「見えない抵抗」の技法――スコット『支配と抵抗の技法』が照らすポスト・パンデミックの言説空間
支配者の面前で見せる従順と、舞台裏で語られる本音の乖離を理解しない限り、政治の大半は見えないままだ。
2020年の春、世界中の人々がほぼ同時に、ある奇妙な体験をした。昨日まで「正当な疑問」だったことが、一夜にして「危険な誤情報」に変わったのだ。ウイルスの起源を問うことも、ロックダウンの費用対効果を検証することも、ワクチンの安全性データを精査することも――あらゆる問いが、知的な営みではなく道徳的逸脱として扱われた。多くの人が感じたはずだ。これは科学の問題ではなく、何か別の力学が働いていると。
その直感は正しかった。しかし、それを言語化する枠組みがなかった。1990年に出版されたジェームズ・C・スコットの『支配と抵抗の技法』(Domination and the Arts of Resistance: Hidden Transcripts)は、まさにその枠組みを提供する。農奴制や奴隷制といった極端な支配構造を分析した本書が、なぜ今、デジタル時代の言論空間を理解する鍵になるのか。それは、権力が人々の「発言」と「本音」を分離させるメカニズムが、テクノロジーの装いを変えただけで本質的に同一だからである。
著者と書籍について
ジェームズ・C・スコット
ジェームズ・C・スコット(James C. Scott)はイェール大学の政治学者で、東南アジア、とりわけマレーシアの農村社会研究を通じて「日常的抵抗」の概念を確立した。主著に『モーラル・エコノミー』(The Moral Economy of the Peasant, 1976)、『弱者の武器』(Weapons of the Weak, 1985)がある。国家による社会設計の失敗を論じた『国家はなぜ失敗するのか』(Seeing Like a State, 1998)も広く読まれている。彼の一貫した関心は、権力の非対称性のもとで「弱者」がいかに生き延び、抵抗するかという問いにある。

本書の位置づけ
『支配と抵抗の技法――隠された台本』(Domination and the Arts of Resistance: Hidden Transcripts, 1990)は、スコットの理論的到達点ともいえる著作だ。『弱者の武器』で展開したマレーシア農村の事例研究を、奴隷制・農奴制・カースト制にまで拡張し、権力関係が生み出す「二重の言説空間」を体系的に理論化した。従属研究やサバルタン研究に深い影響を与え、出版から30年以上を経た今も、権力と抵抗の分析において参照され続けている。
なぜ今この本なのか
パンデミック以降、多くの人が経験した「公の場では言えないこと」と「信頼できる仲間内でしか語れない本音」の乖離――この構造をスコットは30年前にすでに理論化していた。SNSの検閲、「ファクトチェック」による言論統制、「陰謀論者」というラベリング。これらはすべて、スコットが農奴制や奴隷制の中に見出した支配のメカニズムと驚くほど一致する。本書は歴史書であると同時に、現在進行形の診断書でもある。
1. 二重の舞台――権力が生み出す二つの言説空間

偉大な主が通り過ぎるとき、賢明な農民は深く頭を下げ、黙って屁をこく
スコットの中心命題は明快だ。権力関係のあるところには、常に二つの言説空間が存在する。
一つは「公的台本」(パブリック・トランスクリプト)。支配者の面前で演じられる従順のパフォーマンスだ。被支配者は期待される台詞を口にし、支配者は自らの正統性を演出する。封建領主の前で農民が帽子を取って頭を下げる光景。奴隷が主人の前で無知を装う振る舞い。
これらは弱者が「内面化」した服従ではなく、恐怖と打算に基づく戦略的パフォーマンスである。

もう一つは「隠された台本」(ヒドゥン・トランスクリプト)。権力の監視が届かない舞台裏で語られる本音、風刺、怒り、対抗的な解釈。奴隷の居住区、居酒屋、鍛冶屋、森の中の集会所――権力者の目が届かないこれらの空間で、従属者たちは不満を語り、復讐を夢想し、独自の世界観を育んだ。
スコットが強調するのは、ここにこそ従属者の尊厳と批判的知性が保存されるということだ。

注目すべきは、この二重構造が支配者側にも存在する点である。支配者もまた「支配者らしさ」という仮面を強いられる。
ジョージ・オーウェルがビルマで象を撃った有名なエピソードは、まさにこの構造を照らし出す。植民地の警官であるオーウェルは、暴れ象を撃ちたくなかったにもかかわらず、「白人としての威厳」を維持するために引き金を引いた。仮面が顔に張り付くのは、支配者も同じなのだ。

そしてスコットが最も重視するのが「インフラポリティクス」(下層政治)――公然たる反乱でも完全な服従でもない、日常的で匿名的な抵抗の技法群である。噂、冗談、足の引っ張り、サボタージュ、二重の意味を持つ言い回し。政治学が通常「政治」と認識しない、この広大な領域にこそ、支配への最も持続的な抵抗がある。
2. パンデミックが暴露した台本構造
体制が自らの嘘を信じ始めたとき、それは崩壊の始まりである。
2020年以降の出来事は、スコットの理論枠組みにほぼ完璧に適合する。
公的台本の内容は明確だった。「科学に従え」「ワクチンは安全で有効」「ロックダウンは必要」「異論は陰謀論」。これらは科学的命題として提示されたが、その実際の機能は権力の正統性言説そのものだった。異論を唱えることが知的誤りではなく「道徳的逸脱」として処罰されたという事実が、それを証明している。科学の世界では反論は当然の営みだが、政治的支配の文脈では反論は背信行為になる。
強制のメカニズムも古典的だった。ソーシャルメディアの検閲は、舞台上で台詞を間違えた者の排除に相当する。医師免許の剥奪脅迫は専門家階層内の規律権力だ。「反ワクチン」「陰謀論者」というラベリングは社会的烙印であり、雇用や教育、移動の条件としてのワクチン接種は物質的強制である。
スコットの言葉を借りれば、パンデミック対応は「公的台本への同意を物質的に強制するシステム」の大規模な社会実験だった。
一方で同時に起きたのが、隠された台本の空間の急速な拡大である。テレグラム、サブスタック、ランブル、個人ブログ、会員制コミュニティ――これらは文字通り「舞台裏」として機能した。スコットが18世紀の農民社会に見出した構造が、21世紀のデジタル空間に再現されたのだ。

ここで見落としてはならないのは、この舞台裏が単なる不満のはけ口ではなかったということだ。論文の再検証、データの独立分析、歴史的文脈の復元――公式の言説が独占しようとする「現実の定義」に対し、もう一つの知識体系が構築されていた。スコットが農奴制の下に見出した「対抗的な知識の保存」と同じ力学が、デジタル空間で作動していた。
3. インフラポリティクス――「見えない抵抗」という戦場
圧政に対する最大の勝利は、革命ではない。人々がこっそり自分自身のままでいることだ。
スコットの最大の貢献は、英雄的な公然たる反乱だけが抵抗ではないという認識にある。
奴隷社会を考えてみよう。表面上は絶対的な服従が支配していた。だが実際には、密猟、盗み、怠業、脱税、仮病といった日常的行為が、支配の境界線を絶えず押し返していた。これらは犯罪統計に記録されるだけで、「政治」としては認識されない。しかしスコットは、この「見えない戦場」こそが支配体制の限界を決定していたと論じる。

ポスト・パンデミックの文脈に置き換えれば、こうなる。大規模デモや訴訟だけが抵抗の形態ではない。
信頼できる情報源を静かに共有すること。代替的な健康実践を維持すること。子どもに「専門家が言うから正しいとは限らない」と伝えるといった並行教育の実行。独立した経済圏に少しずつ参加すること。
これらすべてがインフラポリティクスである。
日本の文脈で考えると、この概念はさらに切実さを増す。日本社会には同調圧力という強力な「公的台本」の強制装置がある。「空気を読む」文化は、スコットの理論に照らせば、公的台本への同調を社会的圧力によって内面化させるメカニズムにほかならない。ワクチン接種をめぐる職場の無言の圧力、マスク着用をめぐる「世間の目」――これらは法的強制がなくとも、事実上の強制として機能した。
だからこそ、日本におけるインフラポリティクスの意味は大きい。正面から異議を唱えることが文化的に困難な社会では、日常的で匿名的な抵抗の技法がより重要になる。
独立した知識コミュニティの構築、代替メディアの購読、地域の自給自足ネットワークへの参加――派手な政治行動ではないが、スコットが歴史から引き出した教訓は明確だ。持続的な変化は、まさにこうした「目立たない」実践の蓄積から生まれる。
4. 支配者を縛る自らの台本
人は自分の嘘に最も深く騙される。
スコットの理論には、権力批判者にとって戦略的に重要な洞察が含まれている。支配者もまた、自らの公的台本に囚われるという指摘だ。
「科学に従え」という公的台本を採用した権力は、科学的データが自らの主張と矛盾したとき、厄介なジレンマに直面する。データを隠蔽するか、自らの正統性の基盤を掘り崩すか。選択肢は二つしかない。
実際、パンデミック中にこのジレンマは繰り返し表面化した。ワクチン有害事象のデータが蓄積されるにつれ、「安全で有効」という台本を維持するために、データそのものの公開を遅らせたり、報告システムの信頼性を貶めたりする必要が生じた。ロックダウンの社会経済的損害を示す研究が増えるたび、それらを「反科学的」とレッテル貼りする必要に迫られた。自然免疫の有効性を示すデータが積み上がっても、ワクチン一辺倒の台本を修正できなかった。

これは支配者の論理を内側から崩す方法を示唆している。「あなたがたが『科学に従え』と言ったのだから、このデータに従ってはどうか」――この形式の批判は、支配者が自ら設定した基準を盾にして問い詰めるものだ。スコットはこの手法の歴史的有効性を繰り返し示している。
果たして偶然だろうか。ロシアの農民たちが「良い皇帝と悪い家臣」という物語を使ったのも、同じ構造だった。彼らは皇帝の権威を否定せず、皇帝自身の約束――「臣民を守る」という公的台本――を盾にして、地元の領主の搾取を批判した。スコットはこれを「素朴な皇帝信仰」(ナイーブ・モナーキズム)と呼ぶが、その内実は素朴とは程遠い。支配者の言葉を逆手に取る高度な戦略である。

パンデミック以降、この手法を用いた批判者たちが最も効果的だった。RCT(ランダム化比較試験)のデータを精緻に分析し、規制当局自身が掲げた基準に照らして矛盾を指摘する。ジェイ・バタチャリア(Jay Bhattacharya)やジョン・イヨアニディス(John Ioannidis)の仕事が影響力を持ったのは、まさに権力の公的台本の論理をそのまま用いて批判したからだ。
内在的批判の限界
一方で、相手が最初からルールなんてどうでもよくて「自分たちが支配し続けること」だけを目的にしている場合、話は別だ。支配の邪魔になる意見は、議論する前に力で封殺されてしまう。
今の科学界も似たような状態にある。厳しい上下関係と利益優先の構造の中で、内部から「データが矛盾していますよ」と指摘しても、都合の悪い指摘は無視される。組織は自分たちのやり方を守ることに必死で、内部の声で変わることはほとんどない。
つまり、現在の状況は内側から変えようとするやり方だけでは限界がある。時には、外からまったく新しい価値観で批判したり、既存のシステムとは別の場所に新しい秩序を作ったりすることが必要になる。
5. 「偽りの同意」を見抜く構造
全員が嘘をついていることが明白なとき、真実を語ることは革命的行為である。
スコットの最も鋭い洞察の一つは、公的な同意の表明は支配の証拠であって、合意の証拠ではないという指摘だ。
「国民の大多数がワクチンを支持している」「専門家の合意がある」――こうした主張は、スコットの枠組みでは、権力が公的台本への同調を強制できていることを示しているにすぎない。実際の信念や評価は、隠された台本の中にしか存在しない。
世論調査の数字が「支持」を示しても、匿名の行動がそれと矛盾する場合がある。ブースター接種の回避率が上昇したこと、接種証明が不要になった途端に接種率が急落したこと――これらの行動データは、公式の「支持」の数字とは異なる物語を語っていた。

ここに、従来のヘゲモニー論に対するスコットの根本的な批判がある。アントニオ・グラムシ(Antonio Gramsci)以来、多くの思想家は「弱者は支配イデオロギーを内面化している」と論じてきた。弱者が支配を「当然」と受け入れているように見えるのは、文化的ヘゲモニーが浸透しているからだと。
スコットはこの見方を覆す。弱者の沈黙は同意の証拠ではない。それは恐怖と打算に基づく演技だ。農奴が領主の前で帽子を脱ぐのは、領主の権威を心から認めているからではなく、脱がなければ罰を受けるからだ。この区別は些細に見えるが、政治的には決定的である。なぜなら、演技は条件が変われば一瞬で消えるからだ。

パンデミック中の日本でも、この構造は観察できた。職場でワクチン接種を推奨された人の多くが「自発的に」接種したとされる。しかし、同調圧力のない環境での選択はどうだったか。匿名のアンケートでの回答は、名前の出る場での発言とどれほど異なっていたか。スコットの理論は、この乖離こそが分析の出発点であるべきだと教えている。
「科学的コンセンサス」という概念もまた、同じ構造を持つ。科学者の「合意」は、学術雑誌への掲載権限を持つ編集者、研究資金を配分する機関、「誤情報」のレッテルを貼るファクトチェック組織――これらの権力構造のなかで表明される。異論を唱えた科学者が資金を失い、論文を却下され、同僚から孤立する環境で示される「合意」を、どこまで額面通りに受け取れるだろうか。
6. 並行社会の構築――隠された台本から自律的空間へ
真実の中に生きようとする試みがすでに政治的行為なのだ。
スコットの理論は、チェコの反体制運動家ヴァーツラフ・ベンダ(Václav Benda)が提唱した「並行社会」の概念に、実証的な基盤を与える。
ベンダの並行社会とは、全体主義体制下で既存システムとの関係を維持しながら、自律的な文化・経済・社会のネットワークを横に構築していく実践だ。完全な離脱ではなく、既存社会に片足を置きながら、もう片足を別の場所に置く。スコットの言う「隠された台本の空間を維持し拡大する」営みは、まさにこの並行社会の構築にほかならない。
歴史はこの戦略の有効性を証明している。農奴制からジム・クロウ法(米国南部の人種隔離法制)まで、表面的な服従の下で対抗文化を維持した集団こそが、最終的に変化を実現した。アメリカ南部の黒人教会は、日曜の礼拝という合法的な集会の形をとりながら、相互扶助のネットワーク、識字教育、政治的意識の共有を行った。これはスコットの言うインフラポリティクスの典型である。

現代の文脈では、独立メディア、会員制コミュニティ、代替的経済圏、自律的な健康実践のネットワークがこれに相当する。テレグラムのグループ、サブスタックのニュースレター、地域の自給ネットワーク、独立した研究者同士の知識共有――これらはいずれも、公式の言説空間とは異なる「もう一つの現実」を維持する装置だ。
ただし、スコットの分析はいくつかの危険も示唆している。
一つ目は「自己隔離の罠」だ。隠された台本の空間があまりに心地よくなると、それ自体が目的化し、公的空間への関与を放棄してしまう。エコーチェンバーは、スコット的な「安全な空間」の病理的形態になりうる。並行社会は引きこもりではない。既存社会との接点を保ちつつ、別の選択肢を実証的に示すことにこそ意味がある。
二つ目は「英雄的抵抗への憧憬」だ。壮大な革命やドラマティックな告発を過度に理想化すると、日常的なインフラポリティクスの価値を見失う。スコットが論じたのは、むしろその逆である。日々の小さな実践の蓄積こそが変化の本体であり、壮大な「噴出」の瞬間は、その蓄積の結果にすぎない。
三つ目は「『演技』と『内面化』の境界の曖昧さ」だ。スコットは被支配者の公的台本への同調を「打算的な演技」と断じるが、長期間にわたる演技は、たとえ最初は偽りであっても、次第に演技者のアイデンティティを形成していく。何世代にもわたって続けられた「従順のパフォーマンス」は、もはや純粋な演技とも本当の内面化とも区別がつかなくなる。
スコットの理論は「本音」と「建前」を明確に分離できることを前提としているが、人間の意識はそれほど単純ではない。長年の支配構造の中で育った者は、自らの欲求や思考そのものが支配の枠組みに鋳造されている可能性がある。その場合、「隠された台本」と呼べるような純粋な外部は存在せず、グラムシが指摘したように、支配の内面化こそが「本音」になっている。
権力の舞台裏を読む技法
歴史をつくるのは英雄ではない。名もなき人々の無数の小さな行為だ。
スコットの『支配と抵抗の技法』は、一見すると歴史学の著作だ。奴隷制やカースト制の分析が、現代のデジタル社会とどう関係するのかと首を傾げる向きもあるかもしれない。
しかし、この本が照らし出す構造は恐ろしく普遍的である。権力が言説を管理するメカニズム、強制された同意と自発的合意の見分けがたさ、匿名的で日常的な抵抗の戦略的価値――これらは時代も技術も超えて反復される。
変わったのは舞台装置だけだ。奴隷の居住区がテレグラムのチャンネルに、領主の前での帽子脱ぎがSNSでの「正しい意見」の表明に、密猟がVPN(仮想プライベートネットワーク)経由の情報アクセスに置き換わった。
スコットの枠組みで最も深い含意を持つのは、知識そのものが抵抗の場であるという認識だ。支配は物理的暴力だけでなく、何が真実であり、何が議論に値し、何が「まともな」意見であるかの定義を通じて機能する。検閲産業複合体、ひいては情報戦争(認知戦)が管理しようとしているのは、情報の流通ではなく、現実の定義そのものだ。
だとすれば、学術文献を読み、分析を加え、独立したコミュニティで共有するという一見地味な営みは、公的台本が独占しようとする「現実の定義権」への根源的な挑戦である。

それは壮大な革命ではない。しかし、農奴制を生き延びた人々の知恵も、ジム・クロウ法の下で尊厳を守り抜いた人々の実践も、壮大なものではなかった。
問題の根は深い。権力が言説を管理する構造は、テクノロジーの発展とともにむしろ精緻化している。アルゴリズムによる情報選別、AIを用いた「誤情報」検出、デジタルIDと行動データの紐付け――スコットの時代の「監視の目」は、比較にならないほど広く、深くなった。
だからこそ、スコットが農民たちの中に見出した知恵――匿名性の活用、曖昧さの戦略的利用、日常に埋め込まれた小さな不服従の蓄積――は、むしろ現代においてこそ切実さを増している。
並行社会の構築は、一つの完成された「対抗社会」を目指すものではない。多様な小規模実践の集積であり、できるところから始め、既存社会との関係を断ち切らず、理論よりも具体的な生活の場の構築を優先する。
支配の台本は、それが台本であると認識された瞬間に力を失い始める。スコットの本を読むということは、舞台裏への入口を見つけるということだ。

いいなと思ったら応援しよう!
この投稿が役に立った、面白かった、応援したいと思っていただけましたら、チップでのサポートをいただけると大変励みになります。いただいたチップは今後のコンテンツ制作の糧とさせていただきます。金額に関わらず、あなたの温かいお気持ちが何より嬉しいです。
