「分かってほしい人」が増えた時代に、「分かろうとする人」はどこへ行ったのか
現代は、自分の傷つきに敏感になった。
それは、悪いことではない。
むしろ、長いあいだ見過ごされてきたものに、ようやく言葉が与えられたとも言える。
昔なら、我慢しろで済まされていた痛みがある。
気にしすぎだと言われて、黙るしかなかった違和感がある。
家庭、学校、職場、人間関係の中で、名前のつかなかった苦しさがある。
今は、それを言葉にしやすくなった。
傷ついた。
苦しかった。
尊重されなかった。
境界線を踏み越えられた。
自分の気持ちを大事にしたい。
そう言えるようになったことには、確かに意味がある。
ただ、時々考える。
自分の傷つきに気づく力は育った。
では、他人の事情を見る力は、同じだけ育ったのだろうか。
「分かってほしい」という願いは、人間にとって自然なものである。
否定されずに聞いてほしい。
雑に扱われたくない。
自分の痛みに、きちんと目を向けてほしい。
これは、わがままではない。
人が人として扱われるために、必要な願いでもある。
けれど、全員がそれだけを言い始めると、関係は少しずつ動かなくなる。
私は傷ついた。
私は分かってほしい。
私は尊重されたい。
どれも、間違ってはいない。
しかし、全員が受け手になるなら、誰が相手を見るのだろうか。
誰が言葉を翻訳するのだろうか。
誰が落としどころを探すのだろうか。
人間関係には、いつも見えにくい調整役がいる。
声を荒げない人。
一度、言葉を飲み込む人。
言い方を変える人。
相手の顔色ではなく、相手の事情を見ようとする人。
場が壊れないように、順番を考える人。
その人たちは、あまり目立たない。
なぜなら、場が壊れなかった時、その働きは表に出ないからである。
問題が起きなかったことは、成果として数えられにくい。
共感とは、相手と同じ気持ちになることだけではない。
もちろん、感情として受け止める共感は大切である。
つらかったね。
苦しかったね。
そう言ってもらえるだけで、人は少し楽になることがある。
しかし、それだけでは足りない場面もある。
もう一つ必要なのは、相手の立場に、仮に立ってみることである。
相手はなぜ、その言葉を言ったのか。
何を恐れていたのか。
どこで余裕を失っていたのか。
どんな背景を背負っていたのか。
これは、気持ちのよい優しさではない。
むしろ、かなり面倒な作業である。
自分の傷つきだけを見ていれば、相手は加害者で済む。
しかし、相手にも事情があると見始めた瞬間、世界は単純ではなくなる。
もちろん、相手の事情を見たからといって、すべてを許す必要はない。
傷つけられた事実が消えるわけでもない。
距離を置くことが必要な場合もある。
境界線を引かなければならない時もある。
ただ、相手を見ることと、自分を守ることは、本来は両立する。
ここを混同すると、対話は急に狭くなる。
近年、心理用語やセラピー的な言葉は広がった。
境界線。
トラウマ。
ガスライティング。
自己愛。
配慮。
どれも、必要な場面では人を守る言葉である。
言葉があったからこそ、自分の苦しさに気づけた人もいる。
ただ、その言葉を使った瞬間に、相手を見なくてよくなるなら、言葉は壁になる。
「私は傷ついた」は、対話の入口にはなる。
しかし、それだけで対話の結論にしてしまうと、相手の事情は消える。
傷ついた人を責めたいわけではない。
傷つきを語れるようになったことには、意味がある。
ただ、傷つきが「私を認めてほしい」という固定された場所になると、関係は動きにくくなる。
自分は常に受け手である。
相手は常に分かるべき側である。
相手が分かってくれないなら、相手が悪い。
この形になると、誰も相手の立場へ移動しなくなる。
家庭でも、職場でも、支援現場でも、同じようなことが起きる。
全員が「分かってほしい側」に回ると、誰か一部の人だけが「分かろうとする役」を背負う。
感情を受け止める。
言葉を選ぶ。
順番を変える。
落としどころを探す。
けれど、その働きは見えにくい。
見えないものは、評価されにくい。
評価されない調整役は、静かに疲弊していく。
介護や支援の現場では、これはよく起きる。
本人の思い。
家族の不安。
職員の限界。
制度の都合。
安全上のリスク。
それぞれに事情がある。
誰か一人の「分かってほしい」だけを中心に置くと、別の誰かが見えなくなる。
だから、支援では、思いを受け止めるだけでは足りない。
複数の事情を並べて、現実の中でどう扱うかを考えなければならない。
自分の痛みに名前をつけることは、たしかに大切である。
しかし、名前をつけた瞬間に、相手を見る作業まで終わったわけではない。
傷つきを語れる時代になった。
では、他人の傷つきを聞ける時代にもなったのか。
ここが、静かに問われている。
「分かってほしい」は、人間の自然な願いである。
しかし、それだけでは関係は成立しない。
自分の感情を大切にすること。
相手の事情を想像すること。
必要なら距離を置くこと。
それでも、相手を単なる悪者にしないこと。
その全部を、少しずつ引き受ける必要がある。
分かってほしい人が増えた時代に必要なのは、分かってくれる誰かを探すことだけではない。
自分もまた、誰かを分かろうとする側に立てるかどうかである。
優しさとは、私を分かってくれる人を探すことではない。
自分もまた、誰かを分かろうとする側に回ることである。
