品川区西品川 『椿荘の磁場』| #129 すれ違うことのない二人の時間
私は年に何回か、いやかなり頻繁に西品川を歩く。
ゲートシティ大崎のアトリウムには、自由に読書ができる至高の場所がある。そこで数時間ほど本を開いたあと、大崎駅の南側に広がる西品川の街へ散歩に繰り出す。それが私のお決まりの休日の過ごし方だ。
百反通りを渡り、西品川2丁目の路地を歩いていると、いつもふっと右へ折れてしまう。そうして、必ずと言っていいほど椿荘に辿り着く。廃屋と見紛うような2階建てのアパート。時間が静かに積み重なった建物だ。 最初は自分の歩く癖だと思っていた。迷路のように入り組んだ細道や見通しの悪い交差点——そういった地形的な必然性があるのだと。だが違った。毎回無意識のうちに、磁石に吸い寄せられるように椿荘へ向かっていたのだ。

その磁力がはっきりと可視化されたと感じたのは、ある8月の暑い夏の日、擁壁に施されたペインティングに気づいた瞬間だった。 緑色、オレンジ色、そしてピンク色。さらにその奥にも様々な色が塗られている。古いコンクリートブロックの擁壁の上に、前回来たときにはなかった色彩が存在していた。誰が、いつ施したのだろうか。

近所の人に椿荘について訊いてみた。
「あのアパート、住んでいる人はいますか」
年配の女性は首をかしげた。
「住んでいるらしいけど、見かけたことないね。近くの家具製作所で働いていたご老人がいるって噂は聞いたことがあるけれど。でも噂だから、はっきりとは分からないよ」
確実な存在ではなく、ただ気配だけが残っている。その気配が放つ磁場が、今回のペインティングとして現れたのだと思った。
老人はおそらく、目黒川沿いにまだ小さな工場が残っていた頃から、何十年も木を選び、カンナをかけ、店舗の棚や木枠を黙々と組み上げてきた職人だったのだろう。指先には塗料とシンナーの匂いを染み込ませ、木の肌目を確かめるように、物の表面の凹凸に敏感だったはずだ。 その手が、風化して削れたコンクリートの質感を確かめたうえで、この擁壁に色を重ねたのではないか。長年の沈黙の末に、自分の存在を刻むように置かれた色彩。 老人はこの塗料を乾かし終えたあと、椿荘から消えたのかもしれない。あるいはまだ、あの湿った部屋の奥に潜んでいるのか。確かめる術はない。
このあたりはかつて、高度経済成長期に建設された労働者向けのアパートが密集していた場所。五反田や大崎の家具製作所、金属工場、印刷所で働く人々のための住まい。だが周辺の再開発が進み、新しいビルが建ち並ぶなかで、椿荘とその周辺だけが時代の潮流から取り残された。理由は何にせよ、この建物はそこに存在し続けている。静かな磁場を放ちながら。

散歩のたびに私はここに立ち止まり、磁場の変容を確かめる。立ち去った誰かの声なき色と、私の視線。すれ違うことのない二人の時間が、この沈黙した擁壁の上でだけ、静かに重なり合う。 いつかこの建物が消え、擁壁が崩されたとしても、この場所に満ちていた磁場とあの色の記憶は、私のなかに静かに残り続けるのだろう。
ゲートシティ大崎の屋内休憩スペース

ゲートシティ大崎のアトリウムにある窓際の屋内休憩スペースは、屋外のサンクンガーデンに面した全面ガラス張りの明るく開放的な自由空間。外の噴水や豊かな緑を眺められる窓沿いに1人掛けの椅子とミニテーブルがずらりと並んでおり、誰でも無料で利用できる居心地の良いスポットとなっている。読書やパソコン作業、勉強に最適で、周辺のコンビニや成城石井、飲食店でテイクアウトしたお弁当やコーヒーを持ち込んで外の景色を眺めながらゆったりと過ごせる。
