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平壌の遺跡

問題となるのが平壌の遺跡である。
『楽浪郡』の位置についてだが、現在、定説となっているのは、現在の北朝鮮の平壌辺りとされている。しかし、これはおかしく、中国史料を読む限り「楽浪郡は遼東地域にあった」ことを一貫して示しています。楽浪郡というのが衛氏朝鮮の地を分割して出来た漢四郡の1つなのだが、そもそもが調べると「朝鮮」は朝鮮半島ではなく、遼東地域の北、秦時代に作られている長城の先にある。


【楽浪郡】

「楽浪郡朝鮮半島説」なのですが、これの根拠となっているのが、12世紀に創作された『三国史記』と、平壌周辺で楽浪郡関連の遺物や遺跡があるからである。
しかし、それをもって「楽浪郡は朝鮮半島にあった」とは言えない。

『魏志(三国志)』に、

准王海中不與朝鮮相往來

とあり、「韓(馬韓)」は「朝鮮」とは往来しなかったという事です。「平壌楽浪郡説」であれば楽浪郡は朝鮮半島にあり、その南に韓(馬韓)があるのでやはり朝鮮半島になるので、『「韓(馬韓)」は「朝鮮」と往来しなかった』という事は記載されるはずがありません。
「朝鮮」は「朝鮮半島」の事ではなく、楽浪郡は朝鮮征伐後に置かれた郡ですので楽浪郡が朝鮮半島にあるのはおかしいのです。
また、

漢時屬樂浪郡四時朝謁

と、漢代には「韓(馬韓)」が楽浪郡に従属していた事も書かれています。

他にも、三国志や後漢書を日本語訳文ではなく中国語文を読み、その位置を地図に記載していくと、「定説」とされている『楽浪郡平壌説』だと位置の整合が取れない事に気付いていたのです。
そこで範囲を広げて中国史料を読み直していると、『朝鮮』の位置が今の朝鮮半島ではなく、遼東地域の北部になる内陸部にあると書かれている内容があり、それをきっかけに全体を見直したのが切っ掛けです。

実は、「北朝鮮の平壌に楽浪郡都があった」わけではない事を示す証拠は、「楽浪郡朝鮮半島説」が根拠としている平壌周辺での楽浪郡関連の遺物や遺跡そのものです。

【北朝鮮の平壌周辺の遺跡】

まず、この「北朝鮮の平壌周辺の遺跡」はどうあるか。
大同江の北側に川沿いに多くある遺跡群です。

実は、これらの遺跡群からも「ここが楽浪郡ではなかった」と言えるものがあります。それは墓です。


大同江の北側の墓で楽浪郡関連の遺物が見つかっており、多数の遺構があり、それなりに規模の大きい施設があった事は確かです。
墓は主にBC1世紀末~AD3世紀頃にかけて、すなわち前漢末から後漢、そして三国時代(魏)にかけての時期に築造されたものが中心です。これは、この地に施設が設置され、機能していた時期(BC108~AD313年頃)とほぼ一致します。特に、規模の大きな木槨墓や煉瓦墓は、概ねこの時期に盛んに営まれまています。大同江北側の楽浪郡関連墓は、木槨墓や煉瓦墓が主体であり、これは当時の中国本土における墓制(特に漢代)と共通する特徴を強く持っています。

なお、この時期の馬韓地域(遼東半島南西部)の墓制は、地域によって多様性がありますが、木槨墓(木材で槨を構築した墓)や甕棺墓(かめかんぼ、大きな土器に遺体を納める墓)、そして支石墓(しせきぼ、テーブル状の巨石記念物、ただし埋葬施設としての性格は多様)などが代表的です。馬韓は様々な民族が混じって暮らしていた事が中国歴史書にも書かれていますので、墓にもバラエティさがあるようです。


それに対して、川の南側にも「晩達面古墳群」というのが図の右下側にあります。
大同江南側の晩達面古墳群に含まれる墓の年代は、大同江北側の墓と一部重なりますが、より後世まで続く要素も含まれます。具体的には、AD1世紀頃から始まり、特に石室墳などの形式はAD3世紀以降にも継続して築造されたと考えられています。晩達面古墳群に見られる石槨墳や初期的な石室墳は、同時期あるいはやや先行する時期の日本列島(弥生時代後期など)で見られる石棺墓や箱式石棺墓、あるいは初期の石室墳といった石を用いた墓制と、石を用いるという点や構造の一部において、確かに共通する特徴や類似性が見られます。

また図の左下側にも「柏洞古墳群」があります。
貞柏洞古墳群の主な築造年代は、AD3世紀後半~5世紀にかけて、すなわち三国時代の中期から後期の時期が中心であると考えられています。これは、以前に述べた大同江北側の墓(主にBC1世紀末~AD3世紀頃)の主要な築造時期よりはやや新しい年代に重点があり、晩達面古墳群の石室墳などが継続する時期とも重なります。墓の形式は、主に石室墳(石で羨道や玄室を構築した墓)が主体です。石室の構造は様々であり、中には比較的大型のものも見られます。石槨墳も見られますが、石室墳がより特徴的とされます。
この時期は、日本列島においては古墳時代(概ねAD3世紀中頃〜)にあたります。古墳時代の日本列島でも、様々な墓制が見られますが、特に古墳の内部主体部として石室(石を組んで遺体を納める部屋)が広く用いられました。古墳時代を通じて石室の形式は多様に変化しますが、大きく分けて、羨道(入口から玄室へ至る通路)を持たない竪穴式石室(地面に掘った穴の壁を石で築いたもの)と、羨道を持つ横穴式石室(地面に掘った穴の側壁に入口と羨道を持つもの)があります。貞柏洞古墳群の石室墳の形式と、古墳時代の日本の石室墳との共通性について、考古学的な調査から以下のような点が指摘されています。

  • 石室墳の存在
    貞柏洞古墳群が石室墳を主体とする点、そして古墳時代の日本でも石室墳が主要な墓制の一つであるという点で、大きな共通性が見られます。石を用いて遺体や副葬品を納める部屋を構築するという基本的な概念が共通しています。

  • 構造の類似性:
    貞柏洞古墳群に見られる石室の中には、古墳時代前期(概ねAD3世紀後半~AD4世紀)の日本列島に見られる竪穴式石室と構造的に類似するものが指摘されています。


今の平壌辺りのBC1~AD3世紀頃の時代では、この大同江を国境として北側が中国系国家あるいはそれに属する民族の支配下であり、南側は倭あるいはそれに属する民族の支配下にあったという事が判ります。
これは墓陵の設置場所とみても判りやすく、当時の中国の墓の考え方では、川を「あの世」と「この世」の境目と考える事も少なくなく、もし川の南側も中国系国家の地であれば、墓陵は人が住む川の北岸ではなく、川の南側に作る方が一般的です。にもかかわらず、人が住んでいた痕跡がある川の北側の、川岸から少し離れた場所に墓陵を作っているという事が、川の南側は他の国の土地になっていた、という事なのです。

このようにはっきりと分かれており、今の平壌周辺にあるBC1~AD3世紀の「楽浪郡都の遺跡」と思われている遺構類は、都ではなく関(川を利用した国境関)であるという事です。
遺跡で見つかる遺物から、南の倭とはかなり交流交易をしていたようです。

【馬韓から東に送られた辰韓】

辰韓が送られた先と考えられる朝鮮東海岸方面ですが、同じ時期のこちらの墓の形式は、石墓(石を積み上げたり、石板を組み合わせたりして主体部を構築する墓)が多く見られます。積石墓(石を積み上げた墳丘を持つ墓)や、石箱墓(石で棺を納める箱を作った墓)などもあります。他にも土壙墓(土を掘って遺体を埋葬するシンプルな墓)も広く見られます。埋葬品に土器・石器・骨角器・鉄製品などが出土しますが、中国東北部やシベリアなど周辺地域からの影響、そして倭の影響を受けたものもあり、多様な様相を呈します。

これを考えると、中国歴史書には

其耆老傳世言秦之亡人避苦役適韓國馬韓割東界地與之

その古老たちが代々語り伝えるには、秦の亡命者が苦役を避けて韓国に適した(たどり着いた)ので、馬韓が東の境界の地を割いて彼らに与えた。

秦代では東夷征伐で、その土地の人間を長城建設などをさせていましたので、その東夷の者達が苦役から逃げて馬韓に入ったが、文化の違いから馬韓の中では浮いており、それらを東に開拓として送った、と考えるといいかとは思います。

【遺跡の正体は川を使った国境関】

今の北朝鮮の平壌にあるBC1~AD3世紀の遺跡は、規模の大きさから「楽浪郡都だった」という主張がありますが、それですと、川を挟んだ南側に倭式の墓が同年代に作られている事がおかしく、「都」はまず異なるだろう、となります(もし楽浪郡都であり、川の南側が馬韓の多民族国家の領域であれば、その真正面に郡都を置くはずがない)。
では、この規模が郡都でなければなにか?というと、「関」です。「函谷関」などでも言われる「国境の関」ですね。

このような大規模な河川沿いの関や城は、中国の歴史において様々な時期に築造・改修が行われましたが、漢代を含む秦漢時代にも、重要な渡河点の管理や防衛のために、これらの施設が数多く存在し機能しています。いくつかの例とその関連年代を挙げると、


黄河沿いの重要渡河点

  • 蒲津関(ほしんかん)
    黄河の重要な渡河点に位置し、秦代から設置され、漢代にも引き続き重要な関として機能しました。対岸との交通・軍事上の要衝であり、関連する防御施設や管理施設が置かれていた。

  • 孟津(もうしん)
    洛陽に近い黄河の渡河点であり、漢代には重要な渡河管理の拠点。

  • 小平津(しょうへいしん)
    孟津と同様、黄河の重要渡河点であり、漢代に施設が置かれた。

これらの渡河点には、関所の機能を持つ施設や、それに付随する城塞や営(部隊の駐屯地)などが設けられ、人や物の往来、軍事的な移動を管理しました。


長江沿いの重要渡河点

  • 江陵(こうりょう)
    長江中流域の要衝であり、秦漢時代から重要な都市、軍事拠点として機能しました。長江の渡河管理や水上交通の制御において中心的な役割を果たした。

  • 建業(けんぎょう -後の南京)
    後漢末から三国時代にかけて、長江下流域の重要な都市、軍江拠点として発展しました。長江の渡河管理や水運の要衝。

長江沿いの重要地点にも、渡河管理や地域防御のための城塞や関所が設けられました。


これらの事例は、漢代を含む秦漢時代において、黄河や長江といった大河川の重要な渡河点に、地域防衛や交通管理の要となる、ある程度の規模を持つ関所や城塞が存在していたという事実を示しています。これらの遺跡が作られた年代は、平壌の楽浪郡遺跡(漢代)が築造・機能していた時期と重なります。平壌の遺構の類型と整合する可能性があり、平壌の遺構が持つ「河川沿いの、単一で比較的規模の大きな城塞/管理施設」という構成が、漢代の中国本土における大河川沿いの要衝に見られた施設の類型と共通する側面を持っています。

この関の相手は地理的に2つしかなく、交易の相手としては倭しかない。倭と中国が交易を遥か昔から続けていたという話である。
もう1つは、馬韓から辰韓(辺境)に人を送る際に、南に逃げさせない為の役割があるのだろう。

この関に「朝鮮半島人(韓国人の祖先)の歴史」はなく、あるのは「日本の歴史」と「中国の歴史」なのである。

【楽浪郡の都の位置は遼陽市】

実は、『三国志東夷伝韓条』に位置が間接的にしっかりと書かれている。

桓靈之末韓濊強盛郡縣不能制民多流入韓國
建安中公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡遣
公孫模張敞等收集遺民
興兵伐韓濊舊民稍出是後倭韓遂屬帶方

三国志東夷伝韓条

帯方郡を作った「公孫康」の出自自体が、楽浪郡の都の位置を明確にしています公孫康は、
・襄平県出身で、建安9年に父の後を継いで太守となった人物
なのである。
「襄平県」は今の「遼陽市」の事であり、建安9年はAD204年の事になる。
つまり、AD2世紀後期からAD3世紀初頭時の楽浪郡の都は間違いなく襄平県(今の遼陽市)なのである。

これが、楽浪郡の都が北朝鮮の平壌だとしたら、前楽浪郡太守の息子が遥か離れた遼東地域の襄平県(遼陽市)で生まれ育った、と繋がらない話になるのである。

【遺物】

「平壌に楽浪郡があった」という証拠で『平壌の楽浪王光墓から「楽浪太守掾王光之印」が発見されている』というのがあります。
しかし、これは「楽浪郡」が今の北朝鮮の平壌辺りにあった事になりません。

まずは官位だが、「掾」とは様々な管理をする「曹」という役割の長の立場で、官位としてはそこまで高くなく、給与もそこまで高くありません。郡のトップである「太守」(通常二千石)や「都尉」(通常比二千石)に比べれば、「楽浪太守掾」の官秩は、高くても四百石や三百石程度、あるいはそれ以下の場合もあり、「掾」という役職は全体としては中級以下の役職です。
この「掾」というのは「官(国家運営する人々)」とはまた違う役割で、「掾」の任命は首長(この場合は楽浪太守)が行うものですので、「楽浪太守掾王光之印」は「楽浪太守が任命した掾の証」という以外の何物でもありません。これがあるという事は、北朝鮮の平壌辺りの遺跡は楽浪郡と関係がある遺構であるのは間違いはありません。

この「掾」という官吏は、現代的に分かりやすくすると「戸籍・兵事などの数量などを管理したり記録して報告する係」です。
漢代において、郡治(府中)から離れた郡内の「地方」で、行政的な業務やそれに携わる人員が活動していたことを示す史料や考古学的証拠は存在します。例えば、郡の下には県が置かれ、県令が行政を司りましたし、特定の重要な地点に軍事的な拠点が置かれたり、特定の事務(例えば屯田や塩業など)を管理する出先機関が設置されたりしました。また、太守から特定の任務のために「掾」や「史」が郡内の各地に派遣された記録があります。
見つかった「楽浪太守掾王光之印」は、川を使った国境関の管理の為に派遣された人物の印と考えられます。

そして「楽浪太守掾」の墓は、先に行ったように中級官吏という地イデアルにも関わらず、平壌で発見された楽浪郡時代の墓の中でも比較的規模が大きく、副葬品も豊富で、文字資料を伴うなど、その身分を示す要素を持つ立派な部類に入る墓です。
その事が、やはりここが「楽浪郡の郡都」ではない事を証明しています。

漢代の郡治遺跡や県治遺跡、あるいはその他の重要な地方行政・軍事拠点の遺跡からも様々な官吏の墓が見つかっています。
しかし一般的に、郡治が確認されている遺跡(例:長安城郊外の漢代墓地、あるいは他の地域の郡治に関連する墓地)では、郡のトップである太守や都尉クラスの高位官吏の墓が見つかることがあり、基本的に規模は周囲より大きいです。同時にその下で働いていた掾や史、他のスタッフクラスの中下級官吏の墓も、より多数、しかし規模はそれほど大きくなく見つかるのが典型的なパターンです。これらの墓は郡治の周辺に集中して分布することが多いので、おかしい事ではありません。

それに対して、県治遺跡や地方拠点の例:県治(県の役所所在地)の遺跡からでも、県令や県長といった県のトップや、その下の県丞、県尉、そして県に置かれた掾といった役人の墓が見つかります。これらの墓の規模は、郡治にいる太守などの墓に比べれば小さいのが普通ですが、それでも他の墓よりも大きいのが一般的です。特定の軍事拠点や産業拠点の遺跡からは、その機能に関連する役人や軍人の墓が見つかり、その中での序列に応じた規模になります。
他の地にも事例はあり、郡都よりも下位の行政単位である県の長官(県令、俸禄六百石や四百石)やその下の丞といった役職は、全体としては中級以下の官吏ですがその治める県においては最高責任者です。県治(県の役所所在地)やその周辺からは、県令クラスの墓が見つかることがあり、その地域の他の墓に比べれば比較的規模が大きく、一定の副葬品を伴うなどその地位を示すものとなります。

「楽浪太守掾」の墓は中級以下の役職の立場でありながら、北朝鮮の平壌付近で発見されている墓の階層構造の最上位が「楽浪太守」や「都尉」といった郡のトップクラスでなく、「楽浪太守掾」やそれに準じるレベルに留まっているにも関わらず、その墓が立派でありその周囲では地位が高かった形式であるということは、そこが「楽浪郡ではなかった」という事を如実に示しています

【馬韓は楽浪郡の一部】

馬韓の領域のはずなのに、なぜその端に楽浪郡の施設があるのか?
これは単純です。
「馬韓」は古くから「楽浪郡の一部」という地域だからです。これは『後漢書』でもはっきりと書かれており、

建武二十年韓人廉斯人苏馬諟等詣樂浪貢獻
光武封苏馬諟為漢廉斯邑君使屬樂浪郡四時朝謁

「建武二十年」とはAD44年。この時に、韓人が朝貢に来ており、韓を周辺国(属地域)から楽浪郡の臣下(直轄地域)にしている事は記載されている。

【大同江北岸の遺跡の役割】

これは、

  • 移民が南に行かないようにする国境の関所

という役割が大きいのでしょう。
秦の末期から漢の初期の時代、長城建設などの労役から逃れた東夷の人々が韓に逃げたという事は中国歴史書にも書かれています。
これは、遼東地域の労役から、遼東半島南岸に広がる韓(中国の属地域としてあった馬韓)に逃げたという話であり、急に増えた人々や違う地域からの移民で、現在の世界で起こっている移民問題の様にトラブルが多く発生したのでしょう。その為、それらの人々を朝鮮東海岸の方へと開拓移動させます。その時に、既に交流がある倭側に行かないようにするための川を使った関所ではないかと思われます。

また、

  • 倭系民族(大同江以南の民族)が北上し馬韓に入らないようにする関所

  • 倭との陸路での交易の窓口になる関所

という役割も担っていたでしょう。
BC1~AD3世紀の墓が、大同江の北側では秦・漢式で、南側は倭式(半島南部式)というのもこのためです。

これらを踏まえて、馬韓の小国の位置を考えると、この辺りは下図のような位置になります。

馬韓の小国『楚山塗卑離國』は「厳しい山道で下民が行く国」ですし、辰韓の『冉奚國』は「(馬韓に)従属している国」という意味です。
名前から位置を考えていくと、今の北朝鮮の平壌があった辺りは『不雲國』と考えられますので、大同江の北岸にある遺跡群は「不雲関遺跡群」と呼ぶ方が合うのでしょうね。

衛氏朝鮮が漢に滅ぼされたのがBC109年あたり、それで韓(馬韓)に逃れて、BC1世紀には韓(馬韓)の中で移民問題が起こり、移民を東に移住させる。その際に不用意に南に行かないように設けられた関。
こう考えると、北朝鮮平壌の大同江の北岸沿いに広がる遺跡群の年代とも符合します。

【楽浪太守章】

平壌の遺跡では、『楽浪太守章』という封泥がたくさん出土しています。
これをもって「楽浪郡都は平壌にあった」という説を唱えられていますが、これは全く逆で、この『楽浪太守章』封泥は、今の平壌が楽浪郡都でなかった事を示しています。

封泥は、竹簡や木簡などを束ねたものを紐で縛り、その結び目の上に粘土塊を押し付け、乾く前に役所や役人の印章(印)を捺して固めたものです。封泥の主な目的と機能は以下の通りです。

・封緘
文書の内容物が、途中で開封されたり改ざんされたりしないように封をする役割を果たしました。封泥が損なわれていれば、文書が不正に開かれたことが分かります。

・差出元と責任の明示
封泥に捺された印章には、文書を発行した役所や役人の名称が刻まれています。これにより、文書が「どこから送られてきたのか」、そしてその文書の内容に対する「責任は誰にあるのか」を明確に示すことができました。これは、公的な文書の管理、認証、追跡において極めて重要な機能でした。

・証明・認証
印章の印影があることで、その文書が正規の機関や人物から発行されたものであることを証明し、信頼性を与えました。

という性質のものです。これはそれぞれの場所でも特徴があり、

・郡や県の治所(都にあたる場所)での封泥出土
郡や県の治所、すなわちその行政区画の中心(都にあたる場所)では、封泥は多数出土しますが、その多くはその治所自身が発行した文書に伴うものではありません。むしろ、より上位の機関(例えば、中央政府や州)から送られてきた文書に伴う封泥が多く出土する傾向があります。そのため、治所で出土する封泥は、様々な差出元からのものが混在しますが、特に上位機関からのものが目立つ可能性があります。
都(郡や県の治所)では、他の場所から送られてきた文書に伴う封泥(特に上位機関からのもの)が多く出土する傾向。自身が発行した文書に伴う封泥は少ない。

・都以外の施設(軍事施設、下部組織など)での封泥出土
郡や県の治所から離れた下部組織や軍事施設などでは、その上位機関、特に郡や県の治所(都)から送られてくる文書に伴う封泥が多数出土する傾向があります。これらの場所は、自らが高位の文書を発行する機会が治所に比べて少ないため、受け取った文書に伴う封泥の割合が高くなります。したがって、これらの施設で出土する封泥は、特定の差出元(特に上位機関)からのものが集中して見られる可能性が高いと考えられます。
都以外の施設(軍事施設、下部組織など)だと、上位機関、特に都から送られてきた文書に伴う封泥が多く出土する傾向がある、という利用上の性格があります。

「平壌周辺の遺跡では『楽浪太守章』封泥が大半である」というのは、今の平壌地域は都ではなく、都以外の施設である事を示しているのです。楽浪土城で見つかった公的な印が押された封泥は「楽浪郡および管下の諸県のものに限られていて、中央ならびに他の都県のものは合まれていない」というのもあり、今の平壌にある遺跡は郡の中にある都以外の下部施設であった事を示しています。

【裕福な場所】

今の北朝鮮の平壌にあった施設だが、裕福だったのは墓の中身からも施設の規模からも確かである。しかし、都ではない証拠は色々とある。であれば、この場所は何でそんなに裕福だったのか?
様々な史料や証拠から、平壌周辺の施設は「国境の関」と考えられるのだが、これもきちんと記載がある。

國出鐵韓濊倭皆從取之諸巿買皆用鐵如中國用錢又以供給二郡

そう、輸入品が存在しているのである。
「弁辰から」となっているが、この鉄の産出地は主に伽耶地域、つまり倭の領域になる。倭も朝鮮半島から輸入しているわけだが、中国側も輸入している。鉄も含めて倭からの輸入をしているし、倭への輸出もしています。これは、日本に楽浪様式の遺物などが発掘されている事からも判ります。遥か昔だと倭は直接に遼東地域に行き交流交易をしていましたが、BC1世紀あたりからはこの関を使って交流交易をしていたわけです。

他にも、倭人から鉄製品を購入していた可能性があります。実は、BC3~4世紀の錬鉄遺構が淡路島や大分県佐伯周辺から見つかっており、鉄製品としてはBC10世紀のものも発見されています。日本での鉄製品利用については以前まで言われていたよりもかなり古いようで、まだまだこれからも古い遺物や遺構が見つかるだろうと予想されています(製鉄をしていたかまではしっかりとした形で出てきていないので分からないのだが、鉄成分が分析から出て来た例は日本国内でそれなりにある)。
三国志の時代だと呉や蜀の武防具は主に青銅製だったが、魏は鉄製の武防具を揃えていた事が勝敗の一因になったのだろうと考えられている。ただ、魏の周囲には目立った鉄鉱はなく、朝鮮半島から輸入していた、と考えられているのだが、日本から鉄製品を買っていた可能性もある。

これは贈られた称号や金印・銀印などでも顕著にでており、
・「親魏倭王」金印(「親魏」という称号は西方の大国である大月氏国と倭国にしか贈られていない)
・倭使節大使は「魏率善中郎将」銀印
・倭使節次使は「魏率善校尉」銀印
と、大国の王と同等な待遇を倭に対してしています。
倭の使者に贈られたのも「銀印青綬」であるというので、かなり特別な印になる。二千石には皇帝の許可なく逮捕できない特権や、兄弟や子を郎に就けることができる任子などの特権があった地位であり、比二千石以上の官が持つ印綬が「銀印青綬」となる。
・倭使節大使は「魏率善中郎将」銀印は「宮城護衛の武官の長」という官職
・倭使節次使は「魏率善校尉」は「軍事や皇帝の護衛をつかさどる官」という官職
であり、当時で見てもかなり高位の官職である。この「二千石」というと、楽浪郡などの郡太守と同じ給与であり、2000石(穀物200トンに相当)の官吏の場合、年金額はその年俸の1/3 になります。

他の地域だと、金印でも1つ下が「候」で、これは中国に基準した王国に与えられています。
・チベット系の氐族(テイ族)首領に下賜された「魏帰義氐侯」 の金印
・西晋「晉帰義叟王」 の金印
更に従属国だと低く銅印になります。
・匈奴王「漢匈奴悪適尸逐王」印は銅印
ですし、弁韓の小国には、
・朝鮮半島慶州でAD3世紀頃に「魏率善韓佰長」銅印で、弁韓の豪族の首長が官爵を受けている(「魏として韓を良く管理しているので佰長と認める」です)。
・朝鮮半島浦項市でAD4~5世紀になる「晉率善穢佰長」銅印で、やはり弁韓の豪族の首長が官爵を受けている(「晋として濊を良く管理しているので佰長と認める」です)。

金印や銀印青綬であるのは、かなり特別な地位待遇にあるという事です。
これは漢代からでもそのようで、「漢委奴国王」金印も、同時期だとほぼ見られない「王」の金印で特別扱いなのが判ります。
これには、「鉄製品交易」の存在があるのではないかと思います。


国境の関でも都市のようになった事例は古代中国でも多い。例えば、

・玉門関・陽関(敦煌)
現在の甘粛省敦煌市の北西および南西にあった玉門関と陽関は、シルクロードの重要な関所でした。これらの関自体が直接的に都のような規模になったわけではありませんが、これらの関の存在によって、後背地の敦煌が西域との交易の一大拠点として発展しました。「敦煌」という都市は、「敦は大なり、煌は盛なり」と言われるように、国境を守る軍事的な機能と、シルクロードの中継地としての貿易機能により大いに栄えました。城壁内には寺院、質屋、倉庫、酒場、住宅などが立ち並び、その賑わいは都市と呼ぶにふさわしいものでした。玉門関や陽関は、この都市を維持・機能させるための重要な門戸として機能していました。

・山海関
現在の河北省秦皇島市にある山海関は、万里の長城の東端に位置し、「天下第一関」とも称されました。明代に強固な関城が築かれ、軍事的な重要性が非常に高かった場所です。関の周辺には、兵站基地や駐屯兵、それに付随する人々が集まり、商業も発展しました。関城そのものが大規模な要塞であることに加え、その周囲に形成された居住区や商業区を含めると、かなりの規模の集落となり、都市的な様相を呈していました。

・嘉峪関
現在の甘粛省嘉峪関市にある嘉峪関は、万里の長城の西端に位置し、こちらも「天下第一雄関」と呼ばれる堅固な関所でした。明代に築かれた関城は非常に大規模で、その内部には兵舎や倉庫などの施設が完備されていました。嘉峪関もまた、軍事的な機能に加え、シルクロードの要衝として、往来する商人や旅人を相手にした商業が栄え、関の周囲に市街地が形成されました。現在の嘉峪関市は、この関を中心に発展した都市です。

・雄州
宋代には、契丹との国境地帯にあった雄州(現在の河北省雄県)が、澶淵の盟以降、両国の外交窓口となるとともに、人、物、金、情報が集まる国境都市として大いに繁栄しました。軍事的な機能だけでなく、政治、経済の中心としても機能し、都市規模に発展した例と言えます。

このように、国境の関は場所によっては、外交窓口として、そして人・物・金・情報が集まる国境都市として発展をします。
平壌あたりにあった施設も、「倭」を主な相手國として発展した場所なのである。

【帯方郡の遺跡?】

黄海道鳳山郡文井面石城里から「帯方太守張撫夷」の銘をもつ塼室墓が出土しているとあるが、大事な部分(墓主の立場を示す文字)を削除している嘘がある。
この遺跡の発掘調査は日本人学者によっておこなわれたが、塼室墓の構造は地上に構築された煉瓦とそれを覆う墳丘で構築されており、天井の構造は穹窿式であった。副葬品は盗掘されており、ほとんど残っていなかったが、墳丘の築造に使用された煉瓦には文字が刻印されており、煉瓦には「使君帶方太守張撫夷塼」「張使君」「大歲在戊漁陽張撫夷塼」「大歲申漁陽張撫夷塼」などの銘文が刻まれている。
「この銘文によって墓主は、中国河北省薊州出身の帯方太守張撫夷であることが判明した」とあるが、この『塼』には他にも違和感があり、

という構成になっているのは明確なのである。この左右の2行、上中下の3分割されたスペースに刻まれた文字である、というのがこの『塼』を理解するのに重要なのだろう。


右半分をまず見てみると、

  • 右側上段

右側上段は「使」だけを1区画の中央に書いている。左側上段が「張撫」とより字画が多い2文字を入れているのだから、2文字を十分に入れられるのだが、ここには「使」の1文字を中央にしか入れていない。
尊称として「使君」という使い方がある。これが「使君帶方太守」と「帯方太守の印だ」説に繋がっているわけだが、それならこの右側上段は「使君」が刻まれていなくてはおかしい。しかし、この『塼』の製作者あるいは製作指示者は意図をもって「使」の1文字だけにしているのである。
また、普通に考えれば「使君」という尊敬として付ける単語を「使」「君」と明確に分けて書く事は不敬になる。


右側中段は「君①」とある。①の部分は「帯」と言われているが、似ているようで似ていないようでという文字である。この『塼』は隷書という文字で刻まれているが、隷書で「帯」は、

という形である。①が「帯」だとすると、隷書というより篆書体に近い形で、篆書体は下のような形になる。

だが、この1文字だけ篆書体はおかしい話であるし、緩くカーブを描く横に曳いた2本の線は、「帯」というにはどうしても違和感があり、別の文字の可能性がどうしてもある。
これを考えると、似た文字の形を探すと「帯」ではなく「竿」ではないかと思う。

つまり「君帯」ではなく「君竿」と書かれているのではないだろうか(「君竿」については後述)。
どちらにしろ、構成から「君■」というので1単語なのである。


右側下段だが、ここにはとても窮屈に3文字が入っている。
「使君|①方|②③」と刻んであるなら違和感はなかったでしょうが、「使|君①|方②③」という、アンバランスな刻み方をしている。これは「方②③」というのが役職だったという事でしょう。
②は「大」なのか「太」なのか、どちらもありえる形ですが、この時代なら「大」ですね。

それに対して③の部分。これを「守」としているのだが、削れていて判別が難しい。
ただ、この時期は魏の時代の前後になるので、彫るなら「大」ではなく「尹」でないとおかしいだろうというのもある。

どういう文字に似ているのかと、幾つもの石碑の拓を確認してみた。

  • 左上の「守」は、有名な『曹全碑』にある文字

  • 右上の「官」も、その『曹全碑』にある文字

です。これはどちらも似ていない。

  • 左下の「守」は、『居延漢簡』という木簡にある文字

  • 右下の「官」は、『居延漢簡』では文字自体は見つけられなかった(全部を確認をしていない)ので、『居延漢簡』のウ冠と『曹全碑』の己部を合わせたもの

となります。癖字となりますが、一番似ているのは右下であり、この文字は「官」であってもおかしくないのである。

繋げると「方大官」であり、「地方の大物官吏」です。
「方大官」という役職はありませんが(後の時代には「太官」や「方大官」というのも出てきますが)、これは亡くなった方の墓なので「戒名」みたいなものでしょう。
実際はどうかまでは分からないが、しかし塼の彫り方から、「方大■」という3文字の役職あるいは職の戒名である事は確かなのである。


左半分を見てみると、よく「張撫夷」という人物だと言うが、刻み方に大変に違和感がある。
「張」という家(氏)なのですから、

  • 「張撫夷」と1マスに刻み込む(右下段で3文字書き込めている)

あるいは2マス使い、

  • 「張」で1マス(左側上段)

  • 「撫夷」で1マス(左側中段)

という刻み方をしなければ、「名を途中で切る」という大変に失礼な印になるからです。
という事は、この塼(左側下段にある文字で、この石碑そのものを指します)は、名前は「張撫」である、という事です。
ちなみに、この「張」氏の人はそれより前の時代に倭に使者としても行っていますので、どうやら「倭に精通した、あるいは倭語を話せた外交的家門」のようです。

では2マス目の「夷」は何かと言うと、これは「東夷」の「夷」であり、この墓の地を言っているのか、それとも「夷」を相手にする使者(外交官)という事でしょう。
そしてその相手は『倭』でしょう。魏志倭人伝(正確に言えば「魏志東夷伝倭人条」)があるのでも『魏志(三国志)』の『東夷伝』に「倭人」はあります。「夷」自体が中国から見た周辺国を指した言葉です。

3マス目の「塼」は、この物自体を指しています。


ということで、この『塼』に書いてあるのは
『使 | 君竿 | 方大官』
『張撫 | 夷 | 塼』
です。
意味は、「君竿に仕えていた辺境大使の張撫・倭の地にて」と書いてあるわけです。
その他に書いてあるのが、

  • 「大歲在戊漁陽張撫夷塼」

  • 「大歲申漁陽張撫夷塼」

これは、張撫という人物の出身を書いています。漁陽は秦代に置かれた郡および県名。現在の北京市密雲県の西南にある地域で、「在戊」とありますので、そこで生まれた人物です。

この『塼』の違和感は、何よりその刻み方です。

左のように実際には刻まれています。
もし、定説とされている意味なら、右側の様に刻まれてなくてはいけないのです。これを「使-君竿-方大官」ではなく「使君-帯方-太守」と読みにくい文字を無理矢理に読むので「帯方太守だ」となっているだけです。

墓の場所は文井面石城里のある辺りで、そこら辺りが帯方郡だった、という証拠にはなりません。というか、かなり辺鄙なところです。

墓の形式は石摺墓で、遼寧省遼陽近郊の石摺墓に似ている。位置が大同江の南側で、それから「倭への使者」を務めていた人物と考えられ、歳をとり退官した後なので正式な官位は書かれておらず、礼を遇し中国様式の墓を建てたというものです。亡くなった張撫がそう望んだのかもしれません。帯方郡の時代ですから卑弥呼が使者を送った時代でもあり、中国からも使者が送られていた時代です。つまり、倭と中国は昔から交流をしており、魏志倭人伝では日本本土へは船で行っていますが、朝鮮半島にいる倭とは陸路でも交流交易をしていた事を示す証拠と言えます。位置からすると、思い出のある陸路の経路の途中のようですね。広い平原が見えた位置で海は見えないでしょうから、風景が内陸にある郷里を思い出すと、本人の希望で倭に承諾を得て建てたのかもしれません(ただし、船の歴史から考えると、古代中国からすると倭とは「昔から海からやって来る異民族」なのでしょうね)。この時代、平壌にあった国内関は辰韓への監視という役割もあるのですが、倭との交易でかなり裕福な場所だったようです。このように他国で墓を作られる例はいくつでもありますが、重要な歴史的な証拠なのに大事な部分を削除して歪曲して広まっているので、大変に残念ですね。


最後に『君竿』です。
これは、羋戎というBC332~262年に居た、中国戦国時代後期の楚の公族で秦の政治家であり、BC265年に范雎の奏上で宣太后が廃位、羋戎ら四貴も罷免され、その権力を奪われると関中から追放され封地にて余生を過ごすこととなり、BC262年に死去した人物です。この羋戎は「华阳君」「華侯」「新城君」とも呼ばれる(この「華」も刻まれた文字の候補だったが、字画が多いので外した)。後世の本なのですが「粤雅堂丛书」の中の文、

见上注阳下原注正义云华阳亭名在洛州密县故华城在郑州管城县南杜注新城密也故戎又号新城雹恩泽案索隐曰华阳君竿戎亦号为新城君郡国志宏农郡华阴故台兄兆有太华山注吕重春秋尤薮曰秦之华阳弹蝇作阳韩五荡孽夕粗刚测高诱曰成在萝萨军四则华阳即在华阴之右然华阴在华山北此云华阳当在其南未可合而为一司马彪曰华阳在密县山名则密曰有华山而此地适当苴南故曰华阳水经注黄水出新郑县太山南黄泉东南流运华城西即华阳也索隐又云华阳韩地后属秦则小司马固不以此为准阴矣顾祖禹曰华阳本育华国史伯谓郑相公华今国语木作宰量全也今适围开封府新郑县东南二十里有华城亦曰华阳亭又案川吐省通鉴注华阳君竿戎曰华阳即武王归马处引冰经注云门水又东北应阳华之山即华阳山也至呜盛日今商州雒南县有阳华山盥拥林之野南北相圣胡渭注庾信八江南赋华阳奔命亦然按河云杜氏谓准日连延束出阳华在奢艾酉南夸艾在今闽乡县东育一十五里正所谓连延东出者乃西岳支峰古通谓之口山一然戎称新城君究以情县之诸为是新城

という文がある。
時代が200年ぐらいは違うので、この羋戎自身の事ではないのだが、中央から郡にと左遷?された人に仕えていた、という事かもしれません。


それ等をトータルして考えると、
「使君竿方大官」というのは、「(中央から)派遣されてきた、規範的(あるいは羋戎のような境遇にある)な人物である、地方高官」という意味になります。

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