夏暁の花 | 小説②

「最近どう?」
「唐突ですねえ」

 ふかふかのソファに腰掛けるなり、マキちゃん先生は僕に尋ねる。
所詮お飾りなんだけどついポケットが便利でさあ、と零していた白衣がクーラーの風に揺れていた。

 僕は月に一回、こうやってマキちゃん先生の元でカウンセリングを受けている。特段何かあるわけでもあるわけでもないのだけど、親はこうしていれば安心する。
 僕は親孝行なのだ、フリーターだけど。

「私はねえ、最近野良猫を拾ったよ。大きな猫」
「いいですね、大きな猫」
「碓氷さんも猫好きなの?」
「犬より猫派です」

 マキちゃん先生は冷たいお茶を入れてくれた。僕はそれを一口飲んでから、ソファにより深く座りなおす。

「で、最近どう?」
「特に何も変わりませんよ、薬局で働いて、食べて、寝てます」
「健康的でいいね」
「ありがとうございます」
「思い出しそうになる事は?」
「ないですね、相変わらずモヤモヤする事はありますけど」

  ふーん、と返事なのか呟きなのか分からない声を発しながら、マキちゃん先生も目の前のソファに座った。
屈んだ瞬間に長い髪がお茶の中に入りそうだったのを眺めていると、僕はふとあの女の子を思い出す。

「そういえば」
「お?」
「先生あのチョコ覚えてますか?いつだかに流行った、変な怪獣のシールがついてるチョコ。金色が出ると当たりらしいんですけど」
「……え?」

マキちゃん先生が眉間にしわを寄せる。

「どうかされましたか?」
「そのチョコ、薬局に売ってるの?」
「はい、それを女の子が買いに来たから思い出しただけなんですけど」
「……覚えてるよ、でもそのシールに当たりとかそういうのはなかった」

 金色が当たりってわけじゃなかったのか。
あの女の子は何で金色を欲しがっていたのだろう、当たりと勘違いしているのだろうか?
完全に僕の祈り損だ、僕の念を返せ。

「その女の子は金色が当たりって言ってたんですけどね。しかも中学生か高校生っぽかったし、何か面白いですよね」
「そう?」

 マキちゃん先生が間を埋めるようにお茶を啜る。僕もそれに習った。やけに重圧な丸みのあるおしゃれなコップだが、マキちゃん先生の趣味なのだろうか?うちは麦茶用の薄いグラスしかないので、その辺のオシャレ感が全く分からなかった。

「碓氷さんは相変わらず記憶を取り戻したいとは思わないの?」
「僕が忘れたいと思ったならそれでいいと思います」
「高校生の時の碓氷さんもそんな感じだったのかな」
「僕の華の高校生活、マキちゃん先生が教えてくれるんですか?」
「ううん、碓氷さんしか知らないんだよ。だから何があったのか誰も教えられないし誰も知らない」
「詰んでる」
「そうとも言える」

 今度は僕が間を埋めるようにお茶を啜る。するとマキちゃん先生は立ち上がってホワイトボードを引っ張ってきた。

「無理はしないでよね」
「へ?」
「思い出そうとする時、必ず混乱が生じる。頭痛がする人もいる、自我が崩壊してしまう事もある。無理に思い出さなくてもいい、焦らないで」

 ホワイトボードに記憶のメカニズムがつらつらと書かれ、僕はそれに見入った。
 今まで欠けた記憶のすり合わせや混乱でかなり滅入った時期はあった。
そんな時いつも前もって教えてくれた知識で乗り切ってきたのだ。
だから僕はマキちゃん先生を信頼しているし、この病院にも来る。

「碓氷さんは長い間なくした記憶を取り戻していないよね」
「そうですね、五年くらいは」
「だから用心してほしいの」

 そんな事を言われても、と内心思う。正直他人事のような感覚もあるし、僕自身無理に思い出そうとはしていない。ただマキちゃん先生に話を聞いて従っているだけだ。

 もう一度言うが、僕はマキちゃん先生を信頼している。だからその「用心すべき」を信じざるを得ないのだ。
特に最近は日常的な報告しかしていなかったので、重みが増すとなんだか面食らう。

  今僕の中では中学生までの自分で終わり、自分が何故かただ毎日寝たきりだったが、いつの間にかぱっと元気になって母さんに腹が減ったと話しかけたところからまた始まっている。ベッドから勢いよく落ちた音を聞きつけてきた母の顔色は真っ青だった。ああ、あぁ……と小さな声で僕に近寄ったのだが、「腹減った」と僕が喋ったため腰を抜かしてしまった。母に代わって来てくれた父が病院に連れて行って来れ、そのまま検査入院となった。その時初めてオムツをあてられていることに気づき、大変なショックを受けた。

「他に何か知りたいことはある?」
「でも僕、逃げたんですよね?忘れたいから忘れたんですよね?」
「そうだね、そういう事になるね」
「じゃあ、僕ってどんな人間でしたか?」

 意外な質問だったようで、先生はひくん、と喉を鳴らした。嫌な予感の事は後々考えるとして合間の僕がどんな人間だったかは興味がある。

「結構引っ込み思案な子だったみたいね。今は飄々としてるけど、あんまり喋らない子だったって」
「そりゃ今でも友達がいない訳だ」
「友達くらい、いたと思うけど」
「ふうん」

 僕の友達は一体どこへ消えてしまったのかどんな馬鹿でも検討はつく、僕の記憶喪失ととある事件に伴っていなくなったに違いない。ああ何て勿体無い。

「今日はここまで。何かあったらちゃんと私に報告するように」
「了解」

 ホワイトボードの文字がさっさと消されていく。

 僕は今の人生に悲観している訳では無い。
過去の人生に対してもそうだ。
もし金を貸した友人がいても返してくれなくていいし、逆もまた然り、そう思っていてほしい。僕となにか約束をしてた人がいても忘れて欲しいし、それを僕に求めないで欲しい。

 そうか、だから友達がいないのか。納得。

 僕はマキちゃん先生にお礼を言って病院を出た。けたたましいセミの鳴き声と眩しい日差しにクラリとする。

「うすいさん」

 ふいに呼ばれる僕の名前。あれぇ、と目を細める。黒いワンピースの女の子がいる。

「この前の……」
「はい、この前の」

 病院前のロータリーのベンチに腰掛けていたのは、チョコを買っていった女の子だった。

「私のこと、覚えていてくれたんですね」
「はい、金色のシールは当たりましたか?」
「いえ、当たらなかったんです。また買いに行きます」
「……今日はどこか具合でも?」
「うすいさんこそ」
「僕は定期的にくる用事があるので」

 女の子は初めて会った時のようにへー、と呟いた。
今日も相変わらず白い。光に溶け込んでしまいそうなほど白い。そんな女の子に僕は少しばかり見とれる。

「……私、相沢百合花といいます」
「相沢さん」
「覚えていませんか?」
「何をですか?」
「私の事です」

 なんだなんだ、知り合いか?もしや記憶喪失の中の知り合い?まさか金の貸し借りをしてた?はたまた約束でもしてたか?

「うすいさんの、クラスメイトでした」
「高校の?」
「そうです」
「同級生だったんですね。申し訳ないんですけど、僕その辺りの記憶が全くなくて」
「知っています」

 まあ、そうですよね。それにしても何故今更僕に話しかけたりしたんだろうか?
汗ひとつかいていない美少女に、疑問ばかりぶつけたくなる。

「それで、私の事、覚えてないんですよね」
「はい、すみません」
「思い出す努力は?」
「していません」
「ならそれでいいんです、でも私はまたうすいさんと友達になりたいです」
「僕達友達だったんですか?」
「分かりません。でも友達に、なりたいです」

 こんな美少女と、僕が?
でも記憶をほじくりかえされてはたまらない。また友達に、と言われても返答はできなかった。

「駄目ですか?」
「何というか、僕は記憶を思い出さない方がいいみたいで」

 相沢さんの口がキュッと真一文字に閉まる。
彼女の小さな手が髪をすいて、気まずい沈黙を持たせようとする。僕は手の甲で汗を拭って、この場をなんとかしようと策を練る。
が、困ったことに何も浮かばない。そよそよと風に揺れる葉を眺めるふりをして、間を持たせた。

「思い出したくない、ということですか」
「僕にもよくわかりません。でも思い出すことで両親は多分悲しむし、僕はまた布団に転がってるだけの能無しになるかもしれないんです」
「布団に……?」
「僕は記憶を失う前は廃人のようだったと聞いています」
「どうして」
「だから、分からないんです。相沢さんこそどうして今更?」
「私は、ただ」

 また口が真一文字に締まる。目の前の女の子が何を考えているのか僕にはさっぱり分からない。
とりあえず暑い、さっきまでお茶を飲んで涼んでいた時に戻りたい。

「家に住まわせてください」
「……はい?」
「貴方は多分思い出しません」
「根拠は?」
「私を見て思い出さないからです」
「いや、だとしても無理です。ごめんなさい」

 僕はペコリとして一目散に逃げようとする。

「うすいくん!」

 うすい、くん。ああ、思い出せないよ、確かに相沢さんの事何も思い出せないよ。
けど家に住まわせてくれ、なんて確実に面倒事に巻き込まれるじゃないか。
頼む、そのTシャツを掴んだ手を離してくれ。

「うすいくん、お願い」
「いやいや無理ですってほんと」
「一生のお願い」
「無理です、無理」

 思わず相沢さんの手を掴む。すると、とてつもなく震えているのが伝わってきた。僕は思わず動きが止まる。

「うすいくん」
「……はい」
「お願いします」
「どうして僕なんですか、親御さんは?」
「両親とは縁を切っています」
「友達は?」
「沢山います、でもうすいくんがいいんです」

 はて、僕の事が好きなのか?  

「お願いします」

 遂に相沢さんは泣き出した。焦って周囲を見れば、やはりじろじろと見られている。こんな可愛い女の子を泣かせていたら、そりゃ誰だって注目する。

 ……僕はとうとう観念した。

「住む場所が見つかるまでですよ」
「大丈夫です、日が経てばきちんと、出ていきます」
「日が経てば?」
「一ヶ月半くらいです」
「はあ、そうですか……」

 やけに中途半端だったが、それを口にすると延期されそうな予感がしたので何も言わなかった。

 僕は結構一人暮らしが気に入っていたので、普通の健全な男なら喜ぶ展開だろうが当の僕にとっては面倒な事この上なかった。
もしかしてマキちゃん先生の嫌な予感ってこのことだったのだろうか?
これで記憶が戻るような事があれば、僕はこの選択を一生恨むかも知れない。

思い出した後に、その気力が残っていれば。

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