🏨✨☕ パンとコーヒーが香るホカンス
僕たち夫婦の習慣のひとつに「ホカンス」がある。韓国発の言葉だと聞いたけど、僕たちにとってはもう立派な年中行事みたいなものだ。年末年始か年明けの鹿児島、春は福岡。だいたい年に一度か二度、ふと思い立ったようにホテルを予約して、荷物をまとめて、いつもの暮らしをそのまま持っていく。それだけなのに、なぜかとても特別な時間になる。
観光地に行くこともあるけれど、それはあくまで「ついで」であって、僕たちの旅のメインはホテルそのものだ。部屋に入ってベッドに寝転がり、テレビをつけてなんとなく眺め、気づけば二人ともスマホを手にしてそれぞれ遊んでいる。会話がなくても、同じ空気を吸って、同じリズムで過ごしているのが心地いい。僕たちのホカンスは、きっと誰かから見れば「何もしていない旅」だろう。でも、僕たちにとっては「何もしないからこそ最高の旅」なのだ。
ホテルに広がる静かな夜
たとえば福岡で泊まったホテルには、最新のスマートテレビがあった。大きな画面にYouTubeが映し出され、気になる動画を片っ端から再生する。二人で笑いながら見たり、片方がスマホに夢中で聞き流していたりする。でもそれでいい。テレビの音とスマホの光が混じり合って、夜がゆっくりと更けていく。
窓の外には、見慣れない街の灯りが広がっている。鹿児島でも福岡でも、東京でもない場所の夜景は、それだけで「いつもと違う場所に来た」という実感を与えてくれる。ホテルのベッドの白いシーツに体を沈めると、その街に住んでいる人の暮らしが一瞬だけ垣間見えるような気がして、僕は不思議と安心するのだ。
朝の散歩が旅を決める
そして僕たちがホカンスで一番楽しみにしているのは、翌朝の散歩だ。特に大きな目的地を決めているわけじゃない。ホテルを出て、ただ近くを歩く。冬なら吐く息が白く広がり、春ならやわらかな風が頬をなでる。街路樹の影が伸びている道を歩きながら、「どこに朝ごはんがあるだろう」と二人で探す。
そうして見つけるのは、たいてい小さなパン屋や喫茶店だ。ドアを開けた瞬間に広がる香ばしい匂い。焼きたてのクロワッサンの層がパリッと弾ける音が聞こえてくるようで、胸が高鳴る。カウンター越しに聞こえるコーヒーミルの回る音。豆が砕けるときに立ちのぼる深い香りは、旅先でしか嗅げない濃密さを持っている気がする。
テーブルに並ぶのは、熱々のコーヒーと、バターの香りが染み込んだパン。噛むたびに表面はサクッと、中はふんわりとほどけていく。僕はその瞬間、「ああ、ホカンスに来てよかった」と心の底から思う。特別なレストランじゃなくていい。豪華な食事じゃなくてもいい。パンとコーヒー、ただそれだけで、僕たちの旅は完成するのだ。
非日常のようで日常の延長
ホテルの部屋に戻ると、またベッドに転がってテレビをつける。前夜の続きのようにYouTubeを流し、スマホを片手にだらだら過ごす。普段と変わらない過ごし方のはずなのに、なぜかここではすべてが特別に感じられる。窓から見える景色が違うだけで、同じ「日常」が輝いて見えるのだ。
鹿児島で過ごした年始のホカンスでは、外の空気が澄んでいて、散歩の途中にふと見上げた空の青さが忘れられない。福岡のホカンスでは、ホテルに戻る途中で立ち寄った小さなカフェのスープとパンが妙に美味しくて、今でも記憶に残っている。
どれも「ついで」でしかない出来事なのに、心に残る。むしろ、その「ついで」こそが旅の宝物なのだと思う。
二人から三人へ
ただ、気づけばもう二年ほどホカンスに行っていない。理由ははっきりしている。赤ちゃんが生まれたからだ。僕たちの部屋にはホテルのシーツの代わりに小さな毛布が広がり、コーヒーの香りの代わりにミルクの匂いが漂うようになった。深夜までYouTubeを見て笑っていた時間は、夜中の授乳や寝かしつけに変わった。
それでも、不思議と満たされている。今は日常そのものが新しい冒険みたいなものだからだ。けれど、やっぱりあの「ホテルの空気」も恋しくなる。白いシーツに体を沈め、翌朝パンとコーヒーの香りに包まれるあの感覚を、もう一度味わいたい。
次のホカンスには、赤ちゃんも一緒に連れていこうと思っている。赤ちゃんと一緒にホテルに泊まるなんて、想像するだけで新しい楽しみが増える。ベビーベッドを貸してもらえるだろうか、朝食会場にベビーチェアはあるだろうか。パンをちぎって少しあげてみたら、どんな顔をするだろう。ホテルのシーツの真ん中でゴロゴロする赤ちゃんの姿を思い浮かべると、胸があたたかくなる。
夫婦二人で楽しんできた「何もしない贅沢」は、これから三人で楽しむ「小さな冒険」に変わっていくのだろう。
香りが連れてくる未来
ホカンスから帰ってきても、ふとした瞬間にその匂いを思い出すことがある。朝のパン屋で嗅いだ焼きたての香ばしさ。コーヒー豆を挽くときの深い香り。あの匂いが鼻に蘇ると、僕は「また行きたいな」とすぐに思ってしまう。
これからは、赤ちゃんの笑い声や泣き声もその記憶に混じるだろう。パンの香り、コーヒーの湯気、ホテルの白いシーツ、そして赤ちゃんの柔らかい匂い。そのすべてが重なり合って、僕たち家族のホカンスは新しい物語になっていく。
次の行き先は、やっぱり鹿児島か福岡だろうか。どちらにしても、パンとコーヒーの香りのなかに、三人で過ごす朝が待っている。
