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ある映画に救われた話

この機会にそもそもの発端を、一応記録だけはしておこうと思います。残念ながらいい話とかではありません。ただ、自分のために記録しておこうと思ったというだけのことです。基本的に気持ち悪い自分語りでしかなく、読んでも全く面白いものではないはずです。すみません。

鑑賞時のこと

初めてその映画『HELLO WORLD』を見たのは確か2019年の9月下旬頃だったと記憶している。普段、映画はあえて公開直後の混雑を避けることが多いのだが、予告編の印象から「何となくこの映画は面白そうだ」という直感があり、自分としては異例の早さでの鑑賞だった。面白そう、というのはデータとして生きる存在を前提とした世界観(既に無意識にイーガンっぽさを感じていた)に対してであって、とはいえ確信めいたものというわけでもなく、全体的には今年やたらと目につく『君の名は。』テイストの青春アニメ、という程度の印象でしかなかった。数日前には本作と『引っ越し大名!』で迷った挙げ句に後者を鑑賞し(良い作品だった。これもある意味、本で世界を救う話)、この日は確か『記憶にございません!』と迷って本作を選択したんだった。

以下に、初見時の思考の流れを思い出せる範囲で言語化してみようと思う(当然ながらネタバレを含む)。[○○%]という記述は、カラスの背中の同調ゲージを想像してほしい。

——東宝ロゴ。続いて制作会社グラフィニカのロゴ。さらに続くカラフルなアニメーションもこの手のロゴかと思ったら、どうやら既にこれは映画の中のようだ。[0%]

「2027年 京都」。ふーん、2027年ね。少し未来の話と来たか(既に予告をすっかり忘れているのがバレバレである)。手の届く年代設定に少しだけ身構える。

「ここ京都市では京斗大学・プルーラ社との共同事業として、街の歴史を詳細に記録するデジタル事業、”クロニクル京都”を進めており…」
ゴーグルやタブレット上にAR的に立ち現れる平安の街並み。

……そのシーンの示す概念に息を呑む。ちょ。うわ。なんだこれ。「クロニクル京都」。失われた風景を再現し体感する試み。眼前の風景の向こうに、かつての街並みを幻視するっていうアレ。最近このコンセプトは良く見るなあとは思っていたけど、これは、この絵はあまりにどストライクすぎる。ここまで的確に自分のツボを突いてくるとは。
ああ。
もうこれだけでこの映画の元は取れた、と思ってしまう。[20%]

横断歩道のシーン。
「脚本:野﨑まど」

……え。

画面下手に浮かんだ白い文字列から自分は目を離せない。
「野﨑まど」。

その4文字は。
ここ数年間完全に記憶の底に沈んでいたけれど。
忘れようのない名前だった。

待ってくれ。野﨑まどって。
あの『know』を書いた野﨑まど!? 

ええええええええええ!? 

銀幕を凝視する。見間違いではない。『know』の衝撃がフラッシュバックし、鼓動が速くなる。

野﨑まど……5年ぶりくらいに名前を見たけど(言い訳すると、ここ数年はわずか数冊しか本を読んでいなかった。ちょっと本を読む余裕がなかった)、最近はアニメの脚本なんて書いているのか…!(*1)まあ円城塔もいつだったかアニメの脚本やってたし最近そういうの流行ってるのかな……(*2)。しかしだ…野﨑まどと来た。『know』は……、あれは凄いなんてもんじゃなかったな……。読み終わって表紙が目に入った時の戦慄。そうだ。あれも京都の話だった。これは……この映画は、ひょっとしてめちゃくちゃ当たりなんじゃないか!? 野﨑まど……野﨑まど…(以下、10分くらいずっと「野﨑まど」が頭の中をぐるぐるしながら鑑賞)
この時点で[50%]。わずか冒頭数分でここまで行った映画はない。史上最速ペースだ。

京都歴史記録事業センター。ああ、素晴らしいプロジェクトだな……。もう完全にこれだけでこの映画の元が取れる。量子記憶装置だって? ははっ、またデカいハッタリ来たなあ。嫌いじゃない概念だ。でもALLTALEで「アルタラ」と読ませるってちょっと無理がないかな?

直実の自室。「イーガンとかっぽいなと…」
……はい? ちょっと待った。お前今なんと言った!? 

イーガンですと!?

まさか映画を観ていてグレッグ・イーガンの名を耳にする日が来るとは……。『順列都市』の背表紙もばっちり映ってるじゃないか。ていうか、背景だけならまだしも、主人公に直接言わせるかこの語を!? 

もしかしてこれ、SFガチ映画なんて生易しいものではないのでは。一体どういう層をターゲットとしているんだこの映画は。興行的に大丈夫なのか。でもこの文脈でイーガンなら、少なくとも自分にとっては絶対楽しめる。ビンビンにフラグが立ってる。オラ、ワクワクしてきたぞ。[70%]

……。

…………そして。
完全にフェイントだった。その台詞は唐突に脳天に突き刺さった。

「ならば、『先生』と呼べ」

………え。
耳を、疑った。
いま、たしかに。

……せんせい、と聞こえた。
よりによって。この文脈で。

「先生」。

「先生と呼べ」。フリーズする思考をよそに体は心悸亢進して、全身が総毛立つのを感じる。劇場で絶叫しそうになるのをわずかに残った理性が必死で押しとどめる。うわあああ。なんという。

……なんて映画だ。なんという映画に出会ってしまったんだ。

多分ゲージは振り切れていたと思う。

その後の大事な十数分は、正直ほぼ上の空だった。ようやくかろうじて思考能力が戻ってきた頃には、直実のSF観にこの作品は本物(ガチ)だと確信し、一行さんと徐さんに魂を奪われ、度重なるどんでん返しに木の葉のように翻弄され、劇伴が自分の好みすぎて恍惚となりながらも加速するストーリーに必死でしがみつき、ラストシーンに文字通り言葉を失い……いや、そこまで映画について行けていたのかも今となっては疑わしい。気がついたら場内はすっかり明るくなっていた。

茫然としながら劇場を出る。完全に頭が混乱している。一体何が起こったのかまるで理解できずに、でも何かとんでもないモノを見てしまったという確信だけはある。いったんふらふらと帰りかけたが、この時咄嗟に捻り出したアイデアを自分は全力で褒めてやりたい。踵を返して券売機の前に立ち、速攻で直後の回のチケットを買い、ついでにパンフも買って、再び場内に戻りシートに深く腰を沈めた。こんなことをしたのは初めてだった。映画を複数回見る時はいつも少し日を置いて自分の中で咀嚼してからにするのに、その日のうちに同じ映画を2回続けて見るなんてことは。でもそうせずにはいられなかった。とてもこのままのこのこと帰投できる心理状態ではなかった。上の空だった部分や錯綜する伏線を回収したいという以上に、あの衝撃そのものの正体を少しでも理解したかった。

それから繰り返し20回以上この作品を劇場で見たことになる(自分にとっては最高記録だが、ガチ勢の方々に比べれば吹けば飛ぶような数字だ)。その結果、今では一ファンとして非常にオーソドックスな楽しみ方ができていると思う。もう震えが止まらなくなるようなことは滅多になくなった。でも、初見時にこの映画が自分の脳天をいきなり殴りつけてきたのは紛れもない事実だ。それは極めて個人的な体験に基づくものであって、だからこそ強烈に自分はこの映画に惹き付けられた。恐らく理解はほとんどしてもらえないだろうし、他人からすれば完全にどうでもいい話だと思う。しかし自分にとっては、あの衝撃の正体が一種の救済であったこと、この映画がかつての自分の黒歴史を救ってくれたのは確かなのだ。以下ではただの記録として、一体この映画の何が自分を救ってくれたのかをあえて書き留めておきたい。

高校時代のこと

遠い昔。高校生だったころのことを思い出そうとしている。正直、あまり良い思い出はないが、墓場まで持って行くつもりだった当時の黒歴史を、いま少しだけ開陳しようと思う。この頃には自分の陰キャ気質や重度の厨二病はほぼ完成の域に近づいており、SFもどきのような代物を書き始めるという救いようのない段階に到達していた。恐ろしいことにその草稿の一部、さらには当時の日記の一部までがどういうわけか虐殺を免れて現存している。ちなみに先日、段ボールの奥底に封印されていたその日記を恐る恐る開いてみたところ図書委員に立候補して落ちたとか、今日はどこそこの本屋に行ってハヤカワSFの目録を貰ってきて嬉しいとか書いてあって、一見ある映画の主人公と似たようなことをしていたのになぜこれほどの決定的な隔たりがあるのか、とちょっとこの世から消えたくなった。現実は残酷だ。

よくあることだが、当時書いていたもののほとんどは完成に至っていない。その中に「女子高生が変身してデータ世界で悪の組織と戦う」という厨二病のサンプル見本のようなドン引きプロットがある。この文字通りの黒歴史は思い出すだけで壁に頭を打ち付けたくなるが、説明の都合上、あえて身を切る覚悟でここにその痛々しすぎるプロローグの骨子を書き留めておく。主人公の女子高生はある日突然、とある悪の組織から離反した若き天才研究者に請われる形で戦いに巻き込まれる。その若き研究者は組織に反旗を翻すにあたり、自らの身体と脳神経活動をスキャンしてデータ世界に移行させ、そこでデータとして生きる存在となっている。彼は主にデータ世界から電子戦を仕掛ける手筈なのだが、物理世界に干渉できないので彼自身の戦闘活動には限界がある。そこで物理世界に干渉するための手段として、目を付けた女子高生に強引にデータ世界と物理世界のインタフェース役としての姿と能力を授け、共闘する、とかなんとかいうものだ。イタい。清々しいまでにイタい。しかも女子高生と研究者が次第に惹かれ合っていくという書いてて吐きそうな気色悪い展開なのでさすがにこれ以上はもう無理。うげえ。

その研究者はデータ世界では白衣のイケメン風を装っているのだが、とにかく第一印象が強引で、主人公を無理矢理巻き込んで利用しようとするくせに、根が童貞気質で恋愛に変な幻想を持っているという、色々とヤバい人物像であった。

そして彼は、教師でも何でもないのに、主人公に自分を「先生」と呼ばせていた。これについては、単純に漱石の『こゝろ』の影響が少なからずあったと思っている。教師でもないのに「先生」と呼ぶその関係性。ある日突然主人公を裏切る存在としての「先生」、心に闇を抱え、思い詰めた挙げ句に命を絶つ「先生」。そのイメージシンボルが投影された人物造形だったように記憶している。『こゝろ』に入れ込むあまりか、この「先生」というモチーフはその呼び名と共に完全にこの話の核となっていた。逆に言えばそれ以外の部分はほぼ空虚で、もはやメインストーリーすらほとんど思い出せない。

この厨二的駄文生産活動は、やがて大学受験が目前に迫ると急速にフェードアウトしていった。「先生」の話も完結にほど遠い形のまま永遠にホールドされた。そしてこの「黒歴史」は記憶の底に封印され、思い出すことは全くなくなっていた。いや、というより多分、思い出さないようにしていた。でも、ずっと心のどこかで引っかかっていたのだろうなと、今となっては思う。

あの時起こったこと

だから。
こんな体たらくだったから。

「ならば、『先生』と呼べ」

あの台詞が、まっすぐに頭の中の何かのトリガーを引いた。

忘れていた、忘れようとしていた記憶。
突如として「あの話」が記憶の奥底から鮮烈に蘇る。高校の図書室の情景、ノートの罫線に書かれた文字までが脳内に自動再生された。自分の記憶のどこにこんなディテールまでが保存されていたのだろう。上がる心拍数。服の下を伝う冷や汗。枕に顔をうずめてジタバタしたくなる衝動。自分で自分の体の反応に驚き、頭が混乱する。

今や完全に、あの「先生」を思い出していた。まがりなりにも造形を与えられながら、まともなストーリーさえ作ってもらえなかった「先生」。痛々しい設定だけが残った「先生」。物語の予感すらないままに凍結された舞台と役者達。

それに比べてこちらの「先生」はどうだ。現実世界のほうからデータ世界にアクセスし、データ世界に干渉するために主人公を利用する、という構造は完全に真逆で、そしてそっちのスキームのほうが設定として何万倍も格好いい。このコロンブスの卵を知ってしまうともう逆は陳腐にしか見えない。長身白衣の先生は、かつて思い描いていた先生が秒でけし飛ぶくらいに魅力的なキャラクターだ。さらに突然の裏切り、知られざる過去、内省、自己犠牲、というモチーフに愕然とする。まさか。完璧だ。完璧すぎる。あの頃のただの厨二病の妄想が、それを遥かに凌駕する形で映像化されている。プロットも、キャラクターも、世界設定も、至高の完成度のものがいま目の前で展開されている。自分では人生を何周回したって生み出すことすらできないアイデアとストーリー。その強烈な白熱光の前に、自分の恥ずべき黒歴史が一瞬で塩と化し風に飛ばされていく。笑いが抑えられない。なんだろう、この底抜けの開放感は。

高校時代、自分は「先生」の縦横無尽の活躍を夢想し、プロットを練りつつも、それを形にできなかった。充分に人物像を描いてやることすらできなかった。それがどうだ。いま自分の真ん前に、自分の見たかったセカイ、作り上げられなかったセカイを超絶ハイレベルで相転移させて開闢させた宇宙がある。自分の貧弱な想像力の地平を遥かに超えた、これ以上なく「完璧」な「先生」がそこにいる。もちろん、それは完全におこがましいただの幻想だとは頭ではわかっている。個人の妄想を別の作品に仮託するのはオタクの悪癖だし、プロットもキャラクターもはなから完全に別物なことくらい承知している。共通項を見いだすとすればせいぜい「先生」という呼称くらいで、そして「先生」が出てくる作品なんて無数にある。でもなぜかこの映画は確かにそのトリガーを引くことに成功したのだ。なぜかはわからないけど、あの黒歴史との最高シンクロ率を叩きだしてしまったのだ(ちなみに『know』はかなり惜しいところまで行っていた)。同調が達成された今、あの「先生」が、あまりに儚い前世から生まれ変わり、全く新しいキャラクター性と綿密に設計された作品世界を与えられて、生き生きとその役を謳歌しているように思えてならなかった。セカイがひたすらに眩しい。こんな心躍る大舞台を生み出して下さった映画スタッフの方々にただありがとうありがとうと繰り返すことしかできない自分が歯痒かった。

ラストシーン。直実が繰り返す。

「せんせい」
「せんせい」

ここだけひらがなで書かれたその文字列の重さに震える。なんていうことだ。最後の最後まで完璧ときやがった。これを超える「先生」像は、この宇宙のどこを探したってない。

それは、自分の中にずっと亡霊のように引っかかっていた中途半端な存在としての「先生」が救済され、文字通り「成仏」した瞬間なのかもしれない。結局自分はずっと心のどこかであの話の続きを書きたかったのだと思う。その未練がすっぱりと消え去り、自分の「先生」も映画に引導を渡してラストシーンみたいにスッと消えていった。きっともう、思い出すことはない。

もし、映画のように高校生の自分に会いに行くことが出来たら、お前の悶々とした青春の妄想とはいつか想像もつかない形で再会できるから生きる希望を捨てるな、と伝えたい。あの頃、自分の貧弱な想像力は、自分の本当に見たいセカイを把握することすら結局できていなかった。今ようやく気がついた。この映画は、自分が見たかった世界そのものだ。いや、それをさらにとんでもないクオリティで数段階昇華させたのがこの映画なんだ。そしてその眩しさに圧倒される形で、あの黒歴史の呪縛からようやく自分は解き放たれたのだ、と思う。

生きてきて良かったとこれほど思ったことはない。

なぜこんな古傷をえぐるような話を書いているのか、自分でもわからない。ある意味、あの黒歴史を少し突き放して見ることができるようになったということなのかもしれない。


最後に、もうひとつだけ。あの頃はSFもどきの駄文をほかにも大量生産していたのだが、その一つの主人公の名前が、カタカナで「ナオミ」だったことが当時の日記から判明した(あいにく女性であった)。自分の記憶からは完全に抜け落ちていて、日記に「ナオミ」という文字列を見つけたときにはまるでオーパーツでも発見したかのような混乱に陥り、それが別の物語の主人公の名前であると思い出すのに相当の時間がかかった。このシンクロニシティは一体なんなのだろう。考えすぎとは思うが、自分のこれまでの半生とは一体何だったのかとまで思ってしまう。こうなることが生まれたときから決まっていたとでもいうような、ウン年ごしの伏線の回収劇(*3)。自分の人生はトゥルーマン・ショーなのかもしれないし、あるいはやっぱりただの決定論的な量子記録、データに過ぎないのかもしれない。まあ、それならそれでいい。今となっては、この偶然とは思えない出会いの数々に、そしてそれらを構成してくれている役者、脚本家、演出家、そして観客の皆様に、本当に感謝しているのだ。

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優れた脚本家は、ただのエキストラにさえバックボーンを用意し、エピソードを練り、伏線を仕込む。これだから人生は面白いんだ。

* * *

(*1)最近も何も、2017年には既にTVアニメ『正解するカド』の脚本を書いているのだが、普段TVアニメを見る習慣がないので全く知らなかった。
(*2)円城塔は2014年にアニメ『スペース☆ダンディ』の脚本に参加している。これも残念ながら未見であるが、その情報だけは知っていた。
(*3)野﨑まど先生の一連の作品を読み、この境地に至らざるを得なかった。この意味に限って言えば、『HELLO WORLD』はほんの序の口であって高校時代の黒歴史の一つが救われただけに過ぎない。他の作品群は自分の個人的体験にさらに抉り込み、過去、現在、未来さえも再構築してしまった。説明のつかない事象が多すぎるのだ。見えてしまったプロンプター、揺らぐ第四の壁。さすがに詳細は個人的内容過ぎてここに書くことができないし、あまりに馬鹿げていてきっと誰も信じないだろうと思うが、読む前と後とでは、最早、人生の意味が変わってしまった、ということだけは書き留めておきたい(こんなヘンな読み方してるの自分くらいだろうなあ)。

* * *

追記:3年後のこと

あれから3年が経過した。

そしてこの話にはまだ続きがある。まさか続きがあるとは自分ですら思っていなかった。

2022年10月、『僕が愛したすべての君へ』『君を愛したひとりの僕へ』(以下『僕愛』『君愛』)という映画が公開された。乙野四方字先生原作の小説を劇場アニメ化したものだ。野﨑まど信者にとって『正解するマド』を書かれた乙野四方字先生の著作はほぼ必修科目であり、予想通り、いや想像以上に、自分の好きなタイプの作品群であったため、久々に自分の中に一種のブームが到来していた。3年前のあの日、呆然としながらあの映画を観たのと同じ映画館で『僕愛』『君愛』を観ることで、「頭の中をぐるぐるさせながら再び場内に戻りシートに腰を沈める」という追体験を楽しんだりしていた。

その日も某所で『君愛』を鑑賞していた。数回目だったので話の流れはもうすっかり把握している。いつものように神がかったタイミングでED曲がかかり、TV版エヴァを彷彿とさせる美しいエンドロールが流れ始めた。抱き合ってくるくると回りながら琥珀色の世界を沈んでいくひと組の男女のシルエット。アインズヴァッハの海の奥底へ、もつれ合いながら落ちていく2つの虚質。心地よい余韻に浸りながら、自分はそれをぼんやりと眺めていた。


それは、突然やって来た。

余韻が一気に吹き飛び、曲が耳に入らなくなる。
脳内が混乱する。

思い出してしまった。
そうだ。これとそっくりなイメージを、自分はずいぶん前に夢想していた。

高校時代の黒歴史。厨二病の権化のようなあの「先生」の物語。
あの日完全に封印したはずなのに、もう自分の中からは消えたはずなのに、プロットは自分の意思に逆らって驚くほど鮮明に脳内展開されていく。

ラスボスとの戦いの直前、「先生」と主人公の女子高生の今生の別れ。死を覚悟した「先生」は束の間、主人公と初めて心を通わせる。しかし「先生」は主人公を最後の戦いから守るため、自分と戦いに関する一切の記憶を彼女から消す。彼女がすべてを忘れて幸せに生きていくために。これ以上古傷を抉るのは精神的に限界なのでこの辺でやめておくが、相変わらず見事に痛々しいドン引きプロットである。

そのシーンには明確なイメージがあった。データ空間に浮遊する二人はくるくると抱き合いながら気持ちを通わせ、詳しく書かないほうがいいので書かないがまあいろいろあって、そうして最後に記憶を消す。

ゆっくりと浮遊しくるくると抱き合う男女。
訣別のための最初で最後の抱擁。
すべてを忘れていく彼女。


なんてことだ。目の前で回っているシルエットは完全に「それ」だった。
笑えることに、回転の速さまでだいたい脳内で思い描いていた通りだった。

またか、と思った。
この感覚。心拍数が上がり、汗が噴き出し、羞恥と混乱と高揚でどうにかなりそうなこの感覚。
またこれか。全般的に混線しつつも頭のどこかは冷静に苦笑してスクリーンを見つめる。
お前はあの日、引導を渡して成仏したはずじゃなかったのか。

何度でもゾンビのように蘇るその黒歴史は、再び琥珀色の光によって浄化されていく。自分の書きたかったものが、書きたくても書けなかったものが、何兆年かかっても到達し得ない次元の作品世界に転生して、そこで新たな意味を与えられている。もちろん今回もわかっている。それはオタクのいつものおこがましい言いがかりであり、願望から生まれた自己投影にすぎないのだってこと。そこには「あの映画」以上に何の共通点もないこと。なにしろ、もはや「先生」ですらないのだ。だから最初は気づかなかったし、さすがに前回に比べればショックは軽い。でも、こうもまざまざと見せつけられてしまうと。二度も。ねえ。

前回より傷が浅いとはいえ、あの日からわずか3年後にまたこんな作品が現れていきなり殴られるとは、人生で二度もこんなことがあるとは、誰が想像できただろうか。この感慨は、作品自体の面白さやクオリティとはまったく別のところから生じている。これまで自分はこの作品を「普通に」高く評価していたのに、こんな殴られ方をしてしまったらもう平常心で観れないじゃないか。そこにはもう不可逆に、特別な意味が付与されてしまう。ああ、この映画もそうだったんだ。自分の観たかったけど観れなかった世界、書きたかったけど書けなかった世界を想像を絶するクオリティで具現化したものなんだ。

そしてきっと、二度あることは三度ある。浄化したはずの黒歴史の呪縛は消えていなかった。亡霊は何度でも蘇るのだろう。そのたびにきっと新たな作品が現れてそれを圧倒的な眩しさで浄化し続け、自分はそれに苦笑いし続けるのだろう。そんなことを軽々とやってのけるような作品に、自分は残りの人生であと何回出会えるだろうか。


なぜまた性懲りもなく醜態をさらしてこんな怪文書の続きを書いているのだろうという気はするが、きっと「供養」の一種なのだと思う。前回と違うのは、「前例」があるということ。この映画がふたたび自分の人生を大きく変えていくさまが、ありありと想像できてしまうこと。そうして自分はおそらくこの先も、「書きたかった世界」に一生手を伸ばし続け、数多の作品の中にその幻影を勝手に探し続けるのだろう。

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いつにも増して気色悪い話になってしまいましたが、
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