古代の石工技術
古代の水利技術の続きです。
「石工技術なのに水利技術と関係が?」というと、実は深くあります。
判りやすい例え話ですと、「現代の側溝で使われているコンクリート製のU字型」ですね。水を溜める・流れる貯水地や水路の底や側面に使われている、というので「水利技術」に「石工技術」の歴史も隠れています。
まずは「石工技術」単体です。
石工の文化
私も知らなかったのですが、「石を加工する文化」でも、日本と中国では年代がかなり違います。
中国と言うと「石組の遺構が沢山あるはずだ」と思いますが、中国で唐代以前から存在する有名な石造物は、主に以下の2つのカテゴリーに集中しています。
・石窟寺院(彫刻)
雲岡石窟や龍門石窟など。これらは「岩山を削る」技術であり、石を切り出して「組み立てる」技術や、内部に管を通す「機械的加工」とは系統が異なります。
・墳墓(死者の空間)
漢代の画像石墓など。石の表面に彫刻を施す技術は凄まじいものがありますが、これらは「密閉して埋める」ためのものです。
つまり、「石を彫る技術(石彫技術)」は古くからありましたが、「組んでインフラとして活用する技術(石工技術)」は、大陸の内陸系文化(版築文化)の中では極めて限定的だったのです。
石墓
「周りを石で囲み、そこに埋葬する文化」
これですが、実は日本の方が古くからあります。
石室の登場は、中国では 漢代(約2,000年前)に「画像石墓」が流行します。そこから増えていくのですが、日本ではその約2,000年前の縄文時代後期(約4,000年前〜)に「石囲石棺墓」や「配石遺構」が存在しています。 日本では縄文時代から石で「空間を囲う」発想が定着しており、どうも漢代での日本との交流の中で伝播した文化のようですね。
しかし、そこでも技術精度はかなり異なります。
漢代からあるのが多くは「板石」を組み合わせるもので、主に「石の表面に彫られた絵(画像)」が重要であり、構造としては「石の板を箱型に組む」という、いわば大工仕事の延長で、化粧板のようなものです。
どうもこれは、「乾燥した土地」が多く、多少の隙間があっても土(版築)で埋めれば事足りるからのようですね。
日本では更に技術的には上で、巨石そのものを直方体に削り出し、互いの重力と摩擦で完璧に密閉する「石工工学(メガリス・エンジニアリング)」と高度なものであったり、古墳時代中期〜後期(5〜7世紀)になると、巨大な岩をミリ単位で加工する「切石積」が完成させ、日本の石室(例:岩屋山古墳)は、石同士の接合面が「カミソリの刃も通らない」ほど精密な「石工技術」を持っています。
これは当時の中国にない技術であり、日本が技術先進国だった、という事です。
そしてまた、「石工技術」は中国の様に「突然完成された形で現れる」のではなく、日本では連続的・継続的に日本国内で変化しているのが確認出来ます。
9,000年前
穴の中に石を並べて構造を作る「石組」の技術
上野原遺跡
7,000年前
墓の周囲に石を配したり、遺体の上に石を置く「配石墓」の初期形態
東名遺跡
5,000年前
配石・飼石で石を安定させる「土台」の構築
阿久遺跡
4,000年前
石囲石棺(初期)板石で「密閉空間」を作る
大湯環状列石
3,500年前
多層配石墓石棺の周囲を石で積み固める
中部地方の諸遺跡
3,000年前
支石墓・積石マウンド地上の巨大石と地中の石積みの融合
原山支石墓、牛石遺跡
と、中国より古くから「石工文化」を持っており、同時期で比較しても「日本の方が高度な石工技術」を持っています。
つまり、「中国から日本に技術が伝播」は技術の不可逆性から成り立たたず、「日本から中国に技術が伝播」でないと成立しません。
支石墓
支石墓についてよく「朝鮮半島から伝わった」とありますが、これも成り立ちません。
『支石墓』は「北方式」と「南方式」があると言われています。
埋葬品に遼寧式の銅剣などが出土する「北方式支石墓」は、今の中国の遼寧省や吉林省、あるいは遼東半島の大洋河江以西の大体半島の西半分の地域で見られる形式が古く、これが「BC12世紀頃のもの」ですね。それが人の移動と共に拡大し、大洋河を越え、鴨緑江を越えて今の北朝鮮に入って来ています。
その後、北方式支石墓はBC9世紀前後になると僅かだが今の北朝鮮南半分に降りてきています。さらに遅れて今の韓国になる朝鮮半島南側に出てくるがこれは数が少なく、BC7世紀頃からで僅かにあるだけですね。
その源流は沿海州で見られ、
7,000年前
塚内に形成された集団墓地から、石囲い(Stone enclosure)や遺体の上に石を置く埋葬形式
ボイスマン文化
4,500年前
遺体の上に複数の平らな石を積み重ねる「蓋石」
ザイサノフカ文化
「南方式支石墓」は朝鮮半島南側の南方式支石墓はBC5~6世紀からであり、より古いものだと中国南部海岸部の浙江省沿海地区の支石墓群があります。
しかし、日本ではその前の形態から行くと、
9,000年前
穴の中に石を並べて構造を作る「石組」の技術
上野原遺跡
7,000年前
墓の周囲に石を配したり、遺体の上に石を置く「配石墓」の初期形態
東名遺跡
5,000年前
配石・飼石で石を安定させる「土台」の構築
阿久遺跡
4,000年前
石囲石棺(初期)板石で「密閉空間」を作る
大湯環状列石
3,500年前
多層配石墓石棺の周囲を石で積み固める
中部地方の諸遺跡
3,000年前
支石墓・積石マウンド地上の巨大石と地中の石積みの融合
原山支石墓、牛石遺跡
と、中国・朝鮮半島に比べてその源流となるものより前には既に存在し、そして時代と共に連続的・継続的に変化をしているのが判ります。この継続的な変化は中国・朝鮮半島には見られないものです。
3,000年前、つまり朝鮮半島で現れる400年ほど前に出てきている原山支石墓などは、朝鮮半島に出てくる「南方式支石墓」にそっくりであり、その年代から「朝鮮半島から日本」ではなく、「日本から朝鮮半島」に伝播したものだ、という事です(そもそも、AD3世紀までは大同江の南までは日本の領域でしたが)。

朝鮮半島南側の南方式支石墓は、日本からではなく、中国南部海岸部の浙江省沿海地区の支石墓群からのものではないか?
というので調査をしますと、こうなります。
日本の長崎県にある「原山支石墓」と、中国浙江省沿海地区の支石墓群は年代的にほぼ並走、あるいは「石を精密に組む(石棺)」という内部構造においては、日本側の方が先行、もしくはより洗練された形態を保持しています。
年代の再検証をすると、
・浙江省沿海部(瑞安、海寧など)
主に西周時代から春秋時代(約3,000年前〜2,500年前)に築造されています。
・長崎県・原山支石墓
縄文時代晩期(約3,000年前〜2,800年前)に始まります。
年代的にはどちらもほぼ同時期に「巨大な石を載せる」というスタイルを共有しています。そこで、「どちらに、それ以前の試行錯誤(プロトタイプ)があるか」という点を調査します。「どちらが源流か」と言う事ですね。
朝鮮半島は論外です。
「外見(大きな石を載せる)」は似ていますが、中身(埋葬主体部)の作りが異なります。
・中国の支石墓
多くは地上の大きな石が主役で、その下の構造は比較的シンプルです。
・日本の支石墓
地下に「縄文以来の精密な石囲石棺(板石を箱型に組む技術)」が組み込まれています。
中国では浙江省で突如として現れたように見える支石墓に対し、日本では4,000年前(大湯など)から「石を箱型に組む」という技術が連綿と続いています。つまり、「中身(精密石工)」は日本にルーツがあり、「外装(巨大石)」が海洋ルートで共有されたという構図が見えてきます。
原山支石墓は、浙江省のものと同時期、あるいはより古い段階から稼働しており、何より「石を精密に組み合わせて空間を作る」という内部技術の歴史は、日本列島の方が圧倒的に長い(9,000年前〜)のです。

年代を並べてみると、黄色い線の様な流れになります。
ここで重要なのが「7,000年頃」というので、これに当てはまるのはアカホヤの大噴火ですね。これにより、石墓文化をもつものが日本を北上し、そして軟関していくと共に、中国南東沿岸や朝鮮半島南部へと文化が伝播しています。
北方式支石墓ですが、これは前段階は古アムール系統の地でより古くから見つかります。ただし、それよりもより古いのが縄文文化なのですね。
すると、伝播ルートはこのように考えられるのです。

大陸で初めに現れるのが沿海州のボイスマン文化、アカホヤの大噴火後であり、縄文類似の文化とDNAが出てくる場所から始まっているという事です。これまた、噴火で居住地を捨てる事になった縄文人が伝播させた文化です。
遺構の年代と、その前段階の技術を重ねていくと、『支石墓』というのは北方式も南方式も、日本から発祥しており、それがアカホヤの大噴火による九州南部の縄文人の拡散に伴い伝播していく中で、逃げた先の沿海州と日本内で4,000年間ほどローカライズされていった差が「北方式支石墓」「南方式支石墓」のようですね。
ですので「似ている」のですが「少し違う」のですね。
日本の石工文化
ここで、日本に戻ってきます。
飛鳥時代(7世紀)の日本には、当時の大陸(隋や唐)の基準で見ても「異常に高度」で「特殊」な石造インフラとして出現しています。飛鳥時代にはすでに大陸の流行とは別系統の、あるいは大陸の先を行くような遺構が存在しているのです。
当時の中国(隋・唐)の都城建設の主流は、依然として土を突き固める「版築」であり、石材はあくまで補助的です。しかし、飛鳥(特に斉明朝〜天武朝)の遺構は、驚くほどの「石工」技術が存在し、利用されています。
水利利用の石工品
日本では縄文時代(5,000年前頃)には既に、長野県の井戸尻遺跡などでは、湧水地点を石で囲い、水路を石で整える遺構が見られます。これは中国にある「彫る」文化ではなく、石の性質を見極めて「配置し、水を導く」という機能的な石工技術です。
その技術は昇華されていきい、飛鳥時代では隋・唐などと比べられようがないほどの高度な石工技術になっています。
飛鳥京跡苑池は7世紀中頃(斉明朝)の遺跡ですが、池の周囲は階段状の精緻な石積み護岸で覆われ、底には石が敷き詰められています。また、石を精密にくり抜いてパイプ(土管や銅管)を通し、水を噴き出させるという湧水・噴水施設までもがありました。「水を漏らさず、意図した場所にだけ通す(噴水・水路)」というのは単なる土木ではなく、流体工学と精密石工技術の結晶です。
斉明朝の飛鳥京苑池の遺構がなぜ「大陸にない」と言い切れるのか、その「異常」なまでの精度を持つ工学的特徴が理由です。
例えば、階段状の切石護岸は一辺30~40cm程度の「角石」を、まるで現代のダムや護岸のように精密に階段状に積み上げています。これは「水の波立ちによる侵食を計算で封じ込める」という、極めて土木工学的な設計です。
池の底全体に石を敷き詰める総石敷きの池底の手法は、水の浄化や地盤の安定に寄与しますが、膨大な石材加工を必要とします。当時の大陸では「版築で固めて済ませる」技術しか行っていません。
驚くべきは石造噴水施設(須弥山石)と、既に噴水をがあったという事です。石の内部に精密な孔を開け、水圧で噴水を作る。この「精密石工+流体制御」のセットは、当時の唐の宮廷記録にも見当たらないオーバーテクノロジーです。同じ7世紀に京都仙洞御所にも噴水があったようで、複数の場所で作られています。
Wikipediaでは「百済からの渡来人の技術によって制作されたものと考えられる」と書いてありますが、当時の朝鮮半島には、斉明朝の飛鳥で見られるような「精密な石積みによる加圧水利・修景施設」が存在したという証拠は、一点も見つかりません。
百済の都であった「泗沘」などの遺跡を徹底的に調査しても、飛鳥と同等の遺構は見当たりません。百済の王宮庭園とされる「宮南池」は有名ですが、その護岸は基本的に「木杭」を打ち込み、土を留めているという、「版築」文化のものです。飛鳥京跡苑池のような「精密な切石を階段状に積み上げる」という石工技術の痕跡はありません。
技術レベルで言えば「縄文時代早期(約9,000年前)の粟津湖底遺跡」と同等か、「編朶」技術ではなく「版築」技術ですのでそれよりも低いぐらいのものですね。
朝鮮半島における石造技術の頂点は「石塔(仏教施設)」や「石氷庫(氷の貯蔵庫)」です。これらは「積む」技術ではありますが、「石の中に管を通し、水圧をかけて水を噴き出させる(動的インフラ)」という発想と技術は、半島側には存在しませんでした。
ちなみに、百済仏教で有名な石塔もありますが、それも7世紀に入ってからのものです。同じような石塔が日本には6世紀後半にあるので、この石塔文化は日本から百済に伝播した物のようです。
というより、唐にもない時代です。朝鮮半島側にあるはずもないのですね。
そもそもが、『三国史記』という朝鮮半島の後年に作られた偽書・創作書を省いて、中国史書を日本史書を読んでいけば判りますが、朝鮮半島で”百済”と出てくるのは7世紀から。それ以前は”慕韓”と書かれており、鮮卑慕容系から流れて来た新しい移民です。
大同江を越えたのがAD4世紀中頃ですね(もちろん、今の韓国人の祖先でも何でもありません)。
ただ、「外観」に関しては”朝鮮半島の百済”の人な可能性はありますね。これは「石工」というより「石彫」の話なので。
同じ飛鳥時代、水利ではありませんが「石のピラミッド」と称される牽牛子塚古墳もあります。これは巨大な凝灰岩をくり抜いて石室を作り、外側を切石で美しく装飾しています。この「切石を隙間なく並べる」技術は、唐代の一般的な版築建築よりも、むしろ後世(宋〜明代)の石積み技術に近いものです。
中国での「水圧制御を伴う石造噴水」の実例を探すと、明代(14世紀〜)の庭園で一部見られるようになりますが、飛鳥のような「緻密な管路システム」を備えたものは、やはり18世紀の西洋技術導入(円明園)まで待つことになります。
中国の1,000年先の技術を日本は独自に持っていたのですね。
秦の水利技術
「BC3世紀の秦の始皇帝の時代には中国全土に鉄管配置」という話しもありますが、これは大間違いです。
巷で語られる「秦の時代に鉄管が中国全土に張り巡らされていた」という話の出所は、その多くが「白公山の鉄管」というオカルト・オーパーツ的なエピソードと、秦代の「土管(陶管)」の物証が混同されたものです。
「白公山の鉄管」の正体は、始皇帝の時代より遥か昔、数千万年前の樹木が地質変動で「化石化」したものです。樹木の中身が腐り、外側や道管部分に鉄分などの鉱物が沈着して管状に見える「根系化石(植物化石)」であり、秦の技術とは無関係です。
秦の都である咸陽や、始皇帝陵の周辺から見つかるのは、100%「陶器(土管)」です。これらは非常に精巧ですが、あくまで「土を焼いたもの」です。もし全土に鉄管があったなら、その残骸(サビ跡や破片)が各地の遺跡から大量に出土するはずですが、一切見つかっていません。
秦の土管インフラと、日本の飛鳥時代や縄文以来の「石」を用いた遺構とでは、「設計思想」と「耐久性」において決定的な違いがあります。土管(陶管)は、非常に効率的ですが、本質的には「土を焼いたもの」です。
秦の土管は、版築(叩き固めた土)の中に埋め殺しにすることで強度を保ちます。つまり、「土の中に水の通り道を作る」という発想で「版築」の延長線上にあるものであり、管自体に自立した構造体としての強度は期待されていません。土管は接合部が弱く、地殻変動や土圧で割れやすいのが欠点です。大陸の広大な土地では「壊れたらまた掘って、新しい土管を埋める(大量の労働力で解決する)」という、まさに「消耗品」としての水利利用でした。
施行技術としても秦のものは日本よりレベルが低く、日本はほぼ水平の場所で水を管理するための機能を付けたという水利技術ですが、秦の時代に作られた管の主な目的は「排水(グラビティ・フロー)」です。陶器製の管を繋ぎ合わせたもので、基本的には「高いところから低いところへ水を流す」ためだけのものですね。宮殿の雨水や生活排水を、湿気が溜まらないように外へ逃がすのが主目的とされて作られたものです。
板付遺跡や雀居遺跡の陶製給排水管(3,000年前)と、秦(始皇帝陵など)の排水土管(2,200年前)を比較すると、「巨大な都市管理」を目指した秦に対し、日本の弥生時代(約3,000年前〜)の技術は「流体制御の精密さと永続性」において極めて高度な思想を持っています。
特に「高度」だと言えるポイントは、単なる「通り道」としての管ではなく、「水圧と止水をコントロールする技術」としての完成度です。
日本のものは接続部の精密さがあり、秦の土管も接続構造を持ちますが、日本の弥生時代の陶管、特に雀居遺跡などのものは、その「継手」の設計が非常に緻密で:ソケット(印籠)構造をしています。
雀居遺跡の陶管は片側が広がり、もう片側が細くなる「ソケット(印籠継ぎ)」構造となっており、3,000年前の時点で既に定型化されています。これにより、管同士を差し込むだけで直線を保ち、漏水を最小限に抑えることができました。
焼き物としての収縮率を計算に入れた精密な成形が行われており、まさに現代の塩ビ管や土管のルーツと言える「規格化」がなされています。
板付遺跡のインフラが秦より高度だと考えられる最大の理由は、管単体ではなく、「井堰」「水口」「泥溜め(沈砂池)」がセットになった「加圧」と「泥溜め」のシステム工学がある点です。主要水路に木製の「堰」を設け、水位を上げてから陶管へ導く「加圧」などの流体制御の概念が見られます。これにより、高低差が少ない地形でも効率よく田に水を送り込めました。
さらに陶管の入り口や曲がり角には、泥を沈殿させて管が詰まるのを防ぐ「泥溜め」の遺構が見られます。これは「一度埋めたら掘り返さない(永続性)」というメンテナンス性を前提としたものです。
それに対して秦代(始皇帝陵など)の土管は、断面が「円形」だけでなく「L字型」や「T字型」などバリエーションは豊富ですが、接続部は粘土を盛り上げるなどの「物量による止水」に頼る面があります。秦の排水システムは、宮殿の「雨水を逃がす」という重力頼りの排水(オープンシステム)が主目的ですが、日本のものは「農業生産という生命線を支えるための精密な配水(クローズドシステム)」として設計されています。
さらには、日本では陶管の周囲や、水の出口(水口)には、水圧で土が削れないように「石」で丁寧に護岸・補強がなされています。「土を焼けば不変になる」という確信のもと、木製の樋ではなく、あえて製作コストの高い「陶製」を選び、地下インフラ化した点は、「後世までインフラを維持する」という、大陸の王朝交代劇にはない「継続の意志」の現れです。
3,000年前にソケット式の陶管を用い、加圧や沈砂まで計算に入れていた板付遺跡の技術は、当時の世界標準を遥かに超えた「オーバーテクノロジー」であり、中国にはなかった技術です。
日本の石工技術は独自に発展
先に話していますが「土管」に関しても日本の方が古く、約3,000年前ほどと秦より若干遡る時期には、日本の水田稲作インフラとして実用的な「土管」が確実に稼働している遺構が見つかっています。福岡県の板付遺跡や雀居遺跡ですが、この環濠集落において、「陶製(土製)の給排水管」が発見されています。
4,000年前
石囲石棺(初期)板石で「密閉空間」を作る
大湯環状列石
3,500年前
多層配石墓石棺の周囲を石で積み固める
中部地方の諸遺跡
3,000年前
支石墓・積石マウンド地上の巨大石と地中の石積みの融合
原山支石墓、牛石遺跡
3,000年前
陶製(土製)の給排水管
板付遺跡、雀居遺跡
1,400年前
石を精密にくり抜いてパイプ(土管や銅管)を通し、水を漏らさず、意図した場所にだけ通す(噴水・水路)
飛鳥京跡苑池
板付遺跡や雀居遺跡は、以前は2,300年前とされていましたが、近年の炭素14年代測定法(AMS法)による再調査の結果、板付遺跡や雀居遺跡に見られる「高度な水利OS」の年代は、実質的に3,000年前(紀元前10世紀頃)まで遡ることがほぼ確実視されています。と言う事は、秦朝(BC221~206年)より古くなります。
中国にも朝鮮半島にもない、日本だけは「石工技術」が継続し連続した形で変化していた記録(遺構)がしっかりとあります。
同時に、その技術は中国よりも高度なものです。
どうも、中国から来ているのは仏教を含めた思想や威信財、茶などの嗜好品といった、『上層の権威や支配を強めるもの』がやってきています。
それに対して『生活に密着するインフラ』、水利技術や石工技術、農作や豆腐や発酵食品といった保存食などの『社会基盤となる技術』は、日本の方が基本的に高度であり、その技術が日本から中国に伝播している事が、考古学的な遺物・遺構の痕跡を重ねていくと判ります。
技術分野で中国から日本に来たものは少ないようですね。
建築技術
建築物でも、唐代の長安などの巨大都市を支えた建築技術は、驚くほど単純な側面を持っています。唐の建物の土台は、基本的に「版築(土を叩き固めたもの)」です。石は表面を薄く飾る程度で、構造体としての石工技術は未発達でした。また、部材の単純化をしており、 巨大な宮殿を短期間に大量に建てるため、部材は単純化されています。組物(屋根を支えるパーツ)も、力学的な複雑さよりは、視覚的なボリューム感を優先しているので、長持ちはしない構造です。「壊れたらまた作ればいい(労働力はいくらでもある)」という思想があるため、接合部の精密さよりも、全体としての巨大さが優先され、耐久性への無頓着なものです。
というので、現代までにあまり残っていないのですね。
それに対して同時期の日本(法隆寺、薬師寺、唐招提寺など)の建築は、大陸のデザインを借りている(かもしれない)つつも、中身は全く別の「精密機械」として作られています。自然と共存しながらもそれに耐えうる構造ですね。
日本は地震多発地帯です。単に柱を立てるのではなく、部材同士を「あえて遊びを持たせて組み合わせる(継手・仕口)」ことで、振動を吸収する高度な数理設計を導入しています。
また、唐が土の上に柱を置いたのに対し、日本は「石の礎石」を精密に配置し、その上に柱を固定せずに載せる(石場建て)という、免震構造に近い技術を完成させています。
これらの考え方は一朝一夕で出来るものではなく、地震が殆ど無い中国では発想自体ができないものです。ですので、この構造というのは、これより以前の時点で日本に既にある独自の建築技術でなくてはおかしく、完成された形がこの時期の木造建築です。
他にも多雨の日本において木材を腐らせないよう、巨大な屋根を大きく張り出させる必要があります。これを支える「跳ね出し(はねだし)」の構造である「軒」の科学は、日本より雨量が少ない大陸よりも遥かに複雑な天秤の原理(力学シミュレーション)を必要としています。
デザインが「かもしれない」というのも、逆の可能性(中国が日本の真似をした可能性)があるからですね。中国から日本に、だとそのままでは使えない技術なのでやはり長い試行錯誤の時間を必要としますので、説明に整合性がとれないのです。でも日本から中国にだと「技術を真似ができないから単純化した」で説明が終わります。
「建築」の話をしたのは、「石工」ではないですが「瓦」があるからですね。日本の「瓦」はよく「瓦は仏教と共に来た」ように言われますが、これは間違いです。日本の「瓦」は中国で仏教が入って来る前の時代からあります。
「仏教以前、神道に関連する瓦」があるのですね(実は、中国も仏教が入って来るのはそれほど日本と差がありません。紀元1世紀頃にシルクロード経由で伝わったとされますが、初期は「異民族の怪しげな術」として扱われています。知識層や国家が本格的に受容するのはそれから400年以上経ってからで、独自の造形を生み出し始めるのはAD3世紀〜4世紀(魏晋南北朝時代)に入ってからです。
日本は確認できる最古はAD522年には入ってきています。これは、実は高句麗とほぼ同じ時期です。『扶桑略記』には522年に来朝したとされる司馬達等は大和国高市郡において本尊を安置したとありますし、『日本書紀』で見られる仏教の痕跡は欽明天皇6年ですので、AD545年ぐらいになります。
どちらにしろ、AD6世紀前半の話ですね。
これは、中国北方の歴史と関係しており、北魏の三代太武帝(AD423~452年)では廃仏を断行されるが、それ以降は仏教信仰は増え始め、六代献文帝(AD465~471年)国内の求心力を高める意味からも仏教弾圧を廃止し、仏教信仰が増えていった事から、近隣で私伝した信仰はあると思われます。
高句麗には、丁度「延嘉七年銘金銅仏立像(AD539年)」が高句麗県で作られる前ぐらいの時、北魏末期の戦乱と政治的混乱を避け、高句麗へ退避した高名な僧である法上が高句麗王の庇護を受ける事から高句麗仏教ができますので、AD530年代になる。この退避した僧は日本にも来ており、北魏の僧であった善正上人がAD531年には来ています。司馬達もAD522年なのですが、やはり同じ退避してきたのではないでしょうかね。北魏仏教になります。
ちなみに高句麗での仏教興隆はすぐに収束してしまい、AD6世紀末頃には道教文化が興隆し、仏教文化は圧迫され殆どが消えていきます。
しかしよく言われる「仏教伝来」というのは南方仏教(中国仏教)の事ですね。南方仏教に関しては、朝鮮百済である”慕韓”や朝鮮新羅よりも日本の方が少し古いか、同時です。
時期とすると、梁への使者派遣の際に慕韓がついてきていますが、このタイミングで中国仏教を勧められた者と思われます。
新羅だと、慶州の南山からは、6世紀後半になると、中国南朝様式の影響を受けた石製仏像が出土し始めます。これらの仏像は、北魏様式とは異なる優雅で繊細な表現が特徴で、この頃に新羅には中国仏教が来た事が判りますが、これはたぶんですが、慕韓(百済)よりも日本からの影響ですね(当時、新羅は日本の属領ですので)。これは梁への使者の際には、新羅は随行して無かったから、というのもあります。
しかし、「瓦」自体は中国に仏教が受け入れられるより前の時代、AD2世紀〜3世紀には既にある事が判っています。福岡県・志賀島などで出土する瓦は、仏教が公伝する数百年前のものです。日本で言えば、魏志倭人伝の時代より前、と言う事ですね。これは、日本列島が大陸の「宗教」とは無関係に、純粋な「建築資材・技術」として瓦を独自に持っていたという証拠です。
また、AD3世紀の高宮遺跡には巨大な掘立柱建物に関連して瓦が出土しています。これは「寺院」である訳がなく(まだ知識層や国家が本格的に仏教を受容していない時代です)はなく、「神殿」や「王権の居所」に瓦が使われていたものです。
神道の社殿は「自然の腐朽」を前提とした茅葺きが主となりますが、その一方で、古くから「石と土と火」を操る技術者集団が、聖なる空間や取水口などの重要なインフラに、焼き物(瓦)を用いていた痕跡があります。
「屋根を覆うための瓦」という現代的な定義ではなく、「建築構造を保護・装飾するために、土を平たく精密に焼き固めたもの」という工学的な視点で遡ると、日本の最古の痕跡は縄文時代後期(約4,000年前頃)にまで到達します。
考古学的には「瓦」とは呼ばれませんが、機能と製法においては瓦そのものである縄文時代の「瓦」の先駆である板状土製品と床タイルがあります。時期は縄文時代中期〜後期(約4,500年〜4,000年前)で、青森県の三内丸山遺跡や石川県のチカモリ遺跡など見つかるものですね。そこには、竪穴住居の床や、特定の聖域に敷き詰められた「板状土製品」があります。縄文人は、土を平らな板にして焼き固めることで、「水(湿気)を遮断し、腐朽を防ぐ」というインフラの基本原理を完成させていました。これはまさに、屋根に載せる前の「床の瓦」です。
さらに「取水口などの重要インフラ」としては、弥生時代前期〜中期(紀元前4世紀〜紀元前後)に既にあり、土管(陶管)とセットで使われる、排水口の「蓋」や「翼壁」としての焼土板があります。
「土を平らな板状に焼き固め、建築部材(インフラ)として使用する」という工学的技術で言えば、日本の縄文時代は中国大陸の最古の瓦(龍山文化期:約4,000年前)よりも古くからあります。
中国大陸を見れば、
・約4,000年前〜(龍山文化期)
この時期に陝西省・石峁遺跡などで最初期の瓦状遺物が出土しています。
・約3,000年前〜(西周時代)
この時期からは「屋根を覆う建材」として利用され始めています。
それに対して日本は、
・約5,000年前〜(縄文中期)
三内丸山遺跡などで「板状土製品」や「床の焼土」が見られます。
・約4,500年〜4,000年前(縄文中期末〜後期)
チカモリ遺跡などで、床タイルとして機能的に敷き詰められています。

”瓦”も含めた「板状土製品」で見ると、とても分かりやすく「東から西(日本から中国)」と伝播した技術文化だと判ります。
また、日本ではチカモリ遺跡や三内丸山遺跡では、すでに定住集落の床に「板状土製品」を敷き詰め、湿気対策や断熱を図る「タイル工学」が一般化しています。しかし、大陸側は日本より遅れて使われ始めていますが、あくまで「都市の支配層の建築」に限られた特殊な技術という印象が強い使われ方をしています。
もう1つ、龍山文化は古層文化に位置し、古層の先住民が作った文化です。陶寺遺跡を含む龍山文化やその周辺では、やはり縄文的な要素が顕著に見られます。
・耳飾(けつ状耳飾り)
石や玉を加工した、円形の一部が欠けたタイプの耳飾りは、縄文時代の日本列島で爆発的に普及した形状です。これが大陸沿岸部(興隆窪文化や龍山文化)でも同様に見つかっており、装飾文化の強い繋がりを示しています。
・木製容器と食形態
陶寺遺跡で箸状の棒とセットで見つかる「木製の平皿や高坏」は、縄文晩期の亀ヶ岡文化などで見られる漆塗りの食膳体系と極めて造形が似ています。
・環濠集落
集落の周りに溝を掘る構造も、縄文前期の真脇遺跡などで既に見られますが、陶寺遺跡もまた大規模な城壁や壕を持つ構造であり、定住化における空間設計の思想に共通点があります。
と、やはり「縄文系民族」が定住していた場所で、彼らはその後に中国沿岸部を撤退し、その後に後古層の、この地域だと漢民族の祖先が入って定住する場所です。
つまり、「日本列島から中国大陸、縄文系民族が伝播させ残して行った文化」なのですね。
ただし、龍山文化は「前期」と「後期」に分かれます。縄文的な要素が多いのは「前期」であり、正確には「古層文化」と「後古層文化」、つまり文化を作っていた民族自体が途中で変わっています。
これが顕著に見えるのが幾つかあり、例えば「漆器」ですね。
龍山文明前期の「漆器」は、山東省の龍山文化遺跡や陶寺遺跡から出土した漆器の一部に、「スギ」や「ヒノキ」の細胞構造を持つ木胎が確認されています。これらの針葉樹は、当時の大陸東部〜中原には自生していません(あるいは極めて限定的)。一方で、日本列島では縄文時代から漆工の「最適解」としてスギ・アスナロ・ヒノキが選別・利用されてきています。漆の膜を化学分析(Py-GC/MS法)するとその精製プロセスが可視化されますが、成分比率(ウルシオールとラッカーゼの含有バランス)が、日本列島固有の種に近いことが複数の論文で指摘されています。これは、大陸側が自らウルシを栽培・精製していたものではないという事です。
また、龍山文化前期では「漆器を作る為の道具」が出ていないというのもあります。つまり、龍山文明の漆器は、日本からの輸入品だったわけです。「縄文系同士の交流・交易」ですね。
ところが龍山文明後期の「漆器」については、木胎(土台)の質の低下がみられます。前期龍山までは、年輪の緻密な良材を極限まで薄く削り出す「縄文的」な高度な木工技術が見られますが、後期になるほど厚みが不均一になり、削り出しの精度が目に見えて落ちていきます。これはそもそも、前期と材料が違うからです。前期に見られた、日本列島産と思われるスギやアスナロといった木材を使った漆器は消えます。その代わりに、現地調達できる大陸中原に自生するナツメ、ポプラ、ニレなどの広葉樹が使われています。
さらに、塗膜の薄層化と剥離が起こっています。陶寺遺跡などの末期遺物では、漆の層が極めて薄く、本来、木と漆を密着させるには「下地(漆に粉末を混ぜたもの)」を何層も塗り重ねる必要がありますが、後期ではこれが省略され、木材に直接薄い漆を塗っただけの状態が見られます。漆自体も加熱精製が不十分で水分量が多い、あるいは植物油などで量をかさ増ししたような、強度の低い漆が使われています。
また、前期の鮮やかな「赤」は、純度の高い辰砂(水銀朱)などが使われていましたが、後期では酸化鉄の純度が低いものや、単なる赤い泥などを混ぜた形跡があり、結果として「くすんだ、不鮮明な色」になっています。
さらに、龍山文化を継承したはずの王朝の成立期とされる二里頭文化(紀元前1800年頃〜)では、驚くべきことに、あれほど隆盛した漆器が、主要な宮殿遺構や大墓からもほとんど姿を消します。出土しても、ごく簡素な塗りにとどまります。
古層民族が去り、後古層民族は遺物を真似をしようとして、劣化模倣品しか出来なかったのですね。古層の民族の文化を、後古層の民族は模倣しか出来ず、技術が失われていったわけです。
この「板状土製品を屋根に乗せる」というアイデアは日本には中国からきたものか、インドから日本にやってきたものかは正直判りません。AD2世紀頃、つまり漢末の頃に「板状土製品の別の使い方」として出戻りしてきた文化と言う事です。
どちらとも交流していたので、どちらもありえるのです。
ただ、中国からのアイデアの可能性が高いでしょうか。
「饅頭」が現れる少し前の時代ですから、「蒸しパン」という「粉食文化で蒸す調理法」という食文化が日本から中国に伝播した時期ぐらいの交流で入って来た文化なのでしょうね。
たぶんですが「見栄えがいい」というので日本に受け入れられたのだと思います。
建物の「上に乗せる」か「下に敷くか」という差はあるのですが、同じような「板状土製品を建材として使う」というのがあり、日本の方が少し古いです。「屋根」か「床」かの違いに過ぎないのです。そして、「土を板状に焼き固める」というバイオ・ケミカルな加工精度は、日本では数千年にわたり、一度も途切れていません。
考古学界がこれらを「瓦」と認めないのは、単に「屋根に載っていないから」という形式的な理由です。しかし、工学的な「製法」と「目的」を見れば、その差は無意味です。
乾燥した中国大陸では、建物の敵は「たまに降る激しい雨」から版築(土の壁で流水に弱い)を守ることでした。そのため、彼らは同じ技術を「屋根(傘)」に投入しているのです。
それに対して日本は多雨多湿です。家を長持ちさせるための最大の敵は「地面からの湿気」です。そのため、縄文人は”瓦の技術”である「板状土製品」をまず「床(土台)」に投入しているのですね。
技術的にも日本の方が成熟しており、大陸(唐)の瓦が数百年で朽ち果てる中、日本の瓦は1400年もの間、建物の屋根で現役として生き残るという差が出ています。
そもそもですが、約4,000年前〜(龍山文化期)の「この時期に陝西省・石峁遺跡などで最初期の瓦状遺物が出土しています」というのがありますが、これが「屋根の上にあったのか」「床に敷いていたのか」は判っていません。出土状況も「屋根から崩れ落ちた状態で重なって見つかる」と言う訳ではなく、建物の基礎周辺や瓦礫に混じって発見されいるものです。
瓦葺きの建物が崩壊した場合、屋根瓦はまとまった面として、あるいは特定の層(瓦溜まり)として地面に重なって残ります。しかし、石峁(せきぼう)遺跡などの初期遺構においては、そのような状況は見られません。
これらの焼土板の出土状況は、建物の「基壇(土台)の周囲」や「ゴミ捨て場のような穴」から、他の土器片や石器、動物の骨などと共に散発的に見つかっています。「平らで硬い焼き物である」→「後の時代の瓦に似ている」→「だから屋根に載っていたに違いない」という、後世の視点からの逆算(予断)によって「瓦」と呼ばれているに過ぎず、推論の歪みでしかありません。
発見された現場の状態から、この龍山文化の「板状土製品」は「床に使っていた」ものでしょう。
これが「瓦」なら、約5,000年前〜(縄文中期)の「三内丸山遺跡などで「板状土製品」や「床の焼土」が見られます」というのも「瓦」と言っても構わないのです。
時代を考えると、この「板状土製品を建材にする」というのも「日本から中国に伝わったもの」となります。
西から来た技術か?と調べましたが、5,000〜4,000年前の西側(中東・エジプト・インダス)に、日本の板状土製品や後の瓦に類する「焼き物建材」は存在していません。メソポタミアやエジプト、インダス文明は「乾燥地帯」です。彼らの建築で使っているのは「土を型に入れて乾かすだけ」の『日干しレンガ』です。
5,000年前(日本の初期)〜4,000年前(中国の初期)というと、丁度、縄文海体で海水面が下がっていき、古層の文化を作っていた民族、中国沿岸から縄文系民族が去っていき、西から大陸内陸民族(今の中国人の祖先)が変わりに住み着き始める時期です。
この初期の「板状土製品を作り建材にする」というのが日本で発祥し「床」に使う(4,500年前)ようになっており、これが日本から中国に伝播し、そこから中国は「屋根」に使う(4,000年前)ように分かれたもののようです。
これを漢代で日本と中国が交流・交易する中で、日本は中国はこの「板状土製品」を床ではなく屋根に使っているのを知り、日本でも屋根に「瓦」として使い始めたようですね。それでも建物の床に「敷瓦」を敷き詰める手法は、奈良・平安時代でも行われており、これはまさに「縄文の床タイル」の正当な後継と言えます。
また、「秦の排水の土管」も、日本の板付遺跡や雀居遺跡の「給排水管の土管」というのを交易の中で知り、数百年遅れて模倣(真似なので機能的には限定で排水のみとなった劣化コピーだが、それでも当時の中国だと最新技術)したものかもしれません。この時期と言うと、丁度、石皿などの『軸無し石臼』が中国に現れる時期と重なっており、穀物も粒食だけでなく粉にして加工するものや、大豆発酵食品などが中国で出てくる時期です。日本と交易・交流し文化交流(日本が一方的に来るだけですが)していた時期であり、始皇帝が東の海の先に不老不死を求めた時期です。記録にも僅かに出てきますが、日本と交易をしていたのは確かなのですね。
この秦代というのは「中国(秦)より優れた技術が東の海の向こうから幾つもやってきた時期だ」であり、憧れを持たれていたと考えれば、始皇帝が中国から見ればオーバーテクノロジーなその優れた技術である「”東の海の先にある仙境”で使われている”土管”」を模倣し、そして陵墓にも付けた、というのも判る気がします。
中国の遼河・黄河・長江などにある古層にある「古代文明」、これは中国沿岸部であり、海洋利用していた縄文人の開拓定住地で、縄文人と日本国内の縄文文化の派生であり。
縄文海退で海水面が下がっていった4,500年前後にその古層民族は撤退し、代わりに既にあり残っていたインフラを利用?技術盗用?をして定住し始めたのが、現在の中国人の祖先となる民族。
――と、検討を重ねていくと、このような構図が一番整合性が取れますね。
交流・交易自体は日本と中国大陸で細々ですがずっとしているようで、例えば三崎山A遺跡から出土した青銅刀子は3,200年〜3,300年前のもので、中国の「殷(商)」時代の青銅器と同じ鉛同位体比を持っています。
「殷」ですから、3600~3100年前でも交流・交易しているのですね。
飛鳥瓦
飛鳥時代の仏教建築に作られた『飛鳥瓦』、これも出来るだけ辿ってみると、こうなります。
この「板状土製品を屋根に乗せる」というアイデアは日本には中国からきたものか、インドから日本にやってきたものかは正直判りません。AD2世紀頃、つまり漢末の頃に「板状土製品の別の使い方」として出戻りしてきた文化と言う事です。
どちらとも交流していたので、どちらもありえるのです。ただ、中国からのアイデアの可能性が高いでしょうか。
でも、技術自体は、日本国内の技術史で完結しています。
当時の中国の『瓦』の作り方は、円筒形の型に粘土を巻き付け、後で分割する「模造法」が主流です。これは乾燥した地域に適した技法です。漢城時代の風納土城などで見つかる初期の瓦は「華北・北方式」の系譜ですね。
熊津時代の「南朝様式」、梁の作り方ですね。これは紋様が刻まれた凹型の範(はん)を、粘土に強く押し当てる、あるいは型の中に粘土を詰め込んで成形するという手法です。ただし、大通寺の瓦は「飛鳥様式」です。他にも、王宮里・王興寺など日本が関与した形跡がある少数で「飛鳥様式」は見られますが、それより後の建築物でも南朝洋式の瓦を使っている方が多いです。
「飛鳥様式」は、「叩き締めとの同時成形(鍛造的生成)」というもので、「叩き締め」という日本古来からある板状土製品の思想がそのまま反映されています。技法としては、単に型を「押す」のではなく、文様が刻まれた「当板(あていた)」を裏から当て、表面を「叩き締める」ことで、粘土の密度を極限まで高めながら、同時に紋様を浮き上がらせます。叩き締める圧力によって粘土が紋様の隅々にまで充填されるため、南朝のオリジナルよりもエッジの効いた、非常に鋭い紋様になります。
さらに、紋様の厚みに合わせて、ヘラで裏面を削るという肉厚の調整があり、全体の歪みを防ぐ「ヘラ削り」がセットになっています。
これは「南朝洋式」の「型抜き」ではなく、金属を叩いて形を作る「鍛造」に近いプロセスです。
2~3世紀の日本の高宮遺跡などの初期瓦で見られる「ヘラによる調整」の痕跡は、BC10世紀には日本で始まっており、AD5世紀の須恵器製作でも使われている「叩き締めた粘土をヘラで削って厚みをミリ単位で調整する」という超高度な技法を完成させています。これは中国瓦にはない技法ですが、これが大通寺の瓦などにも見られます。
百済の瓦は、型に頼り切った比較的「大雑把な」作りが多いのに対し、飛鳥瓦は裏面まで緻密にヘラで仕上げられています。この執拗なまでの「ヘラ仕上げ」こそ、日本列島で数百年間磨かれた日本の建築職人魂の現れで、特徴にもなります。
この「叩き締め」は、インドや東南アジアで見られます。
BC4世紀頃のインドでは「叩き締め」による板状瓦の出土しますが、これも「突然出てくる」コンポーネント文化技術です。
AD1世紀頃は東南アジアあたりでも同様の物が見られます。
D1a2系統はインド西側のアンダマン諸島でも見つかり縄文人はそこまで行っていたようであり、
日本の製鉄技術はインドの初期製鉄(BC10世紀頃)の系譜である。
というので、そちらの方にも影響を与えているようです。
大通寺の瓦が「へらを使った痕跡」がありますから、それはより古い時代からへらを使った造形をしている日本からの伝播だというのは確実なんですね。中国や朝鮮半島の瓦製作には、基本的に「裏面をヘラで緻密に削る」という工程がありません。彼らにとって瓦は「型から抜くもの」だからです。
ちなみに、蓮華文ではないですが、日本国内の古墳から出土する鏡や装飾品の文様には、百済に現れるよりも前の段階で南朝風の意匠が取り入れられています。日本からすれば「エキゾチックなデザイン」だったのでしょうね。
『日本書紀』などの文献上の解釈で、飛鳥寺建立で「588年に百済から瓦博士がやってきた」と解釈して説明しているものは多いです。
しかし、出土する「物(瓦)」が語る証拠を並べると、その「博士」たちの正体は、「日本の職工」で、ヘラの工程が瓦造りにない渡来人であるというのはおかしいんですね。
百済の博士が日本に教えに来たのなら、なぜ「百済にない技法(ヘラ削り)」を日本で教えることができたのでしょうか? 現地の地層にない技術を、他国で教えることは不可能です。つまり、「日本で既にヘラ削りを極めていた職人」が、瓦製作の現場を仕切っていたということです。
原文を読めば、
元年春三月立大伴糠手連女小手子爲妃是生蜂子皇子與錦代皇女
是歲百濟國遣使幷僧惠總令斤惠寔等獻佛舍利
百濟國遣恩率首信德率蓋文那率福富味身等進調幷獻佛舍利
僧聆照律師令威惠衆惠宿道嚴令開等寺工太良未太文賈古子鑪盤博士將德白昧淳瓦博士麻奈文奴陽貴文㥄貴文昔麻帝彌畫工白加
とある。
「百済國の僧侶がが仏舎利を奉納、百済国の使者(具体的名)が奉納した。」ここまでではいい。百済使節 は「恩率」「徳率」という百済独自の官位が明記されています。
しかし、その後のは
「百濟國遣僧聆照律師令威惠衆惠宿道嚴令開等寺工太良未太文賈古子鑪盤博士將德白昧淳瓦博士麻奈文奴陽貴文㥄貴文昔麻帝彌畫工白加」
でも
「百濟國遣寺工太良未太文賈古子鑪盤博士將德白昧淳瓦博士麻奈文奴陽貴文㥄貴文昔麻帝彌畫工白加」
でもありません。「百済國から遣わされた」は、下二行の僧侶と職工には掛かっていません。ここには、「(日本の)僧侶と(日本の)職工も同席した」ときちんと書かれています。
「百済人ではなく日本人だ」と明確に判る人たちもいます。
「聆照」が「律師」という肩書きでこの場面(588年)で突如現れること自体が、彼らが日本側のシステムの中にいる証拠です。「律師」は日本国内の役職: 「律師」とは、僧侶を統制し、国家のルール(律)を運用する日本独自の僧官制度(僧綱)の先駆けとなる称号です。もし彼が百済の僧侶であれば、百済の僧位(位階)で呼ばれるはずですが、ここでは日本側の管理職名で記されています。
聆照という名は、後の日本の僧侶の系譜において「大陸で律を学び、日本に持ち帰った開祖的な存在」として位置づけられています。彼がリストの筆頭にいるのは、百済から届いた「仏舎利」という重要な国家機密を扱うにあたり、「大陸のルールを熟知し、かつ日本の国益を代表する最高責任者」としてそこに座っていたからです。
恵宿という名は、日本の仏教史上、極めて重要な「日本固有」の動きを見せる名前です。
後に聖徳太子の師の一人とされる「恵宿」は、百済から派遣された期間限定の教師ではなく、日本の風土に根ざし、各地を行脚した伝説を持つ日本所属の僧侶として記録されています。
また、当時の百済の僧侶は「道」「慧」を冠する名前が多いですが、このリストに並ぶ「令開」「令威」などの「令(ルール・律)」を重視する名付けは、当時の倭国の官僚組織(律令制の前段階)に連なる日本側のネーミングセンスに極めて近いです。
原文が示しているのは、「百済の使節が仏舎利を持ってきたので、それを受け取るために、日本が誇る最強のエンジニア集団と高僧たち(聆照ら)をズラリと並べて応対させた」という光景です。
職工たちは「百済が持ってきた仏舎利を、自分たちの技術でどう最高の建築に仕上げるか」を判断するために並んでいた「親玉」の技術者たちです。
