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"The Edge of Europe" 最果てのヨーロッパ。ウラジオストク。amazon Kindle 写真集  発売中 209page ¥500 Vladivostok 1999/2008/2009

 初めて訪れた社会主義の国は東ドイツだった。1978年、月刊プレイボーイの取材だった。フランクフルトから、列車で東ドイツに入った。東西冷戦中社会主義の国にゆくことは、かなり難しかった。この話はいずれ。
その後は、1986年の、中国、上海。そして1994年のベトナム。1999年のキューバ。同じ年にウラジオストクを訪れている。あとは、1980年代、エアロフロートでモスクワまで飛び、モスクワはトランジットだった。だからモスクワに降りたわけじゃない。しかもよく覚えていない。

★ 2015年から始めた、Kindle写真集、最初がウラジオストクだった。
今回は写真を増やし、2冊を一冊にまとめた。2008年と2009年の209ページ。¥500。お楽しみください。

"The Edge of Europe"At the farthest edge of the East,there lies a whisper of Europe.Where birch trees bow in the sea breeze,and iron rails remember old empires.Just ninety minutes from Niigata sky,a silver jet draws back the veil—and there it is:Europe, reclining by the Pacific,dreaming in Cyrillic beneath the Siberian stars.
この頃は、まだ日本との関係が今ほど悪くなかったから、ウラジオストクも観光地としてにぎわうかなと思ったけれど、今や中国や韓国の旅行者に占拠されている。いい町なんだけれどなあ。
2008年、2009年はデジタルの時代、GRやGX200,GXRで撮影をしている。

実は1999年に訪れている。まだフィルムの時代。
ソ連からロシアになり、統制経済から自由経済いなり、経済破綻したとき。この頃はかなり疲弊していた。
ただ観光客にとっては、道路も空いていて、ノスタルジックなイメージもあった。
その時代1999年のKindleもamazonから、販売中。¥600

最果てのヨーロッパ VLADVOSTOK 1999年9月 Blogから
Forthest europe

東京から関越高速自動車道、北陸高速自動車道と乗り継ぐこと約3時間半、真新しい新潟空港から、今にも分解しそうなおんぼろジェット機の旅をほんの少し我慢すると、そこはアジアでありながら西洋文化圏の都市ウラジオストクだ。
 ウラジオストクは1992年まで、旧ソ連太平洋艦隊の最前線基地として、外国人はいっさい立ち入ることができなかった。そのためわれわれ日本人にとっては、近くて遠い国というより存在すら忘れさられた未知の街だ。
ウラジオストクの中心街にある、韓国資本のHYUNDAI HOTELの客室から望む朝の風景。
時間はすでに、午後7時半を回っているのに、陽は昇りはじめたばかりだ。日本との時差は1時間、訪れた9月は夏時間だったので2時間の時差がある。緯度的には北海道の宗谷岬と同じぐらいだ。ちなみに日没はこの季節は午後9時ごろと遅い。この時期、気候は日本とさほどかわらない。夏は25,6度と過ごしやすい。冬はマイナス10度から20度にもなるという。
ウラジオストクは極東のサンフランシスコと呼ばれるほど起伏にとんだ美しい街だ。金角湾(GOLDEN HORN)は自然の良港だ。
街には、このような煉瓦作りの建物が多い。歴史的には150年ぐらい前に街となった。
かつては中国領だったが、帝政ロシアのシベリア開発にともない極東の拠点として発展した。開国まもない日本との往来も盛んだった。
下の写真はフニクリョールの上部駅。ケーブルカーはほんの数分の乗車時間だ。高低差も100メートルぐらいしかない、山の上には大学があるくらいなので、ウラジオストクを展望する観光目的に作られたのだろうか。
下の写真はフニクリョールの上部駅。ケーブルカーはほんの数分の乗車時間だ。
高低差も100メートルぐらいしかない、山の上には大学があるくらいなので、ウラジオストクを展望する観光目的に作られたのだろうか。
上の写真は、第三労働者駅といって、路面電車のターミナルだ。第三労働者駅というからには、第一、第二があるのかなと思ったが、それはないそうだ。すり鉢型の地形の中心に、渦巻きのような路面電車のロータリーがある。
下の写真は、周辺の団地だ。日本の団地より建築デザインは優れていると思う。
石の建物に住む歴史の違いだろうか。ウラジオストクには郊外がない。街から一歩そとにでると、森林と原野だ。住民はみな、高層アパートのどこかに住んでいる。人口が80万ぐらいなのに皆街に住んでいるのでけっこう賑わっている。まだ一戸建に住む人は少ないが、そのうち郊外住宅が生まれるのだろう。
下の写真はウラジオストクの中心街から空港方面に向かう道路の途中。
ところどころ車の検問がある。ソ連からロシアになっても、国民をまだ管理しているのだろうかと、穿った見方もあるが、自動車の盗難がすさまじいこともその検問の理由ともいえる。いちいち車権証のチェック受け、トランクもチェックされる。また飲酒運転は、免許をとりあげ、と厳しいので、コーディネートをしてくれたALEKSEY君(26)は絶対にお酒を飲まなかった。
街には、かつて東京の街にも走っていたトロリーバス(電気バス)の路線が縦横に巡らされている。しかも無料だ。外国人も同じ。そのためいつも満員状態だ。エンジンが電気モーターなので静かなのかなと思ったら、けっこうディーゼルエンジンのバスなみにうるさかった。バスが古いせいもあり乗り心地も悪い。でも無料ならしかたがないか。定期バスや路面電車も無料だが、有料のバスも走っている。それでも料金は格安、空いていて車両や座席の状態も良い。下の写真はバスではない。フニクリョール(ケーブルカー)の中だ。山の上に上っているところ。立っているおばさんが車掌で、料金を徴収する。
下の写真は路面電車のなか。この状態は空いているけれど、トロリーバスほどではないがかなり混雑する。
なぜか街には女性が目につく。男女とも平等に仕事があるせいかもも知れない。バスなどのドライバーにも女性が多い。-20度にもなるといる冬のことはわからないけれど、温暖な夏のあいだ女性たちはおもいっきり手足を露出している。若い女性のほとんどはミニスカーから美しい足を自慢げに颯爽とあるく。
下の写真はトロリーバスのなか。木製の椅子はかたく座りここちはよくない。
車内はこんなふうにいつも満員だ。トロリーバスの窓は大きく眺めがよく混雑することをのぞけば、なかなか楽しい乗り物だ。
ロシアの子供たちは奇麗な子が多い。大人のなかには写真を極端に嫌う人間がいる。すぐに、何のために撮るんだ、と不快な顔をすることが多い。かつてソ連時代の、監視に対してのアレルギーだろうか。トロリーバスに乗る少女にカメラをむけたが自然な態度で気持よく撮影できた。
街の中心街にある地下道の入り口。大きな地下街ではないが、いくつかの商店が地下通路に軒をならべている。
上の写真の階段の途中に座り込んで物ごいをする乞食の親子の写真。
暖かいこの季節は心配ないとして、寒い冬にはどんな生活をしているのだろうか。ソ連時代には考えられなかった状態だ。何人かの人々に話しを聞いたが、それぞれ過去と現在の境遇によって意見はばらばらだ。若い人はもちろん今の状態を歓迎している。
下の写真がトロリーバスのターミナル。街の中心街だ。
最近流行の洒落たコーヒーショップにウラジオストクで良く見かける、体格のよい若い男が、座っていた。不思議なことに街で見かける、携帯電話を片手に、なにやらビジネスをする男たちは、一様に体格がよい。ガイド氏にいわせると、すぐ冗談にマフィアだという。マフィアにもいろいろあって、成功したビジネスマンのこともそう呼んだりするが、目の前に座る、
朝食を取る若い男がビジネスマンとは思えなかった。
彼のテーブルには携帯電話と車の鍵がいくつか転がっていた。僕は興味があり、インタビューをこころみるべくALEKSEY君に通訳を頼んだ。するとその若い男は露骨にいやな顔をして、「NO.」といった。ALEKSEY君は、粘ってくれたが、結局「だめだ」と肩をすくめた。僕はそれを無視して、「ねえ、車何乗っているの?」と聞いた。「日産セフィーロ」と答えた。僕が窓の外をみると、道路の反対がわにガンメタリックのセフィーロが、路肩に乗り上げ止まっていた。「あの車でどのくらいスピードだした?」「180キロ」「どこでだしたの?」「飛行場に行く途中」「年はいくつ?」「22歳」「なんの仕事してるの?」「学生」「どこで買ったの?」「富山」「いくらしたの?」「40万」と、店のなかに彼が待ち合わせしていたのだろう、やはり体格のよい男がやってきた。雑談はそこで中断。彼は立ち上がり男とレジに向かった。
僕は彼に「スパシーバ」と、手を振った。彼も少し口元をゆるめて手を上げ答えてくれた。二人の男はコーヒーショップからでると、道路の向かいの駐車場に向かった。そこには三菱バジェロが止っていた。体格のよい男は運転席にすわり、助手席に乗った彼となにやら話し込んでいた。そして、彼が降りると、パジェロは勢いよく飛び出して行った。彼は、自分のセフィーロに乗り込み発進した。その二台の車とも、ナンバープレートがついてなかった。
彼等は二人ともカー・ブロカーだろう。資金はだれがだしているかはわからないが、マフィアかもしれない。ただのビジネスマンかもしれない。学生と名乗った若い男は、実際富山に行って買い付けにいったようだ。日本の街は新潟と富山しか知らないと答えた。今、ウラジオストクはさまざまなビジネスチャンスがある。その一つに日本の中古車の輸入がある。若い彼のような連中が、アルバイト感覚でこういつ商売を支えているのかも知れない。
ALEKSEY君は今乗っている、トヨタクレスタを横浜で5万円で手にいれたという。船で送り、輸入するさい、税金で25万円も取られたという。車で混雑する賑やかな中心部、スヴェトランスカヤ通り。街に走っている8割の車は日本車だ。なんといっても人気はTOYOTAだ。それに続いてHONDAそれとMISUBISHI、そしてNISSAN。最近は四輪駆動車が大人気だ。古い車はソ連製のラーダが多い。
チュルキン岬の税関ビルと、前に見えるのは工場。
下の写真はコンテナのようなものを転用したガレージ。さしてく高そうでもない車でもしっかりと鍵をかけたガレージを持っていなければ車は盗まれてしまう。丘の中腹にあり、ここまでどうやってくるのかといった不便なところだ。でもしかたがないのだろう。このあたりのガレージは賃貸ではないという。それぞれちゃんと所有者がいるという。
下の写真はシベリア鉄道の終着駅であるウラジオストク駅から引き込まれた朝の操車場。
ウラジオストク駅。夕方のラッシュアワーで、列車を待っている乗客たち。
彼等は近距離の通勤列車の乗客だが、同じこの駅から一週間の旅をすればモスクワまで行かれる。
しかも料金たった約150US$だという。
アジア大陸、ロシア極東、沿海州を北東から南西に向かって、
ムラビヨフ・アムールスキー半島はピョートル大帝湾の中央部に
東のウスリー湾と西のアムール湾に大きく二分しながら突き出している。
その半島の先端にウラジオストクの街があって、
街は金角湾(GOLDEN HORN INLET)によってシコト半島とチュルキン岬にと二分されている。
街の南西の方角に海峡を挟んで大きなルスキー島が見える。
その海峡の名は、東のボスポラス海峡という名だ。金角湾にしても、東のボスポス海峡にしても、
ビザンチン帝国の首都イスタンブールからの連想だろう。
ルスキー島はウラジオストク街全体とほぼ同じ大きさだ。
島は小さな入り江が無数にあり、11時のいちから5時の位置まで
島を貫通するようにNOVIK INLETという名の深い入り江がある。ここは1992年まで、ソ連太平洋艦隊の拠点であり、要塞になっていた。外国人はおろか、軍関係者以外、立ち入り禁止だった場所だ。今ではそんな歴史の面影はなく、NOVIK INLETの奥深くに放置されさびついた軍艦の残骸を観光客が見に行けるぐらい自由だ。
下の写真はウラジオストク市街からルスキー島に向かう途中金角湾から東のボスポラス海峡にでたところ。
ルスキー島のNOVIK INLETという名の深い入り江の奥深くに、軍艦の残骸が放置されている。人影もなく、不気味な場所だった。オイルフェンスが張ってあり、近づけないので手こぎボートに乗り込み、ギーコ、ギーコとオールをきしませ近づいた。ルスキーの南西にある小島、ポポフ島。島には人影がまったくなかった。廃墟を撮影していると、調子の悪いバイクの音がしだいに近づいてきた。若い男の子と少年がサイドカーに乗ってやってきた。カメラの横でUターンをしたら、エンストした。僕は写真を撮らせてと言った。兄の名はセルゲイ、弟の名はビタリといった。
下の写真は上の写真の子供ではない。少年少女たちはあきることなく、いつまでも飛び込んだり、泳いだりしていた。
 
やはりウラジオストクから定期船でここポポフ島にピクニックにやってきた集団。陽気に騒ぎ、写真を撮ったら、ウォッカをふるまわれた。ゆでたポテトや煮込んだ豆。味はとてもよかった。寝そべる水着の少女二人に写真を撮らせてと頼んだが、恥ずかしがって、強行に拒否されてしまったウラジオストクの街のなかは、意外なほどものが豊富だ。フリーマーケットには日本よりも豊富じゃないかと思えるほど、果物や野菜がならんでいる。
下の写真は街のなかのケーキ屋さん。食べてないのでわからないが、とてもおいしそうだっここもフリーマーケットではない。路面電車のターミナル。
西瓜は甘くておいしかった。街のところどころでこうやって積み上げて売っていた。
た。日本資本のHOTEL ACFES SEIYOのとなりにあるフリーマーケット。
果物のほとんどは中国から。とても豊富だ。アメリカからも輸入されている。
野菜は中国と、ウラジオストク周辺でとれたもの。
丸大食品のマークが見えるが、ただの中古のトラックだ。
ウラジオストクでは、日本で使用していた状態のままの車が走っている。
右側通行なのに街のほとんどの車が右ハンドルだ。
日本とは逆だけれど、これだけ右ハンドル車が多いと、いっそ左側通行でもよさそうなものに思える。
奇麗にならべられた果物。
フリーマーケットに限らず、ウラジオストクのひとは写真を撮られることに異常に敏感だ。露骨にいやな顔をしたり、何のために撮るのだと詰問するひとが多い。そのため僕はたいていキュンデットフォト、盗み撮りをすることになる。ロシア人が写真を撮られることをいやがる理由は、かつてのソ連時代の、いやな思い出があるからだろうか。
こうやって自由に物を売ることに潜在的に罪の意識があるのだろうか。それともかつてソ連時代には良い暮らしをしていた階層で、物を売るような商売にコンプレックスを感じているのだろうか。それほど写真を撮られることに神経質だ。フリーマーケットは闇市ではないのに。
ガイドのALEKSEY君が時々、僕の被写体と、ながながと口論をしている。
ロシア人は話しだすと、永遠と時間がかかる。たとえばハンバーガー一つ買うにもながながと会話をする。あまりに時間がかかるので、何かもめてるの?と聞くと別に、ただ注文しただけだよ、と答える。ロシア語は単語の一つ一つが長いからという。
街の名前もやたら長いのに短縮して言わない。なんでも縮める日本人とおおちがいだ。それだけで時間がかかる。そんなaleksey君があるときから、ぼくの被写体と会話が短くなった。そんなとき、相手はたいてい不満な顔をするが会話はすぐに終わることになる。何を言ったの?と聞くと、「あんたには関係ない」と言ったらしい。それはちょっと失礼じゃない?普通は撮ったあとに、
「スパスィーバと言うものだよ」と言うと、
「いいんだよ、そうしないと永遠と質問攻めにあうから」と答えた。
この件については、笑い話がある。ある男が、ラジオのリスナー参加の公開番組に、電話をしてきた。
「もしもし」番組司会者が、「どんなご用件でしょうか?ところで、お名前は?」と訪ねた。
するとそのリスナーなんと「そんなことおまえには関係ないじゃないか」と喚いた。司会者はそんなふうに言われてしどろもどろになる。
「どちら出身の方ですか?」「そんのこと関係ないじゃないか」
alexsey君はそのラジオを聞きながら腹をかかえて大笑いをしていた。
「おまえには関係ない」っていいかた流行っているの?と聞くと、どうもそうらしい。かつてソ連時代公安にいつも詰問され、緊張して答えていた。
今はそんな時代じゃないので、「あんたには関係ないじゃないか」って言えるから、
やたら連発するのだろうか?下の写真を撮ったあとこのおばさんにどなられた。この小犬は売りものだ。あと猫や小鳥も売っていた。
ロシア名物毛皮の帽子
ウラジオストクの中心街、フキノ地区の古いアパートのワンフロアーは画家たちのアトリエになっていた。
後ろ右からSERGEI DROBNOHOD(38)、となりが彼の妻と息子、ここは彼のアトリエだ。
左がTOKACHENKO EVGENIY(42)まえに座っているのが、
ALEXANDER KIRYAKHNO(49)外国でも展覧会を時々やっているらしい。皆日本にも行ったことがあるといった。
繁華街をあるくカップル。小柄な彼女はとてもチャーミングだった。ファッションデザインを勉強中のアンジェリカ(21)。彼女の父親はエリート軍人だった。ソ連が解体して、退職した。今は田舎にこもり細々と年金で暮らしていると言った。卒業したら、ロシアの文化の中心サンクト・ペテルブルグ(レニングラード)で仕事をしたいといっていた。ウラジオストクで会った一番お洒落な女性だった。アパートはワンルームで広くはないが、部屋全体を上手にコーディネイトしていた。
ウラジオストクからナホトカに行く途中の海岸。フレンドリーなゲイの二人は僕のことも写真に撮った。
下はナホトカのチェルネストリートにて。ウラジオストクよりナホトカの人々はずっと純情だ。ナホトカは太平洋戦争後、シベリア抑留者が出航した港だ。捕虜であった日本人が作った木造の建物もまだ残っているという。ソビエト時代でもナホトカは外国人が入れた。シベリア鉄道もウラジオストクには入れなかったので、ナホトカ経由でモスクワと繋がっていた。
ナホトカのフリーマーケットであった夫婦。ウラジオストクから比べると本当にずっと素朴だ。
ナホトカの東にある海水浴場。夏は浜辺にいっぱいに人が溢れるという。珍しくこの海岸に入るの駐車料金を請求された。遊びではなく、仕事できたと言ったら、無料になった。二人は大学の先輩後輩、恋人同士、浜辺でずっと戯れていた。男の名はMAKSIM、21才で法科の5年生、女はALYONA17才旅行サービス科で勉強している。ウラジオストクのメインストリート、スヴェトランスカヤ通りにあるグム百貨店。かつてのドイツ系の「クンスト&アリベス商会」1885年の建造。デパートのなかはガランとして、商品で埋め尽くされているとはいいがたい。日本で言えば開店したばかりの品揃えのない店みたいだ。普通の店のほうが活気がある。
NABEREZHNAYA(ナベレジュナヤ)海岸という名の海岸に面した公園にて。
市内のハンバガーショップにて。サマースクールの最終日、屋外で劇が演じられた。ストーリーは、皆で平和を願うところかな。エレクトーンと、母親たちのコーラス。歌は全てビートルズだった。
アサヒカメラ1999年12月号の表紙になったモデルの名はアナスタシア(12)すでに身長は170センチもある。表紙に一緒に映っているのは母親。サマースクールの場所はウラジオストクの西海岸にある。曇り空の淀んだ夕方、屋外劇が終わってから、岸辺でキャンプファイアーが行われた。キャンプファイアーで「レッツ、キッス、ほほよせて!」とジュンカが歌われた。
この曲はどこの歌。故坂本九が歌っていたのでずっと日本の曲だと思っていたけど。ナホトカの学校。小学校から高校まで一緒だ。
彼女の名前はカーチャ(7)小学校1年生の名はカチューシャともいう。父親は電気技師、母親はコンピューターの先生をしている。朝の一次限、体育の授業。体操着すがたが少ない。校舎を数周まわって、タイムを計っていた。
ナホトカはウラジオストクと違って団地よりも、戸建てに住んでいる人が多い。
体操の時間なのに普通の靴を履いている子もいる。今日は見学らしい。
校舎に入るとロビーのようになっている。授業の始まるまえには、ここでみなたむろしている。ここは薄暗くストロボがなければ写真がとれなかった。
一年生の教室。一次限授業の前のひととき。
ナホトカで止まったホテルのすぐそばに花で囲われた家があった。写真を撮っていると犬がでてきてほえた。
ナホトカのCHERYH.STにある木造の古い家。屋外からみるとログハウスのようにがっちりしている。室内は天井もたかく、部屋の充分な広さがある。この家は3LDKぐらいの広さがあった。
VALENTINAAREKSANDOROVNA(62)
NATASHA(7)VASILIY ANDREEVICH
夜の街を走るトロリーバス。
ロシアでは昔から国際売春婦、ロビーガールがおおっぴらにホテルのロビーに座っている。ホテルのマネージャーに賄賂を渡して懐柔しているらしい。この韓国系のホテルの二階にも彼女たちがたむろしていた。日本人旅行者がエレベーターで話しているのを盗み聞きすると、部屋に15人ぐらい呼んで、そのなかからよりどりみどりらしい。街にも夜になると娼婦がいる。ウラジオストク一番のクラブ、「ステルス」だ。ステルスとはアメリカのスパイ機のこと。洒落た名前のクラブだ。入場料50ルーブル約200円だ。
ここのトイレがホテルを除けばウラジオストク一番の清潔さだった。ウラジオストクのトイレ事情は悪い。殆どのトイレは便座がないか、隠してある。段になった和式トイレがあったりする。トイレのないレストランもある。このことが改善されない限り、普通の女性は大変かもしれない。ステルスの3階ダンスフロアーから広いテラスにでられる。屋内の喧騒とは違って冷たい空気が気持ちよい。
今日は週二回のトランス系の日だ。DJをスナップダンスフロアーで踊る。ただずっとトランス系の音楽がかかっているわけではない。
突然、スローな曲にナリ、チークタイムになる。ここでは日によってロックだったりと、
ストリップをやったりすることもある。朝のナホトカ、なぜか山の上を通勤する女性がいた。EOS1N 50mmf1.4 プロビア
ナホトカの東側の海岸でスイカを食べる若者。CANON EOS1 24mmf1.8プロビア
ナホトカのアパート
アパート周辺の景色.ナホトカの町に人影はない。マルデゴーストタウンのようだ。水のなかからでてきたので水牛かと思ったら普通の乳牛だった。したの写真はウラジオストクの近くにあるシャモラビーチにPOKROVKA村から何時間もバスに揺られ、ピクニックにやってきた学生たち。
年齢は10歳から15、6歳までか。
ラジウオストク市内にアムール湾に面したNABEREZHNAYAの海岸には洒落たボードウォークがあり、ずらりと長屋のようなバンガローが並んでいる。夏になると海水浴客で溢れるという。ただ、今はまったく修理がなされていないのか老朽化している。ところどころ穴があいたりもしている。ペレストロイカ以降荒れ果てたらしい。

約10年程前、今回ガイドをしてくれたALEKSEY君(26)が15,6歳のころまでここは素晴しく奇麗な場所だったらしい。ちょうど後ろにいる少年のころだ。ALEKSEY君は1973年6月生まれ、父親は電気技師、母親は発電所の事務員だった。高校を卒業後、コンピューター会社に就職して、92年から94年は徴兵で軍隊に入る。除隊後、日本の大学に留学した姉を追って、
語学留学をする。昼間は日本語学校にかよい夜は六本木でバーテンダーをして働いた。
二年間東京の小岩に住んでいた。95年に帰国して日本の貿易会社ウラジオストク支店に就職。
94年からモデルクラブとコーディネイター、カメラマン通訳として働いている。
 


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ALAO YOKOGI  横木安良夫 もしよろしければ  応援サポートお願いします。