なのでしょう。この部屋に泊まったものにしか聴こえないしらべは、その音楽家の想いが残した痕跡。旅人の眼に、じわりと熱い泪がにじみます。

 この音楽家が出会ったという少女、いや妖精のような存在が、自分にも見えないだろうかと、その手記を開いたまま目の前のおおきな窓にもう一度視線を向け、じっと地面を見つめます。
 けれど、そこには打ちつける雨と、打ち付けられた雨が銀色にあわく輝く様子だけが広がっていました。しばらくの間、旅人はじっと息をひそめて飽きることなく雨を眺め、そして雨を落としている空を見つめました。

 夜空を覆う灰色の雲の向こうがわには、銀色の月がのぼっているのでしょうか。
 雨を降らす隙間から、その銀色の月あかりが光を分けあたえているのでしょうか。
 うつくしく光る雨は、皓々こうこうと照らす銀の月を知りません。あるいは、雨がそのうつくしさをひとりじめしたかったのでしょうか。

 旅人は、吟遊詩人の詠う、雨の街にまつわる詩歌を思い出しました。もしかしたら、このあまやどりのとある部屋の由来になっているのかもしれません。
 甘やかな響きでいざなう吟遊詩人の唄声は、まるで優しげな雨音のようだったのですから。

おとぎばなしを語りましょう
おとぎばなしを舞いましょう

銀をまとう月の女王はまばゆく輝いていました
雨を司る神は女王を一目見て恋に落ちました

神の恋は空を覆い、月を抱きしめました
女王の心は神の恋情に身をゆだね、
神のためだけに銀の輝きを捧げました

かくして雨の降る地が生まれます
妖精は軽やかに舞いおどり
雨は愛された月の女王の輝きを纏って地へと落ちるのです

 絶え間なくつづく雨音と、かすかに響く涼やかな音色に溶かすように、旅人はゆったりと吟遊詩人の詠った詩歌をくちずさみます。そして、夜が明けるまでずっと、窓の外を見つめつづけたのでした。

***

 あくる日、旅人はあくびをかみ殺しながら『しろがねのあまいと』の扉を開けました。今日は雨の街から旅立つ日です。
 夜中眺めていた雨は勢いを弱め、またしとしとと音のない雨糸へと変わっていきました。夜よりも朝のほうがずっと無音です。遠くで朝の鳥が鳴く声が聞こえました。さて、あの相棒のおおきな鳥は起きているでしょうか。

 廊下の窓から見える空もしろく、あとからあとから雨粒が落ちてきています。『あやまどり』のそこここには雨樋が吊るされ、ぽたぽたとしずくが伝っていく様子が見えました。
 ギシギシと音を立てながら階段を降りると、くるくると毛づくろいしているおおきな鳥が目に入ります。どうやら飛びたくてうずうずしているようです。旅人の足音に気づいたのかちらりと目線をよこし、ばさりと一度羽を羽ばたかせました。
 その鳥の様子に気づいたのか、宿の主人があかるい声で話しかけてきてくれました。

「旅人さん、おはようさん。よく眠れたかい? ……ええ、ずっと雨を見ていたのかい? 休まらなかったろう? 雨がきれいだったからそんなことない? うれしいことをいってくれるねえ。ほら、じゃあ寝覚めのコーヒーだよ。ちょうどいい飲み加減になっているだろうから、飲んでおいき。寝不足じゃあ、また疲れちまうよ。大丈夫、これもサービスさ」

 ほら、と渡されたマグカップはほわりとあたたかく、口をつければぬるくなりすぎず、ちょうどいい温度のコーヒーが喉を通り抜けていきます。心なしか、気分がしゃっきりした気がします。
 主人は朝のしたくがあるのか、昨日よりも少し忙しそうにしています。
 最後の一滴まできちんと飲み干すと、カウンターにことりとマグカップを置き、暖炉のそばにいる鳥に近づきました。
 最初に案内してもらった暖炉のそばの椅子の近くには、小さなテーブルがあります。旅人はおおきな鳥に向かってひとつ頷くと、濡羽色の外套から一枚の絵葉書を取り出して、そうっとそこへ置きました。
 そして、暖炉に背を向けてコツン、と歩きはじめます。

 ばさりと羽を広げたおおきな鳥が、旅人の肩に乗りました。
 さあ、新しい朝の旅立ちです。

***

 しゃらん。

 宿屋あまやどりの来客を知らせるための金属の音色が響き渡りました。
 カウンターの奥にいたあまやどりの主人は、聞き慣れたその音を聞きつけ、声をかけるために振り返り────、その瞬間、呆けたように遠くを見つめました。

「……だれか、泊まっていたような……」

 いや、そんなことはない。だれも来ていなかったはずだ、と主人は思います。けれど、ざわざわと胸がさわいでいます。
 ぼんやりとした頭で見回しても、だれかがいた気配は感じ取れません。けれど、不思議とあたたかな空気があまやどりを満たしているようにも思います。なにか、大事なことを忘れているような……。

「……おや、これは……?」

 暖炉の前のテーブルに置かれていた一枚の絵葉書が目に留まります。それは、やわらかな光を放つランプでうめつくされた「宿屋あまやどり」の姿。暖炉のあたたかさ、身体をほぐす湯気のたったミルクティー、何気ない宿の日常を写し取ったかのような、心を打つうつくしい絵でした。
 宿の主人の眼から、自然と泪がひとつぶ零れます。だれかをぽっかりと忘れてしまった・・・・・・・、そんな気持ちだけが心を支配しました。
 ふと絵はがきを裏返すと、ちいさな文字がはじっこに紡がれていました。

 『銀の月あかりがいつかこの地を照らさんことを』

 それは儚く、そしてやさしい────とてもやさしい願いでした。

***

 おおきな鳥が、ばさりと羽をひろげて翔びました。雨の街では満足に翔べていなかったせいか、どこか満足そうに見えます。
 雨の街から一歩出たそこには、銀の月が皓々こうこうと大地を照らしています。 
 濡羽色の外套に身を包み、シルクハットをかぶった旅人を、もうだれも覚えてはいません・・・・・・・・・・・・・。あまやどりに残してきた一枚の絵はがきだけが、旅人のいた証明あかしでした。だれかの記憶に残らない旅人は、長くとどまることはできないのです。

 そうして旅人はふたたび旅立ちます。
 ほんの少しのさみしさを、その胸に秘めながら。

 ────また会うその日まで、さようなら

 そっとささやいた旅人の言葉は、風にさらわれて溶けていきました。




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