バー・ハナレ
【あらすじ】
バー『ハナレ』の雇われ店主・なくちゃんは、自分のことがうまく愛せない。
小さい頃からママには嫌われていて、パパは魔法でカエルに変えられて居なくなってしまったらしい。
ひとりぼっちも、馬鹿も、不細工も、どこか居場所をなくした人たちが、なぜかこのバー『ハナレ』に集まってくる。
なくちゃんは今日も、グラスを磨きながら誰かを待っている。
本当は、待っているのが誰なのかもよくわからないまま。
【オープン】
きっちり17時になると寿司工場の目しか見えない酢飯臭い白い服を脱皮するみたいに脱ぎ捨てて大好きな洋服に着替える。
少しだけまつ毛をあげて、リップを塗る。
アパートの大家のおばあちゃんがくれた年代物の電動チャリは私を運ぶ馬車になってこの場所からキラキラしたあの街へ連れて行ってくれる。
あの日、泣いていた私を助けてくれたのはママでも、その時憧れだった彼でも、ましてやカエルに変えられたパパでもなくて、
親友のゆまだった。
バー『ハナレ』、看板の電球がチカチカ揺れる。
カウンター7席の小さな小さなこの場所が
私にかけられてしまったつまらなくて不細工な男の子の姿になる呪いを解いて本当の姿に戻してくれる。
ここでは私はただの''なくちゃん"でそれ以外の何者でもなかった。
元々はここはゆまの叔母さんの店で
「閉めるくらいなら私がもらう」
そう言ってゆまがオーナーになって、私が雇われ店長になって7年。
正直、ゆま一人でも店は回る。
それでも私のここに置いてくれているのはゆまの優しさだ。
私がカウンターに立って、ゆまはフラッときて一緒に働いたり、たまにいなくなったと思ったらまた帰ってきたり、そんな感じ。
私たちが育った街から電車で15分くらい、自転車だともうちょっとかかる。
噂話も悪口もいい感じに薄まって消えていく絶妙な距離感に救われている。
そんな私の舞踏会は毎日同じように始まる。
看板をOPENに変えて、グラスを磨いて氷を補充する、もう一度鏡で顔をチェックして、OK。
『なくちゃん、おつまみのナッツ買いに行ってきてよ』
『え〜、隣町のドンキにしかないんだよ、あれ、なんで先にラインくれないの』
『ごめんじゃん、二日酔いで起きれなかったの』
20時から夜中の3時まで、まばらな日もあるけど大体毎日10人来るか、来ないか。
話して、飲んで、泣いたり、笑ったり。
近所に住むひとりぼっちのおじいちゃんとか、就職でこっちに来たサラリーマンとか、親から逃げてきた訳あり女とか、売れないバンドマンとか。
最初はなにか話したげにみんな決まって手前の一つだけL字に奥まった席にすっぽり座る、そんな誰かの為に私はお酒を作って、ぼんやりした顔で、聞いてるか聞いてないのか、そんぐらいの相槌でそばに居てあげるんだ。
【1章:なきちゃん】
なきちゃんの泣きは泣き虫のなき。
ぴーぴー泣いて目の下は真っ赤っか、ドロドロのTシャツに、いつ切ったかわからないボサボサの髪でいっつも膝を抱えてる。
トタンのオンボロアパートの軒下、部屋をママから追い出されたなきちゃんは今日もいる。
なきちゃんとママのお部屋からはガシャンガシャンって物を投げたり、ぶっ殺してやるって声が響いて、それが辛くて耳と心に栓をした。
なきちゃんのパパは悪い魔女にカエルに変えられて、ママとなきちゃんを置いてどこかに消えちゃったんだってママが言っていた。
『ナギが可愛い女の子だったら、パパはパパのままだったかもね』って言われた時になきちゃんは自分が可愛くもなくて愛されもしない存在だって気が付いた。
絵本の中のお姫様はふわふわしたドレスを着て、魔法使いが素敵な馬車で舞踏会に連れて行ってくれる、そして王子様もみんなみんな愛してくれて幸せになる、でもそれはお姫様が"女の子"だからだ。
ボロボロで汚くてブサイクでそれに"男の子"のなきちゃんは幸せなお姫様にはなれないとなんとなく理解した。
周りの女の子達はツルツルしてふわふわしていく、男の子達は手も足も伸びて逞しくなっていくのにいつまで経ってもなきちゃんはなきちゃんのままだった。
ご飯は給食くらいしか食べれない、髪はたまに自分でお道具箱のハサミで切っていた。
中学生になる頃には自分で色々できる様になったけど、ママの死ねは止まらなくて、なきちゃんは本当に死にたくなって、あまり学校にも行けなくなった。
『なんでお前は男なんだよ、お前がいるから私の人生はめちゃくちゃだ、死ね!』
そう言われる度になきちゃんは泣いた、目を真っ赤にして、ごめんなさいと言いながら泣いた。
14歳になる少し前に隣のマンションにゆまがやってきた。
オンボロアパートの軒下で泣いてたらいきなり隣に座ってきた変な女の子、聞いてもないのに好きな食べ物とか、最近読んだ本の面白い話とか、家族の話とか、なきちゃんが泣き止むまで1人でずっと喋り続けてくれた。
別れ際に『ゆまだよ、またね』
って帰って行ってそれからは外で泣いてる度に話しかけてきた。
ゆまは学校には行ってない。
昼間に会っても制服を着てないし、平日に図書館で本を読んでたりする。
それでもゆまのパパもママも怒らないらしい。
『優しいパパとママだね』
『お兄ちゃんも優しいの』
『羨ましいなぁ...』
『家族、やさしくないの?』
『そんな事、ないよ、ママは機嫌いい時はご飯作ってくれるし、泣いてたら頭撫でで抱きしめてくれる時もある』
『そんなの当たり前じゃん、私がしてあげるよ』
『えっ、やだよ』
やっぱりゆまは変な子だった、それでも嫌な子じゃなくて、だからゆまと友達になったんだと思う。
それからは2人で色んなことをした、ゆまのパパとママはなきちゃんを嫌な顔で見ないし、一緒にご飯を食べたり、外で泣いてたらおいでってゆまと迎えにきて、一緒に眠ってくれた。
『あのさ、そう言えばなんだけどなんで自分の名前あんまりいわないの?』
『名前...あんまり呼ばれないから...』
『でも不便じゃない?』
『本当はナギだけど、泣き虫だからママや周りの子はなきちゃんって呼ぶの、あんまり好きじゃない...』
『じゃあ名前さ、なきじゃなくてなくにしたら?』
『えっ、変わんないじゃん』
『馬鹿だなぁ、全然違うよ、あの歌知らない?カラスの歌』
『泣くのは勝手でしょ?ってやつ?』
『そうそれ!泣くのも笑うのも全部なくの勝手にしたらいいんだよ、他人に泣き虫なんて言わすんじゃなくて、私が好きで泣いてんのよって、ね』
その日から私は泣き虫のなくちゃんでも、不細工で可哀想なナギでもなくて、なくちゃんになったの。
【2章:クズじぃ】
『なくが入れる酒は薄い、俺を馬鹿にしてるんだろ!』
そう言いながら薄張りのグラスをカウンターに叩く様に置くクズじぃにヒヤッとしながらシリコン製のコースターからゆまの叔母さんが作ってくれたフェルトの柔らかいコースターに取り替える、本当はグラスもプラスチックの割れない奴に変えてやりたいけどそれをするとクズじぃはまた3割り増しで怒り出すのでそれはしない。
『ハナレ』の裏手の坂をあがると団地があって、クズじぃはそこに1人で住んでる、決まって火曜と土曜の早い時間に来てハイボール2、3杯で帰ると言って出ていくのに最後は必ずここに戻ってきてトドメの1杯を飲んでいくのだ。
『なくは本当に馬鹿だ』
『こんな時間まで飲んでるクズじぃも馬鹿だよ』
『年長者に馬鹿だとぉ!?』
こんな会話を毎週、毎月繰り返してもうどれくらいになるだろう。
ここに初めてやって来た時のクズじぃはぶすくれてて本当に嫌なじぃさんだった、話しかけたって無視だし、喋ったと思ったらお前は男か、女か、親は知ってるのか、恥ずかしくないのかとか、そんな事ばっか言ってきて。
あんまりにもしつこいから
『じゃあお父さんはどんな人間なのか自分のこと、頭のてっぺんから足の先まで説明できんの?』って言ったらうーんって少し唸ってから自分のことをぽつぽつ話し始めた。
ここよりもうんと離れた場所に住んでた事
家族がいた事
大事だとは思ってたって事
それでも上手くいかなくてここにいるって事
本当にぽつぽつ、多分全部は話しきれないくらい、でも全部大事に抱えてるみたいに。
『俺がな、俺が悪かったんだ』
『今だってわかんねぇけどよ』
そう言って水が入ったグラスを置いた、私も一杯貰うねって勝手に同じハイボールを作って、グラスをカチンと合わせる、遠くを見てた視線が戻ってきて、お互いにグラスを傾ける。
『当たり前じゃん、わかるわけないよ』
『血が繋がってたって、わかんない事たくさんあるよ、なくのママはなくの事全然知らないし、なくもママの事わかんないもん』
もう一口、ハイボールを飲む。
『それでも今、こんな風に話せてるんだから悪い事なんてないんじゃないかな』
そう言ってまたグラスをかち合わせてみた、その時のクズじぃは目を一瞬丸くさせて、それから一気に自分のグラスを飲み干すとグッとそれを突き出して
『俺は、もう少し酒は濃い方が好きだ』
って言って俯いたから、私は笑ってしまった。
【3章:あけぼの】
アケは掴みどころがない、ゆまにも私にも滅多に笑わないし、バーに来てるのに酒も飲まない日もある、その癖、顔だけは可愛いから他のお客さんからご馳走になったりもする。
口は悪くて、何考えてるかわからないアケがにっこり笑えば男も女もいい気分になるのに、勿体ぶってる様な態度も気に食わない。
アケちゃん、今日はいないのかぁなんて残念がる客には塩ぶん投げてやりたいくらい腹が立つけどゆまもそうなの、またあの子いる時に来てやってねなんて言うから余計に歯がぎりぃって鳴る、ただの客なのに。
『なくちゃんは知らないの、アケちゃんの連絡先』
『知ってるわけないじゃん、あの子のお姉ちゃんじゃないんだから』
『なくちゃんがお姉ちゃん!?お母さんの間違いだろ〜』
そんな風に言われて頬が膨れる。
こんな嫉妬、余計に不細工になるなんてわかってるけど止まんない。
私はあの子が憎たらしくてたまらないのだ。
今じゃ毎日毎日ふらっと店に来て、当たり前に居座ってるアケだけどあの子は初めて現れた日は半年くらい前の土砂降りの日曜日だった。
もう店、閉めちゃおうかなんてゆまと話していたらいきなりドアが開いてびしょ濡れの子猫みたいなのが転がり込んできた。
『一杯、何でもいいからください』
『『いーっぱい、いただくわね』』
ふざけてそう言って、ゆまはタオル渡して、私はとりあえずミルクを火にかけた。
『びっしゃりじゃない、朝から雨だったのに傘ももってなかったの?』
『家、とびだしてきて』
『訳ありなら腐るほどいるから聞き飽きてるけど聞いてあげる』
『別にそんな深い訳は全然ないんです、ただなんかむしゃくしゃして』
濡れた髪から雫が長いまつ毛に伝ってポチャリとグラスに落ちた、白くなっていた肌はようやく色を取り戻しだしている。
指先を忙しなく弾くのは多分この子の癖なんだろう。
『三兄弟の、末っ子なんです、兄貴たちはもう家も出てるのに俺だけは何故かずっと家にいなきゃみたいな』
『親なんて先に死んじゃうのに好きにしなさいよ』
『本当、その通りなんですけどね』
また指を弾きながら目の前のこの子は自嘲的に笑いながらカウンターに頬をつけた。
『逃げてもね、俺だけまた捕まっちゃうんです』
足、遅いからと足を少しバタつかせながら言う。
『自由になりてー!って思えば思うほど上手くいかないんですよね』
『俺が3歳の時に一回死にかけたらしくて』
『らしくて?』
『覚えてないです』
『まぁ、3歳だもんね』
『でも母さんは覚えてるみたいで、今でも泣くくらい』
笑いながらまたぱち、ぱちっ指が動く。
『父さんは男らしく出来ないようならお前に自立は無理だって言うし、顔とか痩せた太った以外の体つきなんてもう20超えたらどうしようもないのに笑っちゃいますよ』
はぁ、と溜息をついてから、出してあげたホットミルクと蜂蜜の味がするウイスキーにシナモンパウダーを振りかけたカクテルを口にして、美味しいと笑った顔になんだかキュンとしかけた、危ない、この子は愛される才能がある子だって。
そう思ったら羨ましくなっちゃって少し意地悪な気持ちが生まれる。
『それでも、逃げんのが人間なんじゃないの?』
『あっ、俺、顔に栄養いきすぎて馬鹿だから人間未満なんです』
って自分の顔を指さしながら笑うもんだから私は呆れて、それから少しだけ腹が立った。
『私、あんた嫌いだわ』
『えー?俺は好きですよ』
『口にシナモンパウダーついてるわよ、ガキンチョ』
その日からアケ、本当の名前はアケボノ アヤトはなくちゃんの天敵になった。
【4章:約束】
ゆまは多分変な子だ、いきなり旅に出ようって言い出してありえない距離を自転車で走って迷子になったり、歌を歌いたいっていきなりアコースティックギターを始めたかと思ったら何故か仲良くなった空き缶拾いのおじちゃん達相手にリサイタルしたり、そんな事ばっかりしてると思えば近所のおばあちゃんが餌をあげてた猫が子猫産まれて困ってたら里親探しを代わりに請け負ったり、変な子、だけど、優しい子。
でもゆまが一度だけ私を怒った事がある。
17歳になった朝、小さい頃から変わらなかったオンボロアパートから魔法みたいにママの存在がごっそり消えた。
服も、カバンも、大事にしてた化粧品も、全部なくなって最初からいなかったみたいに。
一枚だけ見た事ない写真が置いてあって多分小さい頃の私と知らないけど私に似てる男の人が写ってた。
どれだけオンボロでも家賃はかかるし、15歳から始めたアルバイトのお金もみんなママと一緒に消えた。
どれだけ頑張っても、頑張っても、結局は全部消えちゃうんだと思ったらしばらく居なかった死にたいって気持ちがまたやってきてどうしようもなくなった。
始めてゆまと会った時みたいに1人軒下にしゃがみ込む、ぼーっとしてると1人のお爺さんが覗き込んできた。
『こんなとこにいたんやね』
『えっ?』
『探したよぉ、はよおいで』そう言って手を差し出される、優しそうな、本当に穏やかな笑顔で思わず手を握ってしまった。
『じいじ、探したんよ、ほんまあかんよ』
『手はね、ちゃんと繋がないかんからね』
そう言いながら手を握る力が一瞬ぎゅっと強くなる、ママはこんな風に手を握ってくれた事なかったなぁ、なんて思ってると知らない家に着いた。
綺麗に整頓されたお庭に門のある玄関、古いけど丁度家族が住むには丁度いい、あったかい家。
『あの...』
『はよお家入り!外おったしお腹すいたやろ?じいじ、ららちゃんの好きなお菓子よおさんこおてるから食べよか』
そう言って部屋に入っていく、ニコニコとお菓子を机の上に並べて『好きなん撰び!』と手招きされて、椅子に座る。
『ららちゃんはじいじの宝物やからね』と言いながら不意に頭を撫でられてポロポロ涙が出た。
『違うんです』
『どないしたんや?ららちゃんお腹痛いんか?』
『お爺さん、違うんです、人違いですよ』
きょとんとした顔になって、お爺さんはまた笑う。
『人違いてららちゃん、じいじはららちゃん間違えへんよ、ばあばに似てこんなべっぴんさんなんやもん』とまたニコニコした。
『本当に、違うんです、本当に』もう一度強くそう言うと次は私の顔をまたじっと見つながら
『あれ?』
『ららちゃんちゃうん?』
『うん、違うんです』
『そっかぁ...まぁええねん、お菓子食べよか』
っと呟いて少し寂しそうにしてから、またニコニコしてお菓子を二人で食べた。
『ららちゃん、じいじまた待ってるからね』そう言って送り出された玄関には写真立てが飾ってあって"本物のららちゃん"であろう女の子がもう少し若い頃のお爺さんの膝でピースしていた。
次の日、雨が降ってて外が暗かったから電気をつけようとしたらつかなかった、多分ママは前から私を捨てる気で要らないと思ったお金は払ってなかったんだろう。
悲しくなってまたあの家の前まで来てしまった。入れるわけないけど、またあのお爺さんの顔を一目見たらなんだが頑張れる気がして、ただそれだけだったんだけど。
家まで着いてチラッと覗いてみたらお爺さんは縁側にニコニコしながら座ってる、雨なのに傘もささずにいるから思わず駆け寄って傘を差し出した。
『お爺さん、こんな雨なのになにしてるんです』
『いやぁ、ららちゃん、学校から帰って来るかなぁおもて待っててん』
『風邪ひきますよ、部屋入りましょう』
『ららちゃん、カッパやなくて傘させる様になったんじいじ知らんかったわ、えらいなぁ』
ってニコニコしているお爺さんをバスタオルでゴシゴシ拭いた。
『ららちゃん、雨やし今日はご飯食べていきよ』と言い出すお爺さんにはい、ともいいえ、とも答えられない、俯いているとまた頭を撫でられた。
『どないしたんや?ららちゃん、大丈夫、大丈夫やで』
『じいじ、ららちゃんが好きなハヤシライス置いてるよ、あとねちゃんとブロッコリーのサラダもあるから』この、ららちゃんはどうしてこんなに大切にされて、なのにどうして今、ここにはいないんだろうと悲しくなる。
『危ないから、ご飯は....、用意するから座って待っててください』
『ほんま?ららちゃんがやってくれるんか?』っと言いながらお爺さんはまたニコニコ笑っていた。
冷蔵庫を開けると何種類かの決まった食材、同じものがいくつか、整頓はされてるけどよくみたら期限が少し切れてるのもある。申し訳ないと思いながらも期限切れの物はゴミにだしておいた。
『ららちゃん、ありがとうなぁ、じいじ嬉しいわ』と言いながら食卓で待っていたお爺さんの前に皿を並べる、自分の分も作ってしまった事に後ろめたさは感じだけどやっぱりお腹は空いていた。
『『いただきます』』
誰かと2人きりで向き合ってこんな食卓で食べる夕食は初めてだった、ゆまのパパのママもゆまも私を受け入れてはくれるけど、それでもこんな不思議な感情になる事はなかった。
『ららちゃん、美味しいか?』これ、好きやもんなぁとニコニコしながらスプーンを運ぶ、私は返事できず俯きながらスプーンを運ぶ。
しばらくしてお爺さんがスプーンを置いて真剣な声になる『あのな、ららちゃん』そう言われて違うのに顔を上げてしまった。
『もしもな、辛いことがあったらじいじはな、ららちゃんの味方や』
『だからな安心し、ちゃんとじいじが助ける、わかったか?』
真っ直ぐに目を見て、そう言われて私は小さい声で『うん、ありがとう』って答えてしまった。
食器を洗い、帰る支度をする。『遅いし泊まっていき』って言われたけど大丈夫だからと振り切ってオンボロアパートへ帰る。
電気もつかない、真っ暗いあの場所へ1人で帰るのが辛くて軒下でまた泣いた。
次の日、ゆまが最近家にいないけど大丈夫なのか?って声をかけてきたけどママは夜仕事だし私も新しいバイトを始めたから家にいる時間が減ったって伝えたら寂しそうな顔でまた時間ある時にうちでご飯食べなよって言われて別れた。
アルバイトの帰り、またお爺さんの家の前を通る、2、3周してインターホンを押してみる。いないかもしれない、他の家族が出てきたら走って逃げようとか考えてるとドアが開いた。
『あら!ららちゃん来てくれたんか、入り!』そう言いながら手招きでリビングに招かれる、『じいじ丁度お薬の時間やったんやけどちょっとわからんくて、待ってな』と言いながら色んな錠剤を出してしまっている机を見て冷や汗がでた。
『じいじ、お薬、私が整理するから座って待っててよ』くすり袋を確認しながら薬を用意して水を渡す、サキヤマゲンジ、これがお爺さんの名前だった。
ゲンジさんの中のららちゃんは写真で見た小さい女の子の時もあれば、高校生くらいの時もあって、でもどの時のららちゃんにもゲンジさんは優しかった。
アルバイトがある日は夕方からゲンジさんの家に行ってご飯を食べて帰る、帰りには薬をまとめて必ず火の元は切って出た、休みの日は昼過ぎに、それから部屋を片付けてお菓子を食べる。
冷蔵庫や戸棚の中味が定期的に増えてるのは遠くにいる家族からので午前中には派遣されたヘルパーが週に3回来てる事を知った。
私がこの家に入り込む隙なんて、一つもない、でもゲンジさんと2人でいる時間は自然と笑える様になってた。
『ららちゃん、あのな』
『うん』
『じいじな、嬉しいねん、ららちゃんとおれるんが』
『うん』
『ららちゃんが生まれた時も、嬉しかった』
『うん』
『でもな、今、こうやっておっきくなったららちゃんがじいじとおってくれるんが嬉しい、ありがとね』
『私も、嬉しい』
私の生まれて初めてがこの家には沢山出来て、もうどうしようもなくて、その日の帰り際、私は玄関にある"本物のららちゃん"にごめんなさいって呟いてそっと写真立てを靴箱の奥に隠した。
オンボロアパートに帰るのは夜、暗くて寂しいけど眠ってれば朝が来て耐えられる、帰ってきたらポストには沢山ママの名前の封筒が刺さってたけれど見ないふりして眠る。
夢の中では顔のないパパとママ、本当にららちゃんになった私とゲンジさんがみんなで笑いながらあの家で暮らしてたのにドアを叩く音で目が覚めた。
『ナギくん、いるの?ナギくん?』
大家さんの声で少しだけ安心してドアを開ける『家賃ね、まだ貰ってなくて、あともう2ヶ月くらいお母さん見てないけど平気なの?』と聞かれて内心、平気なわけ無いと思いながら平気ですと答えてアルバイトの給料袋から家賃分を出す、あと1万6千200円しか入っていない封筒をプラケースにしまった。
アルバイトが終わって、今日もゲンジさんの家に向かう、今朝払った家賃とこれから自分に起こる事が不安でなにも考えたくない。気づいたらポロポロ泣いていて、涙が止まらなくなった、こんな顔じゃこの家には入れない。
玄関で泣き止むまで立っていたらドアが開いた。
『ららちゃん、おかえり』と笑いながら迎えてくれるゲンジさんを見たら余計に泣けてきた。
今日も食事を食べて、薬や少し家の整理をして、せめてもの罪滅ぼしにはならないけれどこれくらいしか出来ない。
お皿を洗って、食卓に座る、ニコニコしながらゲンジさんは『今日は遅いしな、もう泊まっていき、ららちゃん』お布団、乾燥機もかけたからと、もう何回も聞いて、何回も断ったこの言葉に今日は甘えてしまいたくなった。
『今日はじいじとお布団並べて寝てもいい?』
『当たり前やん、ららちゃんは豆電球つけな寝れへんからなぁ』と笑うその顔にまた泣けてきた。
お風呂に入り、布団を並べて敷く、豆電球にして『おやすみ』って言ったらいきなりゲンジさんが
『あのな、ららちゃん、じいじはなららちゃんがずっとここにおって欲しいって思ってるからな』
『だからな、なんかな泣くほど不安なんやったらな、何も言わんとここにおり』
『あったかくして寝なぁよ』
『おやすみ』
そう言ってすぐに眠ってしまった、逆に私は眠れなくなって小さく、本当に小さく『うん』とだけ答えた。
ヘルパーさんが来る前にゲンジさんには学校に行ってくると告げて家を出ると行ってらっしゃいって手を振ってくれた、おかえり、ただいま、いってらっしゃい、そんなのが当たり前の世界だからゲンジさんはあんな優しい笑顔なんだろうか?
その日は珍しく残業になった、21時過ぎにはもうゲンジさんの家の明かりは消えてて起こすのは申し訳なくて仕方なく自分のアパートに向かう、こうなると食事も何もかもどうでも良くなっている自分が怖かった。
『なく、久々』
2人でよく座ってた軒下にゆまが1人ぽつんと座っていた。
『うん、久々』
『なくさ、やっぱ最近変だよ、どこいんの?』
『だから、バイト変わったの』
『なんのバイト?』
『別にいいじゃん』
『良くないじゃん』
『ゆまには関係ないじゃん、逆に何?ゆまは暇なの?』
お互いに中学をドロップアウトはしたけどゆまにはパパもママもいて、お兄ちゃんもいて、ゆまの事を考えてくれる家族がいるのが羨ましかった、それなのに私と同じみたいな顔するのがしんどかった。
『ゆまはさ、パパとママがゆまにあった生き方を一緒に考えてくれるじゃん』
『私はさ、1人なんだよ、全部1人でやんなきゃなの』
『私とゆまは違うからさ、わかってよ』
気が付いたら泣いてて、自分の部屋まで駆け上がって鍵を閉めた、しばらくはゆまが外で何か言ってたけど無視して、気が付いたら眠ってた。
朝になって部屋を出たらドアにメモが挟んであってゆまの字で
"ごめん、明日また来る、ちゃんと話そう"って書いてあった。私はそれを拾い上げてポッケにしまってゲンジさんの家に向かった。
家の前には知らない車、今日はヘルパーさんが来ない日の筈なのにと思いながら少しだけ玄関から覗いてみる。家の中には眼鏡をかけた、前に隠した写真の中にいたゲンジさんにそっくりな男の人と優しそうな女の人とゲンジさんいた。
今日はダメだ、帰ろう、と振り返った瞬間、前に見た"本物のららちゃん"に似てるけど明らかにそうじゃない女の人が立っていた。
『あなたが、ららちゃん?』
喉を絞められたみたいにヒュッて音が鳴って言葉が出てこない、足からだんだん冷たくなって倒れそうだ。
『大丈夫?とりあえず入ったら?』と玄関に通される、何度も来た筈なのに知らない場所みたいだ、隠したはずのららちゃんの写真がまた元の場所にあって私は泣き出しそうになったけど唇をぎゅっと噛んで我慢した。
ゲンジさんがいつもみたいにニコニコしながら『ららちゃん、遅かったやんか!』と笑う、今日はパパとママと一緒に来たんやなぁと嬉しそうにお菓子を並べる。
『姉さん、その子は?』
『玄関からうち覗いてたのよ、父さんが言ってる"らら"この子なんじゃない?』
眼鏡の男性とららちゃんに似た女の人は私を見て、なんだか悲しそうな顔をして、もう1人の優しそうな女の人は泣いていた。
『君、名前は?』
言いたくなくて俯く、ここではららちゃんでいたい。
『まずはね、ありがとう』そう言われて肩に手を置かれる、びっくりして視線があげたら男の人は泣いていた。
『私はね、この人の息子、これは姉さん、ほら、顔、似てるだろ?父さんも』あとこちらは僕の奥さん、って少し笑いながらみんなの顔を指差す、確かに笑い方がゲンジさんに似てる。
『父さんがね、こんな嬉しそうなのは久々に見たんだ』
『それこそ"らら"が生まれた時くらいに』
『もうね、僕らは"らら"には会えない』
『本当に君には感謝してる』
だけど、そう言って男の人はしっかりと私の目を見て『君は"らら"じゃない、私達の"らら"はもうどこにも居ないんだ』そう言った。
『本当の家族のところへ帰りなさい』と送り出される、最後の挨拶も出来なくて、本当の家族も帰る場所もどこにも無いのに、いきなり真っ暗な世界に放り出されて、しばらく忘れてた死にたいがまたやってきた。
周りの目なんか知らない、わんわん泣きながら仕方なくまたあの軒下に帰ってきた。
気が付いたら隣にはゆまが座ってて、一緒に泣いていた。
『なんでゆま泣いてんの』
『私は腹たってんの』
『なんで』
『あんたが、なくが消えちゃいそうだったから』
『私なんか消えてもいいじゃん』
そう言ってまためいいっぱい泣く、じゃあゆまは私より大きい声で泣く。
『いいわけないじゃん!!』
『あんたは最高にいけてる私の最高の友だちで、なくで、親友で、とにかく、消えちゃだめなの!』
『ゆまだって、いなくなるじゃん』
『ならないよ!』
『なるよ!』
お互いに過呼吸になるんじゃないかくらい叫んで泣いて、少し落ち着いた頃にゆまが言った。
『じゃあ私がなくになくならない場所作ってあげる、約束する、それならいいじゃん』
『わけわかんない』
『わけわかんないなら、わけわかんないのがわけわかんない』
そう言いながら私達はあの日、結局朝まで泣き喚いてずっと一緒にいた。
それからしばらくして大家のおばさんがやっぱり私の様子がおかしいって気が付いて、しばらく家賃は待ってくれたし、そのまま自分のパート先のお寿司工場を給料が良いからって紹介してくれた。
ゆまは今のところ本当に私から離れてはいなくて、よくわからない仕事をしながらいつのまにか『ハナレ』を始めて、私の20歳の誕生日に『はい、約束の』って店の鍵と雇われ店長という立場をプレゼントされたのだった。
【5章:お兄ちゃん】
『なく!クズじぃ倒れたんだって!』
そう言ってゆまは慌てて電話してきた、大した事ないんでしょ?って聞き返したらそうでもないみたいで急いで教えてもらった病院に駆けつけた、娘さんや他の家族の連絡先が携帯に入ってなくて唯一登録されてたのが私とゆま、あとは病院とか不動産屋の連絡先しかなかったらしい。
病室で眠ってるクズじぃの顔は青白い。
『ゆま、クズじぃ死んじゃうのかな』
『わかんない、家族じゃないって言ったらなんも教えてもらえなかったし』
『何なんだよって感じだよね...』
そっと手を握ってみたらまだあったかくて少し安心した。
私達はクズじぃが目覚めた時寂しくない様に書き置きととりあえず用意したパジャマとか歯ブラシを置いて店に向かった。
『クズじぃ、1人だと心配だよね...結局家族は連絡取れないみたいだし』
『ゆまはどうするの?』
『店もあるしさ、私もなくも昼もあるじゃん...?どうしようかね...』
ゆまは昔から優しい、一度自分のテリトリーに入れた人間には何処までも見捨てない、私だってその1人で、だからゆまはみんなから愛されてる。
『あっ、お兄ちゃんそう言えばまたいきなり帰ってきてんだよね...なきが平気なら手伝わせる?』
『えっ、』
ゆまのお兄ちゃんは私の初恋だ、はじめてあった時は私とゆまが14、お兄ちゃんは19歳で大学生だった。
ゆまとリビングでいると『おっ、いっしょにこれ食べるか?』って口にはお菓子を押し込まれた時、胸が痛いくらいドキドキした。
『本はいっぱい読めよ』って色んな小説や漫画を貸してくれた時は何度も読み返した。
色んな事を教えてくれて、かっこいいお兄ちゃんが大好きだった。
でもお兄ちゃんは『職人ってかっこいいよな』
って言葉を残して20歳なった数ヶ月後いきなり宮大工に弟子入りするって家を出てってなくちゃんは気持ちも伝えられないまま初恋が終わった。
ドギマギしすぎて不自然な態度だったからゆまはお兄ちゃんの事を私が苦手だと思ってる。
『手伝ってくれるならありがたいよ』
『暇そうだし頼んでみるわ』
お兄ちゃんが地元を出てからもう何年も会ってない、ゆまから聞く話だと宮大工は早々に諦めて次はモンゴル、そこからまた日本に帰ってきて長野の山奥、東京で俳優を目指してたと思ったらバンドを始めたり、バンド仲間と海外に行き共同生活してたと思ったらまた1人で放浪したり、兎に角自由に生きてるのは知っていた。
どんな風になってるのかな、また仲良く出来たら、別に好きになって欲しいわけじゃないけどまた会えるのが嬉しかった。
『なく、明日お兄ちゃん来てくれるって』
そうゆまが言った時、口角がにゅっと上がりそうなのを我慢する、明日はお気に入りの肩のパフがフワッとしたワンピースを着ようって決めた。
19時、今日は絶対に少しでも酢飯の香りを纏うわけにはいかないと焦って着替えて電動自転車に跨る、急いで!私の馬車!
まだ外の看板はついてない『おはようございます』って扉を開けるとなかなか見た事がないくらいの長い髪が揺れた。
『あ、ひさしぶり』
ひらひら手を降りながらカウンターの中でグラスを拭いている、その顔は紛れもなくあのお兄ちゃん、お兄ちゃんなのに。
『お久しぶりです』
短くて、少し天然パーマだった髪は腰まで伸びて、ゆまに似て少し丸顔だったはずなのになんだかゴツゴツしていた。
でも笑うと三日月っぽくなる目はそのままだ。
『いやー、大変だね、常連のおじいさん』
『独り身みたいで、ほっとけなくて』
『ゆまらしいよな、あいつは』
なんだか昔よりも豪快になった笑い方にびっくりする。
『まぁ、俺もさ、バーテンダーしてた事もあるから任せてよ』
と胸を叩く姿に逞しさは感じる、けど胸はドキドキしなかった。
お兄ちゃんはすぐお客さんからも人気になって、手伝ってもらって3日目にはお兄ちゃん目当てのお客さんまで来た。
大きな声で笑いながらお酒を飲むお兄ちゃんとお客さん達の会話を盗み聞いたらどうやら奥さんだった人もいたらしい、結局今は何をしてるかはわからないけど次に目指してる場所もあるみたい。
本を沢山読むより、自分の目で見たものが大事だって力説してる少し酔っぱらったお兄ちゃんの横で私はカンパリオレンジを飲み干して、好きな本の話を別のお客さんと始めた。
『いやー、やっぱり酒の場は楽しい』
『手伝って貰って本当助かります』
看板をクローズにして洗い物をする、お兄ちゃんはカウンターに座ってにこにこ笑っていた。
『なくちゃんは綺麗になったね』
『そんな、全然変わらないですよ』
キュッと蛇口を締めてグラスを拭く、水滴が残るとグラスが曇って汚くなる。
『しかしまだなくちゃんとゆまが仲良くて嬉しいよ』
『あいつさ、実は人付き合い下手なくせになんでもかんでも首突っ込むからさ』
『そんな事ないと思いますよ、ゆまはみんなから愛されてます』
『まぁ、それならいいんだけど!でもいい店だよ本当!お客さんもいい感じだし、暫くお世話になるかな〜』ってまた豪快に笑い、『じゃあ俺、先帰るわ』とお兄ちゃんは帰っていった。
次の日、店に行くと鍵が空いていて閉め忘れたのかなと慌てて中を確認したらカウンターの上には鍵と置き手紙。
"なんだか海が見たい気分になったので船に乗ってきます!また一緒に飲もうな"
すぐにゆまに連絡をした、電話の向こうで烈火の如く怒り狂っているゆまとおかしくって笑っている私。
多分、今夜のお酒はいつもより少し酔いが回りそうだ。
【6章:キミコさん】
呆れ顔のゆまがカウンターの端にいて、その反対隣には苦虫を噛み潰した顔のアケがチビチビとジンバックを飲んでいる。
同じく呆れ顔の私の目の前にはキラキラした目で"彼"の話をするキミコさんがいた。
『それで、その彼にはなんで50万渡したんですか?』
『そんなの愛してるからにきまってんじゃん!』
『返ってくるんですか』
『返ってこないと思う!』
『馬鹿じゃん』とアケが言うとキミコさんが
『愛してるんだから、当たり前じゃん!』とグラスを飲み干す。
『目に見えない愛を形にしてんの、わかる?』って言いながらグラスを突き出した。
キミコさんは元々街中で泣きながら酔い潰れてた所をゆまに助けられてから『ハナレ』に通う様になった。
天性のダメ男好きで恋愛ジャンキー。
フリーになると鬱っぽくなって働けもしなくなるしうちにも来なくなる、キミコさんが言うには人間も動物だから常に命を繋ぐ為に恋愛はするべきだし恋愛こそ生きる意味、らしい。
あんまり理解は出来ないし、キミコさんが好きになる男は大体がキミコさんを好きにならない、そしてキミコさんの好きを利用する。
それを何度繰り返してもキミコさんは変わらなかった。
『少年少女、恋も愛も堪能して死になさい?』そう言いながらキミコさんは笑う。
『聞いてなくちゃん!彼、毎日3万ずつ渡したら1万5千円は2人のための貯金だってためてくれてるんだって!』
『でもそれ、キミコさんが稼いだお金でしょ』
『私のお金は2人のだから!』
そう言ってた男は当たり前に貯金なんてしてなくてキミコさんの部屋にあったいくつかのブランド品と消えて帰って来なくなったし。
『キミコさん、客前出れなくなるくらい殴る男なんて異常だよ、犯罪だよ?』
『私が水商売しか出来ないから悪いの!』
『でもそいつキミコさんちに転がり込んでるんでしょ?』
『ずっと2人でいたいんだって、愛だよねぇ』
って笑ってた次の日にキミコさんは肋を4本折られて鼻血まみれになっていた、結局その男はその後しょうもない理由で捕まって暫くは面会に通ってたのに振られたと大泣きしていた。
身体中にアザを作って骨が折れようとも、通帳を取り上げられ全財産を持っていかれようとも、死にかけようとも、いや、多分死んでも。
キミコさんは誰かを愛するのを辞めない。
『彼が私に愛してるって言ってくれないと、私息できなくなっちゃうの、地球の酸素が全部なくなったのかと思うくらい。』
『でも生きてるじゃないですか』
『なくちゃんはロマンチックじゃないなぁ、本当に愛されるまでは生きて、最後にはその人と一緒のお墓に入りたいの!』
『何回失敗しても?』
『失敗なんか1回もしてないよ?だってその時、その時の愛してるって言葉も私が示した愛も事実だもん!』
そう言いながらニコニコ笑っているキミコさんが少し怖くなる。
『私や、ゆまだってキミコさんの事、大切ですけどね...』
『私もだよ?なくちゃんもゆまちゃんも本当に大好き!でも違うの!』
キミコさんの携帯が鳴る、『あっ、もう帰って来るみたいだから迎えに行ってくるね!』と"今の彼"を迎えに行くキミコさんの顔は本当に清らかな笑顔だった。
それから暫くキミコさんは姿を見せなくて、そろそろ心配だなぁ、なんて話してたら扉が開いて松葉杖のキミコさんが現れた。
『彼がね、マッチングアプリで出会ったんだけどね?今までとは違うの!』
『足、どうしたんですか?』
『これはね、前に話した50万貸した彼がもう100万って言うから頑張ったんだけど足りなくて』
『怒ってね、私が悪いんだけど、ドライブ中に道に蹴り出されて』
『めちゃくちゃじゃないですか』
『いや!用意できない私が悪かったんだよ!それでそのまま自分で病院いったら折れたの、彼はそのまま帰って来なくて入院してる間にマッチングアプリ初めてみたら今の彼に出会って!運命だと思う!』
ニコニコ話すキミコさんにアケが『俺も、恋愛したら変わるのかな』って言い出したから私は静かに首を振って『アケは辞めときな』って言った。
確かにキミコさんくらい人を愛するのは眩しいだけどやっぱり私にはおっかない気がする。
キミコさんはやっぱり楽しそうに新しい彼との恋を始めている、私はテキーラサンライズをそっと出した。
【7章:なくちゃん】
黒いワンピースに真珠のピアス、こんな格好をするのは初めてだ。
ゆまのお母さんが貸してくれた、数珠を持つのも、お焼香をあげるのも初めてで見様見真似で後ろをついて行く。
地域の火葬場の横にある小さなホールでクズじぃのお葬式はあっという間に終わった、最期にみた顔は見た事ないくらい穏やかで眉毛だって下がっていつもみたいに『酒が薄い』って怒り出す様な顔はしてなかった、けどクズじぃはクズじぃだった。
ゆまと、私と、あと仲良くしてたらしい居酒屋のマスターくらいしか人は来なくて、クズじぃが吸ってた煙草を居酒屋のマスターが入れようとして止められた、それくらい、いいじゃんね、と思ったのにダメで、私達の誰もクズじぃを連れて帰ってあげれなかった。
今日もグラスを磨いて、氷を補充する。
クズじぃが座ってた席にタバコとフェルトのコースターを置く、しばらくして眠そうな顔をしたアケがきて、ゆまにお腹すいたなんて言うから渋々私が食べようと思ってたカレーを譲ってあげた。
『クズじぃの葬式、どうだったの』
アケがスプーンを動かしながら聞く、あっ、ダメだ泣いちゃいそう。
『なくと、私と、なんか団地の近くにあるあの赤提灯のさ居酒屋のマスターの3人、あっけなくてさ』ゆまがグラスを拭きながら言う。
『だけどいい顔してたよ』
ゆまが自分のグラスに珍しくビールを注いだ、酔いたい日にしかゆまはビールを飲まない。
私にもグラスを差し出してきて、2人で乾杯した、アケはちょっとだけ俯いてカレーの皿は綺麗になっていた。
『あっ、そう言えばさ、なくにあずかってたんだよね』
そういってゆまはちりんと鳴る何かを取り出した。
『これ、クズじぃからなくに』私にはこんなのくれた事なかったのにね〜なんて言いながらゆまはまたビールを一口飲んだ。
ころんと出てきたのはいつもクズじぃが財布につけてた小さな猫と鈴のストラップ。
飼ってた猫と似てるんだっていつもそれを言う時だけは嬉しそうに笑ってたのを覚えてる、メモには
"なくはなくだ、男とか女とかまぁお前はなくだ、馬鹿のなく、これはやる、だからあんまり泣くなよ、あと酒は濃く作れ、じゃあまたな。"
って書いてあった。
最後の最後までまだそんなこと言って、クズじぃだって本当に馬鹿だよ、なんて思いながらストラップをぎゅっと握る。
いつものハイボールの代わりにフェルトのコースターの上に小さな猫を座らせて私達はクズじぃが羨ましがるくらいに朝まで飲み明かした。
天国でも地獄でも、どちらでもいい、私達の馬鹿騒ぎが届いて、少しでもクズじぃが笑える様に。そして明日からも生きていく私達が笑える様に。
『私は私、馬鹿でも、不細工でも、男でも、女でも、お姫様でも、カエルでも、何でもなくて、私はなくちゃんだから』
また明日には、私はグラスを磨いて、誰かをここで待つんだろう。
【クローズ】
カウンターでゆまが寝息をたてている。
奥にしまってあったブランケットをかけてあげて、洗い物を済ませて、明日は来る前にオレンジジュースと、あとカクテル用の塩も買ってきた方がいいかもしれない。
棚と冷蔵庫を眺めながらそろそろ来そうな人の顔が浮かぶ、私達は動かない、でも誰かはやってきて、少し留まって、また居なくなる。
そんな日々を繰り返して、少しずつ川底に溜まっていく砂みたいにたまには煌めいて、たまには濁って、たまには静かに沈んで、混ざり合いながら私達は、私はこの場所でこれからも生きていく。
BGMを消す、舞踏会は静かに終わった。
小さな猫についた鈴がチリンと鳴った。
フェルトのコースターの上にはわざと薄く作ったハイボール。
取っておいた自分のグラスとカチンと合わせて、一口飲み干した。
