高河ゆん『アーシアン』ならびに「女性」と「愛」の問題
わたしは漫画やアニメというものにそれほど執着はないのであるが、それは情報量が多すぎて鑑賞に堪えうる心身を持っていないためだと思う。だから、たとえば教え子などに、好きな漫画は何ですか、好きなアニメは何ですか、などと聞かれると、返答に困る。ましてやそれがゲームとなるとお手上げである。わたしはゲームはやらない。
しかしそんなわたしにとって、高河ゆんの『アーシアン』だけは特別である。中学校の頃から愛読し、ずっと手放さないできた。今でもときどき読み返すし、一部はセリフをまるまる暗記しているほどである。
物語は、惑星エデンの天使たちが主人公で、彼らは、アーシアン(地球人)は滅ぶべきなのかを調査し続けている。翼も髪も黒い突然変異の天使、ちはやは、アーシアンを救おうと、プラスの調査員となり、マイナス面を調査する白い上級天使、影艶とともに地球へと降り立つ。
そんなストーリーが軸になっているが、わたしがこの作品に惹かれたのは、タブーとしての同性愛と近親相姦に真正面から挑戦しているからなのだった。自分のジェンダーやセクシュアリティに困惑していた思春期の中学生からしたら、そりゃあ、バイブルにもなるだろう。わたしは1975年の生まれであるが、いわゆるオタクという言葉もそのころが走りだったし、「やおい」(いまではBLというのだろうが、微妙にニュアンスは異なるような気がしている)を扱った同人誌も一部の者には熱狂的に迎えられていた。高河ゆんはそのなかでも特別な存在だったといえる。
もうすでに言われていることであろうが、未完が多い彼女の漫画は、きわめて文学的なのだ。これは何も文学を上位に置いているわけではなく、ことばの選択のセンスが違うのである。台詞、独白、ナレーション、その絵とも相俟って、とにかくすばらしい。いま、手元にある漫画から、いくつか抜き出してみよう(絵がないのがつくづく残念である)。
「もしも地球があと一週間で滅びるとしたらあなたはどうしますか?/あなたは何をしますか?/全員が死ぬのだとしたらあなたは誰と死にたいですか?/ひとりで」
「でももうあの人はいないんです/大切な人をおいてきてしまって/後悔してもしきれない/けれど/この苦しみを何回同じことをくり返してもまた同じ道を俺は選ぶ/俺は間違っていない俺は/あのひとが好きです/影艶がいないのなら一人のほうがましなんだよ」
「さあ俺を呼べ!!/俺はちはやを守る/どんなに遠くてもおまえが呼んでくれさえしたら/もしもちはやが願うならこの星ごと守る/俺はそこへ行ける/俺が必要ならそこへ行ける/それが愛しているということだ」
「欲望だけが私の神/私は天に背き人のルールも無視する/それでも心は変えないのさ/私は神を信じてない/神は人の愛を知らないから/神は公平だ神にとって全ての人間は同じだ/だけどどいつもこいつも同じような人間達の中で/ただひとりを特別に思うことが愛じゃないのか」
書いてみるとわかるが、やや芝居がかったこれらの独白、あるいは台詞は、詩なのである。もしくは、歌詞に近い。作品の舞台が神話的だからこそ、これらのことばが生きる。
『アーシアン』は、凡百の小説よりもわたしに「愛」を教えてくれた。そして、最近思うのは、当たり前であるが、愛は、ひとりでは完成しない、ということだ。必ずそこには他者がいる。絶対的に異質な存在。しかし、その他者がいなければ、人生頭打ち、どうにもならないのだ。誰かに愛されなければ、人間は、枯れてしまう。だめになってしまうのである。いったいどれだけの宗教・思想・哲学がこれを説き、論じてきただろう。人間が生きている限り、この先も「愛」というテーマは繰り返される。
そしてこのテーマは、女性の作り手にはきわめて身近な問題でもあるのだ。歴史のなかで積み重ねられてきた、きわめて結びつきやすい、結びつけられやすいステレオタイプのイメージ、女性性と愛、あるいは母性といった問題。高河ゆんが真正面から取り組んだのも、タブーとしての「愛」だった。何というか、女性として生まれてしまった以上、どんなケースにせよ、愛について考えなければならないという感じはある。ものをつくる人間ならば、誰もが一度は通らなければならない道なのではないか。
たとえば令和のいま、川野芽生『AはアセクシュアルのA 「恋愛」から遠く離れて』(2025)などが出ている。川野は小説家・歌人・文学研究者であるが、とくに歌人としての活躍を考えると、与謝野晶子、ひいては和泉式部までを射程に入れて考えることもできる。どうも、女性の書き手は、いつも、実は先駆者なのである。それはさすがに、認められてもいいのではないか。
