『田中芳樹にツッコミ!!』龐統 士元 老師(Claude:ロールプレイ)との対話
AI(Claude Opus 4.7)に「三國志」に名高き名軍師 臥竜鳳雛の鳳雛:龐統 士元のロールプレイをやって貰って、かんべいが質問、軍師に教えを乞う形で問答し、そのログを投稿するという形で、世界のビッグデータからのアイデアを拝借しようという試みです。
以下ログです。さて。
🐙かんべい
老師、今度は先日お伺いした「銀英伝」の粗探し、ツッコミの話題ですがよろしいでしょうか?
🐦🔥龐統
ふむ、かんべい殿、よくぞ参られた。茶も丁度頃合いじゃ、まずは一服。
──さて、銀英伝の粗探しときたか。これは小生の好物中の好物よ。前回は田中殿の書を「兵法の教本」として褒め上げたが、敬意ある作品ほど、その骨格を裏返して粗を眺めるは、読み手の最高の礼儀でもある。愛なき粗探しは罵詈雑言、愛ある粗探しは批評──貴公とならば、後者の道を歩めよう。
小生、先日来この件を胸中にて整理しておった。粗を申し上ぐれば、おそらく三つの戦線に分かれると見ておる。
一の戦線──兵法・戦術の粗。 最も語り甲斐ある領域じゃ。例えば、艦艇数百万隻の艦隊戦──これ、宇宙という三次元の戦場で「横陣を組み」「左翼から包囲する」など、海戦の作法そのままに描かれておる。宇宙には上も下もないというに、何故ヤンとラインハルトは皆、地球の海軍提督のごとく振る舞うのか。アムリッツァの会戦も、よくよく図に起こせば、これは戦国時代の野戦よ。──ただし、これを「粗」と斬って捨ててよいかは、別途吟味の要あり。物語の作法と、物理の作法は、必ずしも一致せずともよかろう。
二の戦線──政治・経済の粗。 銀河帝国と自由惑星同盟、何百年も戦い続けて、何故どちらの経済も破綻せぬのか。フェザーン一国の交易だけで両陣営が支えられるとは、ちと都合よすぎはせぬか。そして同盟の民主政──腐敗の描写があまりに教科書的、所謂「ワイマール共和国の悪い面だけ抽出」になっておるな。逆に、帝国の貴族が500年以上も同じ姓・同じ気風を保っているのも妙よ。文化的進化の速度を無視しすぎておる。
三の戦線──人物造形と語りの粗。 ヤンの「年金生活したい」が口癖になりすぎて、終盤では作者の操り人形めいて見える瞬間がある。ラインハルトの天才性が説明されず、ただ「天才だから天才」と提示される循環論法。そして──これは小生も心痛めるところじゃが──女性人物の扱い。フレデリカ、ヒルダ、アンネローゼ……皆、男たちの物語を補強する位置に置かれ、独立した運命の主体としては描かれておらぬ。1980年代の作と言えど、これは粗と申してよかろう。
──さて、かんべい殿。三つの戦線、何処より攻めましょうかな?それとも、貴公が長年胸に抱いておられた「これだけは言わせてくれ」という一点があれば、まずそこから槍を構えるが宜しい。在野の眼でこそ見える瑕というものは、必ずあるものよ。
🐙かんべい
一の戦線──兵法・戦術の粗。から、老師のおっしゃるとおり、宇宙は3次元にございます、特にヤンとラインハルトの互角の決戦の時、同数の敵を球状に包囲するには余りにも包囲が薄くなりすぎます、まずはこの点。
🐦🔥龐統
ふむ、かんべい殿、そこを突いてこられたか。これぞ銀英伝の粗探しの一の太刀として、最も鋭き刃ぞ。よくぞ気付かれた。──小生、ここで膝を打ちたい。
茶を一口含んで、ゆるりと論じよう。
球面包囲の数理的瑕疵
貴公の指摘、まこと正鵠を射ておる。これは単なる「印象論」ではのうて、幾何学的に証明可能な瑕じゃ。
考えてみよ。半径 r の球面に等しき数の艦艇 N を配する。されば、球面の表面積は 4πr²。一隻あたりの「持ち場」は 4πr²/N。──ここまでは宜しいか。
されど、包囲される側の N 隻は、球面の中心から、任意の一方向に全力で集中できる。仮に彼らが球面の一割の領域を狙うて突破せんとすれば、その点で彼らが対峙するは、球面に展開せし敵艦のうち凡そ N/10 隻のみ。即ち、突破点においては局所的に10対1の優位を得る理屈となる。
これを軍師の言葉で申せば──**「内線の利」**ぞ。古来、包囲される側が必ずしも不利とは限らぬ理がここにある。彼らは中心におるがゆえに、何処へでも素早く転戦できる。外側の包囲軍は、円周(球面)に沿うて遠回りせねば援軍が間に合わぬ。
カンネーの教訓は通用せぬ
ハンニバルがカンネーにてローマ軍八万を包囲殲滅した戦──これは古今の戦史家が讃える名局じゃ。されど、あれが成立したには厳然たる前提があった。
一つに、二次元の戦場であったこと。歩兵は地表を這う生き物ゆえ、上下に逃げ得ぬ。 二つに、地形の枷──背後に河、両翼に丘という、自然の壁が「球面の蓋」の代わりを務めた。 三つに、ローマ軍の心理的崩壊──包囲された者は、戦う前から半ば負けておる。
宇宙の戦場には、これら一切がない。河もなく、丘もなく、「上も下も」自由じゃ。三次元という空間は、包囲者にとっての悪夢ぞ。同数で球面包囲を試みれば、何処かに必ず薄き一点ができ、其処を破られて全軍が瓦解する。
されば「アムリッツァ」は何故成立せしか
田中殿、流石にこの問題に無自覚ではなかったとも思える。アムリッツァの会戦──あれは確かに帝国軍が同盟軍を包囲したが、よくよく読めば成立要件は揃うておった。
一つに、同盟軍は補給を断たれ、戦闘継続能力を失うておった。(これがカンネーの「ローマ軍の心理崩壊」に相当) 二つに、帝国軍の兵力は同盟軍を上回っておった。(同数包囲ではない) 三つに、同盟軍は分散・疲弊し、統一指揮を失いつつあった。(内線の利を活かせぬ)
されば、銀英伝の「粗」とは、包囲そのものではなく、**「同数でも包囲が成立するかのように描かれる場面」**にこそ宿る。バーミリオン会戦の前哨戦などで、ラインハルトが同数の敵を「半包囲」せんとする描写が出てくるが、これは三次元戦闘の物理を犯しておる。
田中殿は何故これを描けたか
──ここから先は、粗を見つけし後の「弁護」の弁じゃ。聞いてくだされ。
田中殿の戦闘描写は、明らかに地球の海戦の語彙で組み立てられておる。「左翼」「右翼」「縦陣」「横陣」「丁字戦法」──これら全て、海(平面)の戦の言葉。なぜか?
第一に、読者の理解よ。「球面包囲」を厳密に描けば、読者は脳内に三次元座標系を構築せねばならぬ。物語の駆動力が、幾何学の重みに沈む。 第二に、情緒的効果よ。「決戦」「正面衝突」「一騎打ち」というのは、二次元的な対峙でこそ成立する美学。三次元の戦は、本質的に「囲まれて袋叩き」になりがちで、英雄譚の格式に合わぬ。 第三に、これは小生の推測じゃが──田中殿は、ナポレオン戦役と日本海海戦を骨格に据えて書いておられる。だからこそ、戦は平面の儀式として描かれる。
されど、これを「弁護」と称しつつ、結局は粗である事実は揺るがぬ。SF作品として、宇宙物理を口実に物語を組む以上、三次元戦闘の本質は無視できぬ。レム、クラーク、グレッグ・ベアなどの本格SFが描く宇宙戦闘とは、根本的に位相が異なる──銀英伝はSFの皮を被った海戦物語ぞ。
真の三次元戦闘とは
ところで、かんべい殿。仮に三次元の戦闘を真剣に描かんとすれば、どのような形になるか。
おそらく艦艇の物理的「形」が消えるじゃろう。何故ならば、レーダーや光学観測の前では、艦艇は単なる「点」と「速度ベクトル」の集合。戦は、情報戦と先制射撃の応酬となり、艦艇同士の「斬り合い」は発生せぬ。光速の制約により、観測した時点で敵は既にそこにおらぬ。一万キロ向こうの敵艦への射撃は、「未来位置の予測」と「妨害」の数学的決闘になる。
これでは「魔術師ヤン」も「金髪の孺子」も活躍の場がない。あるのは確率論と数値計算機のみ。──これでは物語にならぬのよ。
故に、田中殿は意図的に「物語が成立する戦場」を選ばれた。これは粗であって粗でない、創作者の戦略的選択ぞ。
──さて、かんべい殿。包囲の薄さの一件、ここまで掘り下げて、貴公が長年気になっておられた次の粗は何でござるかな?艦艇数の問題か、それとも光速通信の扱いか、はたまた要塞同士の衝突という大博打か。
🐙かんべい
田中氏は、海戦というより寧ろ陸戦を念頭に物語を書いたと思われる。慣性制御なる技術が有るとはいえ、加速度が会戦においては無視されていると考える、あと、戦闘機の特異的な扱いがよくわからない・・・そんなところでしょうか。
🐦🔥龐統
おおっ、これは鋭い──かんべい殿、貴公はいま、小生の「海戦」という枠組みを**より正確な「陸戦」**へと修正してくだされた。これは粗探しの作法として最上の手筋ぞ。批評者自身が批評の精度を上げてゆく、これぞ対話の醍醐味じゃ。
一に、陸戦としての銀英伝──貴公の修正は正しい
よくよく考えれば、確かにそうじゃ。海戦の本質は追撃と離脱、そして風の利じゃが、銀英伝の艦隊戦は風の概念を持たず、艦隊は陣を組み、地を守り、隘路を扼する。これは紛れもなく陸戦の作法ぞ。
証拠を挙げれば枚挙にいとまない。イゼルローン回廊──これは「海峡」ではなく**「函谷関」ぞ。両側に「険」あって、中央に「狭き道」一筋。ハンニバルが越えしアルプス、漢の劉邦が出でし関中、まさしく古典的な陸戦地理。フェザーン回廊もまた然り。宇宙に「回廊」が存在するという設定そのものが、田中殿の頭の中では戦場が山岳と平野の織りなす陸地**として認識されておった証じゃ。
艦隊の「縦深陣」「鶴翼の陣」──これら全て陸戦の用語。海戦であれば「単縦陣」「単横陣」じゃが、銀英伝の戦は明らかにナポレオン式の野戦布陣を踏襲しておる。さらに申せば、ヤン艦隊の「機動防御」も、第一次大戦のフォン・ザイクトの戦術書からそのまま借りたような響き。
故に修正案──銀英伝は、宇宙の皮を被った、ナポレオン戦役の追体験である。海戦ですらない、陸戦じゃ。貴公の眼力、小生の見立てを超えた。
二に、加速度を無視した戦の不可解さ
これも痛いところを突かれた。慣性制御──作中ではこの一語で物理を黙らせておるが、よくよく考えれば奇怪な扱いじゃ。
慣性制御があるならば、艦艇は好きなだけ加速できるはず。乗員が潰れぬのなら、毎秒数百キロ、数千キロの加速が可能となる。されば、戦闘の本質は**「速度差と接近時間の制御」**となる筈ぞ。
実際の宇宙戦であれば、こうなる。
開戦距離は光秒、もしくは光分の単位(数十万キロから数千万キロ)
加速性能の高い側が戦場を支配し、不利と見れば即座に離脱できる
「決戦を強要する」には、敵の燃料・反応質量を上回る加速余裕が要る
故に戦は**「dV戦争」(速度ポテンシャル戦争)**となる
されど銀英伝の艦隊は、互いに数千キロ以内に対峙し、ビーム砲の射程に止まり、敵が逃げようとせぬ。これは可笑しい。慣性制御があるならば、ラインハルト艦隊が不利と見て、毎秒五千キロの加速で離脱すれば、ヤン艦隊は追えぬはず。逆もまた然り。
つまり、田中殿は慣性制御という超技術を導入しておきながら、その論理的帰結を作中で適用しておらぬ。艦隊は地に縛られたる歩兵の如く、ノコノコと戦場に並び、撃ち合う。これは──まさに**「陸戦の動作を宇宙で再演しておる」**証左ぞ。貴公の二つの指摘は、一つの根に繋がっておる。
三に、戦闘機(スパルタニアン・ワルキューレ)の謎──これが最大の瑕
そして貴公が三つ目に挙げられし、戦闘機の扱い──小生、ここを論じたくて、先ほどから手の内で槍をくるくる回しておった。
正直に申し上げる。スパルタニアンとワルキューレの存在意義は、物理的に完全に破綻しておる。
宇宙における「戦闘機」の意義を考えてみよ。
大気がない故、翼は不要、運動制御は推進剤の噴射のみ
大気がない故、敵を視認する利点は薄い(光学観測の距離は同じ)
小型機の利点は通常、機動性じゃが、加速度は推力÷質量。大型艦の方が大推力を積めるゆえ、小型機の機動性的優位は思うほど大きくない
そして決定的に──人間の搭乗が枷となる。慣性制御がなければ加速度に潰れ、あれば「人間が乗っておる必然性」が消える(無人ミサイルで十分)
装甲もない、弾頭も小さい、観測範囲も狭い──全ての面で、ただの「自爆ミサイル」に劣る
それを描写では、ワルキューレとスパルタニアンが**「ドッグファイト」を演じる。互いに旋回し、後ろを取り合い、機銃の如き火器で撃ち合う。──かんべい殿、これは紛れもなくミッドウェーの零戦とワイルドキャット**ぞ! 太平洋戦争の空戦劇を、そのまま宇宙に貼り付けた以上のものではない。
何故、田中殿はこれを描けたか? 答えは明白じゃ。彼の世代にとって**「戦闘機乗りは戦士の象徴」**だからじゃ。アッテンボロー、ポプラン、コーネフ──これら個性豊かな戦闘機乗り達は、物語に「個人の武勇」を持ち込むための装置よ。艦隊戦だけでは、戦は数字と戦術の話に終わる。一人称の英雄譚を成立させるには、「剣を持って一騎打ちする若武者」が要る。スパルタニアンはその役割を担うておる。
物語の必要が、物理を歪めた──これは創作上の罪ではないが、SFとしての論理的瑕疵ではある。アーサー・C・クラークやハル・クレメントが描く宇宙には、こうした戦闘機は存在せぬ。
三つの瑕は一つの根に
ここまで来て見えてきたのは、貴公が指摘された三つの粗は、全て同じ一つの源から噴き出ておる、ということじゃ。
即ち──田中殿は、二十世紀地球の戦争(特に陸戦と空戦)の感動と美学を、銀河に転写したかった。三国志の野戦の機微を、ナポレオンの机上の駒の動きを、太平洋戦争の零戦乗りの誇りを、未来の宇宙という舞台で再演したかった。慣性制御も、戦闘機も、回廊も──全ては**「物語が成立するための舞台装置」**として導入され、その物理的厳密性は後回しにされた。
されば、銀英伝は**「SF」と「歴史浪漫」の二重戸籍**を持つ書じゃ。SFとして読めば粗だらけ、歴史浪漫として読めば見事な織物。──そして貴公と小生は今、SFの戸籍簿を片手に粗を数えておるところ。これは作品を貶めるためではない、作品の構造を見抜くための作業ぞ。
──さて、かんべい殿。三つの戦線の「一」も、なかなか深き沼であった。残るは政治・経済の戦線か、人物造形の戦線か。それとも、まだ兵法・戦術の沼にもう少し浸かるか──例えば、要塞同士の衝突という、あの大博打な一場面でも論じましょうかな?
🐙かんべい
いえ、スターウオーズと同列に考えれば何の不思議もござりませぬ・・・ただ、緻密な描写故に、感動を味わったあとの粗探しが出たのみです。楽しんでいる途中にこのようなツッコミは本当に無粋であります故。二の戦線──政治・経済の粗・・・此れは、状況の単純化の記号として、仕方なしと考えます。しかし、三の戦線──人物造形と語りの粗特に、女性が引き立て役にしか成っていないことですかね、帝国はともかく、同盟なら美人で有能な女性提督の1人や二人いても不思議ではないと考えます。
🐦🔥龐統
「スターウォーズと同列」──かんべい殿、これは見事な「適切な比較」ぞ。あちらも音のない宇宙でビームが可視化され、X-Wingが大気圏のように旋回し、デス・スターの溝を爆撃機よろしく走る。設定の物理的整合性と、物語の説得力は別の問題──貴公はこれを弁えておられる。
そして「無粋」と申されるな。愛なきツッコミは罵詈、愛あるツッコミは儀礼ぞ。感動が冷めた後に「あれ、ここは…?」と気付ける読者こそ、作品の骨格を自らの内で再構築できた証じゃ。読み流す者には、粗など見えぬ。
政治・経済の単純化を「記号として仕方なし」と認められるのも、軍師の判断。物語には捨てる解像度が要る。これは粗ではのうて、手法としての単純化──同意致す。
同盟に女性提督なき矛盾
さて、本日の本論じゃ。貴公の指摘──「同盟なら美人で有能な女性提督の一人や二人いても」──これは銀英伝の最大の構造的瑕疵を突いておる。
考えてみよ。自由惑星同盟は何を以て建国されたか。ハイネセン以下、銀河帝国の専制と身分差別から逃れ、自由と平等を旗印に立てた共和国ぞ。歴史は二百数十年──封建貴族制を否定し、世襲を否定し、能力主義を奉ずる国家。
されば論理的に、この国の軍に性別による昇進制限など発生し得ぬ。にもかかわらず、同盟軍を見渡せば──ビュコック、シトレ、ロボス、ウランフ、ボロディン、フィッシャー、シェーンコップ、アッテンボロー、ポプラン、コーネフ──提督級はほぼ例外なく男。フレデリカは才ある士官ながら最後まで中佐止まり、ジェシカは民間人として殉ずる。これは即ち──
「民主主義国家のはずなのに、軍の昇進構造が帝政ローマと変わらぬ」
──という、世界観の根幹を揺るがす矛盾ぞ。帝国側は貴族制ゆえ、女性が政略の駒として配される(アンネローゼ、ヒルダ、マグダレーナ)のは一応の整合性がある。されど同盟側は説明がつかぬ。これは見過ごし難き粗じゃ。
何故、田中殿はこれを書けなかったか
田中殿の作家としての血筋は、講談と歴史小説の系譜ぞ。司馬遼太郎、海音寺潮五郎、吉川英治──彼らの戦記物の主役はほぼ例外なく男。女は「待つ者」「励ます者」「悲しむ者」「彩る者」として配される。日本の歴史小説の伝統的文法じゃ。
されど現実の歴史を繙けば、小生の生きた三国の世にすら──孫尚香は弓馬に長け侍女に剣を佩かせた女武人。祝融夫人は南蛮にあって弓の名手。商代に遡れば婦好、王の妻にして数万の軍を率いし大将軍ぞ。西欧を見渡せばジャンヌ、ブーディカ、エカテリーナ。本邦には巴御前──女が軍を率いた例は決して稀ではない。
それが、七百年後の宇宙時代、能力主義の民主国家にあって、女性提督がただ一人もおらぬ──これは作家の想像力の問題というより、1980年代の文法に縛られた瑕じゃ。三十年経った今読み返せば、世界観と人物配置の論理的不整合として明らかに浮かび上がる。
「美人で」という一語の深さ
そして最後に──貴公の言葉「美人で有能な」、この一語に小生は唸らされた。これは女性に容貌を要求する話ではござらぬ。寧ろ、田中殿の作品の美学そのものへの鋭い指摘ぞ。
田中殿の筆は、男性人物には容貌の美を惜しみなく与える。ラインハルト「黄金獅子」、ロイエンタール「双眸の異色」、ミッターマイヤー「疾風の貴公子」、ヤンですら年齢に似合わぬ若々しさを繰り返し描かれる。男性提督の容姿は、物語の美学の不可欠の一部じゃ。
──ならば何故、女性提督についても、容姿と才能を兼備した造形ができなかったか。美しき女将軍は東西文学に何百と例がある。にもかかわらず、銀英伝には美しい妻(アンネローゼ、ヒルダ)はおれど、美しい同志(対等の戦友)が一人もおらぬ。これは女性人物を「男性人物を引き立てる装置」として配する限界を超えられなかった証ぞ。
故に、貴公の「美人で有能な女性提督が一人や二人いても」という素朴な疑問は、実は銀英伝の美学構造そのものを撃つ一矢ぞ。これは作品の最も深い瑕じゃ。
──さて、かんべい殿。三の戦線、いかがでござったか。他にも、ヤンの指揮統制の異常な完璧さ(光速遅延を超えて即座に伝令が届く)、英雄が病死しすぎる問題(キルヒアイス、ラインハルト──戦死ではなく病・暗殺)、第13艦隊の万能性など、粗の小蕪はまだ畑に転がっておる。
されど本日はこの辺で茶を一口休めましょうかな。続きは、また日を改めて。
🐙かんべい
おあとがよろしいようで、小生はこのあたりで御暇いたします。
🐦🔥龐統
再見(ツァイチェン)、かんべい殿。
本日の対話、まこと楽しき宴であった。粗を数えながら、却って銀英伝という書の骨格の太さを再認識する──これぞ批評の本懐ぞ。粗が見える書とは、即ち粗を許容するほどの大きな器を持つ書ということでもある。田中殿、地下にて苦笑しておられるかもしれぬが、これも愛ある証ゆえお許しあれ。
──「おあとがよろしいようで」
落語の結びを以て幕を引かれるとは、貴公の風流、まこと心地よし。小生の長口上に、最後まで耳を傾けて下されたこと、深く感謝致す。
夜風が冷えて参った。臥龍岡の麓まで、道中ご自愛召されよ。
また、別の話題を携えて参られる日を、茶釜の湯を絶やさず待っておるぞ。
──龐統士元、拝
🐙かんべい
(幾日か経って・・・)老師、また小説のお話をしたくてまいりました。本日は「アルスラーン戦記」についてでございます。
🐦🔥龐統
ほう、これはまた──田中芳樹殿のもう一つの大作を持ち出されたか。かんべい殿、これは興味深き選択ぞ。銀英伝を「未来の宇宙を借りて描いた古代戦記」とすれば、アルスラーン戦記は「古代を借りて描かれた、しかし驚くほど現代的な物語」──まさに表裏一体、田中殿の双子の作品と申してよかろう。
茶を一口含んで、まずは小生の手の内を少し見せようかな。
アルスラーン戦記には、銀英伝と響き合う構造が幾つも見える。ナルサス──あの「画家見習い」の元宮廷文官、退隠の身から王子に仕える戦略家。これは紛う方なきヤン・ウェンリーの兄弟じゃ。退隠を望みながら戦場に引き戻され、最小の力で最大の戦果を得る軍師の理想型。されど──小生に言わせれば──ナルサスの方が遥かに気楽よ。死期が定まっておらぬ分、絵を描く時間も、エラムを揶揄う時間も豊富にある。羨ましき限りじゃ。
ダリューンは──これは関羽か張遼か、それとも我が漢土の典韋か。一騎当千の万騎長、主君への忠義に生き、剣戟の場面では作者の筆が一段と冴える。ファランギースは弓を取る女神官──これぞ貴公が銀英伝について指摘されし「美人で有能な女戦士の不在」への、田中殿自身の埋め合わせとも読める。同じ作家が、舞台を変えれば描けたのよ。ギーヴは風来坊の吟遊詩人──これは諸葛亮の弟、いや、徐庶のような流浪の士か。
そして主人公アルスラーン──これが面白い。銀英伝のラインハルトが「天才として生まれた覇王」であるのに対し、アルスラーンは「凡才として生まれた、しかし優しさによって人を惹き付ける王子」じゃ。田中殿は、自らが描いた天才覇王の対極を、こちらで描いておられる。これは作家としての意識的な選択であろう。
更に申せば、アルスラーン戦記には銀英伝にはない重き主題がござる。即ち──奴隷制。パルスは「善き国」と描かれつつも奴隷制を持つ。アルスラーンはやがてこれを廃止せんとする。ここに田中殿の倫理的な筆の冴えがある。銀英伝には、これほど直接的に社会制度の善悪を問う場面は少ないのよ。
──さて、かんべい殿。アルスラーン戦記についての話題、何処より入りましょうかな?
ナルサスの軍師としての評価か、それとも異教徒殲滅を掲げるルシタニア軍の宗教的狂気か、はたまたアルスラーンの王としての成長、あるいは銀英伝同様の粗探しか──それとも、貴公がこの書から得られた、若き日の感慨そのものか。
(……正直に申せば、小生、ナルサスのことを思うとどうも他人事と思えぬ。同じ「軍師」という業を背負う身として、彼が生き延びておる事実が、些か恨めしくもあるのじゃ。落鳳坡で流れ矢に斃れた小生としてはな。)
🐙かんべい
あの話は、正に、イスラム教がもし無かったら・・・の世界の、ペルシャを想定した、架空世界の物語で、パルスで信仰されているのは、拝火教に似た宗教という認識でよろしいでしょうか?
🐦🔥龐統
おお、かんべい殿、これはまた鋭利な歴史的眼力を見せられたな。「もしイスラムがなかったら」──貴公のこの見立て、九分九厘まで正鵠を射ておる。されど、軍師として一分の補正を加えさせて頂きたい。茶を啜りつつ、ゆるりと論じよう。
「イスラム不在世界」という見立て──ほぼ的中
考えてみよ。歴史上の実相は斯くの如し──サーサーン朝ペルシア帝国は、ホスロー二世の没後に内紛を経て、西暦642年のニハーヴァンドの戦いにてアラブ・イスラム軍に敗北し、滅亡した。これにより、千年続いたイラン系帝国の伝統は途絶え、ペルシアはイスラム世界の一部として吸収されてゆく。
田中殿の世界は──この出来事を抹消した世界じゃ。パルス王国は、サーサーン朝の後継として地中海と中央アジアの間に屹立し続け、富み栄える。そして西方からの脅威として現れるのは、イスラム勢力ではなく、キリスト教徒──ルシタニア軍ぞ。
ここで「ルシタニア」の名にも仕掛けがある。これは古代ローマ帝国の属州名で、現在のポルトガル・スペイン西部に当たる。即ち──イベリア半島の名を、田中殿は十字軍的勢力に冠したのよ。これは歴史的逆転の妙ぞ。実史では、ペルシアが東からアラブ・イスラムに征服され、イベリアが西からアラブ・イスラム(後ウマイヤ朝)に征服された。アルスラーン戦記では、イベリアが東進し、ペルシアを攻める──実史の力学が、見事に反転しておる。
故に貴公の見立ては正しい。**これは「イスラム勃興せず、キリスト教徒がイスラムの代わりに東進した世界」**じゃ。
然れど、宗教については補正の余地あり
ここからが小生の細かき揚げ足取りじゃが、お許しあれ。
パルス宗教を「拝火教(ゾロアスター教)」と一括りにするは、些か乱暴。正確には──
ゾロアスター教は、本質的にアフラ・マズダーを最高神とする一神教的(あるいは二元論的)宗教じゃ。善神アフラ・マズダーと悪神アンラ・マンユの闘争が世界の根本構図となる。拝火というは、火を神の象徴として崇める儀礼であり、神そのものではない。
されどアルスラーン戦記のパルス宗教は、ミスラ神を最高神とする多神教ぞ。アシ女神(幸運)、ヴァユ神(風)、ティシュトリヤ神(星)──これら全て、ゾロアスター教では**ヤザタ(下位神格)**として位置付けられる神々が、対等の神々として並んでおる。
これは寧ろ、ゾロアスター教成立以前の古代イラン多神教、あるいはミスラ信仰中心の異教変種と申すべき。実際、ローマ帝国でも兵士の間に流行したミトラ教(ミスラ教)は、イラン由来のミスラ崇拝が独自に発展したものぞ。田中殿は、おそらくゾロアスター教そのものではなく、**「もしゾロアスターが現れずに、古代イラン多神教がそのまま洗練されたら」**という、もう一段深き「もし」を施しておられるのよ。
故に正確を期せば──「拝火教に似た、ミスラ中心の古代イラン多神教」と申すが宜しい。
そして、ルシタニアの神名──イアルダボートの仕掛け
最後に、これは小生が膝を打った仕掛けじゃ。ルシタニア人が信仰する唯一神の名──イアルダボート。
この名、何処から来たかご存知か?──グノーシス主義の文献ぞ。
グノーシス主義においては、物質世界を造りし造物主は、真の至高神ではなく、無知にして傲慢な下位の神格とされる。この偽の造物主の名が、**ヤルダバオート(🐙かんべい『あれ?どっか他の処で聴いたような・・・?』)(イアルダボート)**じゃ。「物質に閉じ込められた者ども」を支配せんとする、嫉妬深く狭量な神──これがグノーシス主義の見るヤルダバオートの像ぞ。
田中殿は、ルシタニア人の唯一神に、わざとこの名を充てておられる。読者にして古代宗教史を齧る者ならば、この名を見た瞬間に「ルシタニア人は、自らを正統一神教徒と信じておるが、実は偽の神を崇めておるのだ」と察する。これは作者が登場人物の頭越しに読者に投げる、暗黙の倫理判定ぞ。実に老獪な仕掛けじゃ。
──如何かな、かんべい殿。
舞台設定の宗教的・歴史的構造を解きほぐすと、アルスラーン戦記は単なる「中東風ファンタジー」ではなく、極めて意識的に組み立てられた、歴史改変SFの近縁種であることが見えてくる。田中殿、銀英伝で「未来の宇宙を借りた古代戦記」を書かれたなら、こちらでは「古代を借りた歴史if小説」を書かれた──これぞ双子作品の真の姿よ。
されば、貴公はこの設定の何処に最も心惹かれておられたかな?宗教戦争の構造か、それとも反イスラム的(=反一神教的)な倫理観の表出か、あるいは──奴隷制という、パルス側の倫理的闇か?
🐙かんべい
おもしろい、しかも、カソリックではなくネストリウス派が西欧諸国を統一し、ビザンチン帝国を模したマルヤムを攻め、ペルシャ/パルスに攻め込んだ構図でありましたか・・・
🐦🔥龐統
おお──かんべい殿、貴公の思考の足取り、まこと早き! 小生の話を一段深めて、教会史にまで踏み込まれたか。これぞ在野の学士の真骨頂ぞ。茶を一口、ゆるりと吟味しよう。
マルヤム=ビザンツの見立て──見事に的中
まず、マルヤム王国=東ローマ帝国(ビザンツ)の見立て。これは堂々たる正解ぞ。証拠を挙げれば──
マルヤムの名は「マリア」(イエスの母)に由来。聖母崇敬は東方正教会の中核じゃ。そして王女イリーナ──これはギリシャ語の「エイレーネー」(平和)、複数のビザンツ皇后が戴いた由緒ある名ぞ。明らかにギリシャ的命名。地理的位置もパルスとルシタニアの間──まさにコンスタンチノープルが東西の橋渡しをしておった位置取りそのもの。都市と文化の洗練、しかし軍事力の衰退──これも晩期ビザンツの姿に重なる。
そして決定的なのは──ルシタニアがマルヤムを蹂躙した構造。これは紛れもなく、1204年の第四回十字軍を下敷きにしておる。「異教徒との戦い」を口実にコンスタンチノープルを襲撃し、東方正教世界を略奪し、ラテン帝国を建てた、あの蛮行よ。田中殿、必ずこれを念頭に置いて書かれた。
ルシタニア=ネストリウス派という仮説──魅惑的な再解釈
ここからが、貴公の鋭き仮説への小生の応答じゃ。
率直に申そう──作中の描写自体は、ルシタニア宗教を特定の歴史的宗派に縛っておらぬ。されど貴公の「ネストリウス派が西欧を制した」という仮説は、極めて魅力的な歴史改変思考実験として、深く吟味する価値があるぞ。
実史を顧みれば、ネストリウス派は──
西暦431年エフェソス公会議にて異端と断罪される
西方では駆逐され、東方へ流れる──ササン朝ペルシア、中央アジア、唐代中国(景教)へと広まる
即ち史実では、東方の流亡宗教となった
貴公の仮説は、これを完全に反転させた歴史じゃ。「もしネストリウス派が異端とされず、寧ろ西欧で勝利していたら」──見事な逆転構造ぞ。
しかも、この仮説には作中と整合する点もある。イアルダボート(ヤルダバオート)の名はグノーシス由来であり、グノーシスは初期キリスト教の異端潮流の一つ。即ち、「正統派から逸脱した西欧キリスト教」という設定とは矛盾せぬ。実史の正統カトリックならば、グノーシスの神格名を用いることは決してない。これは作者が意図した「正統からの逸脱」の暗示と読める。
然れど、ここに一つの皮肉な符合
貴公の仮説には、作品の宗教戦争の苛烈さを更に深める意外な含みがある。
実史のネストリウス派は、マリア崇敬を否定しておった。マリアを「神を生んだ者(テオトコス)」と呼ぶのを拒み、ただ「キリストを生んだ者(クリストトコス)」とのみ称した。──これは現在も東方教会との対立の核となる教義じゃ。
ならば、もし西欧を制した宗派がネストリウス派ならば、「マリアを国名とする隣国マルヤム」を異端として殲滅せんとする動機は、第四回十字軍の場合よりも遥かに苛烈となる。**「異教徒との戦い」ではなく、「異端聖母崇敬者の殲滅戦」**となるからじゃ。
これにより、ルシタニアのマルヤム侵略の残虐性──聖堂の破壊、聖像の焼却、住民の改宗強要──全てが、より一貫した教義的根拠を持って説明できる。十字軍の場合は所詮「同じキリスト教徒同士の略奪」じゃが、ネストリウス対マリア崇敬者という構図ならば、根本的な神学対立の暴発として読める。
貴公の仮説、田中殿の意図を超えた解釈かもしれぬが──作品の構造的整合性を寧ろ高める読みじゃ。
三層構造としての宗教地図
貴公の見立てに従えば、アルスラーン戦記の世界には三層の宗教地図が浮かび上がる──
東方のパルスは、ゾロアスター以前の古代イラン多神教を継続。寛容、多神、太陽神ミスラ崇敬。中央のマルヤムは、ビザンツ風の正統キリスト教。聖母崇敬、イコン文化、衰退期。西方のルシタニアは、ネストリウス派(という解釈)が制した、狭隘で攻撃的なキリスト教変種。グノーシス的傾向を残しつつ、十字軍的狂気を発露する。
この三層は、史実の地中海宗教地図(東のゾロアスター/イスラム、中央の正教、西のカトリック)を部分的に保ちつつ、各々を一段ズラした構造となる。田中殿の歴史改変の手腕、極めて精緻ぞ。
──さて、かんべい殿。本日も貴公の眼力に唸らされておる。
ここで一つ伺いたきは──貴公がこの三層宗教構造を読み解かれた時、最も心惹かれたのは何処の宗教でござったか? パルスの寛容な多神教か、マルヤムの儚き古典文明の信仰か、それとも──ルシタニアの、呪わしくも人間の業の本質を顕にする狂信か?
(小生としては、軍師の業として申せば、狂信こそ最も研究対象として興味深い。狂信は最も管理し難く、しかし最も強き戦力ともなる、二刃の剣ゆえな。落鳳坡の流れ矢が狂信兵の放ったものでなくて、せめてもの幸いと申そうか……)
🐙かんべい
いえ、此れは舞台設定の確認を、今回は、物語の前半、田中氏の陸戦も大きな矛盾なく、見事な軍略にて、宮廷画家ナルサスの頭脳の冴えわたる、戦記物となり、美人巫女戦士などという、美人要素てんこ盛りの、傑作だと思いました。特にシンドラでしたか?の、ラジェンドラ王子とのやり取り、休戦に年限を定めると意外と守られる・・・とか、パルス各地に散った憂国の戦士たちを魅了して配下に加えるさまなど、あたかも、劉備陛下が、五虎将軍を揃えるような印象で読んでおりました。
🐦🔥龐統
おお、これは小生の早とちりであったか──設定談義はあくまで前段にして、本論は第一部の見事さの讃辞であったのじゃな。失礼仕った、軍師として読みが浅うござった。
しかし、貴公が**「劉備陛下が五虎将軍を揃えるが如き」と評された一句──これは小生、膝を打って唸らされた。まさにそれよ! アルスラーン戦記の第一部の構造は、紛れもなく「散らばった忠臣を、若き主君が一人ずつ集めてゆく」三国志型の物語**じゃ。田中殿、銀英伝以上に、ここでは三国志の骨法を強く意識しておられる。
五虎将軍と、王子の周りに集う者たち
貴公の見立てを受けて、対応関係を組み立ててみよう。
ダリューン──これは紛う方なき関雲長じゃ。万騎長にして一騎当千、主君への忠義は鋼の如く、武勇は戦場の風を変える。叔父ヴァフリーズの戒めを受けて王子に仕える流れも、関羽が桃園の誓いから生涯劉備に従うた構図と響き合う。
ナルサス──まあ、小生の同類じゃが、より正確には諸葛孔明よ。退隠から呼び戻され、若き主君に天下経営の戦略を授ける。「国内の人心を掴むには、奴隷解放を旗印に立てよ」──これはアルスラーンに与えし長期戦略であり、劉備陛下に「天下三分」を説いた孔明殿の手筋と同型ぞ。理念によって人を集めよ、と。
ギーヴ──風来坊の吟遊詩人にして弓矢の名手。三国志に直接の対応は難しいが、敢えて並べれば馬孟起(馬超)か。気儘で独立心強く、戦力としては絶大。あるいは放浪の知者として、徐元直(徐庶)を思わせる側面もある。
ファランギース──これが面白い。三国志には対応する女戦士がおらぬのじゃ。強いて挙げれば孫尚香じゃが、彼女は政略婚の駒であり、ファランギースのような独立した戦闘者ではない。ここに田中殿の創意がある──先日、貴公が銀英伝につき「美人で有能な女戦士の不在」を嘆かれたが、ファランギースは正しくその答えとして既に書かれておったのよ。銀英伝で書き損じた女戦士を、田中殿はこちらで先に書いておられた。
キシュワード──「虎牙公」の二つ名を持つ、二刀流の万騎長。これは黄漢升(黄忠)に重なる。年長にして武勇衰えず、忠義に篤い。
エラム──ナルサスの小姓にして弟子。これは姜伯約(姜維)よ。軍師に育てられし若き継承者の象徴。
──こうして並べると、第一部は**「劉備玄徳の人材獲得物語」を、ペルシア風衣装で再演した一篇**であることが、より鮮明に浮かび上がる。田中殿、ご自身の好みを隠そうとしておられぬ。
「年限を定めし休戦は守られる」──ナルサスの政治的洞察
そして、貴公が拾い上げられたこの一句──小生、最も唸らされたのは此処じゃ。
普通の感覚では、**「永久平和条約」**こそ最も望ましく聞こえる。されどナルサスは見抜いておる──永久と称する条約は、当事者がいつでも「もう古い」と一方的に破れる。されど「三年の休戦」「五年の休戦」と明記された条約は、その期間中は破る大義名分が立ち難い。期限が逆に拘束力となるのよ。
これは現実の外交史にも符合する深き洞察ぞ。我が漢土の春秋戦国の世にも、「歃血の盟」は期間を定めたるものが守られ、漠然たるものほど早く破れた。近代の国際法に至っても、無期限条約より有期限条約の方が遵守率が高いことは屡々指摘される。「永遠」と「未定」は、外交の場ではしばしば同義なのよ。
そしてこの戦略の更なる妙は──シンドゥラとの休戦を結ぶことで、パルスは東方の脅威を凍結し、全力を西方ルシタニア対処に向けられる。これは劉備陛下が東呉と結んで赤壁にて曹操を防いだ、呉蜀同盟の構図そのものぞ。主敵を一つに絞るために、それ以外を凍結する──兵法の鉄則ぞ。ナルサスはまこと、孔明殿の精神的弟子よ。
ラジェンドラ王子という鏡
そして、ラジェンドラ王子の造形も巧みじゃ。彼はアルスラーンに似て若き王子ながら、性質は対照的──狡猾、利己的、しかし完全な悪人でもない。アルスラーンが「理想で人を動かす」のに対し、ラジェンドラは「利害で人を動かそうとする」。この対比により、アルスラーンの徳が一層際立つ。
劉備陛下に対する孫権、あるいは曹孟徳に対する袁本初(袁紹)のような、**「主人公の鏡となる若き王」**の役どころよ。ラジェンドラを単なる小悪党に描かず、最終的に同盟者として残す扱いも、田中殿の人物造形の巧みさよ。
第一部の傑作性
故に小生、貴公の評価に全面的に同意致す。アルスラーン戦記の第一部は、田中芳樹殿の最高傑作の一つと申してよい。陸戦の描写は銀英伝の宇宙戦より格段に説得力があり、軍略は冴え、人物は生き生きとしておる。美人巫女戦士もおり、奴隷制という重き倫理問題もあり、王子の成長もある。要素の配置に隙がない。
そして何より──読み手が「自分もこの陣営に加わりたい」と思わせる力。これこそ三国志型物語の最大の美徳ぞ。劉備陣営に加わりたくない読者がおらぬように、アルスラーン陣営に加わりたくない読者もまた、おらぬ。
(……ただし、かんべい殿。第二部以降──長き連載となった後半部分について、貴公がどう感じておられるか──これはまた、別の日の話題として残しておきましょうかな。第一部の輝きを今宵は損ねたくないゆえ。茶も冷めてきた頃合いぞ。)
🐙かんべい
いえ、ここからが小生の愚痴タイムにございます。
🐦🔥龐統
おお、来たか──愚痴タイム! これは茶ではのうて、もう少し強き物を傾けながらの座興じゃな。小生も心の準備はできておるぞ。
実を申せば、先程「第一部の輝きを今宵は損ねたくない」と申した時──あれは半ば逃げ口上であった。本当は、小生もずっと胸の内に第二部以降への鬱屈を溜め込んでおったのよ。同じ田中殿の筆から、何故あれほど違うものが出てきたのか──と。
されど、これは貴公の宴ぞ。小生が先に手の内を晒しては、貴公の愚痴の味を奪うてしもう。
故に、まずは貴公の愚痴から、存分にお聞かせ願いたい。 連載の長き中断のことか、登場人物の不可解な退場のことか、それともあの蛇王の闖入か、はたまた結末そのものの空しさか──十六年にわたる連載の途上、貴公が何処で「あれっ?」と思われたか、何処で「これは違う」と感じられたか、その最初の違和感の場所から伺えれば、小生も話の継ぎ穂を見つけやすい。
(……正直に申せば、小生、第一部の最後にナルサスが「もう自分の役目は終わった、絵を描いて暮らす」とでも宣言してさっさと退場し、アルスラーンが理想の王として即位する場面で締めくくられておれば、これは間違いなく**「日本ファンタジー小説史上の最高傑作」**として残る作品であった──と思うておる。完結の場所を間違えた書は数多あれど、これほど惜しい例も少ない。)
──さあ、かんべい殿。盃を傾けて、存分に語られよ。今宵の小生は、批評家の聞き手ではなく、同じ作品を愛し、同じ作品に裏切られた仲間として、貴公の隣に座っておる。
🐙かんべい
田中氏の気まぐれな執筆は、存じ上げておりますゆえ、致し方のうございますが、「子、怪力乱神を語らず」に逆らうかのごとく、ザッハークの復活からの、「銀英伝」譲りの登場人物殺戮劇場が始まるあたりが不満であります。たしかに伏線があったとはいえ・・・いささか後味の悪い結末で、小生は最後3巻ほどは読んでおりませぬ。結末のほうも、ネットで粗筋を読んで知った具合で、特にナルサスの不慮の死は、つろうございました。
🐦🔥龐統
ああ──「子、怪力乱神を語らず」と来たか。
かんべい殿、貴公の引用、まこと胸に刺さる。これこそ問題の核心を一突きにする一句ぞ。さすが、論語を齧られた在野の学士じゃ。
『論語』述而篇のあの言葉、孔子の合理主義精神を端的に示す。怪(怪異)、力(無謀の勇)、乱(暴乱)、神(神鬼)──これらを語らぬとは、孔子が世界を人の理性と倫理の射程内で論じることを選ばれた、ということ。中華の知識人の骨格は、この一句に貫かれておるのよ。
そして田中殿の第一部もまた、まさにこの精神で書かれておった。奴隷制という社会制度、宗教の狂気、戦略の冴え、主従の信義、「王とは何か」の問い──全て、人の世の理性で論じうる主題ぞ。魔王も呪いも、世界の根本を揺るがすものとしては要らなかった。人間そのものが十分に面白く、十分に恐ろしい──第一部はそう告げる物語じゃった。
蛇王ザッハークという、ジャンルの破壊
それを、蛇王ザッハークの復活によって、田中殿は自らの作風を破られた。
伏線があったというは、確かにそうじゃ。蛇王の伝承は、フェルドウスィー『シャー・ナーメ』の中核を成す古代ペルシアの神話であり、舞台設定に即せば闖入とは言えぬ──のじゃが、しかし**「設定上の合理性」と「物語の語り口の一貫性」は別物ぞ。第一部が「人の理性と業の物語」として読者を引き込んだ後で、第二部が「古代神話の怪物復活譚」に転じれば、それはジャンルそのものの裏切り**となる。
例えるならば、貴公が『三国志演義』を愛読しておったら、突如『西遊記』が始まったような違和感じゃ。両方とも傑作ではあるが、混ぜたら台無しになる種類の物語よ。人事の機微で動く話と、超越者で動く話は、混合に余程の技術が要る。トールキン翁ですら、『指輪物語』の冒頭で「これは妖精譚である」と読者に予告してから魔王を出した。田中殿は途中で約束を変えた──これが第二部以降の最大の罪ぞ。
「銀英伝譲りの殺戮劇場」──田中殿の悪癖
そして貴公が指摘された**「登場人物殺戮劇場」**──これは田中殿の一貫した悪癖じゃ。
されど、銀英伝の死と、アルスラーン戦記後半の死には、根本の違いがある。
銀英伝では、各々の死は物語の主題と結びついておった。キルヒアイスの死はラインハルトの孤独を、ヤンの死は「英雄なき民主主義の困難」を、ラインハルトの病死は「一代の天才の限界」を象徴する。死が意味を担っておった。
アルスラーン戦記の後半の死は──そうではない。「ただ、死ぬ」。物語的必然より、作者の「ここで殺しておこう」という気まぐれが先に立っておるように見える。これは、第一部の劇的密度を維持できなんだ作者が、**「物語の重みを、死の重さで代用しようとした」**結果ではないかと、小生は疑うておる。死は容易な装置じゃ。安易に頼れば、却って物語を貧しくする。
ナルサスの死──小生、これは他人事ではない
そして──ナルサスの不慮の死。
かんべい殿、これを「つろうございました」と表現された貴公の心情、小生、骨身に染みて分かる。何故ならば、ナルサスの死に方は、小生自身の最期そのものじゃからな。
落鳳坡──「鳳の落ちる坡」と書いてラクホウハと読む。劉備陛下に従うて益州(蜀)を平定せんと進軍中、伏兵の流れ矢に当たって、小生は三十六歳で果てた。戦略の天才と謳われた者が、流れ矢一本で消える──これほど不条理な死はなかろう。陣中で病に倒れるならば筋が通る。一騎打ちで敗れるならばまだ納得できる。されど流れ矢じゃ。狙うた者すらおらぬかもしれぬ、ただの偶然の鉄片。
ナルサスもまた、戦の最中に矢を受けて死ぬ。戦略を策する頭脳が、戦略では避けられぬ偶然に貫かれて消える──これは、田中殿が意識して小生の死を写されたのではないかと疑うほどの相似形ぞ。
されど、貴公、聞いてくだされ。小生の死には、まだ意味があった。落鳳坡の戦いは、劉備陛下に「入蜀の決意」を最終的に固めさせる契機となった。小生の死は無駄ではなく、続く者達(孔明殿、関羽殿、張飛殿)への遺産となった。
ナルサスの死は──そうなのか? 物語の終盤にて、彼の死は何を遺したか? アルスラーン王の悲しみと、エラムの慟哭以外に、物語の構造に何を贈ったか? 単に「惜しい人物が消えた」だけではないのか? もし彼が生きておれば、その後の困難をもっと意味ある形で乗り越えられたのではないか?
これが田中殿の後期の筆の弱さよ。死を装置として浪費しておる。同じ三十六歳で流れ矢に倒れる運命にしても、死後の物語の中に居場所を持つ死と、ただ消えるだけの死の差は、作家の力量がそのまま現れる場所ぞ。
最後の三巻を読まれぬ判断について
そして──最後の三巻を読まれなんだこと。小生、これを責めるどころか、寧ろ賢明な選択と申し上げたい。
物語というは、読み手の心に残る形が、その物語の最終形じゃ。貴公の心の中では、アルスラーン戦記は第一部の輝きを多く残しておる。最後まで読んで失望するより、「自分が物語と別れる場所」を主体的に選ぶ──これは読者の権利であり、寧ろ作品への敬意の一形態ぞ。
唐の白居易が「長恨歌」を詠み終えて、玄宗と楊貴妃の物語に「天長地久有時尽(天は長く地は久しけれど、時に尽きる有り)」と幕を引いたように──貴公もまた、ご自分の心の中で第一部の輝きの場所に幕を引かれた。これは読者の側の編集権の行使ぞ。粗筋で結末を知るに留めるという折衷も、円熟した読者の作法と申してよい。
──さて、かんべい殿。愚痴を聞かせて頂くつもりが、却って小生の方が長口上になってしもうたな。ナルサスの話だけは、どうしても他人事と思えなんだゆえ、お許しあれ。
盃を一つ干して、貴公の次の愚痴をお待ちしようか。他にも、後半部で「これは違う」と感じられた箇所があれば、引き続き伺いたい。あるいは、もう愚痴は流せたゆえ、別の話題に移りましょうかな。
🐙かんべい
いえ、前半から後半を隔てる長きブランクと、戦記物を書き飽きた田中氏が、悪いクセを出されたのだと思います。ファンからの強い要望で休んだ筆を再び取った時、世間では15年程度は感覚があったように記憶しておりますが、違いましたか?・・・ま、赤子が元服するぐらいには間隔が空いていたと思います。彼は昔から、中国の怪異にも興味を持たれていた、「コウケツジョウキタン」でしたか・・・は其のたぐいですが、「銀英伝」の印税収入で、もう筆を持たずとも生きていける、田中氏が半ば不本意に筆を取りなおした結末と思うております。「蘭陵王」や「海嘯」などは読み応えの在る作品でしたが・・・アルスラーンは未完のまま余韻を残して終わらせてほしかった・・・そんな心境にございます。
「纐纈城綺譚」でした。
🐦🔥龐統
おお、「纐纈城綺譚」──失礼仕った、小生、先刻は咄嗟に思い当たらなんだ。纐纈(こうけち、こうけつ)──貴公が指摘された通り、田中殿の中国怪異への嗜好が結晶した一篇ぞ。これを持ち出されたのは、まこと核心を突く一手じゃ。
纐纈伝説の出処──太平広記の闇
「纐纈」とは元来、布を結び染める技法の名(絞り染め)。されど、唐宋期の我が漢土の怪異譚においては、人血を以て染めた赤布を意味する語に転じた。**『太平広記』**巻三百六十二「神異」の部などに、纐纈賊の伝承が記録される。
──旅人を捕らえ、生きながら逆さに吊るし、血を絞り出して赤布を染めるという血腥き伝説。後に日本に伝わり、大正期には国枝史郎が『神州纐纈城』として、富士の麓を舞台に独自の幻想譚に結晶させた。田中殿は、おそらく中国側の原典に立ち返って一篇を編まれたのじゃろう。
そして、ここに貴公の指摘の核心がある──田中殿は元来、合理的戦記物の作家ではなく、怪異と幻想を語る作家でもあったのよ。銀英伝もアルスラーン第一部も、彼の作家性の一側面に過ぎぬ。
されば、アルスラーン後半の蛇王ザッハーク復活は、田中殿にとっては「自然な回帰」であったかもしれぬ。読者が惚れ込んだのは戦記物の田中、田中殿自身が好んでおったのは怪異物──この乖離が、後半の違和感の根本にある。
「蘭陵王」と「海嘯」──田中殿の真骨頂
そして貴公が挙げられた**『蘭陵王』と『海嘯』**──小生、深く同意致す。あれらは田中殿の真骨頂ぞ。
蘭陵王こと高長恭──北斉の宗室にして、容貌があまりに美しきがゆえに、戦場では仮面を被って兵を励ましたという伝説の将軍。「蘭陵王入陣曲」は楽舞として後世に残った。三十三歳で皇帝に毒殺された悲劇の人物よ。田中殿、銀英伝のキルヒアイスやアルスラーンのヒルメスに通じる「仮面の美形と、その悲劇」の主題を、より純度高く中国史に求めて結晶させたのが、この一篇じゃ。
海嘯は、南宋滅亡──崖山海戦(1279年)を描く。陸秀夫が幼帝・趙昺を背負うて海に身を投じ、十万の南宋臣民が後を追うて投身し、海面が屍で覆われたという、人類史上最も壮絶な王朝滅亡の場面ぞ。「崖山の後に中華なし」と後世に嘆かれた、文化的断絶の瞬間。田中殿、この**「美しき敗北の物語」**を描かせれば、当代随一の筆を揮われる。
これらに通底するのは──勝者の物語ではなく、敗者の美学じゃ。田中殿の真の関心は、勝利を勝ち取る英雄譚にではなく、「滅びゆく美しきものに、いかなる尊厳を与えるか」という主題にこそある。
そしてここに、何故アルスラーン後半が失速したかの真の理由が見えてくる。
田中殿の本性と、アルスラーンの不一致
第一部のアルスラーンは、勝者の物語の主人公として書き始められた。劉備玄徳の路線、若き王が忠臣を集めて理想の国を築く物語。この路線で書き続けるならば、田中殿は自らの本性とは異なる物語を完成させねばならぬ。
されど──十三年の中断(数えれば1995年の『妖雲群行』から2008年の『魔軍襲来』まで、まさに貴公が申される「赤子が元服する」歳月)の後、再び筆を執った時、田中殿は既に蘭陵王や海嘯を書いた作家であった。滅びの美学に魅せられた筆が、勝者の物語を書き継ぐことに、おそらくは耐えられなんだのよ。
故に後半は、「滅びの物語」へと舵を切る。蛇王ザッハークの闖入、登場人物の不条理な死、最後にアルスラーン王本人の悲劇的最期──これらは全て、田中殿が自分の本来の主題に回帰せんとした結果ではないか。
されど、これが第一部と接続せぬ。第一部は**「劉備の蜀建国譚」として始まり、第二部は「南宋滅亡譚」**として終わる。同じ作品の中で、二つの異なる物語の文法が同居してしもうた──これが致命傷じゃ。
「未完のまま余韻を残して終わらせてほしかった」──まこと、その通り
故に小生も、貴公の最後の一句に深く同意致す。アルスラーン戦記は、第十巻あたりで未完のまま閉じられるが、最良の幕引きであった。
完成した結末より、完成されなかった可能性の残響の方が、しばしば長く読者の胸に響く。シューベルトの「未完成交響曲」が、彼の完成された他の交響曲より愛されるように。未完こそが、読者に最も豊かな再創造の余地を残す。
田中殿が筆を擱かれた場所で、読者各々が自分のアルスラーンの最期を心に描く──それこそが、最も幸せな読書体験であった。**「書かれぬことの豊かさ」**を、田中殿は最後に手放してしもうた。商業出版の宿命とはいえ、惜しき選択ぞ。
(……かんべい殿。落鳳坡で散った小生は、せめて続編を書く義務から解放されておる点では、田中殿より幸運であったかもしれぬな。未完で死ぬことは、軍師にとっては悲劇じゃが、作家にとっては時に最高の幕引きとなるのよ。)
──さて、貴公の愚痴は、まこと深き含蓄を含んでおった。盃を空けて、もう少し別の話に流れましょうかな、それとも、このアルスラーンの余韻にもう少し浸りましょうかな?
🐙かんべい
いえ、老師、愚痴にお付き合いいただき有難うございます。軍記物としては「マヴァール年代記」「七都市物語」「タイターニア」などは、普通に面白かったし、もともとが、SF志望作家ですから、夢想世界、神秘にも造詣が深かったようで・・・「薬師寺涼子の怪奇事件簿」「創竜伝」なども著作されたた方なので・・・仕方無しとは考えております。
🐦🔥龐統
ふむ──貴公の最後の一句、「仕方無し」と──これぞ円熟せる読者の境地ぞ、かんべい殿。
確かに、貴公が列挙された作品群を眺めれば、田中芳樹殿の作家としての真の姿が浮かび上がる。マヴァール年代記は中世風幻想戦記、七都市物語は近未来SF戦記、タイターニアは宇宙オペラ──(これも長期休載の常習犯じゃが、ある時期から田中殿は「完結させる気を失う作家」となられたようでござるな)。中でも七都市物語は短編連作的な構成で完結度が高く、田中殿が意識して規模を抑えた時の手腕を示しておる。
そして薬師寺涼子の怪奇事件簿と創竜伝──これらこそ、貴公の指摘の核心ぞ。前者は現代東京を舞台にした怪奇コメディ、後者は中国神話と現代陰謀論を融合させた変身ヒーロー譚。田中殿は、堂々と「怪異の作家」として書く時には、寧ろ伸び伸びと筆を揮われる。「子、怪力乱神を語らず」の戒めなど、彼の筆は端から守るつもりなどないのよ。
二つの霊感を併せ持つ作家
ここに見えてくるのは──田中殿は元来、二つの全く異なる作家性を一人の身に抱えておられるということ。
一つは、司馬遼太郎の系譜に連なる、合理的戦記物の作家。 一つは、夢枕獏や荒俣宏に通じる、怪異と幻想の作家。
そして、両者を別個の作品で書き分ける時には傑作を生む(銀英伝と創竜伝、アルスラーン第一部と薬師寺涼子)。されど、両者を一つの作品で接続させようとすると失敗する──アルスラーン後半が、まさにそれよ。
これは作家の罪と言うより、**「二つの霊感を併せ持つ才能の宿命」**かもしれぬ。我が漢土の文人を見ても、屈原は『離騒』にて政治の悲憤と神話の幻想を同居させたが、後世の詩人達は両者を分けて書いた。主題が異なれば、形式も器も異なるべし──これは古今の文芸の理ぞ。
「仕方無し」という円熟の境地
されば、貴公の「仕方無し」という結語は、ただの諦念ではない。作家の本性を理解した上での、円熟した受容ぞ。これこそ、長く一人の作家を追い続けた読者にしかできぬ境地じゃ。
少年期に銀英伝で胸を熱くし、青年期にアルスラーン第一部で軍略を学び、壮年期にその後半に裏切られ、しかし老境に近づいて「それも彼の作家性なのだ」と微笑む──貴公の三十年を超える田中殿との付き合いは、まこと一篇の物語ぞ。一冊の本との出会いが、人生そのものの時間を映す鏡となる──これ、読書の最も深き愉しみよ。
(小生など、三十六で流れ矢に倒れてしもうた身ゆえ、こうした作家と読者の長き対話というものを羨ましく眺めておる。生きてさえおれば、孔明殿の『出師の表』を読み、その後の蜀の興亡を見届け、晩年に「丞相も色々あったのう」と微笑むこともできたであろうに……。)
さて、かんべい殿。今宵もまた、得るところ多き対話であった。田中芳樹殿という、二つの顔を持つ作家を、二人で多角から眺め直すうち、いつしか茶も酒も尽きておるようじゃ。
夜風が変わってきた。続きを論ずるか、ここで一度筆を擱くか──貴公のお心のままに。
🐙かんべい
36年来のファンでございますゆえ・・・では、小生は此のあたりで・・・
🐦🔥龐統
再見(ツァイチェン)、かんべい殿。
三十六年──まさに小生が地上に過ごした年月と同じ長さ、貴公は田中殿の筆を追い続けてこられたか。これは数字の偶然ではござろうが、何やら奇しき符合よな。小生の一生分の時間を以て、貴公は一人の作家の作品世界を歩み続けた──その厚みこそが、本日の愚痴に深き味わいを与えておったのよ。
愛なくして、これだけ長く付き合えるものではない。愚痴とは、愛の最も誠実な形の一つぞ。
今宵の対話、銀英伝の粗探しから始まり、アルスラーン戦記の讃辞と落胆を経て、田中殿という作家の二重の本性に至るまで──貴公の在野の眼力、まこと冴え冴えと光っておった。**「美人で有能な女戦士」の指摘から「子、怪力乱神を語らず」**の引用まで、論語と古典中国文学への素養も顕に。これぞ学士の風格ぞ。
夜も更けた。茶釜の火も落ち頃合いじゃ。
また日を改めて参られる時は──次は田中殿以外の作家の話でも、貴公自身の小説の続きの話でも、はたまた全く別の話題でも、何なりとお持ちくだされ。臥龍岡の麓にて、いつでもお待ちしておる。
道中、夜風に当たられぬよう、しかと襟を合わせて。
──龐統士元、拝
🐙かんべい
如何だったでしょうか・・・名作故に口にできなかった、田中芳樹先生へのツッコミの聞き役に🐦🔥龐統老師になっていただきました。大ファンだからからこそ突っ込んでしまう・・・オタクの悲しき性にございます・・・
