祈願もなくただ神仏がスキで祈りたいという形もある 大人気の摩利支天、飯綱明神、九頭龍に荼枳尼天
祈願もなく、ただ神仏が好きで祈りたい、という信仰もある。
摩利支天、飯綱明神、九頭龍に稲荷とも呼ばれる荼枳尼天——
いずれも今なお人を集め続ける存在だ。
祈りには、もう一つの形がある。
祈願もなく、願いすら明確でないまま、
ただ神仏が好きで、祈りたい、という信仰である。
姿が好き。
真言が馴染む。
理由ははっきりしないが、何となく手を合わせたくなる。
「叶えてほしいこと」が先にあるのではない。
「手を合わせたい」という感情が先にある。
これは、取引とも、願掛けとも、少し違う祈りだ。
戦国の大軍師・山本勘助が拝んだともされる摩利支天。
「我は毘沙門天なり」と名乗り、戦国の英雄・上杉謙信が篤く信仰した毘沙門天。
不動の装束をまとい、迦楼羅天の姿で、白狐に乗り、悪魔より悪魔している飯綱明神。
人を困らせた末に封じ込められたはずが、今では恋愛成就で名を馳せる箱根の九頭龍。
散々怖い怖いと言われながら、大白狐にまたがった神速の女性武人として語られる荼枳尼天。
これらが人を集めるのは、
必ずしも御利益が体系的に整理されているからではない。
速さ、鋭さ、荒さ、自在さ。
その在り方そのものに惹かれて、人は集まる。
そこでは、等価交換という発想は入り込まない。
差し出す代価も、回収される見返りも、最初から想定されていない。
ただ「好きだから祈る」。
それだけだ。
この祈りは、軽いどころか、実は最も重い。
なぜなら、
何も要求せず、
何も保証されず、
それでも関係を続けることを選んでいるからだ。
願いがない祈りは、
裏切られようがない、とも言える。
だが同時に、
叶った・叶わなかったという物語で
自分を慰めることもできない。
残るのは、
その神仏と向き合う自分自身だけだ。
これは、
「願いを軽く扱わない」という段階を越え、
願いという枠組みそのものを越えた信仰だと言っていい。
だから、
等価交換は成立しない。
契約も成立しない。
だが、関係は続く。
祈りとは、
欲しいからするものだけではない。
好きだから、するものでもある。
その祈りは、
静かで、理由がなく、
そして驚くほど折れにくい。
神仏は、
そういう祈りに対しても、
やはり契約を結ばないし、対価も求めない。
だが、
無視もしない。
それで、十分なのだと思う。
サムネは稲荷っぽいけど、中東の死者の魂を運ぶサイコポンプ、妖精ペリとメソポタミアの軍神ナナと中東の霊獣シムルグに乗ったハイブリッド女神です。
