善意を守るために、ルールをつくる
学校に関わるボランティアをしていると、当然ながら生徒と接する機会がある。
ボランティアとは、自分の時間を使い、自らの意思で参加する活動である。だからこそ、学校や生徒に関わる以上は、「人として正しくあろう」「責任を持って行動しよう」という意識を持つことが大切だと思う。
しかし、それだけで十分なのだろうか。
私は、善意や良心を持つことと同時に、疑われるような状況そのものを作らないことも大切だと思っている。
李下に冠を正さず
「李下に冠を正さず」という言葉がある。
スモモの木の下で冠を直そうとして手を上げれば、たとえ実を盗るつもりがなくても、周囲からは盗もうとしているように見えるかもしれない。
つまり、自分にやましいことがないとしても、疑いを招くような行動は避けるべきだ、という意味である。
学校ボランティアにも、この考え方は必要ではないだろうか。
例えば、生徒から「個人的に相談に乗ってほしい」と言われたとする。
頼られた大人としては、「いいよ。何でも相談して」と答えたくなるかもしれない。それ自体は純粋な善意から出た言葉かもしれない。
しかし、そこから個人的に連絡先を交換し、SNSやメッセージで一対一のやり取りを始めたらどうだろう。
本人にまったく悪意がなかったとしても、それを第三者が証明することは難しい。
ましてや、大人と生徒が二人きりで会うようになれば、周囲から疑いを持たれる条件が揃ってしまう。
「自分には悪意がないから大丈夫」ではないのである。
個人の良心だけに頼らない
今はスマートフォンやSNSによって、誰とでも簡単につながることができる。
だからこそ、学校や生徒に関わるボランティアには、ある程度明確なルールが必要だと思う。
例えば、生徒とは個人的に連絡先を交換しない。連絡が必要な場合は複数の大人が参加するグループで行う。相談を受ける場合も、できるだけ第三者が関われる状態にする。
必要であれば保護者を交える。
もちろん、生徒が抱えている問題によっては、保護者に相談できない場合もあるだろう。そのような場合でも、学校の先生や別の信頼できる大人など、第三者を交えた形にすることはできる。
大切なのは、大人と生徒だけの閉じた関係を作らないことだと思う。
これは、「ボランティアを信用していない」という話ではない。
むしろ逆である。
ボランティアだから安心、とは限らない
「ボランティアをするくらいなのだから、いい人だろう」
そう考えたくなる気持ちは分かる。
実際、多くの人は純粋な善意で活動しているだろう。
しかし、「ボランティアをしている」という事実は、その人の行動がすべて正しいことを保証するものではない。
残念ながら、社会的に信頼されやすい立場を利用して、不適切な行動を取ろうとする人が絶対にいないとも言い切れない。
だからといって、すべての人を疑って活動するのも違う。
そこで必要になるのが、仕組みである。
「この人は信用できるから大丈夫」「この人なら問題を起こさないだろう」と個人の人柄だけに頼るのではなく、誰が活動しても一定の安全が保たれるルールを作っておく。
それが組織としての責任ではないだろうか。
ルールは双方を守るためにある
こうしたルールを設けると、「そこまで厳しくしなくてもいいのではないか」と思われるかもしれない。
しかし、ルールによって守られるのは生徒だけではない。
ボランティア自身も守られる。
善意で相談に乗ったにもかかわらず、後になって周囲から疑いを持たれてしまう。二人の間で「言った」「言わない」という問題が起きる。そうなれば、善意で活動していた人にとっても大きな負担となる。
最初から第三者がいる、やり取りが複数人に共有されている、個人的な連絡をしない。
そのような仕組みがあれば、余計な疑念が生じる可能性を減らすことができる。
ルールとは、人を疑うために作るものではない。
善意を疑わなくても済むようにするために作るものなのである。
学校や地域の活動は、多くの人の善意によって支えられている。
だからこそ、その善意だけに頼り切ってはいけないのだと思う。
生徒を守る。
そして、善意で活動するボランティアも守る。
その双方のために、「李下に冠を正さず」という考え方を組織として共有し、疑いを生じさせない仕組みをあらかじめ作っておく。
むやみに李下に入らない。
そもそも李下に入れない仕組み。
もし李下に入るなら、第三者と一緒に入る。
要は不正が起きにくいを整えておく。
それもまた、学校に関わる大人が持つべき責任の一つではないだろうか。
