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『怪人は探偵に堕とされる』前日譚小説『二少年』


大正も末の頃。
見せ物と人波が交差し、昼と夜の境が曖昧になる町の夕暮れに、
軽業の少年は、ひとりの少年と出会う。


【ご注意】 

・本作は、BLコミックス
『怪人は探偵に堕とされる』に連なる、前日譚小説です。
本編のネタバレを多く含みますので、
『怪人は探偵に堕とされる』をお読みいただいた後での閲覧をおすすめします。
・本作内に直接的なBL的描写はありません。
・犯罪・暴力、死や災害を想起させる描写を含みます。
・本作は江戸川乱歩作品への敬意を込めたパスティーシュ作品であり、
原作とは異なる独自解釈を含みます。

以上をご理解のうえ、お読みください。



『二少年』


第一章 道化師と王子


 それは、梅雨がようやく明け、夏の気配が街に満ちはじめたばかりの、一際澄んだ夕暮れのことであった。日が傾き、光と影がゆるやかに入れ替わるその刻は、昼とも夜ともつかぬ、現と夢の境界。煤けた木橋の古びた手すりに夕陽が染みる。
 その上を不意に、少年の影が宙を舞った。
 街灯に身を巻きつけ、するりと滑ったかと思えば、今度は逆さまに垂れ下がる。川の上を渡る風が、汗ばんだ首筋をなぶるように吹き抜けると、橋の下の水面が夕映えを反射して、ゆらゆらと金を撒き散らした。
 黒々と汚れた手足は細く、しなやかに引き締まり、埃にまみれた服の下には、熱を孕んだ弾力のある筋が、隙なく張りめぐらされている。水面に映るその身のこなしには、野性に通じる優美さが滲んでいた。そして、夜の深みに灯る焰のように、沈黙の奥で燃えるその双眸は、あまりに強く、したたかで、他者の視線を跳ね返すようなまなざしをしていた。
 名は、平吉。
 上野駅裏手の空き地に、仮初めの旗を立てる旅回りの曲技団に身を寄せる、孤児の少年である。
 その舞台は、青空の下に縄一本で張った仮設の劇場。草の匂いと排気の煙と汗の混ざった空気のなかで、彼は跳ね、回り、宙を切ってみせる。
 だが、観客はその素顔を誰ひとり知らない。平吉は、公演中は仮面を着けて舞う。
 白地に赤の筆跡を施した狐面。天幕内を縦横無尽に跳び、回転し、仰向けに降り立ってもなお、仮面の奥の感情は誰にも読めなかった。
 曲技団の芸人たちは、みな訳ありだった。刃物を呑む親方。火を吹く姉様たち。蛇と眠る女。酔って泣き崩れる曲馬の男。人前では笑い、舞台裏では煙草と酒に沈む。
 そしてもう一人、〝百面相〟と呼ばれる老役者がいた。
 くるくると面を変え、男にも女にも、鬼にも僧にもなりすます。その芸は、小道具と芝居と声色のみで人を欺く幻術のごとく、かつては大劇場の看板を張ったとも噂されている。いまは仮設の天幕の奥、灯の届かぬ片隅で、黙々と仮面を磨いて過ごしているが、その非の打ちどころのない変装術には、まことしやかな怪談さえついてまわった。
 ──その仮面は、盗んだ首から拵えた人肉の面なのだと。
 もちろん、事の真偽など誰も知る由もない。ただ彼が、その技を命とし、団員たちにさえほとんど心を開かぬまま、ひとりでいることを好んでいたのは、誰もが知っていた。
 けれど、平吉だけは別だった。
 ふたりで仮面を整え、笑い合い、ときに口をきかぬまま隣り合っていることもあった。舞台に出る前の、わずかな静寂の時間。百面相はごく稀に、己の秘伝をそっと平吉の耳もとに囁くことさえあった。
 平吉には誰かと無理に打ち解けようとも、打ち解けられるとも思っていないそっけない部分があり、偏屈な老役者はそんな少年に感じるものがあったのだろう。
 顔も知らぬ両親より、芸を覚え損ねれば飯抜きを言い渡す団長より──人の皮を剥いで仮面を作るのだと囁かれる、不気味な老役者のほうが、平吉にはまだましだった。
 昼に遊ぶ子どもたちの輪には入らず、誘われたことも、手を振られた記憶もない。
 もっとも、そんなものは自分には関係がないと、ずっと思っていた。
 母親のこしらえた弁当を持ち歩き、膝に縫い目のないズボンを穿き、暖かな灯のともる家へ帰っていく子どもたちとは、生きている時間がどこかずれている気がした。
 ある日、神社の境内で、見かけたことのある子どもたちが、こんなことを口にしていた。

「サーカスの子って、さらわれてきたんだって」
「酢を飲まされて、骨がやわらかくなるんだよ」
「夜になると、ヘビと一緒に寝るんだって」

 声は小さく、囁くように。
 その囁きは、決して平吉を軽んじているわけでも、意地の悪い思いがあるわけもない。ただ異質な不思議な存在を語るものだった。
 自分たちとは別の場所にいる「奇妙なもの」として、遠巻きに見つめているだけなのだろう。
 平吉はそれを受け入れていた。
 それは夢と現のあわいに立つ者の宿命のようなもので、誰も近づいてはこない代わりに、自分も誰にも寄り添わない──そんな自由な在り方。
 だから彼は、跳んだ。音を裂いて、影を抜けて。
「さあさ、お立ち会い。今宵お目にかけまするは、月の使いの舞ひとつ──」
 仮面の下の声は、驚くほど澄んでいた。
 ある日の夕方、平吉は客のいない裏手で稽古をしていた。本番での感覚を狂わせないために、仮面はつけたまま──舞台で使うものよりはるかに簡素なものではあるけれど──衣擦れの音と、空気を裂く身の動き。踏みしめた土の感触。それら全てにに満足し宙返りを終え、ふと足を止める。
 気配が、あった。
 塀の向こう。枯れかけた柳の影に、小柄な少年が立っていた。
 真新しい詰襟の学生服。額にかかる髪の隙間から、瓶底眼鏡が光を返している。痩せた手。白い頬。歳の頃は平吉と同じくらいだが、妙に大人びた佇まい。
「……君、パックみたいだ」
 掠れた声が、風にまぎれて聞こえた。その一言を、平吉は確かに拾った。
「はあ?」
 動きを止め、目を細める。だが、相手はまっすぐに平吉を見ていた。
「『真夏の夜の夢』に出てくる妖精で、妖精王オーベロンの使い。いたずら好きで自由奔放な夢と混沌の化身。」
 ふうん、とだけ鼻を鳴らす。変わったやつだな、と思いながら、平吉は再び身構えた。 
 軽やかな跳躍。地を蹴り、空を裂いて、風に身をあずける。仮面の奥の表情は変わらぬまま、その軌道は素晴らしく美しいものだった。
 夕空がわずかに紅を差しはじめ、空に跳ねあがった平吉の姿が、その光のなかで一瞬、燦めいて見えた。少年は、一言も発さぬまま、それをじっと見つめていた。
 黙って立ち尽くすその少年の眼差しには、どこか夢を見る者のような、静かな熱が宿っていた。
 翌日、少年はまた姿を現した。今度は重たげな洋書を胸に抱えて。
 表紙は赤褐色の革で、金の印字が背に走る。開かぬまま長らく眠っていた書物のような匂いが、わずかに立ちのぼる。
 平吉は、それを一瞥した。
 前日は、妙なことを言うやつだとしか思わなかった。けれど、こうして再び現れて、何かを伝えようとしている様子に、今度は少しだけ、興味を惹かれた。
 平吉の目の奥が、きゅっと鋭くなる。
 好奇心を示すその変化を見て、少年は本をそっと差し出した。
「……きみに見せたくて持ってきたんだ。妖精パックの出てくる話の原書」
 開かれたページに並ぶ文字は、まるで呪詛か魔術のようだった。
「なんだこりゃ。さっぱりわかんねえ。これ、読めんのか?」
「少しだけ。父の書棚にあった本。英語だけど挿絵がきれいなんだ。もう一冊、こっちはちゃんと読めるよ」
 と、もう一冊の本を差し出してくる。手渡された本には、日本語で銀の糸で題名と飾り罫が刺繍されていた。何度も読まれたのであろう、あちこちに開きグセがついている。
 これなら……と平吉は手に取った。ぱらりとページをめくる。だが、活字の列がずらりと並んでいるのを見た途端、額にしわを寄せた。
「げえ……漢字が多すぎる。頭いてえ」
 ぼやく平吉から本を取り返し、少年は静かに読み始めた。
 場面は、パックが人間のまぶたに媚薬を塗るくだり。精霊の悪戯が恋を狂わせ、夢と現がまざりあっていく。
 耳に心地よい声。知らぬ間に、平吉はそれに聴き入っていた。
「ひとつ、気に入らねぇな」
「なに?」
「俺は、人の指図で動くのが大っ嫌いなんだ。演目だっていつも全部自分で考える。その夜の夢は、俺の夢だ」
 そう言って、平吉は宙に舞った。
「──もっと高く跳べる? 人間じゃないみたいに!」
 無表情だった少年の声に、不意に熱が差した。それは驚くほどまっすぐで、ひそやかな祈りにも似ていた。思いがけず滲み出たその願いに、風が寄り添うように二人の傍を吹き抜けてゆく。
 平吉は、跳んだ。
 夕空に裂け目をつくるように、ぐんと身をしならせ、光の残る空へ指を伸ばす。
 ひととき、彼の体が宙にとどまり、あたりの時が少しだけ、静かに止まった。
 空を仰ぐ少年のまなざしと、跳ねた少年の影とが、ふと重なった。
 誰が誰であるかも定かでない、黄昏のひととき。世界の端で、夢が夢に触れたようだった。


 その日を境に、ふたりはよく会うようになった。
 少年は、本を抱えてやってきた。平吉のために、ゆっくりと、声に出して読んでくれた。
 寓話、神話、魔法と夢の物語。すべてが、知らぬ国の空気を運んでくるようだった。
 ある日、平吉は尋ねた。
「今日は、どんな話だ?」
「『眠り姫』。知ってる?」
「姫を王子がキスで目覚めさせるやつか。うちの興行でも似たような筋書きの演目があったな。お前が王子様? それとも──」
「ちがうよ」
 少年は頬を染め、小さく首を振った。
「ぼくは、魔法使いになりたいんだ。不治の病を、深い眠りで癒す魔法使い。夢の中で治って、目が覚めたら元どおり。苦しまなくていい。そういうの、素敵だろう?」
 平吉は、じっと彼を見つめた。
「……おまえ、すげえこと考えるんだな」
 それは殿様になりたいとか億万長者になりたいといった、現実を知らない子供が語る夢に似ていた。けれど、少年の瞳には奇妙な熱が灯っていた。
 冷めたように見えたその眼差しの奥に、炎のようにひたむきな意志が揺れていた。夢想ではない。途方もない願いを、手探りのままでも現実に繋げようとする者の眼だった。
 平吉は、思わず息を呑んだ。
 こいつは、本気なんだ──
 痩せて小さな肩。脆く見える指先。異国の文字で書かれた赤錆色の分厚い洋書。
 そのすべてが、少年の夢に不思議な説得力を添えていた。風にめくれるページの音に紛れて、どこか遠い世界の気配がする。
 魔法使いになりたいと願うその声は、嘘ひとつない眼差しに裏打ちされて熱を帯び、聞いたこともない方法で誰かの命を救うという夢を、まっすぐに信じている。
 皮肉屋であるはずの平吉の心が、静かに揺れていた。
 夢は、人を救える。見せる者にも、見る者にも。
 この痩せた身体の奥に宿る小さな灯が、いつかどんな未来を照らすのか。
 その続きをこの目で見届けたいと、彼は思った。




 第二章 境界のかたち


 冷夏と囁かれていたこの年も、ここにきてようやく夏らしさを取り戻しはじめた。昼の陽は鋭さを増し、風は熱を孕みながらも、どこか湿り気を帯びて甘く匂い立つ。
 その日もまた、少年はやって来た。決まって夕暮れ時、日と影がまじりあい空気の輪郭がとけていく刻限。
 この街から子どもの気配が消えはじめる頃、彼は姿を見せる。

 空き地に、逆さまの影をつくっていた平吉は、すっと地を蹴って身を返す。
「おまえ、田舎のじいちゃんばぁちゃんに会いに行ったりしねえの?」
 誰も彼もが帰省するこの時期、東京に残っている少年が少しばかり不思議で、そしてどこか、嬉しかった。
 少年は少し首を傾け、気のない声で答えた。
「母はもういないし、父もこの夏はずっと留守だ。海外の研究所に行ってるから。女中たちと過ごすだけだよ。毎年そうだし、別にいつものことだから」
 さらりと、言い慣れたことのように口にした。
 けれどそのあっさりとした言い方が、どこか平吉の胸をざらつかせる。
(本当に気にしてねぇのか? それとも、気にしないようにしてんのか)
 ただ、そんなことを問い返せる空気ではなかった。

 いつものように鞄を持ち、風になびく白いシャツの裾を押さえながら、少年は空き地を歩いてくる。
(まあ……来てくれるなら、それでいいけどよ)
 この時間に彼が現れるのも、もう当たり前の風景になりつつあった。
 日中は家で勉強してるのだろう。あの几帳面な眼鏡の奥には、いつだって未来に焦がれる熱がある。海外にいるという父親のような学者になるために、着々と道を進んでいるに違いない。
 だが今日の少年は、なにやら落ち着きがなかった。
 瓶底眼鏡の奥の瞳が夕焼けを映してきらきらと揺れ、声も少しだけ上ずっている。

「──新しく、家庭教師が来たんだ」
 逆立ちを決めていた平吉は、ぴたりと動きを止め、逆さまのまま、少年を見た。
「へえ。どんなやつだ?」
「帝大の学生。文学部の哲学と心理学を専攻しているって。英語の他に何ヶ国語も話せて語学も達者なんだ。ずっと国語や古典を教えてくれていた先生の知り合いだそうなんだけど……ほんと、変な人なんだよ」

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