「子供のため」を改めて考える 子育て 学級経営
かつて、10年ほど前のことです。
同じ年代の同僚から、家庭のことを相談(愚痴)されました。
彼曰く
退勤したとき、乗る電車の時刻を妻に聞かれるんです。
そこから逆算して、自分が家に着く頃に、
焼きたての、一番美味しいタイミングで餃子が出来上がるようにしてくれるんです。
妻の努力や思いやりはとてもよくわかるしありがたいんですが、
電車を前後に1本ずらしたり、
駅前のコンビニに少し立ち寄るくらいの時間的余裕というか、
心の余裕がほしいというか・・・。
でも、それをいったら、妻になんと言われるか分からなくて。
というより、すごくがっかりさせるかブチ切れさせるかかなと思うんです。
これが愚痴ではなく相談だという雰囲気だったので、
その場で何か言ったのですけど、内容はあまり覚えていません。
大した、気の利いたことは言えなかったでしょう。
今なら何て答えるだろうかと考えながら、
今回のトピックにしました。
思いやりは誰のため
思いやり。
優しさ。
これらは、誰のためのものなのか。
もちろん、相手のためです。
でも、この「相手のため」とは、とても厄介(難しい)で、
何が、どのようなことが相手のためになるかは、
その人にならない限り、わからないものです。
もっとえいば、当の本人でも、自分は何を求めているのかがよくわかっていないことも少なくないほどです。
そのような中で、「相手のため」を想像して行うことは、
相手のためになっていない場合があります。
相手のためになっているかどうかは、
相手の反応によってのみ知り得ることができます。
そしてその相手の反応は、
忖度や遠慮を帯びたものである場合がほとんどなので、
相手の反応からもなかなか分かりません。
確かめようがないことですが、
ただ間違いないのは、
思いやりや優しさは、
相手のためのもの
であるということです。
相手のためになっていない思いやりや優しさ
餃子の話題に戻ると、
その同僚は、奥様の「気遣い」によって、追い込まれていたというのが実際でした。
ただ、奥様の実際の言動の根底には思いやりや優しさがあることを理解しているため、
より一層、意見を言いづらかったことから、
奥様は、
私の思いやりや優しさは、夫に届き、響いている
と思い込むようになりました。
きっと、そんな自分を自分で褒めてあげたい気持ちや充実感でいっぱいだったことでしょう。
少し離れたところから客観的にこう述べると、
どこか意地悪に響いてしまいますが。
こういう姿勢を自己満足というのでしょう。
個人的に、自己満足とは、決して悪い言葉とは思っていません。
何をしても、自分が満足(納得)できないような行いは、
あまりやらない方がいいことが多いように思っているからです。
ただ、この自己満足という言葉は、
多くの場合、
満足しているのは自分だけで、
周りは迷惑
という形であるため、あまりいい意味の言葉としては使われません。
ジコマン
という略語で使われればなおのことです。
そして、本人がジコマンに浸っていることが分かると、
周囲の人は、きつく、厳しい人でない限り、
そっとしておいた方がいい考え、
そのまま放置してしまうのです。
ジコマンに気づいたとき
しばらくジコマンに浸り、悦に入っていた時期から、
何かしらのきっかけで「ハッと」気づくとき、
本人は言いようのない怒り、羞恥心に駆られます。
なんで言ってくれなかったの?!
自分だけがバカみたいじゃない!
餃子の件も、こうなったようです。
同僚は、勇気を出して奥様に告げたらしいです。
できるだけ奥様のそれまでの努力や配慮を認め、感謝の言葉を並べた上で、
本当に自分が思っていることを告げたら、
なんで言ってくれなかったの?!
自分だけがバカみたいじゃない!
と言われ、
次の日からしばらく、
家事を放棄したらしいです。
相手を知ることの大切さ
自分を含めて、人は、人のことを理解できていません。
自分の行動様式でさえよく理解できていないところ、
他人の思いなど、もっと理解に難しいはずなのです。
それでも、
誰かのためになりたいという思いは、
心の底に誰もがもちあわせていることでしょう。
となれば、
その思いが、本当に「誰か」のためになっているかどうかが重要になります。
これは、
相手を知るということから始まります。
相手を知ろうとする姿勢から始まります。
では、どうすれば相手をよく知ることができるだろうかと、
方法を練ることから始まります。
これらをまとめて、相手に対する興味と言えるかもしれません。
自分ではありません。
相手に対する興味です。
相手を知るための対話
相手を知るためには、聞くしかありません。
色々聞くことです。
耳を傾けることです。
ただ、人間が本音を語るときとは、限られています。
基本的にみな、「外面(そとづら)」をもっています。
家族に対してであってもそうです。
その外面が剥がれるときとは、
安心感があるとき
感情がむき出しになるとき
でしょうか。
であれば、前者の方がよほどよい機会、タイミングとなります。
相手を知るためには、
内面に迫った対話が必要です。
内面に迫った対話は、安心感が確保されている場面でこそ生まれます。
これを言っても相手は怒らない。
感情的にならない。
叱られない。
説教してこない。
こういった感覚が確保されているとき、安心感を覚えます。
児童理解に基づいた学級経営 子育て
さて、ここまで述べてきた内容は、
同僚とその奥様の間にあった出来事を例としてきましたが、
これは、先生にとってのクラスの子供たち。
親にとっての我が子。
この関係に、そのまま当てはまるものだと思います。
子供のため
この言葉は、私は大好きであり、とても苦手な言葉です。
本来、とても素敵な言葉であり姿勢なはずなのですが、
多くの場合、
ジコマンの正当性を押し通すための武器として使われる言葉になってしまっているからです。
子供のためを思って・・・
叱りつけた
居残り勉強をさせた
学校での失敗や過ちを保護者に連絡して伝えた
塾に通わせた
たくさんの習い事をさせた
海外旅行に連れて行った
高い洋服を買ってあげた
スマホやタブレットを買い与えた
それらは、本当に子供のためになっているのでしょうか。
同僚にとってのあつあつの餃子になっていないでしょうか。
子供に、確かめたことがあるでしょうか。
言葉だけでなく、忖度や遠慮の裏にある、
子供の本当の心に視点を当てているでしょうか。
とうに忘れてしまった幼心をよそに、
大人の基準で判断していませんでしょうか。
塾づけで目の下にクマを作り、
授業中に机に突っ伏してしまう子。
就寝時刻は毎日23時を過ぎるらしいです。
学校では毎日、気分が悪くなり保健室に通うような様子を親に伝え、
塾のペースについて検討の余地がないかと問うと、
子供が自分でやりたいと言い始めたことですから
私はいつでもやめていいと言っていますから
今辛くとも、子供の将来のためですから
担任による厳しい叱責を繰り返され、
学校生活の様子がみるみるうちに暗く、荒んでいく子。
関わり方について、検討の余地がないかと担任に問うと、
いい悪いが分からない子になってしまいますから
基礎学力が定着してないと、将来のためになりませんから
周りの子に迷惑をかけていますから
本当にそうなのですか?
当の子供はなんと言っていますか?
発する言葉の裏、心の奥底に、どんな思いが秘められていそうですか?
自分の行いがジコマンだと知り、
それが、相手を、子供を追い詰め、
傷つけていることだったとしたら、
なんで言ってくれなかったの?!
自分だけがバカみたいじゃない!
となってしまう自分の姿を想像できますか。
いや、全くそんなことはない、と言い切れそうですか。
相手のため
子供のため
これらは、思っている以上に難しく、
大切であり、
美しくあり、
高尚なことです。
そこに、児童理解、学級経営、子育ての重要な鍵がありそうです。
