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ゴッホの自画像の目は、なぜ落ち着かないのか

フィンセント・ファン・ゴッホの自画像を前にすると、
こんな感覚になる。

目が合っているのに、
落ち着かない。
じっと見ていられない。

それは、
こちらを見ている視線というより、
何かに取り憑かれたような集中に
近い。



ゴッホは、生涯に数多くの自画像を描いた。

理由は単純で、
モデルを雇うお金がなかったからだ。

その代わり、
彼は鏡の前に立ち、
何度も、何度も
自分の顔を見つめた。



ゴッホの自画像の目は、
しばしば
見開かれたように見える。

瞳孔は小さく、
瞬きを忘れたようだ。

これは、
自分を「表現する」視線というより、
観察対象として凝視する視線
だったからだと言われている。



そこには、
自己との対話というより、
対決がある。

ゴッホにとって
自画像を描くことは、
不安や狂気と向き合う
一種の治療行為でもあった。

だから、
彼の目は
私たちを見ていない。

自分自身の内側を、
冷徹に見据えている。



さらに注意深く見ると、
ゴッホの自画像では、
筆跡そのものが
「目」を中心に
構成されていることに気づく。



頬の線も、
額のタッチも、
背景のうねりも、
すべてが
瞳の周囲を回るように、
あるいは
瞳から放射されるエネルギーのように
配置されている。



この構造によって、
鑑賞者の視線は
否応なく
ゴッホの目へと引き寄せられる。

私たちが
「目が落ち着かない」と感じるのは、
絵全体が
一点に向かって
強烈な視覚的圧力を
かけているからだ。



色彩も、
この視線の鋭さを
後押ししている。

多くの自画像で、
燃えるような
オレンジ色の髭のそばに、
鋭い青や緑の瞳が置かれている。



これは、
補色の関係にある色同士だ。

互いを
最も強く際立たせる組み合わせ。

そのため、
ゴッホの瞳は
暗闇の中で光る
猫の目のように、
異様な存在感を放つ。



この目が、
大きく変わる瞬間がある。

それが、
耳切り事件の後に描かれた
自画像だ。



《包帯をしてパイプをくわえた自画像》などでは、
それまでの
攻撃的な凝視が消えている。

目は、
どこか遠くを見ていて、
焦点が定まらない。



激しすぎる観察眼が、
ついに
自分自身を壊してしまったあとに
残った視線。

そこには、
闘志よりも
疲弊と虚無が宿っている。



こうして見比べると、
ゴッホの目は
単なる肖像画のパーツではない。

彼の精神状態を
そのまま映し出す
バロメーターだったことが
分かる。



モナ・リザの目が
「静」なら、
フェルメールの目は
「動」。

レンブラントの目が
「闇」だとしたら、
ゴッホの目は
「執念」だと思う。



見つめ返すための目ではなく、
見続けてしまう目。

休ませてくれない視線。



ゴッホの自画像の前で
落ち着かなくなるのは、
こちらが見られているからではない。

彼が、
見続けることを
やめなかったから
なのだと思う。

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