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村上 春樹「走ることについて語るときに僕の語ること」を小学生でも分かるように説明します(本・書籍)勝つべき相手は、昨日の自分


走ることについて語るときに僕の語ること

著者 村上 春樹





走ることと小説を書くことの不思議なつながり。

村上春樹さんという人は、世界中の人々に読まれる素晴らしい小説をたくさん書いている小説家です。

しかし、それと同時に、毎日欠かさず走り続け、毎年フルマラソンに出場し、さらには水泳と自転車と走ることを組み合わせたトライアスロンにも挑戦する本物のランナーでもあります。

この本は、「さあ、みんなで毎日走って健康になりましょう」と呼びかけるような本ではありません。

村上さんという一人の人間にとって、走り続けることが一体どのような意味を持っていたのか、そしてそれが小説を書くこととどう繋がっているのかを、深く見つめ直した記録です。

本の中で村上さんは、あるマラソンランナーが走りながら頭の中で繰り返している言葉を紹介しています。

それは英語で「痛みは避けがたいが、苦しみは自分次第」という意味の言葉です。

長い距離を走っていれば、足が痛くなったり、息が苦しくなったりするのは当たり前のことで、誰にも避けることはできません。

しかし、「ああ、きつい。もうだめだ」と諦めて苦しむかどうかは、自分の心が決めることです。

きついのは事実でも、そこで立ち止まるか、それとも前に進み続けるかは、自分自身で選ぶことができるのです。

これは、マラソンだけでなく、みなさんの毎日の勉強やスポーツ、これから先の人生にも当てはまる、とても大切な考え方です。

村上さんは、走ることを通じて、この「苦しみは自分次第」ということを体で学び、それを小説を書くための力に変えてきました。


小説家になるまでの道と、走り始めたきっかけ。

村上さんは、子どもの頃から小説家になりたかったわけではありません。

大学を出たあとの20代の頃は、朝から晩まで働くジャズクラブの経営者でした。

お店でコーヒーを出したり、料理を作ったり、夜遅くまで接客をしたりして、借金を返すために必死に働いていました。

そんなある日、人生を変える出来事が起こります。

村上さんが29歳だった1978年の4月のことです。

よく晴れた気持ちの良い春の日に、村上さんは神宮球場の外野席の芝生に寝転んで、大好きなヤクルトスワローズの野球の試合を見ていました。

そして、アメリカからやってきたばかりの若い選手が、鋭い音を立ててヒットを打ったその瞬間のことです。

空から何かが静かに舞い降りてきて、それを自分は確かに受け取った、と村上さんは感じました。

そして突然、「そうだ、小説を書いてみよう」と思い立ったのです。

家に帰ってすぐ、文房具屋で万年筆と原稿用紙を買い、お店の仕事が終わったあとの夜中に、台所のテーブルでコツコツと小説を書き始めました。

その小説が見事に新人賞を受賞し、村上さんは小説家としてデビューすることになります。

その後、もっと大きくて深い物語を書くために、村上さんは経営していたお店を閉めて、小説を書くことだけに集中する生活を選びました。

しかし、ここで大きな問題にぶつかります。

毎日机の前に座って原稿を書く生活をしていると、体力が落ちて太ってきてしまったのです。

おまけに当時は、タバコを1日に60本も吸っていました。

これでは長く小説家を続けることはできないと考えた村上さんは、タバコをきっぱりとやめ、体力をつけるために毎日走ることを決心しました。

走ることは、特別な道具もいらず、相手も必要なく、一人で家の近所の道路でできるからです。

最初は20分か30分走るだけで息が上がり、心臓がドキドキして足がふらついていました。

しかし、毎日少しずつ続けていくうちに、体は走ることに慣れ、やがてフルマラソンを走れるような立派なランナーへと成長していったのです。


毎日走ることの意味と、体との対話。

村上さんは、日本の東京や神奈川県、アメリカのボストン、ハワイの島など、世界中のどこに住んでいても、毎日走ることを欠かしません。

目標は、週に60キロを走ることです。

つまり、1日平均10キロを走る計算になります。

雨の日も、仕事が忙しい日も、できる限り走り続けています。

よく「走っている間、一体何を考えているのですか」と聞かれるそうですが、村上さんの答えは「ほとんど何も考えていない」というものです。

走りながら、昔の出来事を思い出したり、天気のことを考えたりすることはあっても、基本的には頭の中を空っぽにするために走っています。

色々な考えが頭に浮かんできても、それは空に浮かぶ雲のようなもので、やってきては過ぎ去っていきます。

大切なのは、雲が通り過ぎたあとに残る広い「空」そのものを感じることなのです。

一人で黙々と走り、誰とも話さず、自分だけの静かな時間を持つことが、村上さんの心を守る大切な役割を果たしています。

また、毎日走ることは「自分の体との対話」でもあります。

村上さんは、人間の筋肉はとても真面目で覚えの良い動物のようだと言います。

毎日少しずつ負担をかけて、「これだけの仕事をしてくれ」と頼み続ければ、筋肉は文句を言わずに力をつけ、長い距離を走れるようになります。

しかし、数日間休んでしまうと、筋肉は「ああ、もう頑張らなくていいんだな」と勝手に判断して、せっかく覚えた力を忘れてしまいます。

だからこそ、休まずに継続して筋肉にメッセージを送り続けることが大切なのですが、同時に無理をしすぎて体を壊さないように、慎重に様子を見る必要もあります。

走ることで体重も適正になり、食事の好みも野菜や魚を中心とした健康的なものに変わっていきました。

村上さんは生まれつき、何もしないと太ってしまう体質でした。

しかし、太りやすいからこそ、太らないために毎日ハードに運動し、食事に気をつけなければなりません。

その結果として、病気一つしない頑丈な体と健康を手に入れることができたのです。

一見すると不公平で面倒な体質も、実は天から与えられた幸運なのだと、村上さんは前向きに考えています。


フルマラソンや100キロマラソンでの苦しい経験。

村上さんは走り始めてから、毎年1回はフルマラソンに出場するという生活を続けています。

これまでに世界各地で数え切れないほどのレースを走ってきましたが、その中にはとても過酷で苦しい経験もたくさんありました。

初めて42キロという距離を走ったのは、ギリシャの夏の太陽の下でした。

マラソンの語源となった「マラトン」という町からアテネまでのコースを、たった一人で走るという企画でした。

真夏のギリシャは、地元の人も昼間は外に出ないほど信じられないくらい暑い場所です。

交通規制もない産業道路で、大型トラックがすぐ横を猛スピードで通り過ぎていきます。

道端には車にひかれた犬や猫の死骸が転がり、容赦ない日差しが照りつけました。

汗は流れる前にすぐに乾いてしまい、体中が塩だらけになって、唇をなめると塩辛い魚のような味がしたそうです。

それでも、途中で車から水をもらいながら、村上さんは見事に走り切りました。

この過酷な経験が、ランナーとしての強い土台になりました。

しかし、いつも成功するわけではありません。

ある冬の千葉県でのマラソンでは、ひどい失敗を経験しました。

練習量が足りていなかったことと、油断があったせいで、30キロを過ぎたあたりで足の筋肉が激しく痙攣してしまい、まったく走れなくなってしまったのです。

最後は足を引きずりながら、凍えるような寒さの中をとぼとぼと歩いてゴールしました。

プライドは傷つき、情けない思いをしましたが、この失敗から「二度とこんな思いはしたくない。

次はしっかりと準備をして挑もう」と深く反省し、学びを得ることができました。

さらに壮絶だったのは、北海道のサロマ湖で行われた100キロの「ウルトラマラソン」に挑戦した時のことです。

朝から夕方まで、11時間以上も走り続けるという想像を絶するレースです。

55キロを過ぎたあたりから、体中のあちこちが痛くなり、まるで体がバラバラになってしまうかのような苦しみに襲われました。

右足が痛くなり、それが左足に移り、体のあらゆる部分が順番に悲鳴を上げていきます。

村上さんは、痛みを訴える筋肉たちを励まし、叱りつけながら走りました。

そして、苦しみに耐えるために「自分は血の通った人間ではない。ただ前に進むだけの機械なのだ」と自分に言い聞かせ、3メートル先だけを見て無心で足を動かし続けました。

すると、75キロを過ぎたあたりで、突然「石の壁を通り抜けた」ような不思議な感覚に包まれました。

肉体的な苦痛が消え去り、何も考えなくても体が自動的に前に進むようになったのです。

夕暮れの美しい風景の中、ただ静かな呼吸の音だけを聞きながら走っていると、自分が自然の一部になったような深い幸福感を感じました。

ゴールした時の気持ちは、喜びというよりも、無事に生き延びたという深い安堵感でした。

このように、自分の限界の向こう側にある未知の世界を体験できるのも、長い距離を走ることの特別な意味なのです。


新しい挑戦と、年をとることの受け入れ方。

村上さんは、走るだけでなく、水泳と自転車とランニングを連続して行う「トライアスロン」というさらに過酷な競技にも挑戦するようになります。

しかし、ここでも多くの壁にぶつかりました。

水泳の部門では、海の中でたくさんの選手と一緒にスタートする際、他の人に蹴られたりぶつかったりしたショックと、レース前の緊張のせいで過呼吸になってしまいました。

うまく息ができず、顔を水につけるのが怖くなり、パニックを起こして途中で棄権してしまったのです。

とても悔しかった村上さんは、時間をかけて水泳のコーチにつき、一から自分の泳ぎ方のフォームをやり直すことにしました。

コーチの教え方は、すぐに正しいフォームを教えるのではなく、わざと変な泳ぎ方をさせて特定の体の動かし方だけを練習させるという、とても退屈で時間のかかるものでした。

しかし、言われた通りにコツコツと練習を続けていくうちに、やがてすべての動きがひとつに繋がり、前よりもずっと綺麗で無駄のない泳ぎ方ができるようになったのです。

そして、見事にトライアスロンのレースでリベンジを果たすことができました。

自転車の練習も、大変な恐怖と戦いながら行われました。

強い向かい風の中、空気の抵抗を減らすために体を深く前に倒し、首を上げて前を見続けるという不自然な姿勢を何時間も保たなければなりません。

首や背中の筋肉が悲鳴を上げます。

一度は、疲れから少しだけ注意がそれた瞬間に、道路の鉄の杭に激突して宙を舞い、大けがをしそうになったこともありました。

そうした恐怖と痛みを乗り越えながら、村上さんは新しい競技の技術を身につけていきました。

しかし、どれだけ努力して練習を積んでも、年齢を重ねるにつれて、若い頃のような速いタイムは出なくなってきます。

タイムが落ちていくことに、最初はとてもショックを受け、走ることへの情熱が冷めてしまう「ランナーズ・ブルー」という状態に陥ったこともありました。

しかし、村上さんは次第にその事実を受け入れるようになります。

人間は誰でも年をとり、体力は落ちていくものです。

タイムや順位といった目に見える数字よりも、最後まで全力を尽くして走り切れたか、自分自身がその過程を楽しむことができたかという、目に見えない価値の方がずっと大切だということに気がついたのです。


走ることから学んだ、人生と小説の書き方。

村上さんは、「自分が小説を書くための方法の多くは、毎朝道路を走ることから学んだ」と語っています。

小説家にとって一番重要なものは、もちろん「才能」です。

しかし、才能というのは自分でコントロールすることができません。

泉のように湧き出ることもあれば、突然枯れてしまうこともあります。

長く職業として小説を書き続けるために、才能の次に必要なものは「集中力」と「持続力」です。

毎日決まった時間に机の前に座り、数時間、ほかのことは一切考えずに自分の書いている物語だけに意識を集中させる力。

そして、それを半年も1年も、さらには何十年も継続して維持する力です。

この集中力と持続力は、生まれつきのものではなく、後から訓練によって身につけることができます。

村上さんは、毎日ジョギングをして限界を少しずつ押し上げていくのと同じように、毎日机に向かって書き続けることで、小説家として必要な力を鍛え上げてきました。

多くの人は、小説を書くことを頭の中だけで行う静かな仕事だと思っています。

しかし村上さんは、長編小説を書くことは「肉体労働」に近いと考えています。

物語を生み出し、正しい言葉を選び続ける作業は、全身のエネルギーを大量に消費する、骨身を削るような労働なのです。

さらに、小説を書くということは、人間の心の中にある暗い部分や「毒」のようなものと向き合う作業でもあります。

その毒を安全に扱い、強い物語を作るためには、それに負けないだけの強い免疫力と健康な肉体が必要です。

「不健康なものを深く見つめるためには、できるだけ健康な体を持っていなければならない」というのが村上さんの考え方です。

だからこそ、体力づくりとして走り続けることが、小説家としての仕事そのものを支えているのです。


最後まで歩かないという誇り。

最後に、村上さんがなぜこれほどまでに走り続けるのか、その本当の理由について考えてみましょう。

「そんなに苦しい思いをして走って、長生きしたいのですか」とからかう人もいるそうです。

しかし、村上さんは長生きするために走っているわけではありません。

長く生きることよりも、生きている今の時間を「しっかりと目的を持って、生き生きと過ごすこと」が大切だと考えています。

自分の限界の中で、少しでも自分自身を有効に燃やし尽くすこと。

それが走ることの本来の意味なのです。

人生には、思い通りにいかないことや、理不尽なことがたくさんあります。

どれだけ努力しても結果が出ないこともあります。

村上さんも、一生懸命に練習したのにレースで痙攣してしまい、悔しい思いをしたことが何度もありました。

しかし、他人と勝負して勝つことや、良いタイムを出すことよりも、自分で設定した目標をクリアし、最後まで投げ出さずにやり遂げたという事実の方が大切です。

小さな穴の空いた鍋に水を注ぐような、一見すると無駄に見える努力であっても、そこに向き合った経験は必ず自分の中に残ります。

村上さんは、もし自分が死んでお墓を建てるとき、墓石に刻む言葉を自分で選べるなら、次のように書いてほしいと願っています。

「村上春樹 作家(そしてランナー) 少なくとも最後まで歩かなかった」タイムがどんなに遅くなっても、どれだけ年をとっても、途中で諦めて歩くことだけはしない。

最後まで自分の足で走り抜く。

それこそが、村上春樹さんが人生において一番大切にしている誇りなのです。

みなさんも大人になっていく中で、大変なことや苦しいこと、逃げ出したくなるようなことにたくさん出会うでしょう。

そんなときは、他人と比べて落ち込むのではなく、自分自身と向き合ってみてください。

そして、どんなに時間がかかってもいいから、自分の決めた道を、自分の足で最後まで歩かずに進み続けてほしいと思います。

村上春樹さんの走る姿と言葉は、きっとみなさんの背中を力強く押してくれるはずです。


★付録その1★音声考察★走ることは肉体労働か防衛機制か?



★付録その2★大人向け論文★


走ることを通して考える生き方と創作の関係

――継続、孤独、年齢、自己との競争を中心に――

要旨

本稿では、走ることを長く続けてきた一人の作家の経験をもとに、ランニングが単なる健康法ではなく、生き方や仕事の進め方、心の保ち方と深く関わる行為であることを考察します。本書で語られる走ることは、速さや勝敗だけを目的にしたものではありません。

むしろ、自分で決めた基準を守り、昨日の自分を少しだけ越えようとする、静かな努力の積み重ねとして示されています。そこには、長編小説を書くことと長距離を走ることの共通点、孤独を受け入れる姿勢、年齢による変化との向き合い方、苦しみをどう受け止めるかという問題が含まれています。

また、本書では、走ることが精神の空白を作る時間であり、自分の弱さを知る時間でもあることが語られます。人は他人と比べることでなく、自分の内部にある基準に従って生きることによって、確かな手応えを得ることができます。ランニングはそのための実践の場です。

走ることは体を鍛えるだけでなく、生活を整え、仕事を支え、心の傷や孤独を別の形に変えていく働きを持っています。本稿は、そのような走ることの意味を、できるだけ分かりやすく整理し、論文形式で再構築するものです。

序論

走ることは、誰にでもできる単純な行為に見えます。特別な道具がなくても、靴を履いて外に出れば始めることができます。しかし、長い年月にわたって走り続けるとなると、それは単なる運動ではなくなります。毎日、あるいは定期的に走ることは、生活のリズムを作り、体と心の状態を映し出し、自分という人間を見つめ直す機会になります。

本書で描かれているランニングは、健康になるための方法としてだけ語られているわけではありません。もちろん、走ることで体重が減ったり、体力がついたり、体の調子が整ったりする面はあります。しかし、中心にあるのは、走ることを通して自分がどのように生きてきたか、どのように仕事を続けてきたか、そして年齢や限界とどう向き合ってきたかという問題です。

ここで重要なのは、走ることが「自分との関係」を深める行為だという点です。長距離を走るとき、他人に勝つことだけが大切なのではありません。むしろ、自分が決めた距離を走れるか、自分が決めた目標に近づけるか、最後まであきらめずに進めるかが大切になります。この考え方は、小説を書く仕事にもつながっています。小説家にとっても、本当に大事なのは他人からの評価だけではなく、自分が納得できるものを書けたかどうかです。

本稿では、まず走ることと生活の関係を整理し、次に走ることと創作の関係を考えます。そのうえで、孤独、年齢、苦しみ、自己基準という観点から、本書に示された考え方をまとめます。

第一章 走ることは健康法ではなく、自己理解の方法です

本書の出発点には、走ることについて語ることへの少しの照れがあります。自分の健康法を人前で語ることには、どこか気恥ずかしさがあります。しかし、本書で扱われているのは、走れば健康になるという単純な主張ではありません。走ることが一人の人間にとってどのような意味を持ってきたかを考える試みです。

走ることは、とても個人的な行為です。誰かに命令されて走るのではなく、自分で走ると決め、自分の体を動かし、自分の呼吸を聞きながら進んでいきます。長く走るほど、体は正直に反応します。疲れていれば足が重くなり、練習を積めば少しずつ距離を伸ばせるようになります。つまり、走ることは、自分の状態を隠さずに見せてくれる鏡のようなものです。

また、走ることには日々の継続が必要です。一度だけ長い距離を走ることよりも、何日も、何か月も、何年も走り続けることの方が難しい場合があります。続けるためには、無理をしすぎず、しかし怠けすぎず、自分の生活の中に走る時間を置き続けなければなりません。この姿勢は、長い仕事や人生そのものにも通じます。

本書では、走ることを通して学んだことが、立派な哲学として語られるのではなく、体を動かしながら少しずつ身につけた経験として示されています。そこにあるのは、大きな理論ではありません。実際に道を走り、汗をかき、疲れ、また翌日も走るという、地道な経験から得られた考え方です。

第二章 継続はリズムを守ることから生まれます

長距離を走るうえで大切なのは、リズムを作り、それを壊さないことです。走れる日に一気に走りすぎてしまうと、次の日に疲れが残り、続けることが難しくなります。反対に、少し余力を残して終えると、翌日もまた走り出しやすくなります。

この考え方は、長編小説を書く方法にも似ています。まだ書けると思うところであえて止めておくと、次の日に入りやすくなります。走ることも書くことも、一日で完結するものではありません。長い時間をかけて積み上げていく作業です。だからこそ、その日の限界まで使い切るより、次の日につながる形で終えることが大切になります。

本書では、一定の距離を走ることが生活の柱になっています。たとえば、一週間に何キロ走るか、一か月にどれくらい走るかという目安があり、その数字をもとに自分の状態を確かめています。数字は単なる記録ではありません。自分がどれだけ真剣に取り組んでいるかを知るための物差しです。

ただし、数字に支配されているわけではありません。天気が悪い日もあれば、仕事が忙しい日もあります。疲れて走りたくない日もあります。だからこそ、休む日をあらかじめ考えておくことも必要です。続けるためには、厳しさだけでなく柔軟さも必要です。無理をしすぎると続かず、ゆるみすぎると形が崩れます。その間のちょうどよい場所を見つけることが、長く走るための知恵です。

第三章 走ることと小説を書くことは似ています

本書で特に重要なのは、走ることと小説を書くことが重ねて考えられている点です。小説を書く仕事には、集中力と持続力が必要です。ひらめきだけで長い作品を書き上げることはできません。毎日机に向かい、少しずつ書き進め、直し、また書くという作業を続けなければなりません。

ランニングも同じです。走る才能があるかどうかよりも、走ることを続けられるかどうかが重要になります。もちろん、速く走れる人や体力に恵まれた人もいます。しかし、長く走り続けるには、日々の地道な練習が必要です。才能だけではなく、生活の中でそれを支える力が問われます。

小説家として生きていくためにも、同じような力が必要です。書きたい気持ちがあるだけでは足りません。書き続けるための体力、生活を整える力、孤独に耐える力、自分の基準を守る力が必要です。本書では、走ることがそれらの力を育てるための重要な習慣として描かれています。

特に、長距離走と小説を書くことには、外からは見えにくい共通点があります。どちらも、一見すると静かな作業です。走っている人はただ道を進んでいるように見えますし、作家は机に向かっているだけのように見えます。しかし、その内側では、体と心を使った長い戦いが続いています。疲れ、迷い、退屈、不安、痛みを抱えながら、それでも前へ進む必要があります。

このように考えると、走ることは小説を書くための比喩であるだけでなく、実際に小説を書く生活を支える訓練でもあります。走ることで体を整え、心を整え、自分の中の基準を確認する。その積み重ねが、書く仕事にも深く関係しているのです。

第四章 勝つべき相手は他人ではなく過去の自分です

本書では、他人との勝ち負けにあまり重きを置かない姿勢がはっきり示されています。スポーツには普通、勝敗があります。誰かより速く走る、誰かに勝つ、順位を上げるという目標もあります。しかし、市民ランナーにとって、それだけが走る意味ではありません。

長距離を走る人にとって本当に大切なのは、自分が決めた目標にどこまで近づけたかです。前回よりよい走りができたか、苦しい場面で投げ出さなかったか、最後まで自分の力を出せたか。そうしたことの方が、他人に勝ったかどうかよりも大きな意味を持ちます。

この考え方は、仕事や人生にもあてはまります。人はつい他人と比べてしまいます。誰かの成功を見て焦ったり、評価の差に落ち込んだりすることがあります。しかし、他人と自分は同じ条件で生きているわけではありません。持っている性格も、環境も、目標も違います。だから、他人を基準にしすぎると、自分の進む道を見失ってしまいます。

本書で示される基準は、「昨日の自分を少しでも越えること」です。これは派手な考えではありません。しかし、とても強い考え方です。大きな成功を一気に手に入れるのではなく、毎日少しずつ自分を高めていく。その小さな積み重ねが、長い時間の中で大きな意味を持ちます。

小説を書くことにも同じことが言えます。売れたかどうか、賞を取ったかどうか、批評されたかどうかは、たしかに一つの目安になります。しかし、それだけが本質ではありません。自分が書こうとしたものにどれだけ近づけたか、自分自身をごまかさずに書けたかが大切です。他人には言い訳ができても、自分の心には言い訳ができません。その厳しさが、走ることにも書くことにも共通しています。

第五章 孤独は弱さであると同時に力にもなります

本書には、ひとりでいることをあまり苦にしない性格が語られています。走ることは基本的に一人で行うものです。もちろん、仲間と走る人もいますが、長距離を走っているときの中心には、自分の体、自分の呼吸、自分の考えがあります。

一人で走る時間は、誰とも話さなくてよい時間です。誰かの言葉に合わせる必要もなく、誰かの期待に応える必要もありません。ただ風景を見て、足を動かし、自分の内側を感じながら進んでいきます。この時間は、精神を保つうえで大切な役割を果たしています。

しかし、孤独はいつも心地よいものではありません。人と違う感じ方をし、人と違う言葉を選び、人と違う道を進もうとすると、誤解されたり、批判されたりすることもあります。そのために心が傷つくこともあります。自分が自分であることは大切な資産ですが、それは同時に痛みをともなうものでもあります。

本書では、その痛みを走ることによって受け止める姿勢が示されています。腹が立ったとき、悔しい思いをしたとき、いつもより少し長く走る。そうすることで、自分の体を疲れさせ、自分が弱い存在であることを体で知る。そして、同時に少しだけ体を強くする。この考え方は、感情を他人にぶつけるのではなく、自分の中で別の形に変えていく方法です。

作家にとって、孤独は避けられないものです。自分だけの物語を書くためには、他人と違うものを見て、違う言葉を選ぶ必要があります。そのためには、ある程度の孤独を引き受けなければなりません。ただし、その孤独に心を壊されないためには、体を動かし、生活を整え、心の中の重さを外に逃がす方法が必要です。走ることは、そのための大切な手段になっています。

第六章 走っているときの心は空に似ています

走っているときに何を考えているのか、という問いがあります。長い時間走ったことのない人にとっては、走っている間ずっと何を考えるのかが不思議に思えるかもしれません。しかし、本書で語られる走る時間は、何かを深く考える時間というよりも、むしろ空白を得る時間です。

もちろん、まったく何も考えないわけではありません。暑い日には暑さを感じ、寒い日には寒さを感じます。昔の出来事を思い出すこともあります。音楽を聴きながら、記憶がよみがえることもあります。ときには小説の小さな発想が浮かぶこともあります。

けれども、それらの考えは中心ではありません。走っている心の中では、考えが雲のように現れ、やがて過ぎ去っていきます。大切なのは雲そのものではなく、その背後に広がる空のような空白です。走ることは、その空白に近づくための行為でもあります。

この空白は、現代の生活の中ではなかなか得にくいものです。人はいつも情報に囲まれ、他人の声を聞き、仕事や用事に追われています。その中で、自分だけの静かな時間を持つことは簡単ではありません。走ることは、その時間を自分の手で作り出す方法です。体を動かしているのに、心は少しずつ静かになっていく。その不思議な感覚が、走ることの大きな意味の一つです。

第七章 年齢による変化は避けられません

本書では、年齢による変化も大きなテーマになっています。若いころには想像できなかった年齢に自分が到達し、体の変化を感じるようになります。以前と同じように練習しても、同じタイムが出なくなる。努力しても結果が伸びない。これは、走る人にとってかなりつらい経験です。

人の体にはピークがあります。どんなに努力しても、年齢による変化を完全に止めることはできません。若いころには自然にできたことが、少しずつ難しくなっていきます。これを認めることは簡単ではありません。自分が衰えていると認めるのは、誰にとっても気持ちのよいことではないからです。

しかし、本書では、その変化をただ否定するのではなく、受け入れながら進む姿勢が示されています。タイムが落ちたからといって、走る意味がなくなるわけではありません。速く走ることだけがランニングの価値ではないからです。走ることには、生活を整えること、自分を見つめること、体と心をつなぎ直すことなど、別の価値があります。

また、年齢を重ねることは初めての経験です。誰も、自分の老いを前もって完全に知っているわけではありません。だから、戸惑うのは当然です。大切なのは、変化をすぐに良い悪いで決めつけるのではなく、そこにあるものを受け入れながら生きることです。空や雲や川をそのまま受け入れるように、自分の年齢もまた受け入れていく必要があります。

第八章 苦しみは避けられないが、どう受け止めるかは選べます

長距離を走れば、必ず苦しい場面があります。足が重くなり、呼吸が乱れ、もうやめたいと思うことがあります。フルマラソンやウルトラマラソンのような長い距離では、その苦しさはさらに強くなります。

本書では、痛みや苦しみについて重要な考え方が示されています。走っているときに体がきついと感じることは避けにくい事実です。しかし、そのきつさをどう受け止めるか、そこでやめるのか、もう少し進むのかは、自分の選択に関わっています。

これは、走ることだけでなく人生にも通じます。生きていれば、思い通りにならないことがあります。批判されることも、失敗することも、努力がすぐには報われないこともあります。その事実を完全になくすことはできません。しかし、それをただ苦しみとして抱え込むのか、自分を少し鍛える材料に変えるのかは、自分の姿勢によって変わります。

もちろん、これは無理をすれば何でも乗り越えられるという意味ではありません。体にも心にも限界があります。大切なのは、苦しみをただ敵として見るのではなく、自分を知るための経験として受け止めることです。走ることは、その練習になります。苦しいときに自分がどう反応するかを知ることは、自分という人間を知ることでもあります。

第九章 トライアスロンと新しい挑戦

本書では、ランニングだけでなく、トライアスロンへの挑戦も描かれています。トライアスロンには、走ることに加えて、水泳と自転車があります。もともと走ることに慣れている人でも、水泳や自転車を身につけるには新しい練習が必要です。

これは、年齢を重ねた人間が新しいことを学ぶ姿としても読むことができます。すでに得意なものだけを続けるのではなく、苦手なものや未完成なものに向き合う。水泳のフォームを直し、自転車の技術を覚え、別の筋肉を使う。そうすることで、体は新しい状態に変わっていきます。

ただし、新しい挑戦にはうまくいかないこともあります。準備不足、体調、天候、技術の問題など、さまざまな要素が結果に影響します。それでも挑戦することには意味があります。なぜなら、結果だけでなく、その過程で自分の弱点や可能性を知ることができるからです。

走ることに慣れた人が、別の競技に取り組むことは、自分を別の角度から見直すことでもあります。自分ができると思っていたこと、できないと思っていたこと、その境目が少しずつ変わっていきます。そこには、年齢を理由に立ち止まらず、形を変えながら進んでいく姿勢があります。

第十章 走ることは人生を整える習慣です

本書全体を通して見ると、走ることは単なる趣味ではなく、人生を整える習慣として描かれています。走ることによって、生活にリズムが生まれます。朝起きて仕事をし、走り、食事をし、また仕事をする。その繰り返しの中で、体と心の状態が保たれていきます。

また、走ることは、自分の内側にある余分なものを少しずつ外に出す作業でもあります。怒り、不安、孤独、悔しさ、焦り。そうした感情をそのまま他人にぶつけるのではなく、道の上で汗と一緒に流していく。そして、残ったものを小説という形に変えていく。そこには、感情を創作へ変換する仕組みがあります。

走ることは、自分を特別な人間にするための行為ではありません。むしろ、自分が弱く、限界を持つ普通の人間であることを知るための行為です。だからこそ、走ることには誠実さがあります。体はうそをつきません。練習していなければ走れず、疲れていれば足が止まります。その正直さが、人を現実に戻してくれます。

本書における走ることは、派手な勝利の物語ではありません。静かな継続の物語です。大きな声で自分を語るのではなく、毎日の距離、呼吸、汗、疲れを通して、自分の生き方を少しずつ確かめていく物語です。

結論

本書が示しているのは、走ることが一人の人間の生活、仕事、心、年齢の受け止め方に深く関わっているということです。走ることは健康法としてだけではなく、自己理解の方法であり、創作を支える訓練であり、孤独を整える時間であり、年齢による変化を受け入れるための実践でもあります。

走ることと小説を書くことには、多くの共通点があります。どちらも一日で完成するものではありません。集中力と持続力が必要であり、自分の基準を持たなければ続けられません。他人との勝ち負けよりも、自分が納得できるかどうかが重要です。そして、どちらにも苦しい時間があります。その苦しさを完全になくすことはできませんが、それをどう受け止めるかは自分で選ぶことができます。

また、本書は、年齢を重ねることの難しさも隠さずに示しています。体力は変化し、タイムは落ち、以前できたことができなくなることもあります。しかし、それによって走る意味が失われるわけではありません。走る意味は、速さだけにあるのではなく、走り続ける姿勢そのものにあります。

最終的に、本書で語られる走ることは、「自分として生きること」と結びついています。人と違う感じ方をし、人と違う道を選び、そのために傷つくことがあっても、自分の基準を守って進んでいく。そのために、毎日体を動かし、心を整え、昨日の自分を少しだけ越えようとする。走ることは、その静かな努力を支える行為です。

したがって、本書から読み取れる最も大切な考えは、人生において本当に競うべき相手は他人ではなく、自分自身であるということです。昨日の自分より少しでも前へ進むこと。苦しくても、すぐに投げ出さず、自分の足で進むこと。年齢や孤独や不安を抱えながらも、生活の中にリズムを作り続けること。そこに、走ることの意味があり、同時に生きることの意味もあります。

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