高市早苗を「危険」と報じる勢力の正体──中国配慮と既得権が日本を縛る
はじめに──高市早苗はなぜ叩かれるのか
高市早苗がマスコミによる激しいバッシングを受ける──そんな兆しがすでに現れ始めている。まだ総理に就任してもいない段階で、「強硬」「危険」「タカ派」といった言葉が先行し、中国や韓国の「懸念」を伝える報道が繰り返されている。政策論よりも印象操作が先走り、あらゆる角度からバッシングとレッテル貼りが行われる光景が目に浮かぶ。
本稿で扱う構造は、財務省の問題とも深く結びついている。しかしそれは、日本の統治機構の別の層に属する重いテーマであり、今回は横に置く。ここで焦点を当てるのは、日本の政治と報道を長年支配してきた、中国配慮と既得権構造の複合体である。この構図こそが、国家の自立を掲げる政治家を体制にとって最も不都合な「危険人物」として仕立て上げている。
たとえば、中国が露骨な反日をあおる映画『731』を公開した。日本のマスコミがいかに「関係悪化の懸念」や「憂慮」を示そうが、中国は態度を改めることがない。日本だけが相手の顔色をうかがい、波風を立てまいとする。この非対称性こそ、日本の政治と報道に染みついた「中国配慮」の構造を象徴している。
中国利権の構造──金と影響力が政治を縛る
現在の日本では、政治・官僚・財界・マスコミが暗黙の了解として共有している「安全圏」が存在する。すなわち「中国を刺激しない」「財界の利害を損なわない」「波風を立てない政治」である。
この「安全圏」を形成している最大の要因が、中国経済への依存である。自動車、電子部品、化学、商社などの主要産業は中国で莫大な利益を上げ、経団連は「安定した日中関係」を最優先に掲げてきた。財界にとって中国との関係は単なる市場ではなく「生命線」であり、政治や官僚はその意向を最優先する。
マスコミも同じ構造の中にある。スポンサーである大企業の顔色をうかがい、経済・外交の現実を批判的に論じることができなくなっている。こうして政・官・財・報が一体となった見えない鎖が、日本の主体的判断を縛っているのである。
石破茂という「安全圏」
この構造の中で、石破茂は一貫して体制の「安全圏」に位置してきた。選挙に負け続け、それでも地位にしがみつく姿に、国民がいかに憤りや失望を感じようとも、メディアが激しい批判を浴びせることはなかった。それは、石破が中国配慮や既得権益の構造を直接刺激する言動を避け、体制にとって扱いやすい相手であり続けたからである。
対照的に、高市早苗は国民から期待を集めながらも、メディアからは「強硬」「危険」「タカ派」といったいわれなきレッテルを貼られている。石破のように、国民に失望されても批判を免れる政治家がいる一方で、支持を受けても攻撃される政治家がいる──その理由は明白である。高市は、国防・経済安全保障・報道の独立といった国家の核心を正面から論じ、既得権構造を揺るがす存在だからだ。体制にとって最も不都合な政治家であるがゆえに、メディアは彼女を執拗に叩こうとしているのである。
しばしば、「中国に波風を立てないことこそ国益だ」との反論がある。さらに、「強硬な姿勢を取れば緊張関係が高まり、危険だ」という声もある。
しかし、それは目先の摩擦を避けるための安定にすぎない。相手が歴史問題や経済関係を外交カードとして使う以上、一方的な自制は主権の放棄に等しい。真の国益とは、対立を恐れて沈黙することではなく、自国の立場を明確に示し、対等な関係を築くことにある。
戦後体制の起点──贖罪と依存が結びついた国
なぜこのような構造が形成されたのか。その源流は、戦後のGHQによる占領政策にある。日本人は「加害者」としての意識を刷り込まれ、国家を肯定的に語ること自体がタブーとなった。この贖罪意識は、中国への批判を避ける内なる検閲として働き、次第に経済的依存と結びついていく。
この構造を固定化したのが、田中角栄による日中国交正常化(1972年)である。角栄以降、自民党は「経済で中国を支えれば政治も安定する」という幻想を抱き、経団連を通じて中国との結びつきを深めた。こうして精神的にも金銭的にも中国に依存する国家が形成された。それは戦後日本の繁栄を支えた一方で、国としての主体性を奪う二重の枷にもなった。
自民党の実像──保守を名乗る「利権調整の党」
自民党は長期にわたる安倍政権(2012年〜2020年)の存在から「保守政党」と見なされがちだが、その実態は異なる。もともと自民党は右から左までの多様な派閥を包摂し、利害を調整することで政権を維持してきた政党である。安倍氏の時代には保守的理念が政権の中心にあったが、その後の岸田政権、そして石破政権の流れの中で、保守派は急速に周縁化していった。
今日の自民党は、官僚機構と財界の利害を最優先し、補助金や規制に群がる既得権を守る「利権調整の党」となっている。その屋台骨を支えてきたのが、公明党との長年の連立関係である。公明党は一貫して「外交的配慮」を掲げ、外交や安全保障の分野で中国や韓国への歩調合わせを求めてきた。その結果、与党全体が「現状維持と安定」を至上命題とする構造に染まり、国益よりも政権維持の論理が優先されている。
こうした自民党の変質を見限るように、保守本流の有権者層は次第に離れつつある。その受け皿として台頭しているのが、参政党や日本保守党といった新たな勢力である。これらの政党は、ネット空間を中心に広がる草の根的な保守層の支持を取り込み、従来の「自民一強」体制を静かに侵食しつつある。
国民世論との乖離──ネットが映すもう一つの現実
マスコミが「中国との関係悪化を懸念」「高市早苗は強硬」と繰り返す一方で、ネット空間にはまったく異なる声が広がっている。昨今の緊迫した国際情勢を受け、主権や防衛、情報戦の重要性を真剣に議論する人々が現れ、メディアが報じない視点を共有し始めている。
この乖離こそ、いまの日本社会の深層を映している。地上波や新聞が体制の「安全圏」にとどまり続ける一方で、ネット世論はむしろ国民の素朴な危機感を反映している。高市早苗氏の支持や共感がネット上で強まるのは、彼女の言葉が「空気」ではなく「筋」で語られているからである。
もはや「マスコミ=世論」という時代は終わった。ネットの声は時に過激であっても、その底流には現実を見ようとする国民の健全な本能がある。それは、かつて自民党が体現していた現実主義的な保守精神が、いまやネット空間の中で再生していることを示している。
むすびに──「配慮の政治」という鏡の中で
中国に対して過度に配慮し、国民の安全保障よりも財界の利害を優先する──そうした政治を支えてきたのは、特定の誰かではなく、この国に染みついた「波風を立てまいとする空気」である。戦後日本は長らく、波風を立てないことを美徳としてきた。対立を避け、調和を保つことが成熟とされ、その延長に「沈黙こそ安定」という思考が根を下ろした。政治や報道の姿勢は、そうした社会の写し鏡にすぎないのかもしれない。
高市早苗をめぐる論調は、単なる政争ではない。そこには、国家の判断を他者の視線に委ねてきた日本社会の習慣が映っている。「配慮の政治」とは、体制の論理であると同時に、私たちが無意識に選び取ってきた「事なかれの安定」の形でもある。
だが、激動の時代にあって、この安定はもはや幻想である。波風を恐れて沈黙を続けることは、安定ではなく「主権の放棄」にほかならない。
中国が長期的に目指すのは、台湾有事の際に日本を中立化させることである。日本が「波風を立てない」外交を続ける限り、最終的には中国の勢力圏に取り込まれ、静かな属国と化すのである。
だからこそ、今問われているのは、他国の「懸念」に怯えることではなく、自らの意志で立つ覚悟である。
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