起立性調節障害 その心配は、愛情ですか?依存ですか?

子どもが起立性調節障害になったら親は心配をします。

良くなってほしい。元気になってほしい。
いや、、、学校に行けるようになってほしい。
将来困ることにならないだろうか、、、。

だから、病院を探す。
治療法を探す。
生活を整えようとする。
少しでも良くなる方法を探し続ける。

私がそうでした。
しかし、今振り返ると、「心配することは愛情だから」と思っていたというより、「心配だから息子をコントロールしている自分」を、愛情だと思おうとしていました。

「親だから心配するのは当然」「この子のために、私がなんとかしなきゃ」「そんな生活をしていたら、もっと悪くなるよ」
そうやって、息子の行動を変えようとしていたのは、私が不安だったからです。
そして、そうすることを「愛情」だと言う言葉で容認してきました。

息子をコントロールしているなんて認めたくない。「子どものためにやっている」と思っていれば、不安で動き回り子供をコントロールする言い訳がでしたからです。

でも、とある医師との出会いで、その言葉で私たち親子は向きを変えることができました。
私には受け入れ難い言葉でした。
「起立性調節障害なんて病気じゃないよ。君はやりたいことがあれば動ける子だよ。そうだろう?」
「大学なんて行かなくて良い。やりたいことがあればやりたいようにしたら良いんだ。」
そして私に
「頭でカッカカッカ考えない。」
と、釘を刺されました。
(それ以外にもたくさんお話はありました)
その数日後から息子はガラッと変わりました。
私もガラッと変わりました。

その後もまだ私のコントロール心の残りがあり、ちょっとしたアドバイスをしてしまったのです。
そのせいでドップリ落ち込むことがありました。大きな代償もありました。
が、それは更に良い薬となり、完全に息子への依存を断つことができました。

「私は本当に、この子のためにやっているんだろうか?」

それとも、「この子がこのままだったら、私が不安だからやっているんだろうか?」
この二つは、似ているようで全然違います。

子どもが夜中にゲームをしている。「そんなことしてたら悪化するんじゃない?」そう言いたくなります。

だるくて寝ている。「ずっと寝ていたら、このまま何もできなくなるんじゃない?」そう思います。

寝ながらスマホを見ている。「そんなことしてないで、ちゃんと寝なさい」と言いたくなる。


でも、注意してもコントロールしようとしても、我が子であってもコントロールは出来ないのです。
子供の主体性を尊重した時に、子供は自分の行動に責任を持つことができます。全責任です。少しでも親のコントロールが入っていてはその決意が支えにならないのです。

「子どもの主体を尊重する」
つまり簡単に言うと
「何でも応援する」です。

夜中にゲームをしているなら、ゲームをしている子どもを応援する。
だるくて寝ているなら、寝ている子どもを応援する。
寝ながらスマホを見ているなら、スマホを見ている子どもを応援する。

その選択をそのまま受け取る。

もちろん、「なんでも応援する」は、何をしても親が賛成するという意味ではありません。危険なことがあれば止めることもある。必要な情報を伝えることもある。

ただ、

子どもの人生を、親が正しい方向へ動かそうとしない。
子どもが自分の人生を生きる余白を、親が奪わない。

起立性調節障害になると、「このままではいけない」という思考が、親の中に次々と出てきてしまいます。
治そうと走り回る。
少しでも良くなる方法を探します。
子どもを動かそうとする。

でも、その「なんとかしてあげたい」の中に、自分が安心したい気持ちが混ざっていないだろうかと自分に向き合った時に、ああ!盛大にやらかしていたな!!と私は、そこに気づくことができました。

愛情と依存は、同じじゃない。
愛情だから心配する。
心配だから子どもを動かす。
それが全部、愛情から来ているとは限らない。

息子が自分の思い通りにならないと不安になる。
その不安をなくすために、子息子を変えようとする。
それは、愛情というより依存でした。

子どもを心配するな、という話ではありません。
心配していいし、不安になっても良いのです。
親なんだから、心配するのは当然だと思います。

ただ、
心配することが、子どもの人生を握っていいとイコールにはなりません。

「あなたがどう生きるかは、あなたが決めていい。」
「私はあなたの味方でいる。」

そこまで子どもに人生を返してあげる。
それが、私が今思う「愛情」です。

これまで、治す方法だと書き綴ってきましたが、もし息子が良くならなかったとしても、私は全力で息子の夜更かしや寝ながらスマホを応援できるマインドを手に入れることが出来たと自負しております。
子供を変えるのではなく自分が変わる。
私も親にアレヤレ、これはダメと言われ続けてどれだけ窮屈だったことか。
それをそのまんま、息子にやっていたんだと、自分自身を振り返った時にうんざりしたのです。

近々資格試験があるようですが、勉強しているのかしていないのかすらわかりません。
気にもなりません。
受かればお祝いを言って、落ちたら本人がどうにかすれば良いのです。
どんどん失敗して(良い意味で)進んで行く。こんな当たり前のことを奪っていたんだと、申し訳なく思います。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

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