保守主義と自己陶酔の境界線──韓国化する日本保守への警鐘
はじめに──保守主義とは、現実を引き受ける思想である
近年、日本の言論空間では、左派リベラル思想への批判が強まり、保守を名乗る言説が目立つようになった。戦後長く続いた自虐的な歴史観や、国家を語ること自体を危ういものとして扱う空気に対して、違和感を覚える人が増えたこと自体は自然である。
しかし、そこには別の違和感もある。左派リベラル思想に嫌悪感を抱くから保守を名乗る。既存メディアが嫌いだから保守を名乗る。韓国や中国に腹が立つから保守を名乗る。そうした反発感情の受け皿として、保守という言葉が使われてはいないか。
保守主義、すなわちConservatismとは、単に古いものを守る思想ではない。過去を美化し、自国を無条件に称賛する思想でもない。まして、気に入らない現実を否認し、都合のよい物語に逃げ込む態度でもない。
保守主義の根本にあるのは、人間と社会に対する慎重な理解である。人間は不完全であり、理性にも限界がある。制度、慣習、歴史、伝統は、長い時間の中で成功と失敗を重ねながら形づくられてきたものであり、一時の熱狂や観念で軽々しく壊してよいものではない。
保守主義とは、現実を引き受ける態度である。
この一点を外すと、保守は簡単に自己陶酔へ堕ちる。不都合な事実を見ず、耳に心地よい物語だけを集め、自国を大きく見せるために歴史を加工するなら、それは保守ではない。保守の衣をまとった現実逃避である。
保守主義者は愛国者である。国家を愛するからこそ、現実から逃げてはならない。
第一章──韓国ナショナリズムという鏡
私は、韓国のナショナリズムに強い違和感を抱いてきた。理由は単純である。事実よりも物語を優先するからだ。
韓国は、戦後の国家形成において、反日を自国の正統性を支える装置として使ってきた。条約よりも情緒。国際法よりも国内世論。歴史資料よりも「被害者である自分たち」という物語。その構造が、今日まで日韓関係を歪めてきた。
経済規模が大きくなり、技術や産業で先進国を自負するようになっても、法と事実を感情の下に置く精神性が残る限り、成熟した国家とは言いがたい。数字は立派でも、国家としての作法が粗いのである。
しかし、ここで日本人は気をつけなければならない。韓国の歴史ナショナリズムを批判する日本人が、その反動として、日本版の自己陶酔に流れるなら、それは韓国化であると批判されても致し方ない。
「韓国は歴史を政治利用している」と怒りながら、こちら側も都合のよい歴史だけを選ぶ。「韓国は自国を不当に飾っている」と呆れながら、こちら側も日本を安物の神話で飾る。それでは、批判している対象と同じ構造に落ちてしまう。
韓国を批判するために、日本が韓国と同じ精神構造を採用する必要はない。日本には、無理に飾らなくても誇れるだけの歴史と文化がある。
第二章──誇りが自己陶酔に変わるとき
日本には、誇るべきものがある。長い歴史、皇統の連続性、独自の文化、社会の秩序、職人性、礼節、技術力。これらを肯定的に語ることは、日本人として当然である。
だから、戦後民主主義の中で温存されてきた自虐史観は、いま一度正されるべきである。日本だけを特殊な悪として扱い、他国の植民地主義や暴力性を軽く扱うような歴史観は、明らかに歪んでいる。日本人が自国の歴史を取り戻し、誇りを回復することは必要である。
しかし、誇りは一歩誤ると自己陶酔に変わる。事実に基づく誇りならよい。だが、検証を省略し、都合のよい断片だけを拾い集め、ただ自尊心を満たすための物語になるなら、それは健全な愛国ではない。気分の消費である。
第三章──保守に必要なのは、自己肯定ではなく自己規律である
日本の保守に必要なのは、より強い自己肯定ではない。自己規律である。国家を愛する心は保守主義の根底にある。しかし、その愛国心が現実への敬意を失えば、容易に自己陶酔へ変わる。
日本には、韓国のように自国を過剰に飾らなくても十分に誇れる歴史と文化がある。だからこそ、日本を愛する者ほど、現実に対して厳格でなければならない。自国に都合のよい話ほど慎重に扱い、耳に痛い事実ほど正面から見る。その態度があってこそ、愛国心は成熟した保守主義の土台になる。
韓国の歴史ナショナリズムを批判するなら、なおさらである。韓国の問題は、事実よりも物語を優先し、法や条約よりも情緒を優先してきたところにある。そう批判する日本側が、自分たちに都合のよい物語へ逃げるなら、それは韓国化であると批判されても致し方ない。
第四章──ナショナリストとグローバリストという粗雑な二元論
近年の保守言論で気になるのは、「ナショナリスト」と「グローバリスト」を単純に対立させる粗雑な言葉遣いである。
ナショナリストは愛国者であり、グローバリストは売国的である。国家を語る者は正しく、国際協調を語る者は怪しい。こうした二元論は、一見分かりやすい。しかし、現実の国家運営は、そのような単純な構図では動いていない。
国家を守るためには、国境の内側だけを見ていればよいわけではない。安全保障には同盟が必要であり、経済には貿易が必要であり、技術には国際標準が関わり、エネルギーや食料には供給網が関わる。現代国家は、国際秩序の中で自国の利益を最大化することでしか生き残れない。
問題は、国際協調そのものではない。問題は、国益を持たない国際協調である。
同じように、ナショナリズムそのものが悪いわけでもない。国家への帰属意識、歴史への敬意、共同体を守る意志は、保守にとって不可欠である。しかし、それが現実を見ない自己陶酔に変われば、保守ではなく狭量な感情政治になる。
本物の保守は、ナショナリズムと国際協調を対立させない。国家を守るために、必要な国際協調を使う。国際秩序を信仰するのではなく、国益のために利用する。
国益なきグローバリズムは空疎であり、現実なきナショナリズムは危険である。
日本に必要なのは、世界から閉じることではない。世界に溶けることでもない。日本という国家の軸を保ちながら、世界を冷静に使うことである。
第五章──愛国心と現実主義
国家を強くするためには、誇りだけでなく、現実を見る力も必要である。人口減少、財政制約、エネルギー安全保障、食料安全保障、防衛、同盟、産業基盤、技術力。どれも、気分のよい物語だけで解決できる課題ではない。
日本を愛することは、日本の強さを信じることである。同時に、日本の弱さや課題から目をそらさないことでもある。強みを伸ばし、弱みを補い、必要な制度や産業を整えていく。そうした地道な現実対応があってこそ、愛国心は国家を支える力になる。
日本への誇りを胸に置きながら、現実の課題から目をそらさない。その姿勢こそ、保守主義の現実感覚である。
むすびに──保守が保守であるために
保守主義の根底には、国家への愛着、歴史の連続性への敬意、そして愛国心がある。しかし、国家を愛することと、国家を甘やかすことは同じではない。
韓国の歴史ナショナリズムを批判するなら、日本側は同じ構造に陥ってはならない。相手の情緒的な歴史認識を批判する以上、日本の保守にも、それ以上の知的節度が求められる。
日本には誇るべきものがある。だからこそ、現実から逃げる必要はない。日本の連続性を守り、次の世代へ引き継ぐためには、愛国心と現実認識が結びついていなければならない。
保守主義とは、気分のよい自己肯定ではない。現実を引き受けながら、国家を支えるための節度である。
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