【元小学校教師の記録⑩】教師を辞めるなんて、考えたこともなかった
教師を辞めるなんて、一度も考えたことがなかった。
小学4年生で「先生になりたい」という夢を見つけ、その夢を叶えて20年間教壇に立ち続けた。
苦しいことは何度もあった。
初任者の頃は、自分には向いていないと思ったこともある。
学級がうまくいかず、辞めたいと思ったこともあった。
それでも、そのたびに支えてくれる人がいて、子どもたちがいて、教師という仕事が好きになっていった。
だから私は、定年まで教師を続けるものだと信じていた。
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父は、がんだった。
余命半年と告げられながらも、二年半、生きてくれた。
その時間は、私たち家族にとって、神様からいただいた時間だったのかもしれない。
忙しい毎日ではあったけれど、その間に父と二人で旅行へ行くことができた。
父と二人だけで過ごす時間は、それまでほとんどなかった。
今思えば、あの旅行は私にとっても、父にとっても特別な時間だったのだと思う。
父が亡くなり、お通夜の日。
初めてお会いした父の友人が、こんな話を聞かせてくださった。
「お父さん、娘さんと旅行に行ったことを、何度も自慢していましたよ。」
その言葉を聞いた瞬間、胸がいっぱいになった。
旅行中は照れくさそうに笑うだけだった父。
そんな父が、友人には嬉しそうに話していたことを、その日初めて知った。
忙しい中でも、父との時間を大切にして本当に良かった。
今でも、忘れられない思い出である。
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それでも、一つだけ心残りがあった。
花嫁姿を見せることができなかったことだった。
父が亡くなって一年。
その後悔は、心の中から消えることはなかった。
もっと親孝行ができていたのではないか。
もっと一緒に過ごす時間をつくれたのではないか。
そんな思いが、何度も頭をよぎった。
仕事は大好きだった。
教師という仕事に誇りも持っていた。
でも、大切な人との時間は、失ってからでは取り戻せない。
その頃から、少しずつ思うようになった。
仕事だけの人生は送りたくない。
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そんな矢先、世界はコロナ禍に入った。
学校も社会も、大きく変わっていった。
会いたい人にも会えない。
明日が当たり前に来るとは限らない。
「いつか会おう。」
「落ち着いたら行こう。」
その「いつか」が来る保証はない。
父との別れを経験していた私は、そのことを誰よりも強く感じていた。
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そんな頃、今の夫と出会った。
不思議なことに、夫は父と同じ仕事をしていた。
その偶然に気づいたとき、私は少し驚いた。
偶然と言えば、それまでなのかもしれない。
それでも私は、ときどき思う。
父が、「もういい加減、幸せになりなさい」と背中を押してくれたのではないか、と。
本当のことは分からない。
でも、そう思える出会いだった。
夫は転勤のある仕事だった。
教師を続けるなら、一緒に暮らすことは難しい。
一緒に生きるなら、教師を辞めることになる。
何度も悩んだ。
母にも反対された。
「せっかく教師になったのに。」
その言葉はもっともだった。
私自身も、教師を辞めるなんて考えたこともなかった。
それでも最後に残ったのは、
「この人と人生を歩んでいきたい。」
という気持ちだった。
教師という夢は、小学4年生の頃から叶え続けてきた。
だからこそ、これからは仕事だけではなく、大切な人との時間も大事にしたい。
そう思い、私は20年間続けた教師という仕事に区切りをつけることを決めた。
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退職の日。
送別会で、こんな質問をされた。
「20年間の教員人生はどうでしたか。」
私は迷わず答えた。
「100点でした。」
悔いがないと言えば、嘘になる。
もっとできたことも、きっとあった。
それでも、そのときの私は心からそう思えた。
支えてくれた家族。
出会った子どもたち。
地域の方々。
研究会の先生方。
同僚の先生方。
たくさんの人に育ててもらった20年間だった。
だから私は、胸を張ってそう答えることができた。
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教員という仕事は終わった。
でも、私の人生は、まだ終わっていなかった。
このときの私は、まだ知らなかった。
教師を辞めることよりも、その後の人生の方が、もっと大きな壁になることを。
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▶ 次回
【元小学校教師の記録⑪】
「教師ではなくなった私」
教壇を離れた翌日から始まった、新しい暮らし。
時間はあるのに、心はどこか満たされない。
教師という肩書きを失った私が、第二の人生のスタートラインに立つまでの日々について書いていきたい。
