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50年前に書かれた予言——不登校30万人時代に読む『脱学校の社会』

多くの生徒は、とくに貧しい者たちは、学校が自分に何をしているかを直覚的に知っている。学校は彼らに、過程(学校に行くこと)と実体(本当の学び)を混同するよう訓練しているのだ。

— イヴァン・イリイチ、カトリック司祭・制度批判思想家

2023年度、日本の不登校児童生徒数は約30万人を超えた。この数字に眉をひそめる大人は多い。「学校に行かない子ども」は、依然としてこの国では社会的な逸脱として扱われる。だが、一歩引いて考えてみたい。なぜ私たちは「学校に行かなければ学べない」と信じているのか。その確信は、どこで、誰によって植え付けられたのか。「学校は嫌いだったが、学校がなければ今の自分はない」——多くの人がそう感じているだろう。その両義的な感覚こそ、じつは分析に値する。

50年以上前、一人のカトリック司祭がこの問いに正面から答えた。イヴァン・イリイチ(Ivan Illich)。彼の『脱学校の社会』(1971年)は、学校という制度が学びを独占し、人間の自律性を組織的に剥奪する装置であることを暴いた。驚くべきことに、彼の診断は半世紀を経てむしろ正確さを増している。この本を今、開いてみる価値がある。

著者と書籍について

イヴァン・イリイチという思想家

イヴァン・イリイチ(1926–2002)。オーストリアに生まれ、ローマ・グレゴリアン大学で神学と哲学を、ザルツブルク大学で歴史学の博士号を修めた。ニューヨークでプエルトリコ系移民の司牧に従事した後、1961年にメキシコ・クエルナバカでCIDOC(Centro Intercultural de Documentación:異文化間記録センター)を共同設立する。理論家であると同時に実践者だった。ラテンアメリカの現場で目にした開発主義の矛盾が、制度批判の出発点となった。

イヴァン・イリイチ

本書の位置づけ

『脱学校の社会』(Deschooling Society, 1971年)は、単なる教育論ではない。イリイチが後に展開する制度文明批判の全体像——当noteでも紹介してきた『コンヴィヴィアリティのための道具』(Tools for Conviviality, 1973年)、『脱病院化社会——医療の限界』(Medical Nemesis, 1976年)——その原点に位置する著作だ。

教育という窓から、近代社会が「価値」を制度的サービスに変換し、人間の自律性を剥奪していく構造全体を照射する。パウロ・フレイレ(Paulo Freire)、ポール・グッドマン(Paul Goodman)、エベレット・ライマー(Everett Reimer)らとの知的交流のなかで結晶化した思想であり、教育哲学の古典として今なお参照される。

イヴァン・イリイチ(左)パウロ・フレイレ(中央)

なぜ今この本なのか

不登校30万人。オンライン学習の普及。EdTech(教育テクノロジー)産業の膨張。学歴インフレーション。これらの現象は一見バラバラに見えて、すべてイリイチが50年前に描いた構造の延長線上にある。学校を批判する言説は増えたが、学校という制度が何を「教えて」いるのかを構造的に分析した著作は、いまだに本書を超えていない。

パンデミック下のオンライン授業で「教室に行かなくても学べる」ことを体験しながら、なお「学校に戻らなければ」という圧力を感じた人にとって、この本は自分の違和感に言葉を与えてくれる。

1. 学校が教える本当のこと——「隠れたカリキュラム」の解剖

教授と学習、進級と教育、免状と能力、流暢さと新しいことを語る力を混同するよう訓練される。

— イヴァン・イリイチ

学校で何を習ったか思い出してみてほしい。二次方程式の解き方、鎌倉幕府の成立年、リトマス紙の色の変化。だが、イリイチの問いはそこに向かわない。学校が「本当に」教えたのは、教科内容ではなく、ある信念体系だ。

健康とは医療サービスを受けることであり、安全とは警察が守ってくれることであり、学びとは学校に通うことである——こうした等式の連鎖を、私たちは12年間かけて身体に刷り込まれる。イリイチはこれを「隠れたカリキュラム」と呼んだ。

この概念の核心は、特定のイデオロギーの注入ではない。「価値とは制度的サービスの形でしか存在しない」という前提そのものの内面化だ。治療が多ければ健康になる。授業を多く受ければ賢くなる。ところが現実はその逆を示す。

イリイチが挙げた事例は辛辣だ。1960年代のアメリカで実施されたTitle One計画は、貧困家庭の子ども600万人に補償教育を提供するために30億ドル(当時のレートで約1兆円)を投じた。結果は完全な失敗だった。追加の教育サービスは、学力格差を縮めるどころか、子どもたちに「自分は制度的治療なしには学べない存在だ」という烙印を押した。

1965年4月11日。リンドン・B・ジョンソン大統領が1965年初等中等教育法に署名:

ここに「近代化された貧困」と呼ばれる逆説がある。制度による治療は、依存を深め、自力で行動する能力を奪い、さらなる治療への需要を生む。学校はまさにこの循環の起点に位置する。教師は看守・説教者・治療者の三つの役割を一身に担い、子どもたちの時間と空間と判断を全面的に管理する。イリイチの表現を借りれば、学校は「世俗的司祭」の養成機関であると同時に、「世俗的司祭」そのものだ。

日本の文脈に置き換えると、この構造はさらに鮮明になる。「学校に行かないと社会性が身につかない」——この言い回しは日本社会で広く共有されている。だが、ここで言う「社会性」とは何か。空気を読む能力。集団の規範に自分を合わせる技術。指示を待ち、与えられた課題を期限内にこなす習慣。つまり、制度への適応能力のことではないか!

不登校の子どもを持つ親が感じる不安は、子どもの学びの欠如への心配ではなく、制度の外部に置かれることへの恐怖である場合が多い。その恐怖自体が、隠れたカリキュラムの産物だ。

「基礎教育は必要ではないか」という反論は当然あるだろう。だがイリイチは、読み書きや計算の訓練を否定していない。否定しているのは、それを学校という制度が独占し、その独占を自明のものとして受け入れさせる構造だ。学校がなければ基礎教育ができないという前提こそ、検証されるべき「隠れたカリキュラム」の一つである。

2. 電話と高速道路——二つの制度が映す社会の選択

事物において豊かになるか、事物を使う自由において豊かになるか、人間はどちらかを選ばなければならない。

— イヴァン・イリイチ

イリイチの分析が教育批判にとどまらない射程を持つのは、「制度スペクトラム」という分類学を提示したからだ。あらゆる制度は一本のスペクトラム上に配置される。一方の極に「共生的制度」(コンヴィヴィアルな制度)——電話、郵便、公園、図書館のように、利用者の自主的な選択に委ねられ、使う人の自律性を拡張する制度がある。もう一方の極には「操作的制度」——軍、刑務所、そして学校のように、人を加工し、管理し、依存させる制度が位置する。

共生的制度の特徴は三つある。利用が自己制限的であること(電話を一日中使い続ける人はまれだ)。アクセスが基本的に自由であること。そして、利用の目的が利用者自身によって決定されること。対して操作的制度は、社会的中毒(制度なしでは生活できないというエスカレーション)と心理的中毒(制度への依存が習慣化する)を通じて、みずからの存在基盤を拡大し続ける。

注目すべきは、イリイチが「偽の公共設備」という概念を導入した点だ。高速道路は一見すると万人に開かれた公共インフラに見える。しかし実際には、自動車を所有する者にのみ奉仕する制度であり、自動車を持たない人々から徴収した税金で自動車所有者の利便性が向上する。平等なアクセスを装いながら、構造的に特権者に奉仕する制度——これが偽の公共設備だ。

イリイチが喝破した学校の本質——それは高速道路より巧妙な「偽の公共設備」だ。「すべての子どもに平等な教育を」という理念は美しい。だが現実には、裕福な家庭の子どもほど大学など高等教育へ進み、税金で賄われる教育費をたくさん消費する。

一方、貧困ゆえに早く働きに出た子どもは、高等教育の恩恵を受けられないまま税金だけを納める。つまり貧しい者が金持ちの教育費を肩代わりする構造ができあがる。格差是正を謳う制度が、逆に格差を固定化する——この痛烈な逆説を、イリイチは暴き出した。

日本の状況に当てはめれば、「図書館」と「塾」の対比が分かりやすい。図書館は共生的制度だ。誰でも無料で利用でき、何を読むかは本人が決め、使い方は自由だ。一方、塾は操作的制度の民営版である。カリキュラムがあり、進捗が管理され、到達度が測定される。

興味深いことに、日本の家庭が教育に費やす私的支出——塾、予備校、通信教育——は公教育予算に匹敵する規模に達している。共生的な学習インフラよりも、操作的な制度への投資が圧倒的に優先されている。

この傾向自体が、「学びは管理されなければ成立しない」という隠れたカリキュラムの帰結だ。

この類型論は50年後、さらに切実な問いを突きつける。SNSやデジタルプラットフォームは、設計上は共生的制度に見える。誰でも使え、何を発信するかは自由だ。しかし、アテンション・エコノミー(注意経済)のメカニズムによって、利用者の行動は静かに誘導され、滞在時間は最大化され、依存は深化する。

共生的に見えて操作的——イリイチの制度スペクトラムは、プラットフォーム資本主義の本質を照射する道具として、むしろ現代にこそ有効だ。

3. 学校の逆像——イリイチが構想した四つの学習回路

1956年、友人のジェリー・モリスはスペイン語のラジオ局で、ハーレムのネイティブスピーカーを募集した。翌日、200人の十代の若者が列をなした。

— イヴァン・イリイチ

批判だけなら誰にでもできる。イリイチが際立っているのは、代替案を具体的に構想した点だ。彼が提案した「学習のウェブ」は、学校に代わる四つのネットワークから成る。

第一の回路は「教育的事物への参照サービス」。図書館、博物館、研究所、工場、農場——学習に使えるあらゆる事物へのアクセスを開放する仕組みだ。現在の学校は、学習資源を教室の内側に囲い込み、教師の許可なしには触れさせない。イリイチはその囲い込みの解除を求めた。

第二の回路は「技能交換」。特定の技能を持つ者が自分を登録し、学びたい者と直接結びつくシステムだ。冒頭のエピソードはこの原理の実証である。ニュヨーク市、ハーレム地区のプエルトリコ系の若者たちは、正規の教員資格など持っていなかった。だが6ヶ月間で、学校が何年もかけて達成できない水準のスペイン語教育を実現した。

イリイチはここから、「技能の希少性は人工的に生産されている」という結論を引き出す。免許制度、教員組合、学位要件——これらは技能の質を保証するためではなく、技能を独占するために存在する。アメリカで4年制看護学位が要件化された結果、看護師が減少した事例は、この論点の端的な例証だ。

第三の回路は「仲間マッチング」。同じ関心を持つ学習者同士を結びつける通信ネットワーク。イリイチが1970年の時点でコンピュータによる関心事の照合を構想していたことは特筆に値する。インターネットの原型的なビジョンだ。

第四の回路は「独立した教育者」へのアクセス。ここでの教育者は、カリキュラムを遂行する教師ではなく、学習者の自律的な探求を触発する存在だ。イリイチはこの関係を「値段のつけられない」ものと呼んだ。制度化されたカリキュラムには還元できない、真の師弟関係である。

技術的に言えば、インターネットはこの四つの回路をすべて実現した。オープンソースの教材、YouTubeの無数のチュートリアル、Redditのコミュニティ、Discordの学習グループ——形式上、学習のウェブはすでに存在する。

だが、話はここで終わらない。プラットフォーム資本主義がこれらの共生的可能性を再び操作的制度に回収している。YouTubeの「おすすめ」アルゴリズムは、視聴者が自主的に選択しているように見せかけながら、実質的にはアテンションを最大化するカリキュラムとして機能する。Udemyの受講履歴は新たな学歴の指標になりつつある。イリイチの「脱学校」は達成されたのではなく、デジタル環境のなかで新たな形の「学校化」が進行している。

一方で、この再回収に抗う実践も存在する。オープンソースコミュニティでは、制度的認証なしに実力が評価される。ハッカースペースでは、免許なき実践者が技能を直接交換する。小規模な読書会やオンライン学習コミュニティは、プラットフォームの論理に従属しない自律的な学びの場を形成している。

このように、イリイチが構想した四つの回路は、技術的にはすでに実現している。しかし、その回路を実際に使い、学びを制度から奪還する営みは、私たち一人ひとりの実践に委ねられている。

日本では、この実践のひとつの系譜として、フリースクール運動が積み重ねられてきた。次章では、この運動がイリイチの問いとどのように応答し、またどのような逆説に直面しているかを検討する。

4. フリースクール——制度の外部に回路を敷設する実践

制度の外部に回路を敷設しようとするフリースクールの営みは、しかし、つねに「もう一つの学校」という逆説と隣り合わせにある。この逆説を乗り越えるためには、制度との関係そのものを問い直す、より根源的な視点が必要だ。イリイチが『脱学校の社会』最終章で展開した「期待と希望」の議論は、そのための手がかりを与えてくれる。

日本のフリースクール運動は、イリイチの地図を独自の仕方で具体化してきた。1980年代以降、画一的な公教育に馴染めない子どもたちの「居場所」として始まったこの運動は、カリキュラムに子どもを合わせるのではなく、子どもの状態に合わせて関わりを変える実践を積み重ねてきた。スタッフは「先生」ではなく対等な関係を築き、「比較」と「強制」からの解放を徹底する点に、脱学校的な要素が見出せる。

しかしイリイチの視点からすれば、オルタナティブスクールは逆説的な存在でもある。「学校を批判しながら、もう一つの学校を作る」という矛盾を内包するからだ。問題は「悪い学校」ではなく「学校という制度の形式そのもの」だとすれば、代替施設である限り、そこには依然として登録やカリキュラム、指導者と学習者の区別が残る。公教育との連携を求める動きは、制度に認められることで「外部」であることを手放すプロセスとも映る。

イリイチが投げかけるラディカルな問いはこうだ。「なぜもう一つの学校を作るのか。なぜ街全体を学びの場にすることを目指さないのか」。

その思想に最も忠実なら、自らの壁を壊し、資源を地域に開放して「学習の網」の結節点となることだろう。

フリースクールへの批判と、イリイチの応答

フリースクールはしばしば、次のような批判にさらされる。

「ああいう場所で甘やかされて育つと、現実社会に出たときに対応できなくなる。社会にはルールがあり、競争があるのだから、小さいうちから慣れておくべきだ。」

これに対するイリイチの応答は明快だ。「その『現実社会』とは、いったい誰が作ったのか。競争と従属を当然とする社会そのものが問題なのであって、それに『慣れる』ことを教育の目的とすることこそ、最も深刻な従属の強制ではないか。」彼にとって、学校は社会への適応を強いる装置であり、フリースクールが批判されるのは、むしろその装置から子どもを解放しようとしているからにほかならない。

「自由にさせすぎると、何も学べないまま時間だけが過ぎていく。基礎学力が身につかないのではないか。」

イリイチは逆に問う。「『基礎学力』とは何か。それは誰が決め、誰にとって必要なのか。」学校が定義する学力は、学校制度内部で価値を持つ通貨にすぎない。ハーレムのスペイン語教育が示したように、人々は必要に駆られたとき、制度的なカリキュラムなしに驚くべき速度で技能を獲得する。「何も学べない」という不安は、学校が作り出した依存心の産物だとイリイチは見抜く。

「理念は立派だが、実際に運営しているのは素人だ。専門的な教育の訓練を受けた教師ではない。」

イリイチの『脱学校の社会』は、この批判を正面から解体する。「教育の専門家」という概念こそ、彼が最も激しく批判した対象だ。免許制度や教員養成課程は、技能の質を保証するためではなく、技能を独占し、人々から「自分たちで教え合う力」を奪うために存在する。免許なき実践者が子どもと直接関わること、それは欠点ではなく、制度の外部に回路を開く最大の強みである。

地図と歩み

2016年の教育機会確保法で公的に認知されたものの、フリースクールの多くは法的には「学校」ではなく、公的財政支援は限定的で保護者負担に依存している。経済的にはなお不安定だが、その脆弱さゆえに、ハーレムの技能交換のように、免許なき実践者が直接的に子どもと関わる回路として機能している。

プラットフォーム資本主義による新たな「学校化」が進む現代、フリースクールやオルタナティブスクールは、制度の外部に手作りの学習回路を敷設し続ける実践として位置づけられる。

完全な脱学校は不可能でも、自らのうちに潜む「学校的なもの」を自覚しつつ、それでもなお外部に開かれた回路を紡ぐこと。批判に抗いながら歩み続けるその姿こそが、イリイチの問いに、答えではなく応答として、今を生きる私たちが返しうるものなのかもしれない。

5. 期待と希望——イリイチが最終章で問うた人間存在の根本

希望は、自然の善性への信頼に根ざす。期待は、人間が計画し管理する結果への依存を意味する。

— イヴァン・イリイチ

本書の最終章「エピメテウス的人間の再生」は、教育論の枠を大きく超える。イリイチはここで、近代文明そのものの精神構造を問い直す。

ニューヨークのある玩具屋に「究極の機械」と呼ばれる商品があった。箱の蓋を開けると、中から機械仕掛けの手が現れ、蓋を閉じる。それだけだ。イリイチはこの奇妙な玩具に、近代人の自画像を見る。制度を作り、制度に管理され、制度のために働き、制度を維持するためにさらなる制度を作る。自分で蓋を開け、自分で蓋を閉じる——この自己完結的な循環のなかに、現代人は閉じ込められている。

ギリシャ神話のプロメテウスは「先見の明を持つ者」であり、人類に火を与えた。近代はこのプロメテウス的精神——計画、制御、進歩——を文明の原理に据えた。だがイリイチは、プロメテウスの弟エピメテウス(「後から考える者」)に希望を託す。

エピメテウスはパンドラ(「すべてを与える者」)と結婚し、甕(ピュトス)から災厄が飛び出した後に残った「希望」を守った。この神話の再解釈がイリイチの哲学的到達点だ。

プロメテウスとエピメテウス

「期待」と「希望」。この二つの言葉をイリイチは鋭く区別する。

期待とは、制度が約束する成果への依存だ。「良い学校に行けば良い職に就ける」「資格を取れば将来が安定する」——これらはすべて期待であり、制度的サービスの消費を前提とする。期待は満たされても、新たな不満足しか生まない。次の学位、次の資格、次のキャリアステップ。シーシュポスが岩を山頂に押し上げても転がり落ちるように、期待の充足は終わりのない循環を生む。

希望は異なる。希望は、自然や他者への信頼に根ざす。計画された結果ではなく、予測不可能な出会いの中に自分の学びを見出す姿勢だ。制度が何を提供するかではなく、自分が世界とどう関わるかが問われる。

これは抽象的な哲学に聞こえるかもしれない。だが、日常の感覚に引き寄せてみれば、身に覚えがあるのではないか。「将来が不安だから資格を取る」——このサイクルは、プロメテウス的期待の構造そのものだ。

資格を取っても不安は消えない。なぜなら、不安の根源は能力の不足ではなく、「制度的承認がなければ自分には価値がない」という信念にあるからだ。この信念を解除すること。イリイチの最終章が指し示すのは、制度の改良ではなく、制度との関係の根本的な組み替えである。

パーマカルチャー——エピメテウス的実践の生態学

パーマカルチャー(permaculture)は、「permanent agriculture(永続的な農業)」あるいは「permanent culture(永続的な文化)」を語源とする。1970年代、オーストラリアのビル・モリソンとデイヴィッド・ホルムグレンによって提唱されたこの思想は、イリイチの「希望」の概念と深い構造的親和性を持つ。

ビル・モリソン(左)、デイヴィッド・ホルムグレン(右)

モリソンは、自然を「管理」しようとする近代農業の営みが、土壌を枯渇させ、生態系を破壊してきたと看破する。モノカルチャー(単一栽培)は、まさにプロメテウス的精神の産物だ。収量を最大化するために自然を均質化し、化学肥料と農薬で制御しようとする。だがその結果は、土壌の死滅と永続的な管理への依存である——イリイチが批判した「期待」の構造そのものだ。

パーマカルチャーの発想は根本的に異なる。自然を「計画し制御する」のではなく、「観察し応答する」。人間が結果を管理しようとするのではなく、生態系そのものが持つ回復力に委ねる。多様な種を組み合わせ、それぞれの関係性を活かすことで、外部からの投入(肥料や農薬)なしに永続するシステムをデザインする。

パーマカルチャーの原則に基づいて育てられた庭

ここには、イリイチが『コンヴィヴィアリティのための道具』で論じた「コンヴィヴィアルな道具」の理念が具現化されている。コンヴィヴィアルな道具とは、専門家の管理を必要とせず、人々が自らの手で使いこなせる道具のことだ。

パーマカルチャーのデザイン原則もまた、複雑な生態学的知恵を内包しながら、その実践は専門家に独占されず、誰もが自らの土地で試行錯誤できる開かれた性質を持つ。

イリイチが最終章で語る「エピメテウス的人間」とは、結果を予測して計画するプロメテウスではなく、出来事が起きた「後から考える」存在だ。

パーマカルチャーの実践者は、まさにこのエピメテウス的である。土壌を観察し、気候を読み、昨年の失敗から学ぶ。自然に命令するのではなく、自然の応答に耳を傾ける。予測不可能な出会いのなかで知恵を蓄えるこの姿勢は、イリイチの「希望」が具体的な生の技法となったものだと言える。

制度への期待を手放し、世界との直接的な応答関係のなかに自らの生を投げ入れること。パーマカルチャーの思想は、教育論としての『脱学校の社会』が最終的に到達した哲学的境地を、土を相手に実践しているのである。

学校化を解除する——あなたの「学習のウェブ」はすでに始まっている

各人は自分自身の脱学校に対して責任を負い、それを行う力は自分にしかない。

— イヴァン・イリイチ

イリイチの脱学校論を「学校をやめろ」というメッセージとして読むのは、最も安易な誤読だ。彼が問うたのは、学校に行くか行かないかではなく、学びを制度に委ねるか自分の手に取り戻すかだ。

50年が経ち、イリイチの診断はどう評価できるか。インターネットは学習のウェブを技術的に可能にした。だが同時に、EdTech産業は教育の商品化を加速させ、プラットフォーム資本主義はアルゴリズムという新たな「隠れたカリキュラム」を稼働させている。

何を学ぶべきかをアルゴリズムが決定し、学習履歴がデジタル学歴として機能し、「認定された知識」のみが検索上位に浮上する情報環境——これは脱学校の実現ではなく、学校化の新たな段階だ。

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だからこそ、イリイチの問いはむしろ切迫している。そして、答えは制度の改革にではなく、制度の外部に学習の回路を一つずつ敷設する実践にある。

並行社会の実践という観点から見れば、その原則はすでに明確だ。
段階性——いきなり完成形を目指さず、できるところから始める。
重層性——既存の制度と並行する学びの場の両方に足を置くことを許容する。
相互浸透——完全に閉じた空間を作るのではなく、既存社会との接触面を保つ。実践優先——理想の教育制度を設計するのではなく、具体的な学びの場を今日つくる。
分散性——一つの「正しいオルタナティブ」ではなく、多様な小規模実践の集積を目指す。

具体的には何ができるか。読書会を組織すること。技能を持つ人と学びたい人が直接つながる場をつくること。制度的認証に頼らず、実力を相互に評価する小さなコミュニティを育てること。オープンソースの精神で知識を共有すること。独立したメディアや学習コミュニティに参加し、プラットフォームの論理に回収されない情報の流通経路を確保すること。

これらはいずれも、イリイチの四つの学習回路——教育的事物へのアクセス、技能交換、仲間の結びつき、独立した教育者——の現代的な実装にほかならない。

制度的な承認を迂回し、実力と関心によって人と人が直接つながる。国家や企業の認証を待たず、自分たちの手で学びの価値を確かめる。これは壮大な社会変革の話ではなく、今日から一人で始められる行為だ。

イリイチが最終章で「期待」から「希望」への転換を語ったとき、それは精神論ではなかった。制度が約束する成果を追いかけるのをやめ、自分自身の好奇心と、目の前にいる人間との関係の中に学びを見出すこと。この転換は、一冊の本を読み、それについて誰かと語り合うという、ごく小さな行為から始まる。

あなたの学習のウェブは、すでに始まっている。

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