一、ハバネラ(恋は野の鳥)②

「なんて野郎だよ、まったく」
 深々と吐き出した堀くんの溜息で、ようやく部屋の空気が清浄になった気がした。

「そうね」
 私はなんと捉えていいものか胸の奥がモヤモヤしたまま、今日はたいして役に立たなかった書類を鞄にしまう。

「いやに芝居がかっているというか、見られることを意識している感じというか。境界例かなんかですかね?」
「まだ早いわよ。あれだけじゃ、なんとも……」

「でも妙な男であることは、確かですよ。それにやたらと奇麗な顔しやがって。悔しいけど、写真で見るより数段美形でしたね。クソッ、腹立ってきたなあ」
 忌々しげに吐き捨てて、堀くんが丸っこい指先で書類を乱雑に片付ける。

「あれだけ恵まれた顔面で婦女暴行とか、ほんと許せないですね、俺は! イケメン無罪、なんつってファンレター届いてるらしいですよ、拘置所にたっぷりと。プリズン・グルーピーですよ、あー忌々しい!」

 ふざけんなよマジで、などと言って堀くんは黒縁眼鏡に浮いた脂を拭いた。「なんか怒ったら暑くなってきた」んだそうで、短い指でシャツを引っ張ってパタパタと風を送っている。

「イケメン無罪、ねえ」
 確かに奇麗な顔立ちだったけれど、いざ特徴を尋ねられたらなんと答えるだろうと考えた。蛇みたいな顔。それしか印象が残らないのだ。

 目の前からいなくなったとたん、思い出せないわけじゃないのに印象があやふやに色あせてしまう。似顔絵なんかには描きづらい顔。たとえば今すぐに私と堀くんでモンタージュ写真を作成したら、全然本人に似ていない顔ができてしまいそうだ。
 私の顔色から堀くんが何を読み違えたのか、口を尖らせて何か言う。

「あっ、庵野さん今、俺だったら絶対有罪、とか思ってんじゃないでしょうね? 俺だってね、昔はかわいかったんですよ? あいつには可愛げはないでしょうが。ちょっと離れ目だったし。俺なんか小さい頃、知らないお姉さんからぷにぷにしてかわいい、抱っこしてもいいかな、なんて言われて……」

「うん、その話もう聞き飽きたから。堀さんのモテ期は幼稚園で終了したんでしょ?」
「ひっど! 庵野さん、ほんとひっど! こうなったら俺、すげえキレイな嫁さんつかまえますから、ご祝儀はずんでくださいよ、マジ」

「すげえキレイな嫁さん、か。若くてキレイな女の人と結婚すると、嫁いびりがひどくなるわよ。研究材料によさそうだし、早く結婚したら? 嫁いびりの心理構造。いいじゃない、論文というよりは新書に向いてそうで。一山いくらで売れるかしら」

「くっそ。マジ性格悪いですよね。庵野さんこそ、とっとと結婚して姑いびりのハウツー本でも出版したらいいんですよ!」
 軽口の応酬をしている間に、法務センターの職員が帰ってきて今日は退室してくださいと言われた。

「今、出ます。あの、ところで。彼はいつもあんな調子なんですか?」
「あー。自分は連れて来ただけなんで詳しいことは分かりかねますが……移送されて来た時から、問題行動が多いので気をつけろとは言われていますね」

 抑揚の乏しい返答の中に幾ばくかの疲労が透けて見えた。
「問題行動……」
 堀くんがよっこいしょ、と重い腰を上げて、私たちは必要以上に明るい白い部屋を出る。

「なんでも初日には一晩じゅう、歌いながら無実を訴えていたとかなんとかで。私は詳しくはないんですが、ミュージカルの曲だそうですよ。レ・ミゼラブルの何かです。うるさくて仕方ないっていうんで、対応に困ったらしくってね。猿ぐつわ噛ませるか鎮静剤打つかでモメて結局どっちもやらずに懲罰房に入れたんですが」

「へえ。ミュージカル。そういうの、好きなのかしら」
 私も決して詳しい方ではないのだが、ミュージカルのファンは女性の方が多いという印象があったので少し意外だ。特に何かあるわけではないが、なんとなく記憶しておく。

 堀くんが丸い顔に眼鏡を食い込ませながら独り言みたいにつぶやいた。
「僕って言ってましたよね、あいつ」
「え。ああ、そうだったわね」

 それがどうかしたのかと目を向けた私に、廊下に革靴で一歩踏み出した堀くんが振り返って力強く言った。
「いいトシして僕なんて言うやつはもれなくマザコンです。少なくとも、俺の周りでは百パーセントの確率で!」

 およそ心理職とは思えないその発言に無表情で部屋の鍵を回していた法務センターの職員の肩が小刻みに震えた。
「なるほど。ますます女の敵ってことね。とんでもないヤツみたいね、万堂哲人」

「間違いないですね! マザコン、有罪!」
 キリリと言い切った堀くんの言葉に、とうとう職員がブッと吹き出し、私たちの場違いな笑い声がセンターの無駄に真っ白い廊下に響き渡った。

 外の植え込みではそろそろ盛りを過ぎた紫陽花が色を失って立ち枯れ始めている。梅雨明けの正式発表はまだだが、ここのところ三日ほど、首都圏に雨は降っていない。

 夏が来るのだ。日本の高温で多湿なあの季節が。



 翌日の午前九時きっかりから万堂哲人の心理試験は始まった。私が選んだいくつかの試験を組み合わせて実施するので、日程は充分に確保して万全を期したつもりだった。

 基本のIQテストやミネソタ多面人格検査などのペーパー試験は堀くんに任せて、身体反応検査は私が直接行った。

 軽い問診の後、検査用のハンマーを持ち出した私に万堂は肩をすくめてこう言った。
「いまどき、脚気って……。もし脚気だったら、僕、東京拘置所を訴えますけどね」「一応ひと通りの検査しているだけよ。それに、脚気以外でもこれ一本で色々と分かるんだからね」

 軽くハンマーを振ってみせた私に万堂は疑わしそうな目を向けて「どうぞご自由に」などと答えて手脚を広げて投げ出した。
 成人男性にしてはやや細身だが、必要なところにしっかり筋肉はついているようだ。身体能力は決して低くないと予想できるし、脂肪ばかりを蓄えて最近腹がたるんできた堀くんよりはよほど健康そうに見えた。なお、彼の危惧していた脚気の傾向も見受けられなかったことは一応報告しておこう。東京拘置所の待遇には大きな問題はなかったようで、何よりである。

 ペーパー試験のデータ分析は専門業者に一任して、検査最終日にはロールシャッハ・テストを行った。
「ロ・テストは私がやるから、堀さんは補佐に入ってください」
「ちぇ。おいしいところは全部、持ってくんだから」 何かぶつぶつ言いつつも私たちから少し離れた場所に机を移動して、堀くんが席についた。

「ロテストって何ですか」
 ニヤニヤしながら万堂は机の下で長い脚を組み替えた。緊張されるよりはいいが、ここまで来ると不貞不貞しく見える。

「今からカードを何枚か見せますから、何に見えるか教えてください。特に正解があるわけではないので、自由に発想していただいて結構です」
 手渡したロールシャッハカードを受け取って、万堂は薄く笑って眉を歪めた。

「なんですか、これ」
「ロールシャッハカードです。何に見えます?」
「どう見てもインクのしみですね」
 指先でカードをひらひらと弄び、またチロリと舌先で唇を舐める。

「何に見えるべきなんですか、これは」
「正解があるわけではないってさっきも言いましたよね。なんでもいいですよ。何かに見えませんか」

 さもバカにした目つきで、カードよりも彼は私の顔ばかり見ている。こういう反応をする被験者は少ないわけではない。私は注意深く観察を続けた。
「そうだなあ……じゃあやってみますか。想像力を、働かせて?」

 カードを机の上に置き、肘をついて両手の指先を触れ合わせた。そこに口元を近づけて、上目遣いにこちらを見ている。
 あざけるような、その目。

「何でもいいんですよねえ?」
 さらに念押し。私は黙って頷いた。

「じゃあ……潰れた睾丸に見えますね。ほら、この辺とか特に。でも人間じゃないなあ。きっとこれは、牛の睾丸かな」
 にっこりと微笑んで首を傾げる。口元がニヤニヤと持ち上がっている。指先が一瞬離れて、爪を研ぐ猫のように空を切った。

「どうです、センセ? そんな風に見えてもかまいませんか」
「ええ、もちろん」
 私はそう答えて、カードを回収して、二枚目を差し出した。今度はモノクロではなく赤い色の入ったカードを出してみる。

「ではこれは?」
「ううーん。色のついたインクのしみだけど……そうだなあ、しいて、言えば」
 矢のような視線が私の眉間を貫く。
 私が見ているのと同じように、彼もまた、見ている。私の反応を。

「この赤いのは処女膜、ですよねえ」
 夢みるように、歌うような口ぶりで続ける。

「飢えた狼に無残に食い破られた、かわいそうな女の子の処女膜。血が流れても叫び声は誰にも聞こえはしないだろう」
「なぜ?」
「その叫びが沈黙に呑まれるから」
 薄い唇にすうっと自分の細い指先を這わせて、ねっとりと笑う。

「群衆は沈黙する。戦う者の列は葬列にしかならず、波紋はそこで折り返す。弱者の歌になんて何の価値もない。鼓動のドラムは聴こえやしない。革命はどうせ、失敗だ。だって、そうでしょう? 僕は、弱者だ」

 レ・ミゼラブルの民衆の歌? 移送されてきた日に一晩じゅう歌っていたというのは、この歌のことなのか。
 まばたきの少ない爬虫類の目の奥にくっきりと笑みが浮かび上がる。

 あざとさをまとった濃厚な空気が部屋に満ちてビリビリしている。試験というよりはポーカーに近いと感じた。そうまでして、読まれたくないものがこの男にはあるのだと直感した。

 精神科医としての私の、直感。

 私は二枚目を回収して三枚目のカードは裏向きのまま渡した。
「続けて?」
 万堂は一瞬ほんの数ミリ眉を動かしたが、裏返したままのカードをめくろうとせずに口を開いた。

「ねえセンセ。ところで一つ、確認しておきたいことがあるんだけど」
「何でしょうか」
 机の上に片肘を残して半身を捻り、万堂は斜め後ろへ流し目をくれた。

「あのさあ、あんたらって、やっぱりデキてんの?」
 ガシャと音を立てて堀くんが机の上の筆記用具をひっくり返した。私はじんわりと口の端を吊り上げて聞き返す。

 この男、面白い。
「なぜ、そう思いましたか?」
 音もなくこちらに視線を戻して万堂は舌先をひらめかした。
「いや、だってあの男、ずいぶんあんたのこと尊敬しているように見えたから」

 心理試験は実質それで終わった。ほとんどのスコアは使い物にもならないだろうが、彼の人間性が少しは見え始めたと思った。

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