“それっぽさ”の奥に、本当の声はあるのか
“主体性がある生徒たちで構成されたチームです”
そんな紹介をされることがある。
けれど、活動を見ていて感じるのは――
これは“主体性っぽさ”なんじゃないか? という違和感だったりする。
それなりに手を動かしている。話し合いもしている。
でも、どこか「やらされてる感」が抜けない。
言われたからやっているだけ。そんな空気が透けて見える。
推薦されて集められた生徒たちが、とある制作プロジェクトに取り組んでいる。
場の日常や魅力を、新しくやってくる人たちに伝えるための小さな冊子を作る、という企画だ。
自分たちで参加するかどうか決めていいと伝え、辞退のタイミングも2度用意した。
それでもやめなかった。なのに、どこか不満げで、後ろ向きで、
「なんで自分が選ばれたのかわからんし…」とつぶやいている。
そんな姿を見るたびに、心がちいさく疲れていく。
もちろん、すぐに本気になれとは言わない。
でも、引き受けた以上は、そこに少しでも「自分の言葉」や「行動としての覚悟」がほしい。
ただこなすだけ。
気持ちのこもっていないアウトプットを前にして、
これを本当に誰かに渡すのか、と思ってしまう。
そのあとに発生する「後処理」も含めて、私たちは一緒に背負っている。
担当の先生は言う。「生徒がやることに意味があるんです」と。
その想いはわかる。
でも、「やった」だけでいいのか? という問いも、残り続ける。
そういうとき、頭のなかに浮かぶのは――
「〇〇っぽさ」「〇〇風」の言葉たちだ。
主体性っぽい動き。
チームワーク風のやりとり。
探究してる感のあるまとめ資料。
寄り添ってます感のある発言。
自分のためにやってます風の活動報告。
どれも「それっぽい」けれど、どこか空っぽだったりする。
そして、本人たちは気づいていないことも多い。
「ちゃんとやってますけど?」と、むしろ不満げな顔を見せることもある。
でも、そうした“それっぽさ”の正体って何だろう。
もしかすると、それが評価されてきたのかもしれない。
誰かの期待に沿う形で「ちゃんとやる」ことで、これまでは十分だったのかもしれない。
でも、それでは届かない場所がある。
それでは、本当の意味で誰かに何かが伝わることは、たぶんない。
「高校生だから」「中学生なんだから」と言われることもあるけれど、
それはもう関係ないと思っている。
引き受けた以上は、その人として、ちゃんとそこに立ってほしい。
年齢ではなく、その姿勢にこそ、向き合いたい。
ただ、突きつけるのは簡単だ。
「それ、主体性じゃないよ」と否定するのも、一つのやり方。
でも、それはたいてい心を閉ざさせる。
だから、私たちは別の方法を選びたいと思う。
問いを渡す。
「それ、本当に自分で考えたこと?」と。
答えを急がせずに、問いの隣に立ち続ける。
それが、“それっぽさ”から一歩踏み出すために、
いま自分にできる、小さなことなのかもしれない。
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