自分は特別、他人は16タイプ。MBTIが映す人間の矛盾
MBTIを見ていると、人間の面倒くささがよく出る。
自分のタイプには、唯一無二の物語を求める。
けれど他人のタイプには、雑な「あるある」を当てはめる。
自分は特別な個体でありたい。
他人は十六タイプで処理したい。
この矛盾が、MBTIの一番おもしろいところかもしれない。
ここでいうMBTIは、公式のMBTI®検査そのものだけでなく、SNS上で「MBTI」と呼ばれて流通している16タイプ文化も含めて扱っている。公式MBTIが本来目指している自己理解の方法と、ネット上のタイプ消費は分けて考えたい。本稿は公式検査の解説ではなく、タイプ論がどのように消費されるかについての考察である。
1 結果だけを見れば、16タイプはパターン分けである
MBTIは、人間の個性をそのまま写し取るものではない。
質問への回答結果だけを見れば、それは回答傾向から人を分類する仕組みである。外向か内向か、感覚か直観か、思考か感情か、判断か知覚か。その組み合わせで十六タイプに分ける。
この時点では、MBTIや16タイプはかなり便利な「整理棚」である。
自分がどんな情報を拾いやすいか。
何に疲れやすいか。
どんな判断をしやすいか。
どんな場面で人と噛み合わなくなるか。
そういう輪郭は見えやすくなる。
ただし、それは本人そのものではない。
分類は、どれだけ精密に見えても分類である。
その人の傾向を整理することはできても、その人の人生そのものを丸ごと説明することはできない。
一方で、タイプをカウンセリング的に使うなら話は変わる。
「あなたはINTJです。だからこうです」で終われば分類である。
しかし、
「その傾向は、いつから強くなったのか」
「それで助かった経験は何か」
「逆に、何を失ったのか」
「それは本来の性格なのか、環境に適応するための癖なのか」
ここまで聞いていけば、タイプは入口になる。
MBTIは、答えとして使うと人を箱に入れる。
問いとして使うと、その人が自分を語るための補助線になる。
2 人は何を求めてMBTIを見るのか
MBTIが流行る理由の一つは、自分を知りたいからである。
ただし、その中には少し複雑な欲求がある。
一つは、希少性の高いガチャに当たったような喜びである。
「自分は珍しいタイプだった」
「少数派だった」
「特別な構造を持っていた」
「だから今まで生きづらかったのかもしれない」
そう言われると、少し救われる人がいる。
自分のズレが、単なる失敗ではなくなる。
人とうまく合わなかった経験が、ただの不器用ではなくなる。
「そういう構造だったのか」と思えるだけで、過去の自分を少し許せることがある。
だからMBTIや16タイプ文化には、自己肯定の装置としての面がある。
しかし、そこには危うさもある。
「珍しいタイプだった」という喜びは、いつの間にか「自分は特別である」という物語に変わることがある。
そして、その物語を守るために、都合の悪い自分を見なくなることもある。
さらに面倒なのは、自分には複雑な物語を求めるのに、他人には雑な説明を当てはめがちなことである。
「この人はENFPだからこう」
「あの人はISTJだからこう」
「INTJは裏切りそう」
「INFJは繊細すぎる」
「ENTJは圧が強い」
こうなると、MBTIは理解ではなく、処理になる。
相手を見ているようで、実はタイプ名を見ているだけになる。
自分については「私はもっと複雑だ」と思いたい。
他人については「このタイプだからこうだ」と簡単に片づけたい。
ここに、MBTIをめぐる大きな矛盾がある。
3 同じ生年月日でも、同じ人生にはならない
四柱推命や占星術でも、同じ生年月日の人は存在する。
生まれた年、月、日、時間まで同じ人がいたとしても、その人たちが同じ人生を歩むわけではない。
家庭環境が違う。
出会う人が違う。
挫折する場所が違う。
何を守り、何を諦めるかも違う。
命式やホロスコープが同じでも、人生そのものは同じにならない。
MBTIも同じである。
同じINFJでも、家庭で感情を読みすぎて育った人と、創作や研究で直観を磨いた人では違う。
同じINTJでも、孤立して防衛的になった人と、現場経験で柔らかくなった人では違う。
タイプは傾向を示す。
だが、人生の履歴までは示さない。
4 十六通りでも、百八通りでも足りない
では、十六タイプでは少なすぎるから、もっと細かくすればいいのか。
たとえば、エニアグラム、トライタイプ、サブタイプ、発達段階、心理機能、愛着スタイル、HSP、発達特性などを重ねれば、分類はどんどん細かくなる。
十六通りが百八通りになり、千通りになり、一億通りに近づいていく。
それでも、完全な個別性には届かない。
なぜなら、分類がどれほど細かくなっても、それは「似た傾向を持つ人たちの棚」を増やしているだけだからである。
その人だけの個性は、分類の中にあるのではない。
その分類を、その人がどう生きたかの中にある。
同じタイプでも、優しくなる人もいれば、冷たくなる人もいる。
人を救う人もいれば、人を支配する人もいる。
沈黙する人もいれば、語り続ける人もいる。
そこは、タイプ名では決まらない。
5 矛盾した欲求が見え隠れする
人は、自分を分類してほしい。
同時に、分類されたくない。
「私は何者なのか」と知りたい。
けれど、「あなたはこのタイプです」と言い切られると、物足りなくなる。
「私だけの特別さ」を知りたい。
けれど、完全に個別化されると、今度は誰とも共有できなくなる。
あるあるで安心したい。
でも、あるあるで雑に扱われると傷つく。
この矛盾は、MBTIに限らない。
占いでも、血液型でも、エニアグラムでも、HSPでも、発達特性でも似たことは起きる。
自分のことは、丁寧に見てほしい。
背景も、傷も、努力も、選んできた道も含めて見てほしい。
しかし他人を見る時は、そこまで丁寧に見るのが面倒になる。
だから人はラベルを使う。
「この人はこういうタイプ」と置いておけば、考える負担が減るからである。
分類は、理解の入口にもなる。
同時に、思考停止の出口にもなる。
その違いは、タイプ名のあとに何を見るかで決まる。
「だからこの人はこうだ」で終わるなら、それは雑な分類である。
「では、この人の場合はどう出ているのか」と見るなら、それは理解の入口になる。
人は、分類によって救われることがある。
しかし、分類によって見えなくなることもある。
だからMBTIは、人を決めるために使うより、人に近づくために使った方がいい。
結果だけで終われば、16タイプはパターン分けである。
対話に使えば、自己理解の入口になる。
さらに深く使えば、自分がなぜその反応を選んできたのかを見直す道具になる。
大事なのは、タイプ名ではない。
そのタイプ名を手がかりにして、本人がどこまで自分の人生を語れるかである。
そこまで行って初めて、MBTIは分類を超えて、個性化の入口になる。
