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カイン 星骸を喰らう剣 傲慢篇・第一夜

傲慢篇・第一夜「紅き兆しと黄昏の邂逅」




プロローグ ― 灰と星屑の呼吸

赤錆びた風が峡谷の骨壁を舐め、笛のような遠吠えをあげた。 その音は、乾いた喉で無理やり血を吐き出す前の、しわがれた獣の呻きにも似て、聴く者の胸を不快に締め付ける。風は砂塵を巻き上げ、カインの纏う古びた革鎧の隙間から容赦なく侵入し、肌を刺す。まるで無数の針で全身を啄まれているような、じりじりとした痛みだ。 ここ《逆月の峡谷》は、千年前に隕鉄が雨霰と降り注いだ無法地帯。古文書によれば、かつては緑豊かな渓谷であり、清らかな川が流れ、多くの生命を育んでいたという。だが、星の災厄はその全てを焼き尽くし、引き裂いた。降り注いだ星の欠片は大地を汚染し、動植物を異形へと変貌させ、あるいは死滅させたのだ。 昼なお薄紫の靄が漂い、陽が傾くと地平線が血の池に沈んだかのように赤黒く染まる。靄は魔瘴の名残であり、吸い込み続ければ肺腑が焼け爛れると噂され、旅人たちは分厚い布で鼻と口を覆わずにはいられない。カインは、その魔瘴の匂いを嗅ぎ慣れていた。それは鉄錆と腐臭、そして微かな硫黄が混じり合った、絶望の色を凝縮したような香りだった。長くこの地に留まれば、魂までその色に染め上げられてしまいそうな、重苦しい空気。

吊り橋の稜線に、炭色の影がひとつ。 風に揺れる朽ちかけた木製の吊り橋は、峡谷の左右を繋ぐ唯一の通路だが、一歩踏み出すごとに「ギシッ、ギシッ」と頼りない悲鳴を上げる。太いロープはささくれ立ち、踏み板のいくつかは腐って抜け落ちている。その中央、最も高い位置から男は眼下の光景を見下ろしていた。まるで、世界の終焉を見届けるためにそこに立っているかのように。 ――カイン。二十八歳、身長一九〇センチ。 鍛え上げられた肉体は、歴戦の傭兵であることを雄弁に物語る。陽に焼けた肌には無数の小さな傷跡が刻まれ、そのどれもが彼が生き抜いてきた過酷な日々を証立てていた。左の頬には、かつて受けた爪痕が三本、斜めに走っている。それは幼い頃、飢えた魔獣から妹を守ろうとした際に負ったものだと、彼は誰にも語ったことはない。 裏打ち革を継ぎ足しただけの粗末な鎧と、傷だらけのユーティリティベルト。鎧の肩当ては片方が欠損し、もう片方もひび割れている。ベルトには投げナイフの鞘が数本、空のポーション瓶を収める革袋、そして用途不明の小さな金属製の道具が雑多に吊り下げられていた。それらはすべて、彼が生き抜くために必要としたもの、あるいは失った何かを埋めるための、血と汗に塗れたガラクタだった。

背に突き立つ黒鉄の大剣《ドラグ・クレイヴ》は、刃幅四十センチ・全長二・九メートル。 常人ならば持ち上げることすら困難であろうその巨塊は、カインの体格をもってしてもなお、その存在感を際立たせている。まるで彼の魂の一部が、この無骨な鉄塊に宿っているかのようだ。 鞘はない。鈍色の鋼がむき出しで、夕陽のオレンジを呑み込むごとく鈍く反射している。刃はところどころ欠け、使い込まれたことで無数の筋が走っていたが、その切れ味に疑いの余地はなかった。鉄臭と共に、微かに血の匂いが風に乗って漂う。それは彼自身の血の匂いでもあり、彼が屠ってきた者たちの血の匂いでもあった。大剣は彼の罪の象徴であり、同時に唯一の活路でもあった。 カインは時折、無意識に大剣の柄を握りしめる。そこには彼の掌の形に馴染んだ革が巻かれ、汗と血で黒ずんでいた。その感触だけが、この狂った世界で彼が唯一確かめられる現実だったのかもしれない。

肩頭をめぐる三つの光球――翡翠色のクレス、琥珀色のピオ、紫水晶のルミ。 古代妖精族〈ピクシートリオ〉の導師・弁論・癒し──三位一体の囁きは、人の耳には鈴の転がる音に似て儚い。彼らはカインが物心ついた頃から常に共にあり、家族であり、戦友であり、そして唯一無二の理解者だった。その光はカインの周囲を優しく照らし、この荒涼とした世界にあって、唯一の温もりを感じさせるものだった。彼らの声は、カインの荒んだ心に染み入る清涼剤のようでもあった。

クレス「峡谷底から魔瘴が湧き上がってる。悪い気流ね、カイン。濃度も普段より高い。何か異変が起きているのかもしれないわ。おそらく、あの“裂け目”の影響でしょう。感知される魔力の質が、徐々に変化してきているのを感じるわ。このままでは、下層の村々はひとたまりもないでしょうね。星屑兵の活動も活発化するはずよ」
ピオ「腹ペコと絶望のブレンドだな、こりゃあ! 下層の村じゃ、またろくでもない取引が始まってるに違いねぇ。おいカイン、あのデブ商人、今日は一段と声がでかいぜ。よっぽどいい“商品”でも仕入れたとみえる。金目のモンなら、俺様が一肌脱いでもいいんだぜ? 手数料は勉強しとくよ! なんてな。まあ、冗談はさておき、あのデブ、相当あくどいことやってるぜ。人の心ってもんがねえのかねえ」
ルミ「星屑兵……ふ、増えてる……コア共鳴音が……微かにだけど、たくさん聞こえるの……。胸騒ぎがするわ……カイン、お願い、本当に気をつけて。あの音、聞いているだけで……心が……冷たくなるの……。まるで、氷の針で刺されているみたい……。それに、とても悲しい音が混じっている……助けを求めるような……小さな、小さな声……」

カインは乾いた唇を舌で湿らせ、峡谷の麓に貼り付く寒村〈ディレーン〉へ目を凝らした。 彼の視力は常人を超えており、遥か眼下の村の様子も手に取るようにわかる。煤けた木造家屋の屋根が、黄昏の残光で長い影を落としている。川のように連なる幌車隊。鉄鎖が幌布を貫くたび、鎖骨を鳴らす小さな悲鳴が風に紛れた。幌車はどれも満載で、中には家財道具や商品らしきものに混じって、明らかに“生き物”を運んでいるものもある。そして、その生き物たちから漏れ聞こえるのは、決して穏やかなものではなかった。それは恐怖に引きつった呼吸音であり、諦めに満ちた嗚咽だった。

カイン(独白)《また“商品”の仕入れか。この峡谷の連中は、星の災厄よりも同族の欲望の方がよほど恐ろしいことを忘れちまったらしい。あるいは、忘れるしか生きる術がないのか……。どちらにしても、虫唾が走る。俺もかつては……いや、今は目の前のことに集中しろ。贖罪は、まだ遠い。だが、見過ごすことはできん。あの小さな悲鳴を、聞かなかったことにはできない》

その真上――空には、数日前に落下した“星の裂け目”。 それは物理的な亀裂というより、空間そのものが歪み、異界が滲み出しているかのような禍々しい現象だった。ざくりと世界に刺さった血刀のように赤く、陽が沈むたび濁った光を撒き散らす。裂け目から滴り落ちるように降る微細な塵は、星屑と呼ばれ、大地を汚染し、生物を凶暴化させる。そして時折、その裂け目から“何か”がこちら側へ渡ってくるのだ。あの裂け目を見ていると、世界の終末がすぐそこまで迫っているような錯覚に陥る。だが、カインはそれに目を逸らさなかった。逸らしたところで、何も変わりはしないのだから。むしろ、その存在を焼き付けるように見つめ、いつか必ずあれを断ち切ってやると、心の奥で誓うのだった。

カイン「ピオ、例の商人の動きは? 詳しく聞かせろ。護衛の数、武器の種類、可能な限りだ」
ピオ「へっ、お見通しってわけね、カインの旦那! さすがだぜ。例のデブ――ガスタの奴なら、さっきから広場で何やらわめき散らしてるぜ。『本日の目玉!』だの『破格の逸品!』だの、やかましいことこの上ない。目玉商品が入ったとか何とかで、羽振りが良さそうだ。今夜あたり、たんまり儲けるつもりなんだろうよ。護衛の連中は、確認できるだけで五人。どいつもこいつも錆びた剣か棍棒持ちだ。まあ、三流のゴロツキってとこだな。問題は、あのデブ自身が懐に何か隠し持ってるかもしれねえってことくらいか」
クレス「あの男の周囲には、傭兵らしき影もいくつか確認できるわ。腕は立つようには見えないけれど、数はいる。油断は禁物よ。それと、先ほどからガスタの荷の中に、非常に強い“悲しみ”と“恐怖”の感情波を感知しているわ。おそらく、それが今回の“商品”でしょう。純粋な魂ほど、歪んだ欲望の対象になりやすい。悲しいことだけれど」
ルミ「かわいそうな子猫が……檻の中で震えてるのが見える……。ルミの目にもはっきり……。あんなに小さな体で……。早く助けてあげないと……きっと、お母さんとも離れ離れにされちゃったんだわ……。あの商人、酷い……酷すぎる……。あの子の涙が、ルミの胸を締め付けるの……」

カインは何も言わず、ただ頷いた。彼の視線は、すでに吊り橋の先、崖下へと続く獣道に向けられていた。夕闇が迫り、峡谷の陰影がさらに濃くなっていく。行動を開始する時が、近づいていた。彼はベルトの投げナイフの感触を確かめ、大剣の柄を一度強く握りしめた。その無骨な鉄の塊だけが、今の彼にとって最も信頼できるものだった。そして、肩で囁く三つの光も。


黄昏の寒村〈ディレーン〉

カインは崖を滑降し、埃まみれの街道へ降り立つ。 熟練した動きで、ほとんど音を立てずに急斜面を駆け下りる。足場が崩れやすい砂礫の斜面を、まるで獣のように軽々と、しかし確実な足取りで進む。両手で岩角や木の根を掴み、体重移動だけで速度を制御する。彼の動きには一切の無駄がなく、長年の経験がその全身に染み付いていることを示していた。 靴底に溜まった砂が「ジャリ」と音を上げ、微細な金属粉が夕陽で鈍く煌めいた。街道と言っても名ばかりで、轍と獣の足跡が入り混じった不確かな道だ。道の両脇には、風化した岩石や枯れた低木が点在している。空気には、乾燥した土埃と、遠くから漂ってくる家畜の糞尿の匂いが混じっていた。そして、それらに混じって、腐敗した何かのような、甘ったるくも不快な臭いが鼻をついた。

村の入り口には粗末な木の柵が設けられていたが、見張りの姿はない。カインは躊躇なく柵を乗り越え、村の中心へと向かう。柵は低く、簡単に乗り越えられたが、その存在自体がこの村の閉鎖性と排他性を物語っているようだった。よそ者に対する警戒心と、内に篭ることでしか平穏を保てない村人たちの弱さの表れか。 ディレーン村は、峡谷の他の多くの村と同様に貧しく、荒廃していた。家々は煤けて傾き、道端には得体の知れないゴミが散乱している。壁には泥が塗りたくられ、屋根には穴が開いている家も珍しくない。窓ガラスは割れたまま放置され、代わりにボロ布が詰められている。住民たちの顔には生気がなく、皆一様にうつむき加減で歩いていた。黄昏の光が、彼らの長い影を地面に引き伸ばしている。その影はまるで、彼らの魂が肉体から離れて彷徨っているかのようだった。 すれ違う村人の何人かがカインの姿をちらりと見たが、すぐに目を伏せ、関わり合いになるのを避けるように足早に通り過ぎていく。彼のような武装したよそ者は、ここでは歓迎されない存在なのだろう。あるいは、見慣れぬ者への恐怖か、それとも単なる無関心か。この村では、他人のことなど構っていられないほど、皆が自分のことで精一杯なのかもしれない。痩せた子供が道端で力なく座り込み、虚ろな目でカインを見上げていた。その瞳には、何の感情も浮かんでいなかった。

中央広場。 ここだけが、わずかに活気を帯びていた。獣骨で作られた笛が甲高い旋律を奏で、人垣がひしめく。笛の音は単調で、どこか悲しげだったが、それでも人々はそれに合わせて手拍子を打ち、あるいは体を揺らしている。しかし、その表情はどこか虚ろだ。彼らはつかの間の興奮を求めているのか、それともただ、日々の過酷な現実から目を逸らしたいだけなのか。広場の中央には大きな松明が数本焚かれ、パチパチと音を立てながら周囲を頼りなく照らしている。その光と影が、集まった人々の顔に不気味な模様を描き出していた。 人垣の中心で、肥満の商人ガスタが唇を泡立てながら喚いていた。その声は油で濁り、欲望に満ちていた。

ガスタ「さあ寄った寄ったッ! 銀毛のミスティックフェリン幼獣だぁ! これを見逃す手はねぇぞ! この毛皮は万病に効き、耳は魔除けになる! 一攫千金のチャンスだ! さあ、値はいくらから出すんだい! そこの旦那、目利きと見た! どうだい、銀貨五十枚からどうだ! 安いもんだろう! この美しさ、この希少価値! 次にいつお目にかかれるかわからん代物だぞ! さあさあ、買った買った!」

ガスタの甲高い声が広場に響き渡る。彼の額には脂汗が浮かび、小さな目が金銭欲にぎらついている。その手には短い鞭が握られ、時折、空気を切り裂く音が人々の肩を震わせた。「ヒュッ!」という音と共に、檻の鉄格子が打たれ、甲高い金属音が響く。そのたびに、檻の中の小さな影がビクリと震える。 周囲を取り囲む村人たちは、期待と好奇、そしてわずかな恐怖が入り混じった表情で、ガスタが指し示す檻を見つめている。中には、値踏みをするような視線を送る者や、隣人とひそひそと何かを囁き合う者もいた。「本当に万病に効くのかね」「ミスティックフェリンなんて、何年ぶりに見たか」「だが、あの値段じゃあ手が出ねえな」「しかし、もし本当なら……」「おい、やめておけ。あんなものに手を出すのは破滅への第一歩だぞ」そんな会話が、風に乗ってカインの耳にも届いた。多くの者はただの野次馬だったが、中には本気で購入を考えているような、ぎらついた目をした者も少数ながら存在した。

檻の奥。銀髪の猫耳少女――エリシア。 まだ幼く、大きな瞳には怯えの色が濃い。彼女は檻の隅で膝を抱え、震えている。その小さな体には、いくつもの擦り傷や痣が見て取れた。着ているものは粗末な麻布一枚で、それすらも所々破れている。髪は埃と脂で汚れ、本来の美しい銀色はくすんでいた。 鎖は十字に絡み、首輪の付け根に黒い擦過痕。首輪はきつく締められ、彼女の白い肌に食い込んでいる。そこからは血が滲んでいるようにも見えた。 左耳の先端だけを焦がす“月焦げ模様”が陽に照らされている。それはミスティックフェリン族特有の模様で、希少価値を高める要因の一つだとガスタは触れ回っていた。 瞳孔は光の加減で淡いエメラルドに揺れ、怯えと諦念が交互に浮かんだ。時折、彼女はか細い声で「……はなして……おかあさん……」と訴えようとするが、ガスタの怒声や鞭の音にかき消されてしまう。その小さな唇は乾ききり、声はかすれていた。彼女の視界には、脂ぎったガスタの醜い顔と、好奇と欲望に満ちた村人たちの無数の目、そして冷たい鉄格子だけが映っていた。

ルミ「……あの子……助けなきゃ。お願いカイン、今すぐにでも……! あんな酷いこと……見ていられないわ! ルミの光で、鎖を焼き切れたりしないかしら……。お願い、カイン、あの子の目が……諦めないでって、訴えかけてる気がするの……!」
カイン「まだだ。騒ぎを起こすには早すぎる。ルミ、お前の光は癒しのためだ。武器として使うのは、最後の手段にしておけ。今は感情的になるな。冷静に状況を見極めるんだ」
ピオ「冷てぇな、カインの旦那。まあ、旦那の言うことにも一理あるがよ。でも確かに今暴れりゃ、あのデブも周りの客も、まずチビを即殺(や)るぜ。人質ってやつだ。厄介なことこの上ねぇ。それに、あのデブ、意外と護衛をしっかり固めてやがる。数だけはな。おまけに、あの鞭、よく見りゃただの脅しじゃねえ。先端に小さな棘みてえなもんがついてやがる。悪趣味な野郎だぜ」
クレス「傭兵の進軍波形を検知。熾翼兵、傲慢指数 68.3……二刻以内に臨界。ガスタの護衛とは別に、村の外縁部にも複数の反応あり。おそらく星屑兵の斥候ね。今夜は荒れるわ。ガスタの護衛は、元盗賊崩れといったところでしょう。統率は取れていないけれど、凶暴性はある。慎重に進めるべきよ。彼らを刺激すれば、エリシアの身が危うくなる可能性が高いわ」

カインは懐から取り出した小さな爆薬筒を軽く揺らし、指先で火蓋の摩耗を確かめた。 それは彼自身が調合した特殊なもので、妖精粉が混ぜ込まれており、指向性と威力を高めてある。中には三種類の妖精粉がブレンドされ、それぞれが異なる効果を発揮する。一つは閃光、一つは衝撃、そしてもう一つは、一時的な麻痺効果。これをどう使うか、カインは瞬時に思考を巡らせる。彼の指先は、長年の戦いで硬くなり、いくつもの傷跡があったが、その動きは驚くほど繊細だった。

カイン「……夜まで待つ。星屑兵が来りゃ、混乱は俺たちの味方になる。ガスタの注意が奴らに向けば、いくらでも隙は生まれる。それまでは息を潜めろ。下手に動けば、チビの命が危うい。クレス、星屑兵の接近ルートと規模を常に監視しろ。ピオ、ガスタの護衛の配置と、奴らの会話に聞き耳を立てろ。何か動きがあればすぐに報告だ。ルミ、お前はエリシアの様子から目を離すな。彼女の精神状態が限界に近いかもしれん」
カイン(独白)《問題は、星屑兵がエリシアに手を出す前に、ガスタの元から引き離せるかどうかだ。最悪のケースも想定しておく必要がある。クレス、ピオ、ルミ……お前たちの力も借りるぞ。ピオは音で攪乱、クレスは幻で陽動、ルミは万一の際の治癒。そして俺が、あのデブと護衛を引き受ける。……だが、それだけでは足りないかもしれん。何かもう一手、必要だ。あの裂け目の影響で星屑兵がどれほど凶暴化しているか……それも未知数だ》

カインは人垣の外れ、崩れかけた納屋の影に身を潜め、じっとその時を待った。夕陽は完全に地平線の下に沈み、空は深い藍色に変わりつつあった。星々が瞬き始めるが、その光は弱々しく、空に開いた赤い裂け目の不吉な輝きにかき消されそうだった。広場の松明の火が、人々の顔を不気味に照らし出す。エリシアの檻に群がる人々の欲望と、それを煽るガスタの醜悪な声が、夜の静寂を切り裂いていた。風が止み、空気が重く淀んでいくのを感じる。それは嵐の前の静けさにも似ていた。カインは静かに呼吸を整え、鞘のない大剣の冷たい感触を背中に感じながら、その時を待った。彼の瞳は、暗闇の中で獲物を狙う獣のように、鋭く光っていた。


夕闇の綻び ― 星屑兵襲来

陽が山稜を離れた瞬間、村全体が息を呑んだ。
空気が重く粘り、地面から黒い靄が湧き上がる。

遠くで石畳が砕ける音――「ガシャン」。
骸骨と星鉱が溶接された兵――星屑兵が、五指を蜘蛛のように開きながら広場へ雪崩れ込む。

星屑兵A「……傲慢ノ刃 ヲ 振リカザス者ドモ……」
星屑兵B「……刈取リノ刻……来タリ……」

声帯はない。粉砕した石英片を擦り合わせる共鳴音だけが空気を震わせた。
村人は鍋を放り、母は幼を抱え、蜘蛛の子を散らす。
ガスタは黄金の箱を抱いたまま尻もち、脂汗が頬の粉塵を溶かす。

檻の中のエリシアが鎖をガチャガチャ鳴らし、声を張り上げた。

エリシア「た、助けて! 出して――!」

その瞬間、カインが動く。
弦を引き切った〈スコルピオ〉が「ツン」と低い弾弦。
黒曜矢が星屑兵の頸椎を貫き、封入された妖精粉が白磁の閃光で爆ぜた。

カイン「ピオ、ソニック!」
ピオ「まかせな!」

琥珀の妖精がひらりと旋回、扇状に音波を放つ。
鼓膜代わりの水晶が悲鳴を上げ、星屑兵の頭蓋にクモの巣状の罅が走る。

クレスが低く古語を詠唱。
ドラグ・クレイヴ刃中の粉が白熱し、漆黒の剣身が月光色に輝いた――〈光刃〉

 斬撃。
空気が布のように裂け、星屑兵三体の上半身が鏡片となって舞う。
爆薬筒が弧を描き、轟音が村路を包んだ。

ルミ「ヒールフィールド、展開……!」

紫の癒し膜がカインの周囲一尺を包む。
炎槍を構えた熾翼兵が突進。身の丈二メートルの黒羽が焦げた火花をまき散らす。

衝撃。
柄を短くした大剣が地面を抉り、半月形の衝撃波が石畳を隆起させた。
星屑兵がまとめて打ち上がり、夜空で散弾のように弾ける。


黒騎士、満月に届かぬ夜

暗雲の切れ目から青白い月。
満月には一日足りないが、空気が凍る。

遠く――「カツン」。蹄の音。
朽ちた鐘楼の影から、漆黒の甲冑に包まれた影が現れた。

ノクス・レヴナント
鎧の継ぎ目から濃紫の魔気が噴き、足元の石材が腐蝕して崩れ落ちる。
黒馬エクリプスが嘶き、蹄が地を打つたびに紫光の亀裂が地面へ走る。

星屑兵「――!」

言葉にならぬ叫びを上げるや、ノクスは腕を伸ばす。
影が剣となり、月光さえ吸い込む漆黒の巨刃を形作る。

ひと振り。
空間が紙のように裂け、熾翼兵が二つに割れ、星核の火花が闇に散る。

ノクス「傲慢の炎……その程度か」

声音は枯れ木をすり潰すように低い。
星屑兵の魔核が同期震動し、複数体が自壊した。

カインは肩を押さえながら薄く笑う。

カイン「《伝説》ってやつは、まだ錆びちゃいねぇらしい」
ノクス「夜が深すぎる。門(ゲート)を知らぬ者は、生き延びろ。……次の満月まで」

黒騎士はそれだけ残し、馬を翻す。
影が月光の薄膜に溶け、峡谷の闇へと滲んで消えた。


静寂 ― 鎖の切れ目から

広場には瓦礫と黒砂、燃え残る梁、そして震える空気だけが残った。
カインは銜え煙の匂いを嚙み殺しながら、檻の錠前を蹴り飛ばす。

エリシアの鎖は熱で歪み、鍵穴は爆風で溶けている。
彼女は瞳に涙を溜め、喉奥で細い声を震わせた。

エリシア「お……おにい……さん……?」
カイン「生きてるか、チビ」
エリシア「……うん……でも、怖かった……!」

カインは刃を地面に突き、空いた右手を差し出す。
エリシアは逡巡の末、震える指でその手を掴んだ。掌に伝う体温は小鳥の心拍のようにせわしない。

クレス「傲慢の炎はまだ小手調べ。星環連鎖陣が本格始動したら、村どころか、この峡谷も更地になるわ」
ピオ「ったく、開幕からこれじゃ胃が持たねぇぜ」
ルミ「でも……きっと、助けられる……よね?」
カイン「助けるさ。世界を救う前に、腹ごしらえするだけだ」

遠く、夜空に亀裂が走る。赤紫の稲妻は巨大な瞳孔のように瞬き、峡谷全体を薄紅に染めた。
血と硝煙と妖精粉の甘い鉄臭が入り混じった夜風が吹き渡り、誰かのすすり泣きが砂埃に吸われる。

カインは裂け目をひと睨みし、肩の傷に指を滑らせた。
皮膚の感覚は麻痺しているが、骨の奥で鈍痛が脈動する。
それでも彼は口角をわずかに上げ、膝を折りそうなエリシアの背を軽く叩く。

カイン「行くぞ。夜は長い」
エリシア「……ミルク、飲みたい」
ピオ「お、かわいいリクエスト入りましたぁ!」
カイン「聞こえたか、妖精ども。まずは乳牛を探す」

三つの妖精光が夜気を縫うように飛び立ち、二人の影は火の粉を踏みながら峡谷の闇へ――。


次回:第二夜「血雨の前奏曲」
スラム街〈錆潤い(ラストラス)〉で始まる“傲慢指数”の昇華実験、そして星呪司との悪夢的交渉――。


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