『魏志倭人伝』の時代の船について
これは『魏志倭人伝における記述の距離』の中に記載しているものですが、埋もれてしまうので、同じ文章ですが抜粋してこちらに。
【三国志時代の船】
もう一つ、理解しておかないといけないのが、当時の中国の船は基本的に河川や、穏やかな海を渡るためのもの、という事です。
外洋との違いをあまり理解していなかったのは、想像も難しくありません。
古代中国だと、平底の「三板」というのは確かにあり、利用をされていました。これは河川や、そして渤海の様に海流がほとんどない比較的安定した水の上で利用するものです。

三国志時代で魏・呉・蜀で比較的船の技術を持っていたのは南方(東南アジア)と交易をしていた『呉』であり、孫権が東南アジアに使者を送ったりもしています。それに対して、中央内陸側の『蜀』や中原北方の『魏』は基本的には平原の騎馬農耕民族ですので、船技術が遅れていました。有名な赤壁の戦い(208年)でも周瑜が「中原出身の曹操軍は水軍による戦いに慣れていない」と言ったとありますね。また、長江で川幅が大変広いと言っても、河です。外洋のような荒波と風の厳しさとは比較になりません。
この当時の船は、船底が平べったい、竜骨を備えていない船です。竜骨がないというのは、船体の強度に欠けるという事であり、波の穏やかな河川や湖に向いた船で、外洋には向きません(魏の時代から1200年以上後の時代、明のAD15世紀に鄭和のように外洋航海を行った例もあるが、その頃は宋時代で船舶技術が発展した後の時代の話です。それ以前の時代ではやはり外洋の荒波には向いていない船が基本で、唯一と言えるのが、東南アジアの船舶文化が伝達している中国南東部です)。

三国志の時代だと、南方と交易をしており東南アジアの船舶技術を取り入れていた呉はもう少し違ったのですが、中原北方から遼西・遼郎地域が支配圏だった当時の魏で、魏志倭人伝で邪馬台国との使者のやり取りはAD238~247年で、まだ蜀もあった時代ですので、外洋を渡れるような造船技術は持ち得ていない時代です。
記紀と晋書にある倭人と晋の交流はAD266年になります。

魏が利用した「海」というと、主に『渤海』です。日本人ではあまり分からない渤海の状況、これは、「浅瀬がある閉鎖的な内海で、外洋に比べて波が穏やかな海」であり、瀬戸内海ような外洋に比べて穏やかな内海が大きく広くなっている場所です。中原北方から遼東地域までが主な支配地域で、基本的に騎馬民族と農耕民族が混ざった騎馬農耕民族。
外洋を渡る船が発達しなかったのは、当然の事なのですね。
また、日本にとっては「安定した海」である『黄海』も、当時の魏など北方系民族にとっては「荒波」で渡航が難しい『大海』です。
対して外洋は、黄海よりも更にうねりや荒波が発生しやすく、航行にはより高度な技術や船の性能が求められます。日本人は昔から、この外洋も利用していた民族なのです。魏は蜀を亡ぼした後、晋の時代になると呉を亡ぼすために多くの軍船を建造しますが、これも海船ではなく河船です(巨大な舟を作っていますが、外洋には到底耐えられない形状です。建造時に建材が呉に大量に流れ着いたとも書かれていますが、これは長江の上流側で作っていて、その建材が川で流されて下流の呉に流れ着いたという事です)。
日本の記紀には海上を渡る話が度々登場するが、中国大陸には航海に関する古代の記事に接することは極めて少ない。中国の歴史を振り返るに、王朝の興亡を決したのは殆ど陸上戦であり、舟を使った戦も主戦場は河川であって海上ではなかった。
このため、近年に至るまで中国には「海軍」という呼称はなく、舟師・水軍などという言葉が用いられてきた。この「舟師」という記述が史書に登場したのはBC7世紀ころであり、やはり海上では無く河川の戦いである。
最古の中国の帆船に関する最初の記録は、漢代の『南州易武志』に見られるものだが、やはり南方、つまり呉の地域の話である。呉の時代だと『南州異物志』というものもあり、東南アジアの船舶技術が入っていて、魏蜀とは異なり呉は外洋交易をしていたのである。この時の外洋船の構造は、東南アジアの海洋民族のものになる(そして、その航海地域は旧スンダランドで、やはり外洋に比べると安定した沿海になります)。
実際、魏が楽浪郡・帯方郡の遼東地域を支配していた公孫氏を攻める際には、それを知った呉は船を出して救援に向かっている。これは間に合わなかったが、楽浪郡・帯方郡の遺民を船に乗せて南に帰っている。
これは、呉は沿海沿いを渡る事の出来る海洋船を持っていたが、魏は海洋封鎖(比較的簡単にできる山東半島から遼東半島など)するほどの海洋船技術をまず持っていなかった、という事でもありますし。
また、あくまで安定した緩い海流である沿海航路で、また渤海の対岸にある場所であって(この渤海というのは水深が浅く、海流もほとんどなく、冬には凍る事もあり、前燕の時代では徒歩で走破した事も書かれています)、黄海を横断する様な航路ではないのです。
【三韓は遼東半島?】に書いていますが、実際、中国史書を読んでいくと、「楽浪郡」というのは朝鮮半島というのはありえず、北魏の正史である『魏書』まで、一貫して遼東地域にある事が書かれています。そもそもで、『朝鮮』という場所が、古い、伝承などが多く記録されている『山海経』では「朝鮮は列陽の南にある」と書かれており、古代において「列陽」とは現在の中国・遼寧省にある遼河と北遼河の合流地点付近を指す地名です。
そうすると、「魏が楽浪郡・帯方郡の遼東地域を支配していた公孫氏を攻める際には、それを知った呉は船を出して救援に向かっている。これは間に合わなかったが、楽浪郡・帯方郡の遺民を船に乗せて南に帰っている」というのですが、これも航路が大体判ります。

魏が西から楽浪郡・帯方郡を攻め、そこに居た人々は南に移動。救援に来ていた呉船に遼東半島の西端で拾われて戻るというルートです。
これは海流や海域の安定性を考えても大変に合理的で、基本的に安定した沿海でしか使えない船であっても可能なルートになり、水深が渤海より深い黄海とそこを流れる海流はほぼ避けるというルートです。
ルートとしても、北上は海岸すぐの場所を移動し、少し沖合にある南下する海流の影響を避けながら北上。小島が点在しており水深が浅く、海流もほとんどない渤海海峡(山東半島と遼東半島を結んでいる小島群の連なりがある場所)を通り、そちらに逃げてきていた楽浪郡や帯方郡の人達を拾う。すでに手遅れと知り、人を乗り込ませて再び渤海海峡を通り南にいき、海岸から少し離れた沿岸沿いの南下する海流にのって南下した、というルートをとったのだろうと思います。
中国で船技術が高まってくるのは宋の時代なのでAD10世紀以降なのである。

実際、縫合型の板接ぎ舟の発掘は中国自体ではほとんどない。
その周辺、つまり日本、タ イ、ベトナム、ミャンマー、台湾などでは縫合型の板接ぎ舟が知られている。中国では12世紀後半の記録で海南島で縫合型の板接ぎ舟が報告されているのである。
海と共にある生活をする周辺国に比べると、中国はやはり内陸の生活が基本で、船に対する技術欲求は薄く、船構造技術については周辺国より低かったのである。
【和船の歴史】
ちなみに、この当時(三国志の時代)の中国の船は本当に下面がフラットな平底形状です。これは基本的に安定した河川や渤海で使っていた為ですし、簡単に言えば筏からの発展型なのです。水切りをする為に船先を上げ、人が落ちないように縁を持たせた形と言えばいいでしょうか。
基本的に内陸部に住む騎馬民族がそのルーツになります。

それに対して日本の船は、丸太舟からの発展形である準構造船の遺物から、平底といっても湾曲した形状をしていた事が判っています。この形状は葦船からの形状でしょうが、4~3万年前に日本に上陸する時点には既にある海洋利用民族の船の系譜なのですね。
また、これは単純に利用する海域の差でしょう。
主に内陸での生活であり、水を利用するのは安定した河川や海域を使う中国に対して、日本は周囲の波が高い外洋と常に向き合う立地にあるからです。

これより後の時代、奈良時代の遣唐使船が派遣されています。この船は「下面が中国式のフラットな平底形状だった」という具合に書かれている事が多いのですが、これはまず間違いだと思います。
というのも、日本で発掘されている船は、平底型ではないからです。
私は外洋航海船として、また日本の船舶歴史から、竜骨を持たない曲線形状の船底をもつ船を使っていたのではないかと思います。
なにせ縄文時代から外洋を利用していたのに、河川や湖など波があまりない水面では使えるが外洋では使えない下面がフラットな形状の船を使うのはおかしいですし、外洋走破性の低い中国式の平底形状を選ぶ理由がありません。
資料には「先進的な中国の技術が~」と書かれている資料が多いのだが、当時の中国の船舶技術は宋代にジャンク船が発達するまで、中国の船舶技術は周辺国より遅れている傾向にあるので、このような記述もおかしいのである。
この誤解の元になっているのが、『吉備大臣入唐絵詞』という鎌倉時代でうの絵、つまりAD13世紀頃の絵の影響で、これは宋のジャンク船をモデルに描かれているので、実物とはまず違うだろう(先にも書いていますが、中国で船技術が高まってくるのは宋の時代なのでAD10世紀以降であり、整合しますね)。

この絵巻物は、逸話をモデルに描いている当時のフィクション絵本なのです。漫画ですね。
遣唐使の始まる頃の『日本書紀』の白雉元年の記事なのだが、こういう記載がある。
遣倭漢直縣白髮部連鐙難波吉士胡床於安藝國使造百濟舶二隻
「倭漢直」というのは、後漢・霊帝の後裔を称する渡来系氏族の事であり、渡来系技術者集団の元締めのようなものをしていて集団である。その中の「白髮部連鐙」と「難波吉士胡床」を「安芸國に派遣して百済船を2隻作らせた」という内容である。これだが、「百済の船を作らせた」と解釈している人が多い。これは「中国の造船技術が優れていた」という幻想的な思い込みからである。
しかしそうではなく、ここで書かれているのは「百済との往来に使う船を作らせた」という事だろう。というのも、百済は元が前燕系民族なので、外洋船舶技術を持ち得ていないからである。「有史以来の和船史の過半を覆う刳舟式準構造船はまぎれもなく百済船――さらにさかのぼれば中国船――を範とするものであったことは明らかである」と書いている文章も見掛けたが、これは当時の中国の造船技術では無理な話である。「有史以来の和船史の過半を覆う刳舟式準構造船」は、日本独自の造船技術なのである。
ちなみに、中国で準構造船が発掘されるのは次に書かれているが、唐代からです。
つまり、倭漢直の二人は最新の和船を発注しに行った発注責任者という話なだけで、彼らが技術を持って作らせたという話ではないという事です。そうでないならば、「安芸國に派遣」せずとも、倭漢直縣の近くで作る事が出来るはずだからである。
【唐代の船】
では、中国の船は?というと、唐代の中国で唐代の船として、蔀屋北船・讃良郡条理船に類似した部材を使用した、組み合わせ式船体の船である「柳孜唐船」が出土しています。この構造は……?ん?魏やそれ以前の平底構造の船ではなく、日本の構造船と同じ構造だぞ?
唐の時代ですからAD7世紀から(AD618~907年)ですが、その時の船の構造がこうなっています。

これが宋代に技術が進んでジャンク船にとなっていくのである。
それに対して、大阪府四条畷市の蔀屋北遺跡や寝屋川市の讃良郡条理遺跡から出土した構造船の構造ですが、こういうものです。

中国の唐代の船と構造が同じですね。
ですがこの出土した日本の構造船は古墳時代はAD5世紀後半のものです。
ということは、中国から日本に技術が伝播したのではなく、150年ぐらい(あるいはそれ以上で)日本の方が船舶技術として進んでおり、日本から中国に技術が伝播した、ということです。
実際、史料を読んで考えると、中国から日本に最初に来るのは、かなり後の時代、唐代ぐらいからであり、基本的にそれまで日本から交易を行っている。これが逆転したのが唐代の頃からです。
唐の衛禁律には公使(国家による外交使節)以外の出入国は禁止されており、新羅や日本もその例に倣っていたと考えられている。このため、海舶互市(海商による民間貿易)が成立する余地がなかった。
その後、8世紀後半に唐が公使でなくても国が出した公験・過所を持つ者の入出国を認めて、海舶互市を公認するようになった。新羅も程なくこの方針に倣ったが、日本だけは11世紀後半まで原則を改めることはなかったため、遣唐使が廃止されると日本人が海外に出ることは日本では原則としては禁止されています。
つまり、朝鮮半島に倭人の地域が無くなり、百済が無くなり、そして唐との交流である遣唐使が終わり、それまでの外洋交易を停止し、船舶の利用が近海のみになった為に、それまで周辺諸国より進んでいた日本の外洋向けの船舶技術の発達は停滞したのです。
それに対して中国は、それまでの日本や東南アジアの先進的外洋船舶技術を取り入れ、その後に外洋交易を始めた中国の外洋船舶技術が発展していき逆転したのです。
もう少し言えば、日本の船舶技術を取り入れた(というより奪った)新羅が、朝鮮半島西海岸をAD7世紀に手に入れて直接に隋と交易するようになり、唐がその技術をそのまま技術を奪い取り入れていった、というものなのでしょう。その唐時代の船舶の発展と製造力により、百済は唐と新羅の挟撃にあい滅亡し、新羅時代では海賊が九州西岸部を襲い、元襲来があったという訳である。
書いてみると大体、新羅が原因ですね。
【各国の船の構造】
世界の船は、基本は丸太舟から進化していますが、和船は、その中で独自の発展をしています。中国から?朝鮮半島から? いえ、ほぼ影響は受けていません。あるとすれば、朱印船の初期の頃だとジャンク船の影響を受けていますが、それは短い期間だけです。
この違いが何処にあるか?というと、立地環境と木材です。
日本というのは縦にも横にも長く、気候が違うものですから、丸太舟から準構造船になり、そこで進化が日本海側と太平洋側でも違ってきます。和船は、意外と進化の歴史が分かるのです。
西洋や中国と日本の違いというと、内骨格構造か、外骨格構造か、というのがあります。
西洋船は簡単に言えば船体を横方向に、背骨に当たる竜骨(キール)があり、そこから側方向に船の外殻を形作り支える「肋骨(内骨格)構造」を持ちます。その肋骨の形に沿うように薄い板を張り付けていきます。

中国船(ジャンク船)は肋骨の代わりに、隔壁が並べられた「隔壁(内骨格)構造」であり、その連なる隔壁の外縁に沿うように板を張り付けられる構造です。

中国船構造
それに対して和船は「外骨格構造」とも言え、形の主体は外殻がもち、それを横に突っ張りとする梁を設けます。その代わり、外郭の板が厚くなります。また、竜骨(キール)とも言えないのですが、床の1枚が特に厚い木材が使われます。

この和船と中国船・西洋船の大きな違いは、木材になる森林の豊かさが関係してきます。実は、ジャンク船が作られる宋代でも、日宋貿易では日本の木材が輸出されています。貴重な木材を効率的に使う為、中国船や西洋船は骨になる部分以外は薄くした板を使われます。
しかし、日本は縄文時代から植林し自然管理をしていた国であり、森林が豊かですので外骨格をしっかりさせた船を作る事が出来たわけです。

上図は、日本の準構造船から発展した北前船の構造ですが、隔壁構造ではなく、一番厚い板である航(かわら)を竜骨とした構造とも言えますが、でも板ですので竜骨ともやはり言えません。
中国船の影響を受けていない、日本独自の構造だという事が判ります。
近世までの船の構造を簡単に言えば、
西洋船は背骨と肋骨と、肋骨に沿わせた外壁で出来た内骨格構造の船
中国船は隔壁と、隔壁形状に沿わせた外壁で出来た内骨格構造の船
日本船(和船)は頑丈な外壁と、外壁を繋ぎ支える梁で出来た外骨格構造の船
という事です。
現在の一般的な大型船は、和船と同じ外骨格形状に、梁ではなく西洋式の肋骨を這わせた構造と言えます。
【江戸時代の和船の構造】
江戸時代になると、1000石の荷物を運ぶ船も作られており、大型化しています。


「和船は外洋に耐えられなかった」とよく言われているが、日本では国内の交易であっても海洋交易は活発に行われています。当たり前ですよね、海は瀬戸内海を除けば日本海・太平洋とあり、外洋を航海しないと船では辿り着けないのですから。大阪から江戸に船で行く場合でも、太平洋を通ります。
「どの程度までいけるか?」などはあるのだが、当時の西洋基準から見ると技術的には劣っていた水準(というか、これはあくまで『木材』という材料の限界のため。鉄鋼製品を使う現代的視点で見れば、和船は進み過ぎていて、当時の材料ではその構造を活かしきれなかったと言えます)ではあるが、外洋航行は可能なのです。
だって、江戸時代初め頃の時代に小笠原諸島を探検調査したり、南西諸島や沖縄、北海道などとも国内交易をしていたのですよ?
それも、荒波の海を。
日本人にとっては当たり前の海の姿ですが、日本の近海の海はインド洋なみに荒れています。中国沿岸や渤海周辺のように安定した海ではなく、朝鮮半島も南半分は荒れる事もありますが、それでも日本ほどの頻度ではありません。日本海の東尋坊辺りの荒れ具合は日本では日常ですが、朝鮮半島でそれが日常であるのは朝鮮半島の南海岸、対馬海峡と面したあたりぐらいです。

「走波性はなかった」?
いえ、そんな事はありません。
日本の周囲というのは波も高い地域なのであり、このような地理海洋状況で利用していた船が「和船」です。波の高さを見て分かるように、朝鮮半島は南部の対馬海峡を除き比較的安定している海域です。そのさらに北方、遼東地域や中原北部、つまり魏の支配領域だった場所はほとんど波がありません。
太平洋や大西洋を横断しているガレオン船などでも、日本の周囲では難破をしている事例は少なくなく、「日本の周囲の海」というのは海洋航行では難所なのです。
だからこそ、『日本独自の文化、日本独自の技術』というのが生まれているのです。
この「日本周辺海域」での難破は、もう縄文時代からあります。中国長江下流から日本側に離岸流で流されると波が高くなり、難破し、海流と風に運ばれて自然と九州西海岸や五島列島、対馬に辿り着いたという事例があります。もしくは黒潮側に掴まり九州南部や四国土佐に流れ着いた、あるいは和歌山串本に流れ着いたなんて記録は、それこそ幾らでも日本近海では難破エピソードがあります。
日本は中緯度に位置し、温帯低気圧の通り道にあたる事などから気象・海象の変化が著しく暗礁、複雑な潮流など地形的な条件による航海の難所も数多く存在しています。日本の周辺海域は、船舶にとって厳しい環境となっているのです。そのため、日本沿岸海域は有数の海難多発海域となっており、現代でもここ10年間の平均をみると、外国船舶を含めて年間約2,600隻の船舶が海難に遭遇している海です。
実際、現代でもEU加盟諸国27か国にアイスランドとノルウェーを加えた29か国での2021年における海難事故の発生件数は2637件。つまり、1国あたりの平均は90件程度です。
それに対して、日本は年平均で260件と2.9倍ほどになります。

また、魏の時代の大陸側の船舶技術だと、如何に対馬海峡を渡るのが難しいかということですね。日本周囲に比べると、中国南東部から東南アジアというのも、日本周囲の海に比べると安定した海域です。
漢の時代や呉の時代で、中国南部では東南アジアと交易をしていたといっても、今のインドネシアの大スンダランドが壁になっており、南シナ海というのはかなり安定した海域なので、外洋走波性能は低い船でも出来たわけです(それでも季節を選ばないといけないのですが)。
また、海の荒れ具合などから、半島から日本にたどり着くのは船技術と高い海洋走破技術が必要なルートであり、北方から日本に独自で来るという事はとても難しいのですが、台湾から南西諸島を通るルートは渡りやすいのですね。

日本では安全性から18世紀頃から和船ではなく、より強固な西洋式の船を使われていきます。大型化に伴い、材料が木材では和船構造の限界が見えたのです。
なんでもかんでも「中国から来た技術」と幻想的な先入観を持ってはいけません。
【渡航ルート】
太平洋側を除き日本から見て西側にある大陸から日本に来るルートで、最も海域的に難しいとも言えるのが『対馬海峡』の海域です。三国志時代の大陸側の船では渡航が難しいのですね。ですので、
台湾から与那国島(中国南方ルート説)
インドネシアから鹿児島(黒潮交易ルート説)
長江下流から五島列島経由福岡唐津(中国から直接ルート説)
函館から津軽(旧石器時代の北ルート説)
と言った古代の渡航ルート説は、渡航実証実験が成功しています。あろうことか、「日本から南米に?」という説もあり、カヌーで下田(静岡)からサンフランシスコ経由で南米に到着するという渡航実験も成功しています。
にもかかわらず、
対馬と釜山間の人力船での渡航実証試験
というのは複数回行われていますが、いまだ成功をしていません(私の検討では、ある程度帆船を使いこなせるぐらい船舶技術と航海技術が上がらないと、この「釜山と対馬」ルートでの渡航はできません)。
また、古代中国に外洋渡航できる船を作る技術が生まれる土壌も必要性もありません。
古代から日本周辺の外洋を国内交易としても必要とした日本は、その生活の必要性から外洋渡航ができる技術が生まれ土壌があるのです。
まだ成熟していない船構造に外洋渡航技術の時代です。
当然なのですが、海流による影響が大変に強く、帆の台頭により海流より風の力を使えるようになるまでは、海流に寄る後押しがあるか、あるいは凪いで海流の影響がない状態でないと渡航が難しいのですね。ところが、釜山~対馬という渡航ルートは、この海流に逆らう形で移動しようとしなくてはいけないので、古代では難しいルートなのです。
このルート検討でよくある間違いが、「いや、釜山からでも条件が合えば渡航できないことはない」という意見の人ですね。
この考え方自体が大間違い。
確かに、海は表情を良く変えますので、偶発的に「凪の日」があるのはおかしい事ではありません。でも、「渡航」するのに、10回やって9回失敗し難破し命を落とすようなルートで、偶発的に1回成功するというルートは「交易・交流ルートとして使えません」。10回やって9回成功する様なルートでないと、交易・交流ルートにならないのです。
ですので「日本から南米に」というのは実現可能ではあるものの、現実的ではないと考えられているのですね。
だからこそ、そのような「渡航ルート」を大航海時代でも世界は探していたのです。また、以前は失敗したルートでも、それを越えられる船の技術や航海技術が発達により使えるようになるのです。
実際、大航海時代の船舶のデータでも、ルート開拓時は「生存が20%ほど」と言われるぐらいギャンブルな冒険でしたが、ルートを開拓し船技術が上がると「冒険」と言われるほどなギャンブルではありません。ポルトガルからインドへの航海は1497年から1612年までのすべての航海で実際の損失は8.2%ほどである。1580年から1612年にかけての損失は約20%だが、この時期はイギリスやオランダとの海上紛争があり、インドからの帰還船に対する海賊行為による損失が含まれているからである。そんな私掠船がなければ、1497~1579年だと損失は5%ほどなのである(ただ、それでも5%というのはけして低い数値ではないのですが)。
AD3世紀の時代の船技術で釜山から対馬というルートも同じ、現実的ではないルートです。ましてや、中国(魏)側の造船技術では不可能だと断定してもいいです。これが中国(呉)であったら話は別だったのですが。

魏の時代の和船の技術を考えると、出発点はもう少し西の晋州あたりからでもおかしくないのだが、使者をほぼ確実に対馬に送り届ける安全航路を考えると、古来から利用されている高興あたりから出発した、と考えておかしくはありません(商業航路より安全航路)。
実際の波浪情報を追っていても、距離が短い朝鮮半島から日本よりも、距離が長い中国南東部から日本の方が海上の状況は安定しています。また、高興から対馬、五島列島から釜山という航路の方が、釜山と対馬を直接結んだ航路よりも隙間的に比較的マシな海上状況を渡る事が出来る上に、海流や風の力を借りれます。釜山と対馬という航路は、海流の強さ・波の高さなど、海をねじ伏せるような船技術や航海術が必要になる航路で、当時だと中国や朝鮮半島より発達していた日本の船であっても、帆を上手に利用できるようになるAD5世紀ぐらいからの技術が必要になります。
また、稲作などで「朝鮮半島を経由して伝来はおかしい」というのになると、「いや、中国南東部から直接朝鮮半島南部に来て、それから日本に行ったんだ」などという人も出てきていますが。
無理です。

中国南東部から朝鮮半島の南部は、やはり荒れやすい海(済州島の西)に掛かり、その上で海流や風にも逆らう必要があるという、中国南東部から日本に比べると遥かに困難なルートです。
また、山東半島から朝鮮半島南部も渤海に比べると荒い海で、ここを新羅人が渡るのはAD7世紀に入ってからです。百済が朝鮮半島南部から唐と交易するのも、日本の渡航船と渡航技術が伝わったAD6世紀の事ですね。ところが倭人は、紀元前の周代末期~秦初め頃でも交易していた記録があり、考古学的遺物から縄文時代には既に大陸と交易していた事が判っています。
また、遣唐使では、百済滅亡後は航路に苦労します。
その中である1つが「南路」と呼ばれる、直接に中国南東部に向かうルートです。

このルートは難破率が高く、出世コースである「使者」ですが、指名されても断り左遷されたなども記録があります。この難破が多いルートですが、難破すると対馬海流に乗り、また風にも流されるので、九州の西海岸、五島列島、そして対馬にと流れ着いた記録が複数あります。
ーーつまり、中国南東部から沖合に出ると、高確率で日本に辿り着きます。生きているかは別ですが。これで現在で問題がなっているのが、対馬に流れ着いている韓国や中国の違法海洋廃棄物ですね。
【朝鮮船の構造】
「朝鮮船の影響」という文章も見掛けますが、では「朝鮮船」はどういうものだったのでしょうか?
1984年に朝鮮半島の南西部、瓦度島の海底から発掘された船があります。11世紀後半のものと推定され、この船は中国とも日本とも別の、朝鮮半島独自の形式と見られ、当時既に数百年にわたって使われてきていたと言われている……とあるのですが。その構造はーー

いや、どう見ても和船の1つ、「面木造り」の構造の船ですね。
材質も日本の木材でしたし。

この「面木造り」は日本の主に日本海側で発展した船構造で、準構造船の大型化を図ったものです。これは植生の違いから利用できる木材が異なるので出来た構造です。ちなみに、18世紀ぐらいに衰退していくのですが、これは技術的な話ではなく、木材需要の高まりの中で材料となる木材の低下、つまり伐採しすぎた為に起こっています。
太平洋側は棚板造りと呼ばれる構造をしています。

このどちらも準構造船からの派生で、瀬戸内海・太平洋の船の発達過程は楠を抜きにしては語れないが、楠が生育しない日本海では使う木材が異なるので、船体を大きくする時の構造が違っていたのである。
近年、朝鮮半島で出土木製品の樹種同定が進んだ結果、コウヤマキやスギ、クスノキ、カヤなどの日本列島産の木材が棺や船の材料として用いられていたことが明らかになっていますが、これらの木々は朝鮮半島にはない日本の固有種です。その固有種の植生、地域で入手できる木材に合わせて出来ているのが「和船」なのです。
これは、これらの木製品技術が「朝鮮半島から日本に伝わった」のではなく、「日本から朝鮮半島に伝わった」という事です。朝鮮半島の植生では合わない構造の技術であり、つまり、朝鮮半島での発展は難しい技術だったという事です。
李氏朝鮮時代の船は絵画で残っていますが、

船底の形(底板の張り方)から古代中国系の船の構造ですね。材料は船はモミノキの木で作られていたようです。モミノキはマストには使われていますが、船体に使われる事は見掛ける事があまりない材質で、船体に向いているとは言えません(加工はしやすいようですが)。
こちらは和船とはまったく似ていません。
【船の構造の進化】
各国の船に関する論文などを様々に調べたのですが、「日本独自の和船」と「中国独自の中国船」と「和船と西洋船の影響を受けた中世以降の中国船」と、「古代西洋船」は、ある程度、見分けがつきそうです。
日本独自の和船
日本独自の和船は、サイズを大きくするために分割する事もありますが、板が前方から後方へと一方向に作られており、厚い板で外骨格で形作り、梁で船側面が広がるのをつっぱりし支える構造です。
あくまで、前から後ろという形で板を使われています。
力学的に考えると、この形状は船を形作る外骨格の船壁に掛かる衝撃は、側面だけでは受け止められない力は全て梁が受け止める形になります。大型化するとこの梁への衝撃が強くなり、木製では限度があったのでしょう。
中国独自の中国船
中国独自の古代の中国船は、まず側面の板の形があり、その二枚の板を繋ぐ板(隔壁)で繋ぎ幅を作ります。ひっくり返し、側面板同士に固定するように横方向に板を張り付けていきます。

構造で言えば、雪の上で使う橇を思い浮かべるといいと思いますが、底板を取り除いた古代中国船は上写真のような橇みたいな感じですね。下図の楼船の下部がまさにその形です。

つまり、古代中国の船は、元々は橇構造なのです。この橇形状の底に沿うように板を横方向に張り付けていくことで船が作られていますね。これは筏からの進化のようです。ただ、騎馬民族だった事を考えると、荷物運搬用に使っていた橇が、そのまま船の原型になった……なんてのがあってもおかしくないのかもしれません。
『吉備大臣入唐絵詞』という鎌倉時代の絵に描かれた創作の遣唐使船もこの形ですね。外洋に面しており、国外に行くにはどうしても外洋を通らなくてはいけない日本では、まず作られない構造です(江戸時代の川船も和船造りですね)。
また、呉代の中国の船は、東南アジアの構造もよく用いられています。

中世以降の中国船
ただ、古代中国船の橇形状は横波に極めて弱い(横波の衝撃をもろに受け止めるので転覆しやすい)為に波が高い外洋には適しませんし、偏西風が通り対馬海峡を越えるにも適していません。
宋代以降になると、外洋に適応する為に先端を水切形状にとして側面に曲面を付ける、つまり「丸太舟から準構造船構造、そして面作り船にと進化をしている和船」の形状を取り入れていくようです。その時にはそれまでのまっすぐな分厚い側面板が使えないので、隔壁の連続で形作る方法(西洋船の構造とも言える内骨格構造)にへと変わっていくのが、宋時代から発展するジャンク船です。底面の板も横方向ではなく前から後ろという縦方向に取り付けられるようになります。
古代西洋船
古代西洋船は、ガレー船やヴァイキング船などが元になりますね。


前から見た断面図を見ると、和船との違いが判り難いのですが、横から見た断面図だと船体を形作っているのが「竜骨と肋骨」の構造だと判りますね。これはやはり、筏からの発展型です。

簾で西洋船の形を作る事が出来ます。
簾を用意する
中央に竜骨となる棒を固定する
簾を船の形になるように生地(すだれ)を左右対称に曲線でカット
生地の端をひもで結んで弓形にする
側面に布や薄い木材を貼り付ける
これで西洋船の形が作れます。
西洋船は基本的には常に基本構造の肋骨が常に外に開こうという力であり、それを横材が引っ張って抑え込んでいる構造なのですね。その為、外洋の波で外力でかかった場合、常に外に開こうとする肋骨がサスペンションになります。どちらかというとプレハブ構造?
和船は外殻の形状が基本構造で、その基本構造を繋ぎとめる為に梁がありますね。曲げた外壁自体がクッションとなるが、その衝撃は梁がどうしても受け止める形になっていますね。
19世紀のフランス人将校が「和船は筏から出来た感じだ」なんて事を言っていますが、まるで逆で、中国船も西洋船も筏からの派生構造として出来ており、和船は丸木舟からの派生構造として出来ています。
【現在の船舶構造】
では、現在の船舶構造は?というと、和船と西洋船を合わせたような構造です。隔壁はありますのでジャンク船構造もあるとも言えなくはないのですが、隔壁構造が船体形状を支えている構造ではありませんので、「隔壁で仕切るという考え方(船体は損時の沈没の可能性が低下する)」のみが取り入れられているという感じですね。

図で見ると「肋骨構造が組み込まれた和船構造」のような感じですね。
平板キールは西洋船の『竜骨』より和船の『かわら』に近い役割になります。西洋船の肋骨構造は「横式構造」なのですが、強度を高める場合は「館式構造」になり、それを肋骨はそれを補助する役割になります。木造帆船船としては和船は大きさに伴う船体強度の両立というのには限界があったのですが、構造機能として考えると、中世・近世の工業技術ならともかく、現代の工業技術だと十分に通じる機能的な構造なのです。
そのため、最近は和船構造の技術は見直されており、新しく設計される船の構造にその考えを取り入れ利用されるようになってきています。
現在の船の建造の建造現場の写真もあり、断面が分かる。
下の写真は世界最大のコンテナ船の建造現場写真である。

このように、現代船は竜骨に肋骨が船体を形作るのではなく、外郭そのものが形創る「外骨格構造」で、これは「ブロック構造」とされるもので、外骨格を兼ね備える構造になっています。つまり、和船の考え方です。
この外骨格構造は19世紀の蒸気船では既にそのようになっている、つまり材料の強度が十分であれば、和船の外骨格構造に近い構造の考え方が現在の船の構造になっているのである。

これが、20世紀半ばほど(終戦時頃)の戦艦(近代船)の構造の断面図なのだが、西洋船・中国船・和船の中で一番近い構造となると、実は船体そのものが形を作っている和船なのである。
金属でできた船ではなく、木造船と限定すると、船を大きくし外洋を航行する場合は西洋船の構造の方が適していますね。ですが、利用する材料に十分な強度を持つ場合は和船の構造の方が機能的です。
江戸時代の後半からは和洋折衷と、西洋船の技術を取り入れた和船になっていくのですが、実は、昭和に入ってからでも和船の影響はあります。漁船などでも強度的な事から船体構造は肋骨を使う内骨格構造になっていきましたが、船の形状自体は和船を踏襲しています。
結局、今日になるまで和船の考え方は船の中に残っています。
【川の風】
川の場合、陸地との温度差で川風が発生します。
・昼間は、海の方から川を遡上するように上流へと流れる風。
・逆に夜間は川から海に下流へと流れる風。
これが発生します。
これは川というのが基本的に陸地より低い上に、「平らな面」なので『風の道』となって流れていくものです。
また、川は「高い所から低い所」に流れるものですから分かりやすいです。しかし、「低い場所が一面に均等に広がっている海」なのに流れているという「海流という存在」は、中原北部から遼西・遼東地域を中心としていた海流が身近ではない魏人では、理解が難しいでしょうね。
余談ですが、渤海は浅く、海流もほぼなく、現在の気温でも氷が張る事があり、氷の厚さ次第では徒歩で海を渡る事ができる海です。これは中国史にいくつか出てくる「海を倭て会って遼東地域を攻めた」という部分の話で、この話の部隊となる季節が何時かで判断する必要があります。
「農閑期になる」以上に、冬になると「渡れる地が増える」のが、この北方の遼西・遼東地域なのです。特に、時代によっては広がるでしょう。

渤海は現在でも冬場に氷が張ります(平均気温が上がっているので小さくなっていますが、それでも凍っています)が、BC550~AD元年、あるいはAD475~900年ぐらいだとかなり寒くなるので、冬場であれば渤海を徒歩で渡るのは難しくありません。逆に、冬だと船は水面に氷が張るので海に船は出せませんね。
当時の世界の気温を考えると、BC550~AD元年の間だとBC250年ぐらいに寒冷期のピークがある。『魏略』に「匈奴が入って来たので、燕人の衛満は胡服(遼東の遊牧騎馬民族の服)を着て、泪水を越えて東に逃げ、准に従属した。准は衛満に西側に定住し、朝鮮(地域)の緩衝地帯となる事を求めた」というものです。つまり、衛満は祖国を捨てて逃げたとあります(wikipediaなどでは「燕から亡命した」と書かれているが、これは間違い。亡命ではなく、匈奴が燕に入って来たので戦わず逃げたのである)。これがBC195年の事ですので、この寒冷期のピークを過ぎた頃の話である。
逆に『三国志』の時代は温暖な方向の時期で、そのピークです。
当然ながら、冬場での氷も必然的に薄く小さくなります。この当時だと「海(渤海)を渡る」のに船を使ってるのでしょうが、それでも『大海』である黄海などを渡る能力はまだありません。

黄海も山東半島より南だと海の流れも対馬海峡ほどではないですがあり、波もよく発生しますので。
当時の遼東地域の記録を調べる場合、それがいつの季節の内容かというのも同時にチェックしないといけません。
『鑑真』の船
「鑑真が唐からやってきた」というのを、「中国の建造した船でやって来た」「中国の船舶技術は日本より優れていた」と勘違いしている人もいますが、これは間違いです。
鑑真は、日本に計6回の渡航を試みており、成功したのがその6回目です。5回目までの記録を見ると、
第1回が743年で、鑑真自らが「新しく船を買い、糧食を蓄え」とある。中国の揚州にて、現地で入手した船を使用した。
第2回が743年で「再び船を買い」との記述がある。第1回と同様に揚州で入手したもの。
第3回が744年で「船を造り」との記述がある。門人たちが自ら建造に関与、あるいは揚州の造船業者に発注した船。
第4回が744年で「海船を得て」との記述がある。現地で入手可能な船を調達した。
第5回が748年「大船を買い」との記述がある。これも揚州の港で調達されたものである。
と、難破・引き返しや、官吏による妨害で渡航失敗の5回目までは中国製の船です。第1回から第5回までの遭難の主因として記録されているのは、過酷な気象条件(暴風、荒波)による「船体の破壊」や「浸水」である。現地で調達した船が、外洋の波浪に対する物理的な剛性や耐性を備えていなかったことが、結果として遭難・漂流に直結した事実が記録されている。
ただし、6回目だけは違います。
『唐大和上東征伝』には、鑑真一行が日本への渡航を試みた計6回のうち、日本への到着に至った第6回目(753年)の船について記述があります。この中で明確に書かれていますが、鑑真一行が到着に至った船は、「日本から遣わされた遣唐使船」です。
この船は、日本が唐へ派遣した第12次遣唐使の船(藤原清河を大使とする船団)です。鑑真が日本へ渡るために独自に建造した船ではなく、日本から持ち込まれた船を修繕・使用して帰国する遣唐使船に同乗したことが明記されています。
記録には、唐側が提供した船ではなく、日本側が唐での滞在を終えて帰国する際に使用する船を、日本側とのの交渉によって乗船が許可されたという経緯が記されています。
つまり、「唐の時代、中国から日本に渡航した鑑真の記録は、和船により初めて出来た」というものです。
