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7つの哲学的批判で読み解く—EBMが医療を壊した理由

医療は科学であるよりもまず、人間の実践である。

— キャサリン・モンゴメリー(医学哲学者)

前回の記事で、エビデンス・ベースド・メディスン(EBM:根拠に基づく医療)が製薬企業の利益装置へと変質した10の実践的欠陥を明らかにした。医師の経験と患者の声の排除、非RCT(ランダム化比較試験)データの軽視、メタアナリシス(複数研究の統合分析)の主観性、副作用見逃し、企業影響力の無視、そしてワクチン研究における詐欺的手法。これらは、EBMが現場でどのように機能不全を起こしているかを示す証拠だった。

しかし、問題はさらに深い。EBMは、医学という営みの哲学的基盤そのものを誤解している

想像してみてほしい。あなたが風邪で病院に行ったとする。医師は「このデータによれば、あなたと同じような人1000人を調べたら、この薬が効きました」と言う。しかし、あなたは「その1000人」ではない。あなたは、固有の体質、生活習慣、既往歴を持つ一人の人間だ。その「平均的に効く」という話は、あなたにどれだけ当てはまるのか?

この記事では、トビー・ロジャース博士による分析記事を基に、EBMが見落とした、あるいは意図的に無視した医学の本質的問いを解き明かす。あなたが次に「エビデンス」という言葉を聞いたとき、その背後にある見えない前提に気づくための視点を提供する。

著者・記事について

トビー・ロジャース(Toby Rogers)は、医療政策とリスク分析の専門家として知られ、特に製薬業界と規制機関の関係を批判的に検証してきた研究者である。彼のシリーズ「How Big Pharma Hijacked Evidence-Based Medicine」は、医学の“根拠”を再定義した革命的運動の裏側に潜む構造を暴く。

本記事は、トビー・ロジャース(Toby Rogers)博士による「邦訳:ビッグファーマはいかにしてエビデンス・ベースド・メディスンを乗っ取ったか、第2部:EBMと証拠階層への7つの哲学的批判)」(2025年7月)を基にしている。

前回の記事では実践的な問題を扱ったが、今回はEBMのより深い問題、つまり「医学とは何か」「証拠とは何か」「科学とは何か」という根本的な問いに焦点を当てる。ロジャース博士は、多数の学術論文を引用しながら、EBMが医学における重要な議論を避けてきたことを明らかにする。この記事は、医療政策の背後にある権力構造を可視化し、医師や患者が対等な対話と自律的判断を取り戻すための哲学的基盤を提供する試みだ。

少々長い記事であるため、見取り図として、以下に7つの批判をまとめておく。

7つの哲学的批判:EBMの構造的欠陥

1. 実験室の研究を最下位に置く奇妙なシステム
基礎科学(細胞・病理学)を最低レベルに格付けすることで、因果メカニズムの理解を放棄し、医学の土台そのものを破壊している。

2. 「データ」と「解釈」を混同する思考の罠
データは客観的だが、その意味は常に主観的——EBMは統計を「事実」と偽装し、判断の重要性を隠蔽する。

3. 平均的人間という幽霊:あなたは統計ではない
1000人の平均値は「あなた」には当てはまらない——集団データを個人に適用する「推論ギャップ」がすべての患者を犠牲にする。

4. ベイズ統計が示す「動的な真実」
頻度主義統計は静的な世界観に囚われ、事前知識や文脈を排除——医療の本質である「確率の更新」を無視している。

5. 科学は証明できない:白鳥の教訓
科学は仮説を「証明」できず、反証のみ可能——EBMはRCTを絶対視し、反証可能性を放棄した権威主義システムである。

6. 教科書通りの医療が失敗する理由
客観主義を装いながら、実際は政治・経済的利害を隠蔽——パンデミックで露呈した「証拠の政治学」と価値判断の不可視化。

7. 医学は科学ではない:失われた実践知
医学の本質は「フロネシス」(実践的知恵)——EBMは医師を思考する実践者から、企業ガイドラインを実行する技術者へと貶めた。

1. 実験室の研究を最下位に置く奇妙なシステム

科学とは、確率の上に立つ信仰でもある。だがその信仰を制度化した瞬間、それは「教義」になる。

— マイケル・ラウリン(英国王立内科医学院前会長)

医学生なら誰でも習うことがある。解剖学、生理学、生化学といった基礎科学だ。細胞がどう働くか、薬が体内でどう作用するか、病気がなぜ起こるか。これらの知識は、医学の土台だ。

ところが、EBMの証拠階層(どの研究が信頼できるかのランク付け)では、この基礎科学が最下位、つまり第5レベルに置かれている。前回の記事で見たように、一部の教科書は「ランダム化試験でなければ読む価値もない」とまで言う。つまり、医師が患者を診るとき、細胞レベルで何が起きているかという知識は「考慮する必要がない」とされているのだ。

これは奇妙だ。なぜなら、科学において因果関係を理解するには、複数の視点が必要だからだ。

たとえば、ある薬が効くかどうかを考えてみよう。大規模な患者調査で「効果あり」と出たとする。しかし、なぜ効くのかがわからなければ、どんな人に効くのか、どんな副作用があり得るのか、他の薬と併用していいのか、といった判断ができない。

疫学者のロビン・ブラム(Robyn Bluhm)は2005年、こう指摘している。実験室での研究と臨床での研究は「密接に関連している」。疫学の歴史を見れば、一方の進歩が他方の進歩に依存していることは明らかだ。感染症の場合は特にそうだし、慢性疾患を理解する上でも同じだ。

ロビン・ブラム

実験室で細菌の働きがわかったから、抗生物質が開発できた。細胞のメカニズムがわかったから、がんの治療法が進化した。基礎科学なしに、臨床医学は進歩しない。

ブラムは、EBMが「証拠の階層」から「証拠のネットワーク」へと移行すべきだと提案する。実験室の研究も、患者調査も、医師の経験も、すべてが手を取り合って医学を前進させる。どれか一つが「最高」でどれか一つが「最低」ではない。

書籍『証拠は何に基づいているのか?』著者:ロビン・ブラム、マーク・トネリ EBMは厳密な臨床研究(無作為化比較試験など)を優先することで医療に革命をもたらしたが、著者らは個別化された患者ケアの指針としては不十分だと主張する。

医師で薬理学者のマイケル・ローリンズ(Michael Rawlins)は2008年、さらに踏み込んだ。「階層構造は、判断を単純化しすぎた評価に置き換えようとする。証拠の階層は捨てて、多様なアプローチを歓迎すべきだ

マイケル・ローリンズ

哲学者のアダム・ラ・ケイズ(Adam La Caze)は2011年、この問題の核心を突いた。基礎科学を低く位置づける正当な理由が、EBMの提唱者たちから示されていない

アダム・ラ・ケイズ

さらに、ラ・ケイズは重要な問題を指摘する。大規模調査の結果を、目の前の患者にどう当てはめるか。これは後で詳しく見るが、平均的に効く薬が、あなたに効くとは限らないという問題だ。この問題に答えるには、基礎科学の理解が不可欠なのに、EBMはそれを排除している。

書籍『薬理学における不確実性』著者アダム・ラ・ケイズ :治療結果につながる因果関係の連鎖の最初のステップは生化学レベルで行われるが、最終的な効果は臨床的に観察可能な結果であり、それは生物学的作用だけでなく、心理学的、社会的現象にも影響される。因果関係やエビデンスの問題は、こうした特定の側面を念頭に置いて扱われなければならない。

科学の各分野は、通常、織り交ぜられたシステムとして連携している。それなのに、EBMがシステムの他のすべてを犠牲にして一つの方法(大規模RCT)だけを特権化するのは、まるでオーケストラでバイオリンだけが音楽だと主張するようなものだ

理論、実験、データはすべて結びついている。実験室の研究が示すメカニズムは、患者での研究結果の一部だ。患者での研究は、実験室での理解を洗練させる。基礎科学だけでは患者の転帰は予測できないが、患者調査の統計だけでも、結果をどう使うべきかの方向性は得られない

ラウリンが言うように、本来医学は「多様な証拠のネットワーク」で動く生態系だ。病理学の仮説、臨床家の勘、患者の体験――これらは相互に影響し合う。にもかかわらずEBMは、「序列」という形で現場の思考を凍結させた。その背景には単なる理論的過ちではなく、医療を再構築する政治的プロジェクトが潜んでいる。

2. 「データ」と「解釈」を混同する思考の罠

データは客観的だが、その意味は主観的だ。

— ナシーム・ニコラス・タレブ、統計学者・哲学者

ニュースを見ていると、こんな言い回しをよく耳にする。「データが示している」「研究が証明した」「科学が明らかにした」。まるでデータ自身が話しているかのようだ。

しかし、データそれ自体は何も言わない

たとえば、ある薬のRCTで「統計的に有意な効果」が出たとする。しかし、これは何を意味するのか? その効果の大きさは? 副作用は? どんな患者に効いて、どんな患者には効かないのか? 生活の質への影響は? これらはすべて、データを解釈するプロセスで決まる。

医師で公衆衛生学者のロス・アップシャー(Ross Upshur)とキャロル・トレイシー(Carol Tracy)は2004年、この点を明確にした。証拠の評価には、文脈、その影響、人間の意図や行為を理解するための解釈が常に必要だ。証拠と解釈を混同することは危険だ。なぜなら、それは判断の重要性を無視するからだ。

医療倫理学者のマネシュ・グプタ(Mona Gupta)は2003年、EBMが二つの矛盾した立場の間で揺れ動いていると指摘した。

マネシュ・グプタ

一方で、EBMは「客観主義」を掲げる。つまり、真実は観察者から独立して存在し、科学的方法で客観的に認識できるという立場だ。「データが示している」という言い方は、この立場を反映している。

他方で、実際の医療は「実用主義」的にならざるを得ない。つまり、知識の価値を、その実践的な有用性で評価する立場だ。個々の患者は、統計の平均ではなく、固有の文脈、価値観、体質を持つ存在だからだ

たとえば、ある抗がん剤のRCTで「生存期間が平均3ヶ月延長」という結果が出たとする。しかし、ある患者にとっては、副作用で苦しむ3ヶ月よりも、短くても穏やかな時間の方が価値があるかもしれない。別の患者にとっては、どんな犠牲を払ってでも生き延びたいかもしれない。

これらの価値判断は、統計だけでは答えられない

哲学者のジョン・ウォーロール(John Worrall)は2002年、さらに根本的な問いを投げかけた。
エビデンス・ベースド・メディスンにおける証拠とは何か?」

ジョン・ウォーロール(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス哲学・論理学・科学方法学科名誉教授)

証拠は、理論的枠組み、方法論的前提、価値判断の網の目の中で生産される。中立的な、理論から独立した「生の」証拠などというものは存在しない。研究者が何を測定するか、どう測定するか、どの患者を含めるか、どの結果を重要とみなすか、すべてに判断が伴う。

たとえば、料理のレシピを考えてみてほしい。レシピ本に「完璧なチョコレートケーキ」の作り方が載っていて、5つ星の評価がついているとする。これは、厳密なテスト(RCTのようなもの)で「美味しい」と証明されたレシピだ。しかし、そのレシピが「完璧」かどうかは、誰が作るか、どんな材料を使うか、どんなオーブンで焼くか、どんな好みの人が食べるかに左右される。

あなたが甘さ控えめを好むのに、レシピが砂糖たっぷりのケーキを想定していたら? あるいは、アレルギーがあるのに、ナッツが入っていたら? レシピそのものは「客観的」かもしれないが、それをあなたのキッチンでどう使うかは、状況や好みに応じた判断が必要だ。レシピを盲目的に信じるだけでは、最高のケーキは作れない。

ウォーロールは、RCTが他の研究より本質的に優れているという主張に異議を唱える。どの研究デザインが適切かは、問いの性質、文脈、利用可能なリソースに依存する。証拠の階層は、この文脈依存性を無視し、一つの方法を普遍的に優れたものとして扱う。

EBMが証拠と解釈を混同することの帰結は深刻だ。医師は、統計を解釈する知的自律性を失い、ガイドラインに従う技術者へと貶められる。患者は、自分の経験や価値観を表明する機会を奪われ、統計的カテゴリーの一例へと還元される。そして、製薬企業は、「証拠」という権威的言葉を通じて、自社製品を医療実践に埋め込むことができる。

3. 平均的人間という幽霊:あなたは統計ではない

平均的な人間は、実在しない統計的幽霊だ。

— アドルフ・ケトレー、統計学者

EBMの根幹には、「サンプルから一般化できる」という幻想がある。
ランダム化比較試験で1000人を対象にして得た平均値を、目の前の患者にそのまま適用できる――この考えが、実は一番の落とし穴なのだ。

1950年代、アメリカ空軍は問題を抱えていた。パイロットの事故が多発していたのだ。原因の一つは、コックピットの設計だった。当時、コックピットは「平均的なパイロット」の体格に合わせて設計されていた。

研究者たちは、4000人以上のパイロットの身体寸法を測定し、10の項目(身長、胸囲、腕の長さなど)で「平均値」を算出した。そして驚くべき事実が判明した。10項目すべてが平均値に近い(中央値の30%以内)パイロットは、4000人中ゼロだった

つまり、「平均的なパイロット」など、実在しなかったのだ。

この発見により、空軍はアプローチを変えた。固定されたコックピットではなく、調整可能なシートやペダルを導入した。個々のパイロットに合わせるシステムだ。その結果、事故は激減した。

万人に合うものなどない Medium

この話は、EBMの根本的問題を象徴している。

アップシャーは2005年、この問題を「推論ギャップ」と呼んだ。RCTは、特定の条件下で、特定の集団に対して、ある介入が平均的にどんな効果を持つかを測定する。しかし、目の前の患者は、その研究集団の「平均」ではない

あなたが病院に行ったとしよう。医師は言う。「この薬は、1000人の患者を対象にした研究で効果が証明されています」。しかし、こう考えてみてほしい。その1000人の中に、あなたと同じ年齢、同じ性別、同じ既往歴、同じ生活習慣、同じ遺伝的背景を持つ人は何人いたのか? おそらく、ゼロだ。

あなたは固有の個人だ。あなたの体は、過去の病気、飲んでいる他の薬、食生活、ストレス、睡眠、遺伝子といった、無数の要因の組み合わせで成り立っている。

さらに深刻な問題がある。多くのRCTは、研究を単純化するために、複雑な患者を除外する。併存疾患を持つ人、高齢者、妊婦、子どもは、しばしば研究から除外される。

これは、研究の明確性(因果関係をはっきりさせること)を高めるかもしれないが、現実への適用可能性を著しく損なう。現実の臨床現場で医師が診る患者の多くは、RCTから除外された人々だ

たとえば、ある降圧薬のRCTを考えよう。研究対象は「50-65歳、高血圧のみで他の疾患なし、他の薬を飲んでいない人」かもしれない。しかし、あなたが70歳で、糖尿病があり、他に3種類の薬を飲んでいたら? その研究結果は、どれだけあなたに当てはまるのか?

この問題は、特定の薬の効果を意図的に貶めるために除外基準が操作されるケースでも顕著に現れる。たとえば、うつ病治療のRCTでは、試験開始前に既知の交絡因子(例:併存疾患や他の薬物使用)を積極的に排除し、特定の交絡因子を持つ患者を参加させない「除外基準」が積み重なることが指摘されている。

これにより、多くの場合、現実のうつ病患者の大多数が研究から除外され、特に複雑な症状や背景を持つ患者が対象外となる。結果として、研究結果は理想化された集団にのみ適用可能となり、実際の臨床現場に存在しない患者への薬剤が出来上がる。このような除外基準の適用は、RCTの原理的な問題であると同時に、製薬企業が操作可能な窓口にもなっている。

この問題は、特定の薬の効果を意図的に貶めるために除外基準が操作されるケースでも顕著に現れる。たとえば、イベルメクチンのCOVID-19治療効果を検証したCEIP試験では、初回投与から5日以内にイベルメクチン(IVM)を服用した患者を除外し、6日以上前に使用した患者を許可するという異常に寛容な基準が設けられた。

カリ地域ではIVMが広く市販され予防や治療に使用されていた現実を無視し、プラセボ群にIVMの影響が混入するよう仕向けられた。この結果、イベルメクチンの効果が意図的に過小評価され、製薬企業の競合薬を優位に立たせるための汚い策略と化している。さらに別の試験では、イベルメクチン投与群に厳格な除外基準を課しつつ、プラセボ群には同様の基準を適用せず、結果を歪める設計が露骨に行われた。

だが、これらはイベルメクチン特有の話ではない——製薬企業がはるか昔から繰り返してきたごまかしの手口の延長線上に過ぎない。サリドマイドやビオックスの時代から、除外基準を操作し、競合薬を排除し、利益を最大化する手法は業界の暗黙のルールだった。イベルメクチンはその歴史の最新の犠牲者に過ぎず、製薬企業が自らの権益を守るための試験操作の伝統を続けた証拠だ。

1986年に提唱された個別化医療はなぜ未だに採用されないのか

哲学者のエリック・シャハール(Eran Shahar)は1997年、科学哲学者カール・ポパーの視点からこの問題を指摘した。どんなに質の高いRCTでも、その結果は特定の文脈における暫定的な知見に過ぎない。新たな研究、異なる集団、変化した条件下では、結果が覆る可能性が常にある。

この問題への一つの答えが「N-of-1試験」だ。これは、単一の患者に対して、治療と偽薬を複数回交互に投与し、その患者にとって最適な治療法を見極める方法だ。空軍が調整可能なコックピットを導入したように、医療も個々の患者に合わせるアプローチだ。

しかし、前回の記事で触れたように、N-of-1試験は医療実践においてほとんど普及していない。今から40年近く前に、カナダのマクマスター大学の臨床研究者グループが、N-of-1のランダム化比較試験を提唱しているにも関わらずだ。理由の一つは、製薬企業にとって、個別化医療よりも、できるだけ多くの人に同じ薬を処方する方が儲かるからだ。(繰り返し述べてきたことだが、金の流れを追えば、世の中の真実の半分は理解できる。)

推論ギャップは、EBMの構造的欠陥を示す。集団レベルの統計を、個人レベルの判断に直接翻訳することはできない。その翻訳には、病気のメカニズムの理解、医師の経験、患者の固有性への配慮が必要だ。しかし、EBMの証拠階層は、これらの要素を体系的に軽視する。

あなたは平均ではない。あなたは統計ではない。あなたは、固有の歴史を持つ一人の人間だ

4. ベイズ統計が示す「動的な真実」

確率は、世界についてではなく、私たちの知識について語る。

— エドウィン・トンプソン・ジェインズ、物理学者

1990年代のパソコンを使って仕事をしている人を想像してみてほしい。Windows 95、インターネット接続は電話回線、メールの添付ファイルは数メガバイトが限界。周囲が「もっと効率的な方法があるよ」と言っても、「いや、この方法で十分だ」と言い張る。

これが、EBMが統計に対してやっていることだ。

EBMの基盤となるRCTは、「頻度主義統計」という手法に依存している。頻度主義では、データを独立したサンプルの集合として扱い、結論は「帰無仮説の棄却」に基づく。しかし、この方法は世界を静的に切り取るだけであり、現実の医療のような動的で確率的なプロセスを十分に表現できない。

例えば、仮説が真である確率を、無限回の試行における長期的頻度として解釈するもので、p値が0.05未満であれば「統計的に有意」とみなされる。しかし、この枠組みには深刻な誤解がある。多くの研究者と医師が混同しているのだが、p値は「仮説が真である確率」ではない

p値とは何か。たとえば、ある薬のRCTでp=0.03という結果が出たとしよう。これは何を意味するか?多くの人はこう理解する。「薬が効く確率は97%だ」。しかし、これは間違いだ。

p値の正しい意味はこうだ。「もし薬が全く効かないとしたら、偶然にこのデータが得られる確率は3%だ」。つまり、p値は、効果がない場合にデータが得られる確率であり、効果がある確率ではない。この混同は、小さな問題ではない。医療判断の根幹に関わる誤解だ。

一方、「ベイズ統計」という別の手法がある。これは、確率を、データではなく仮説に割り当てる。事前の信念(データを見る前の知識)を更新し、データを観察した後の確率を計算する。臨床現場では、患者の経過、体質、診断結果ごとに仮説が変動し続ける。この「常に変わる科学的知識」こそが、医学の本質に近い。

たとえば、あなたが朝起きて、外を見ずに「今日は雨だろうか」と考えるとする。昨日の天気予報で「降水確率30%」と聞いていた。これが事前確率だ。そして窓を開けたら、地面が濡れていた。この新しい情報(データ)を使って、「雨が降った確率」を更新する。これがベイズ的推論だ。

ベイズ統計の利点は、事前知識を明示的に組み込めることだ。実験室での研究、病気のメカニズム、以前の研究、医師の経験から得られた知識を、新しいデータの解釈に統合できる。頻度主義統計は、このような事前知識を形式的に扱う方法を持たない。

ベイズ統計のもう一つの利点は、小規模研究でも有用な情報を提供できることだ。頻度主義では、「統計的に有意」な結果を得るために大規模なサンプルが必要だ。しかし、希少疾患や個別化医療では、大規模RCTは実行不可能だ。

医学統計学者のスティーヴン・グッドマン(Steven Goodman)は1999年、頻度主義の限界とベイズ統計の利点を明確にした。グッドマンは、p値が臨床的に意味のある情報をほとんど提供しないことを示した。

スティーヴン・グッドマン(Steven Goodman, MD, MHS, PhD) は、医学統計学および疫学の分野で著名な研究者であり、エビデンスに基づく医療(EBM)や研究の再現性に関する専門家である。

にもかかわらず、EBMはベイズ統計をほぼ無視し続けている。証拠階層は頻度主義的RCTを頂点に据え、ベイズ的アプローチを軽視する。なぜか? この選択は、科学的根拠に基づくものではない。むしろ、既存の権力構造を維持しようとする動機によって説明される。

大規模RCTを実施できるのは、主に製薬企業だ。一つのRCTに数十億円かかることもある。ベイズ統計が広く採用されれば、小規模な独立研究や医師の経験の価値が上がり、製薬企業の優位性が脅かされる。

統計哲学者のデボラ・メイヨー(Deborah Mayo)でさえ、文脈に応じて適切な統計的枠組みを選択すべきだと主張する。

デボラ・G・メイヨー(Deborah G. Mayo, FBA) は、アメリカの統計哲学者および科学哲学者で、統計的手法と科学的推論に関するエラー統計(error statistics)アプローチの提唱者として広く知られている。

EBMの問題は、文脈を無視し、一つの統計的枠組み(頻度主義)を普遍的に強制しようとすることだ。これは、統計学における過去数十年の進歩を無視する知的退行だ。1990年代のパソコンに固執するようなものだ。

5. 科学は証明できない:白鳥の教訓

すべての白鳥は白いという命題は、一羽の黒い白鳥によって反証される。

— カール・ポパー、科学哲学者

ヨーロッパ人は長い間、すべての白鳥は白いと信じていた。何千羽もの白い白鳥を観察し、記録した。「白鳥=白い」は疑いようのない事実だった。

1697年、オランダの探検家がオーストラリアで黒い白鳥を発見するまでは。

この逸話は、科学哲学の基本的洞察を象徴している。科学哲学者カール・ポパーが示したように、科学は仮説を証明することはできず、反証することしかできない

どれだけ多くの白い白鳥を観察しても、「すべての白鳥は白い」という命題を証明したことにはならない。しかし、一羽の黒い白鳥は、その命題を反証できる

この非対称性は、科学的知識の暫定性を強調する。すべての科学的命題は、新たな証拠によって覆される可能性がある。したがって、科学者は自分の信念に対して批判的であり、反証の可能性に開かれているべきだ。

しかし、EBMはこの原理を無視し、RCTが仮説を「証明」するかのように扱う。

アリゾナ大学の疫学部で教授であるシャハールは1997年、ポパーの視点からEBMを批判した。EBMが新たな権威主義を生み出していると警告したのだ。科学的議論が自由であるべきところに、証拠階層が判決を下し、その判決が適切に執行されることを保証する権威が登場している。

たとえば、ある薬のRCTで「効果あり」という結果が出たとする。EBMの枠組みでは、これはほぼ決定的な証拠として扱われる。しかし、ポパーの視点から見れば、これは単に「今のところ反証されていない仮説」に過ぎない

新たな研究で副作用が見つかるかもしれない。異なる集団では効かないかもしれない。長期的には有害かもしれない。変化した条件下では結果が異なるかもしれない。科学的誠実さとは、この不確実性を認め、反証の可能性に開かれていることだ。

しかし、実際には何が起きているか。この問題は、最近のコロナワクチン開発において特に顕著である。たとえば、2020-2021年にファイザー社が実施したCOVID-19ワクチン試験の初期結果が発表されると、メディアや政府は一斉に「高い有効性(90%以上)が証明された」と報道し、これを確立された事実として国民に押し付けた(Pfizerの公式発表参照)。

しかし、この主張は臨床試験の初期データに基づくものであり、長期的な安全性や変異株に対する有効性に関するデータが不足していたにもかかわらず、疑問を挟む余地なく受け入れられるべきものとして扱われた。

後に、ブースター接種の必要性や稀な副作用(例:心筋炎)の報告が明らかになった際も、初期の「確立された事実」が覆される可能性が十分に議論されず、むしろ反対意見は「誤情報」「陰謀論」として抑圧された。

まず、製薬企業が資金提供した大規模RCTが、製品の有効性を示す。その後、独立した研究者が副作用や有効性の欠如を報告しても、EBMの枠組みの中で「証拠の質が低い」という文言で無視される構造が完成している。この権威主義的アプローチは、EBMが科学的懐疑心を犠牲にし、製薬企業や政府の利益に奉仕するツールとなりつつあることを示している。

考えてみてほしい。サリドマイド(妊婦の吐き気止め薬として処方され、後に奇形児出産を引き起こした)、ビオックス(痛み止めとして承認され、後に心臓発作のリスクが判明して市場から撤退)、これらはすべて、当時の基準では「効果が証明された」薬だった。しかし、後に反証された。

科学は、常に暫定的だ。今日の「確立された事実」は、明日の「誤った信念」かもしれない。ポパーが教えたのは、この不確実性を謙虚に受け入れ、常に批判的であることの重要性だ。

ポパーの視点は、別の重要な問題も明らかにする。科学的仮説は、原理的に反証可能でなければならない。つまり、どのような観察があれば仮説が間違っていると認めるかを、事前に明確にすべきだ

しかし、多くのEBM研究では、この基準が不明確だ。予期しない結果が出たら、後から解釈を調整する。「探索的研究だった」「サブグループ分析では」と言い訳する。これは、科学というよりも、データを都合よく物語に変換する技術だ。

ポパーの科学哲学を真剣に受け止めるなら、EBMは根本的に再構築される必要がある。証拠は、仮説を支持する確証としてではなく、仮説を厳格にテストする反証の試みとして扱われるべきだ。そして、どんな「確立された」知見も、新たな反証証拠に対して開かれているべきだ。

黒い白鳥は、いつでも現れうる

6. 教科書通りの医療が失敗する理由

理論と実践の間には、理論上は差がないが、実践上は差がある。

— ヨギ・ベラ、野球選手

医学生が学ぶEBMの手順は、こうだ。

  1. 患者の問題を明確にする

  2. 最良の証拠を検索する

  3. 証拠を批判的に評価する

  4. 証拠を患者に適用する

  5. 結果を評価する

理論的には美しいプロセスだ。しかし、現実の診察室で何が起きているか。

ある内科医の一日を想像してみてほしい。午前中だけで20人の患者を診る。一人あたり平均15分。この15分の中で、上記の5ステップを完璧に実行することは物理的に不可能だ。

医師が実際にできるのは、事前に誰かが作った「ガイドライン」を参照することだ。製薬会社が資金を提供し、利益相反を抱えた「専門家」が委員として加わるガイドラインである。

アップシャーとトレイシー(2004)はこの緊張関係を明確に指摘した。EBMは「客観主義」を装う。つまり、証拠が純粋に真実を示し、その真実に基づいて決断すれば誤りを防げるという幻想だ。だが、実際の医療は「実用主義」的でなければならない。

実用主義とは、知識の価値を「人間の現実に役立つかどうか」で測る立場だ。医療は、抽象的な真理を追いかける科学ではなく、「苦痛の軽減と生命の質の回復」を目的とする倫理的実践である。

グプタ(2003)はこう批判した。EBMは「客観主義」と「実用主義」の緊張を正しく扱っていない――証拠の選択、解釈、適用のすべてに価値判断が入り込むのに、それを見えないようにしてしまう。

たとえば、どの副作用を「許容可能」と見なすか。どの結果を「主要評価項目」とするか。どの集団を「代表的」とみなすか。これらは純粋に科学的な問いではない。倫理、政治、経済の判断が不可避に入り込む。

パンデミックの教訓:EBMの限界が露呈した瞬間

このEBMの構造的欠陥は、コロナ禍で露わになった。

ロックダウン政策も、ワクチン接種方針も、当初は「科学的根拠に基づく」と宣言された。しかし、その「科学的根拠」とされたものが、どれほど政治的・経済的な文脈と結びついていたかは、今では誰の目にも明らかだ。

統計モデルは「感染防止」という一つの指標に偏重し、人間の生活の全体性――孤立、鬱、失業、教育機会の喪失――といった側面を軽視した。これは明らかに、患者や市民の「価値観」と「文脈」を切り捨てた判断だ。

ワクチン政策も同様だった。々人の健康状態、リスク許容度、ライフステージ、既往歴といった主観的文脈は、EBMの標準モデルでは「ノイズ」として扱われた。その結果、個別の最適化よりも「集団の管理」が優先された。

もちろん、コロナ政策を単にEBMの問題として片付けるのは狭すぎる。あれは単なる医療判断の逸脱ではなく、政治的な圧力、経済的利害、メディア操作――つまりエリート層による意思決定構造そのものが関与した「社会工学的プロジェクト」だった。

それでも、EBMの理念がそこに介入できなかったこと、むしろ「科学的正当性」という看板を貼ることで政策を正当化する道具に利用されたことは、EBMそのものの構造的脆弱さを示している。

証拠の政治学

アップシャーとトレイシーの指摘を借りれば、医療判断は「証拠」だけで成り立つのではない。それは常に「正統性」と「権威」によって形成される。

EBMは、臨床疫学者や政策決定者など、新しいタイプの「専門家権力」を生み出した。彼らは万人の健康を語りながら、実際には「正しい判断を下す権限」を奪い取っていった。医師の臨床判断、患者の価値観――つまり医療の中核たる「共同意思決定」は、ガイドラインや行政指令の背後に埋没した。

科学を取り戻すとは、自由を取り戻すこと

パンデミックという極限状況は、「科学的客観性」の仮面がいかに脆いかを暴いた。科学は政治的・経済的利害の影響をこの上なく受けやすい構造を持ち、しかも「科学に従え」という形で新たな信仰体系にまで昇華された。

医療は本来、個の身体と心に向き合う行為であり、その価値は「群としての平均」ではなく、「一人としての回復」によって測られるべきである。

EBMが再生するには、「証拠の信仰」を脱し、「人間の文脈」を取り戻す必要がある。なぜなら、真の医学とは――人を治すことそのものであって、人を管理することではないからだ。

7. 医学は科学ではない:失われた実践知

医学の技術は、科学と芸術の間にあるのではなく、実践的推論の領域にある。

— キャサリン・モンゴメリー、医学人類学者

ある若い医師が、ベテラン医師の回診に同行した。患者のカルテと検査データを確認し、治療方針を提案する。するとベテラン医師はこう言う。「データは確かにそう示しているが、この患者は違う気がする」

若い医師は戸惑う。「でも、ガイドラインではこうなっています

ベテラン医師は答える。「ガイドラインは出発点だ。しかし、目の前にいるのは統計ではなく、人間だ」

医師で医学人類学者のキャサリン・モンゴメリー(Kathryn Montgomery)は2006年の著書『How Doctors Think(医師はどのように考えるか)』で、医学は科学でも芸術でもなく、古代ギリシャの哲学者アリストテレスが「フロネシス」と呼んだ実践的推論の領域だと論じた。

キャサリン・モンゴメリー

アリストテレスは、三つの知的徳を区別した。

エピステーメー:普遍的真理についての理論的知識。たとえば数学や物理学。医療では解剖学や生理学などの基礎医学。

テクネー:制作の技術的知識。決まった手順に従う技能。医療では手術手技や検査技術。

フロネシス:実践的状況における賢明な判断。不確実性、個別性、変化に満ちた状況で最善の行動を見出す能力。医療では個々の患者に最適な治療を判断する臨床的知恵。

科学はエピステーメーを追求し、工学や技術はテクネーを用いる。しかし、医学の核心はフロネシスだ。なぜなら、医学は決まった答えのない状況で、患者の善のために何をすべきかを判断する活動だからだ。

たとえば、二人の患者が同じ病気、同じ検査データ、同じ年齢だとしよう。教科書的には同じ治療をすべきだ。しかし、一人は活動的で仕事を続けたい人、もう一人は静かに過ごしたい人だとしたら? これらの違いは統計には現れない。しかし、治療方針を決める上で決定的に重要だ。

EBMは、このフロネシスをアルゴリズムで置き換えようとする。

医師ジェローム・グループマン(Jerome Groopman)の『How Doctors Think』は、EBMが医師の思考に与える影響を描いている。

https://alzhacker.com/how-doctors-think/

「毎朝回診が始まると、学生とレジデントがアルゴリズムに目を向け、最近の研究から統計を引用するのを見た。私は、次世代の医師が、厳格な枠組みの中で動作するコンピューターのように機能するように条件づけられていると結論づけた」

臨床アルゴリズムは、ありふれた診断と治療には役立つかもしれない。しかし、症状が曖昧である場合、複数の問題が絡んでいる場合、検査結果が不正確な場合には、急速に崩壊する。そのような場合、私たちが最も優れた医師を必要とする状況において、アルゴリズムは医師が独立して創造的に考えることを妨げる。

フロネシスの視点から見れば、医学教育の目標は、ガイドラインに従う能力ではなく、複雑で曖昧な状況において賢明な判断を下す能力を育成することであるべきだ。しかし、EBMはこの訓練を短絡させる。若い医師たちは、状況を解釈し判断することを学ぶのではなく、ガイドラインを参照し適用することを学ぶ。これは、医師を思考する実践者から、プロトコルを実行するシステムオペーレーターへと変える。

フロネシスの復権は、EBMを完全に拒絶することを意味しない。科学的証拠は実践的判断の一つの要素だ。しかし、証拠は判断の出発点であり、終点ではない。医師は、証拠を患者の文脈に統合し、不確実性を認め、倫理的配慮を行い、患者と対話しながら、最善の行動方針を見出す必要がある。

企業科学を「科学」と勘違いする悲劇

科学は自由な探究の精神から生まれる。企業の利益に縛られたとき、それは科学であることをやめる。

— リチャード・レウォンティン、遺伝学者・進化生物学者

ロジャース博士は、記事の結論部で、痛烈な総括を提示する。

どんな成功したマーケティングでもそうだが、言葉そのものは心地よい。「エビデンス・ベースド・メディスン」。しかし、過去30年間にわたって実践されてきた実際のプログラムは、企業的であり、捕獲されており、医学における本質的な議論を踏みにじり、致命的な似非科学を金字塔として推進している。

考えてみてほしい。過去30年間の最大のヒット薬には、ワクチン、SSRI(抗うつ薬)やその他の精神薬、スタチン(コレステロール低下薬)が含まれる。これらはすべてEBMの基準を用いて認可された。しかし、現実世界において、利益が害を上回ることが示されたものは一つもない

EBMの成立は、一見すれば合理化の勝利だった。だが実態としては、「疑う力」を奪った。EBMは、標準的西洋医学を見せかけだけの村に変えてしまった。美しい外観の背後には、実質的なものがほとんどない。

患者もまた、この構造の中で無力化される。「エビデンスが示している」という言葉は、議論を終わらせる呪文となる。患者が自分の経験や直感に基づいて異なる選択を望んでも、「科学的根拠がない」として却下される。

しかし、前回と今回の記事で見てきたように、この「科学的根拠」は、中立的でも客観的でもない。それは、資金提供者の利益、研究者のキャリア、規制当局の判断、出版システムのバイアス、検閲のメカニズムといった、複雑な権力関係の中で生産される。コロナパンデミックはそれを可視化したに過ぎない。

EBMの歴史は、ギリシャ悲劇のように読める。一群の聡明で、善意の人々が、医療を良くしようと組織化した。しばらくはうまくいった。しかし、傲慢、貪欲、権力、腐敗が乗っ取った。疫学者は新たな聖職者階級となり、科学を独断主義に置き換えた。一度解き放たれると、EBMは暴走列車となった。今では、それを救うという名目で、患者を積極的に害し、医学を破壊している。

ロジャース博士は、代替案を提示する。

私たちは、EBMの祭壇で尊厳、常識、合理的能力を犠牲にする必要はない。仕組まれたRCTは証拠ではない。企業科学は科学ではない。

私たちは古い方法に戻る必要がある。医師が再び医師であることを許さなければならない。証拠、経験、直感、つまりアリストテレスが教え、モンゴメリーが思い出させてくれるフロネシスに依拠して。そして、親が再び親であることを許さなければならない。

個人の主権と責任は、医学と社会の基盤だ。遠く離れた象牙の塔にいる、利益相反を抱えた疫学者は、一人の人間にとって何が最善かを知らない。

企業EBMの時代は終わり、医学の未来は、分散化された、一人ひとりに合わせた、非企業的、非政府的、人から人への、直接的な医療、証拠の全体性、品位、人生経験、対話、個人の価値観に基づくものだ。

この結論は、過激に聞こえるだろうか。しかし、前回と今回の記事で検討した10の実践的批判と今回の7つの哲学的批判、そしてコロナ禍で見てきたことを考えれば、EBMが当初の理想から逸脱し、権力と利益に奉仕するシステムへと変質したことは明らかだ。

しかし、この認識は、絶望ではなく、解放をもたらす。なぜなら、システムの構造を理解することは、それを変える可能性を開くからだ。そして、変化は、すでに始まっている。

あなたが次に医師から「エビデンスではこうです」と言われたとき、立ち止まって考えてほしい。その背後にある権力構造、哲学的前提、利益相反、そして何よりも、あなた自身の経験と価値観を。

医療における意思決定は、あなた自身のものだ。統計の平均ではなく、あなた自身が、あなたの健康の最も重要な証拠なのだから。

参考文献

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