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中国の塩の歴史


塩の存在

日本の発酵食品や豆腐作りには深く関係してくる「塩」。
ところが中国では豆腐に一部を除き「石膏」を使います。
これは、「塩の文化」も強く影響してきます。

人の生活に「塩」は欠かせないものですが、中国での「塩の歴史」を見ると、やはり「古層」と「後古層」、そして「唐代以降」というので大きく変わってきます。

古層の製塩

まずは日本の縄文と中国古層での「製塩」を比較すると、こうなります。

  1. 生活の知恵(汎用土器での製塩):汎用の土器で煮詰める。あるいは海藻を焼くなどで海塩を得るという手法。

    • 日本:15,000年前~:草創期からの生活必需品。

    • 中国:不明(恐らく7,000年前〜):河姆渡文化などで形跡。

  2. 専門道具の誕生(製塩専用土器):煮炊き用とは別に、熱効率や塩の取り出しを計算した専用土器。

    • 日本:約9,000年前〜:早期の「尖底土器」や「薄手土器」。世界最古級。

    • 中国:約6,000年前〜:北辛・大汶口文化で日本と酷似した専用土器。

  3. 産業インフラ(製塩遺跡・専門工房):決まった場所で、支脚(釜を支える台)や大量の薪を用いる組織的生産。

    • 日本:約6,000年前〜:前期以降、関東や東海で爆発的増加。現代まで連続。

    • 中国:約6,000年前〜:山東省沿岸。

となります。
このように「海水を利用した製塩」は歴史があります。古層は縄文系民族が定住していた土地ですから、日本に少し遅れる形で技術がでてきます。「海塩を使う文化が、日本から中国に伝わっている」と言う事ですね。
しかし、中国ではこの「海水からの製塩」技術に関しては、やはり後古層、古層の文化先住民族が去った後から、大陸内陸から入って来る今の中国人の祖先が来た時には一度消えます。


まぁ、日本列島では、池塩のような「拾えば済む資源」がなかったため、一貫して海塩を作るための「工学(テクノロジー)」を磨き続けなければなかったのですが。潮の干満を利用し、海藻に塩分を付着させ(藻塩)、それを土器で効率よく煮詰める。このプロセスには、化学(濃度管理)、物理(熱効率)、そして気象の深い知識が不可欠です。
日本の製塩は「海」と「知恵」に支えられていたため、大陸のような「巨大な塩湖を一つ押さえれば全員を支配できる」という構造にはなりませんでした。

後古層の製塩

古層から後古層になっても、正確に言うと完全に消え失せたわけではありません。しかし、内陸の「採取するだけの塩」が重要視され、ほぼ使われなくなっています。

海水製塩(海塩)は秦・漢時代にも、「細々と」続いてはいます。山東省や江蘇省などの沿岸部では海水を煮詰める製塩は行われていました。しかし、かつての縄文系(古層)文化が持っていたような「高度な専用設計」は影を潜めています。
これは、森林破壊が進んでいた大陸では、海水を塩になるまで煮詰めるための「薪(燃料)」が非常に高価だからですね。単純に「煮る」コストが増大したのです。また、中央政府(秦・漢)は内陸に本拠地を置いていたため、沿岸部の高度な製塩技術を理解・保護せず、単に「地方の豪族が勝手にやっていること」として扱っていました。

内陸系勢力が中心となった秦・漢代では、技術を要する工学よりも、「そこにあるものを拾い集める」という採取に近い池塩が重用されています。当時の「塩の利権」の象徴は、現在の山西省にある運城塩湖(解池)です。ここは夏場に水分が蒸発すると自然に塩が結晶化します。
この解安池(運城塩湖)の支配というのは、中国の歴史を見ていくのに大変に重要になります。
ただこれは、自然に結晶化したものをかき集めるだけなので、高度な製塩土器も、複雑な燃料管理も必要ありません。必要なのは、その「場所」を武力で占拠し、大量の人間(罪人や農民)を送り込んで回収させる「暴力装置(国家)」だけでした。

岩塩など内陸部の塩を使うのが「大陸内陸系民族」の文化です。


さらに、漢代初期、沿岸部での海塩製造は「地方の豪族や王(呉王劉濞など)」の資金源となっていました。しかし時の中央政府から見れば、それはコントロールしにくい「技術集約型の産業」です。武帝が塩を専売化したのは、地方の経済的自立を叩き潰すためでもあったわけです。

これは、きちんと史実的な話もあります。
漢の時代に「海塩」が歴史を揺るがした大事件があるのです。
漢の初期、沿岸部の王(呉王劉濞など)が、独自の海塩製造と銅山開発で莫大な富を築き、中央政府に反旗を翻しています
「呉楚七国の乱」というBC154年にあったものです。
これに激怒した中央政府は、乱を鎮圧した後、「海塩は地方勢力の資金源になる危険なもの」として厳しく制限し、無理やり国家管理下に置きます。
「塩が天下を制する」という話しです。

つまり、BC2世紀から、次の唐代のAD7世紀までと約900年。海塩は細々と作られていたにすぎず、中国では技術発展もしないのです。

唐代以降の製塩

大陸において、人海戦術による単純な「採取」から、再び高度なエネルギー制御を伴う「工学(煮詰める技術)」へと焦点が戻り、それが大規模化したのは、経済の中心が内陸から再び沿岸部(かつての縄文系文化の拠点)へとシフトした時期と重なります。

具体的には、以下の3つの段階で技術が変遷しています。

①唐代〜宋代:沿岸部での「煮塩」の再大規模化
この時代、運河の整備とともに海塩の需要が爆発的に高まりました。

これは群雄割拠が終わり、人口が増えた時代だからでしょうね。
単純に結晶を拾うだけの「池塩」では需要を賄いきれなくなり、沿岸部で海水を煮詰める「煮塩」が再び国家の重要産業となります。
巨大な鉄製の釜(盤)を並べ、大量の薪を燃やして海水を煮詰める光景はこの時代に一般化します(大規模な「煎塩」)。しかし、これも効率的な「塩田」が普及する前段階であり、膨大な燃料と労働力を投入する力技の側面が強いものでした。

②元代〜明代:「塩田法(天日製塩)」への移行
「薪を燃やして煮詰める」という莫大なエネルギーコストを削減するため、太陽光と風を利用する「天日塩」の技術が普及します。

大量の薪が必要となる「煮る」から「乾かす」へシフトしていき、砂や粘土で作った平坦な「塩田」に海水を導き、自然乾燥させる手法です。この「広い平地を管理する」という思想は、かつての良渚文化などの水利管理に近い、高度な微地形利用を必要とします。
明代(約600年前)になってようやく、現在のような広大な「天日塩田」のシステムが完成します。現代の私たちがイメージする「中国の広大な塩田」の風景は、この明代になってからのものですね。

ただし、塩田という手法自体は、唐代には既に出ています。中国で「海水を砂浜に撒いて太陽光で濃縮する」という塩田の方式(淋法など)が普及し、明確な遺構や記録として確立されるのは、唐代末期から宋代(約1,100〜900年前)にかけてです。
ただし……と、後で話しを書きます。

③四川の「卓筒井(たくとうせい)」(宋代〜)
内陸部でも、塩湖がない地域(四川など)では、地下深くの塩水層まで穴を掘る技術が発達しました。直径わずか十数センチの穴を数百メートル掘り下げる「卓筒井」は、当時の世界最先端技術でした。ここで汲み上げられた塩水を煮詰めるために、天然ガスを利用するなどの高度なエネルギー利用も見られました。

田園の歴史

「唐代に「海水を砂浜に撒いて太陽光で濃縮する」という塩田の方式(淋法など)がある」と聞くと、中国がやり始めた者か、と思うかもしれませんが、違います。

石川県羽咋市の「柴垣海岸E遺跡」などにおいて、8世紀(奈良時代)の遺構として塗浜塩浜が出てきています。これは砂浜を単に使うだけでなく、海水を撒いて濃縮するための「作業場」としての形跡です。また、同時に鉄釜煎熬炉と、従来の土器ではなく、大量の濃縮海水を一気に煮詰めるための「鉄釜」を使用した炉跡があります。
746年に大伴家持が越中国(今の富山・石川付近)に赴任した頃には、すでに能登や北陸の海岸線では、砂を敷き詰めた「塩田」の原型が機能していたことになりますので、それ以前からと約1,300年の歴史があります。

同時期の中国の唐では、8世紀中盤以降の専売制強化に伴い、巨大な鉄製の釜(盤)を用いた大規模な「煎熬」が国家主導で行われている時期です。しかし、この段階ではまだ「薄い海水をそのまま煮る」方式が主流であり、膨大な燃料(薪)を浪費する「力技」の状態ですので、日本の方が技術レベルが少し上になります。
中国で「淋法(灰淋法・沙淋法)」という言葉や具体的なプロセスが確立・記録されるのは、唐代末期の9世紀(約1,200年前)に入ってからです。それまでは、海塩の生産効率は極めて低いままでした。
柴垣の「塗浜」遺構は、これより古い8世紀中盤(約1,300年前)のものです。これは、日本が大陸で「淋法」という概念が定着する100年以上も前に、砂浜を造成して濃縮を行う「塩田の原型」を実用化していたことを意味します。
つまり、この「塩田」という技術もまた、日本から中国に伝わった技術である、と言う事です。

これが現在知る「塩田」のような完成された形態になるのは、石川県珠洲市 「宅田上野山遺跡」などで見られる1,100年ぐらいになりますね。
中国がこのレベルになるのは元代〜明代になります。

砂浜濃縮を日本が始めてから、100年後ぐらいに唐でも砂浜濃縮を始め。
塩田と整った形を日本が始めてから、100年以上後に元でも塩田を始める。といった、歴史の積み重ねが出てきます。


更にそれよりも前の段階、「唐代〜宋代:沿岸部での「煮塩」の再大規模化」というのも、日本の模倣なのでしょう。

日本で「呉楚七国の乱」の時と同レベルの海塩の製塩技術、つまり「組織的製海塩」というと、約4,000年前には「土器を並べて煮詰めていた」という痕跡があります。下本郷遺跡(千葉県)や知多半島の諸遺跡(愛知県)ですね。煮炊き用の土器とは別に、塩を作るためだけに特化した「製塩土器」が大量に出土しており、特定の場所に大量の土器と灰(燃料の跡)が集中しています。一家族(一邑)の消費を超えた「余剰生産」が行われていたことを示しています。この時期すでに、沿岸部で作られた塩が内陸部の集落へと運ばれる「地域の専門性」と「流通網」が存在していたという事です。

中国の前漢代に匹敵する、あるいはそれ以上の規模での「専業化・工業化」となると、古墳時代(4世紀〜6世紀)に既にあります。愛知県常滑市周辺の古場遺跡や大目遺跡ですね。この知多半島一帯には、数万〜数十万単位の製塩土器が廃棄された巨大な「土器の山」が形成されています。工場製品のように形と大きさが揃った土器が大量生産されており、浜辺に単に土器を置くのではなく、熱効率を高めるための「製塩専用の窯」が構築されています。燃料となる薪の調達、海水の汲み上げ、煮詰め、塩のパッキング(塩塊作り)という工程が組織的に行われていた形跡がありますね。

この愛知のやり方を真似たのが、中国・漢代の”大規模な「煎塩」”なのでしょう。


食料も含めた基盤となるインフラ、これは基本的に日本→中国という文化伝播の流れは、『塩』というのでも同じなのですね。


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