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戯曲『便器氏、沈思中』イヨネスコ風

『便器氏、沈思中』──あなたの沈黙には、かつて名前があった。

「ある日突然変身譚」は、50人の作家の声を借りて、変身という異化を通して存在の輪郭を描く短篇集。
第15作短篇戯曲『便器氏、沈思中』は、イヨネスコ風。便器になった元・男が、陶器の静寂の中で記憶と自己を問い続けます。語られることのない声、洗い流せない感情、そして「器」としての存在。これは、存在のかたちをめぐる短篇戯曲。イヨネスコにインスパイアされた不条理の静けさと、ほんの少しの祈りを込めて。


(本文)
登場人物
便器氏(元・男)
 
神(声)
 
水の声(流れる音の幻聴)
 
陶土の囁き(かすかな声。土からなる存在)
 
妻(聞こえない人間)
 
第一場:白い浴室。中央に便器が一基。光は青白い。
(便器が静かに震えている。深い呼吸のような音)
 
便器氏
私は便器である。
私は便器ではなかった。
今、便器であることを考えている。
考えることが、便器に許されているなら。
 
(蓋がゆっくりと開き、また閉じる)
 
神(声)
お前は器だ。
お前は受ける者。
お前は沈黙だ。
 
便器氏
では私は、何を受けるのか。
言葉か。排泄か。罪か。記憶か。
私は受けすぎて重たい。私はひとつの墓。
 
(微かな水音。蛇口は閉じているが、何かが流れている)
 
水の声
ながれる
ながれる
ながれる
ながれすぎて なにもない
 
便器氏
私の中に まだ形が残っている
便器になる前の あの午前の光
薄いコーヒーのにおい
足音 声 くしゃみ
それらが 沈殿している
 
(ドアが開く。妻が入ってくる。黙って蓋を上げ、便器を見つめる)
 
便器氏(語りかけるが、届かない)
君は 私を掃除するけれど
私の中の声は 洗えない
私は今 君の夫だった
……何かだった
 
妻(沈黙のまま洗剤をふりかけ、ブラシを動かす)
(無言のまま蓋を閉じて出ていく)
 
便器氏
私の声は陶器の壁を抜けない
私は 光の中で囚われている
 
(沈黙。微かなざわめき。どこからともなく、低く柔らかい声)
 
陶土の囁き
われらは 焼かれて 忘れられた
熱で固まり かたちを奪われ
いま 口だけが のこされた
 
便器氏
おまえは私か
私の深部にいる 土の記憶か
 
陶土の囁き
人であったことを 忘れるな
人であったことを 忘れろ
おまえは器
だが人間ではなかったかもしれぬ
 
便器氏
私は便器であり
便器以前であり
そして
もう何者でもないかもしれない
 
(ふいに音が大きくなる。ジャーッという水音。照明が揺れる)
 
水の声
ぜんぶ ながせ
ながせ おまえを
おまえのなまえを
記憶のしわを
うまれた朝を
 
便器氏
まって
まだ
まだひとつ たしかめたい
 
神(声)
たしかめようとする者は もはや流れに乗れない
おまえは沈め 沈んでなお在れ
 
便器氏
私は
沈む
それが唯一
私に許された運動だ
 
(蓋がゆっくりと閉じる。以後、動かない)
 
終幕
舞台中央に青いライトが差し、最後に一枚の白い紙が舞い降りる。
 
その紙にはこう書かれている:
 
「世界のすべてを受けながら、何も言わなかったものが、ここにある。」

(了)
 
 

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