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「アートを感じる」について|ちょいとそこまで。#67

1泊2日で直島へ行ってきた。

もともと岡山に興味があった。倉敷を歩いて、児島に寄って、そのまま宇野まで出る。せっかくならと翌朝の船で島へ渡ることにした。丸一日、島を回る。そういう順番の旅だった。

倉敷は、思っていたより静かだった。川沿いの通りは人が多いのに、一本入ると急に音が減る。酷暑だからか観光客も少ない。買った桃入りかき氷が一瞬で溶ける。児島では、ジーンズの店の前を何度も行ったり来たりして、結局何も買わずに出てきた。買わなかったこと自体は、あとから思い出すとどうでもよくて、あの日の光の感じだけが残っている。ついでに鷲羽山のaruという無人の本屋にも寄ってみた。静けさと瀬戸大橋の風景がマッチしていてなんとも言えないが居心地がいい。夕飯は紹介された宇野にあるVogaというピザ屋へ。とても洗練されている。観光客に媚びを売るわけでもなく、ひたすら黙々と薪窯でピザを焼き続ける。そんな所作も心地よい。

正直なところ、アートそのものにものすごく期待して行ったわけではない。直島のことは、行く前からなんとなく知っているつもりでいたし、二、三ヶ月前には新潟の十日町、大地の芸術祭のほうにも行っている。中でもジェームズ・タレルの「光の家」が、いまも印象に残っている。暗さと明るさの境目が、時間をかけてじわじわ入れ替わっていく、あの感じ。

ただ、直島の地中美術館にもタレルの作品があると知ったのは、恥ずかしながら島に着いてからだった。下調べをまったくしないまま来てしまったことを後悔するより、リサーチしないからこその実際に見た時の感動を優先する。そんな言い訳をしながら。

部屋に入って、光のアートと一体化する。身体で感じることができるので、説明がなくてもなんとなくわかる。わかるのだけれど、それを人に話そうとすると急に言葉が足りなくなる。

歩きながら考えていたのは、アートには二種類あるんじゃないか、ということだった。説明がなくて、五感でそのまま受け取るもの。もうひとつは、背景があって、それを知っているからこそ理解できるもの。どちらが上ということではなくて、たぶん両方ある。ただ、背景がわからないままだと、感じ取れるはずのものまで自分ごとにならない。今回それをあらためて思った。

直島に置かれているものには、あまり説明がない。自分で調べろよ、という話ではあって、まったくその通りなのだけれど、それもまたそれで。

去年できた直島新美術館にも寄った。いちばん残っているのは、蔡國強の狼の剥製が何十体も、たしか九十九体だったか、壁に向かって突進していく大きなインスタレーションだ。ぶつかって、跳ね返されて、それでもまた壁を壊しにいく。順番に並んだ狼が、そのまま一頭の意志みたいに見えてくる。壁のモチーフはベルリンの壁らしい。ただの大きな作品に留まらないメッセージ性が付与されている。

それから村上隆。個人的にはあまり好きではないのだけれど、洛中洛外図を彼らしいモチーフで現代風に描き直した作品は、素直にいいなと思った。しかも展示の裏側に、彼のYouTubeチャンネルでその作品の背景を解説している映像が流れていた。実はこんなところにスポンサーの福武さんの肖像がさりげなく紛れ込んでいる、というような話をしている。見ているだけでは絶対に気づかない。それを知ってからもう一度絵の前に戻ってみたら、印象がまるで変わっていた。同じ絵なのに、目の動き方が変わる。

体で感じて、頭で理解する。この二つを同時にやるのは、思っていたよりずっと大変なことなんだと思う。モネの睡蓮の前に立っても、僕は個人的にそこまで美しいとは思えなかった。でも美しいと思う人はいて、その人にはたぶん何かが見えている。技法のことはさっぱりわからない。自分でやっているわけではないから、わからなくて当然ではある。

みんなはどうやって受け取っているんだろう、というのは、館内を歩きながらずっと思っていた。作品の前で長く立ち止まっている人がいて、その人の中で何が起きているのかは、外からはまったくわからない。わかったふりをしないほうがいいのだろうけれど、少し羨ましくはある。

とはいえ、この旅でいちばん気持ちよかったのは、自転車で島を走っている時間だった。海が右手にあって、坂を下って、風が首のあたりを抜けていく。作品は作品でいい。でも、島そのものの起伏や、建築そのものの気持ちよさを受け取れたことのほうが、今回は大きかった気がする。やはり、わからないなりに体は正直だ。

今日はこの辺で。


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