二、私のお母さん③
朝が来ると絶望の味がする。
起きるのが嫌なんじゃない、生きるのが嫌なのでもない。
まだあの女が生きているのが分かるのが、どうしてもたまらなく厭なのだ。
湿っぽく籠もった臭いがする部屋を開けると、ベッドの中から恨めしそうな腫れぼったい目を向けて母が顔を思い切り、歪めた。
何時から起きているのだか知らないが、朝は意外と妄想は少ない。
「おはようございます。今日はデイサービスの日ですからね。ヘルパーさんが来てくれるまでに支度をしてください」
「ふん」
むくれて突き出したその口。かさかさの唇に、熱した火箸でも押し当ててやりたくなる。
乱暴に布団をはがして横を向かせる。どうして私がこんな女のシモの世話までしてやらないといけないのか。
親子ってだけじゃないか、こんちくしょう。
「痛いっ! もっと丁寧にやってちょうだい!」
「時間が、ないの。大人しくして黙っていなさいっ」
ジッと強く見据えたら、皺まみれの目を閉じて母は観念したように重い息を吐いた。
認知症とは言ってもアルツハイマー型ではなかった。レヴィ小体型で、パーキンソン症状が出始めている。この女はもう一人では自分の身体を自在に動かすことはできないが、時間をかければ動けないこともない。自宅でも介護が可能という判定なので、仕方なく私がやる羽目になっている。どこの施設にもベッドの空きがないのだ。
こんな時、一人娘は負担が大きい。
優しかったかもしれないが見事に何の役にも立たなかった父親は、とっくの昔に死んでいる。あの時はまだこの女も身体能力は正常だったので(精神の方はもともとどうかしている)、父の終末期のほとんどの世話は母がやったのだと思う。
私はその頃、アメリカにいたので何も知らない。知りたくも、ない。
「ねえ、リッちゃん。背中が痛いの……」
喉の奥から哀れっぽい声を出して同情を引く老婆。
「あらそう、治まるといいですね」
「痛いの。痛いのよう。ああ……」
布団の中でいつまでも嘆いていればいい。私はどんなサービスもしてやらないと決めている。
だってお前は、私が昔そうやって泣いて訴えた時、何をしてくれた?
善意には善意が返り、悪意には悪意が返る。そういう法則だと、釈尊が言っているらしい。私は仏教徒でないので、よく知らないが。
ああそう言えば、この女が死んだら葬式はするのかしら、あれうちって何宗だったっけ、と考えて一瞬手を止めていたら背中をさすってもらえるのかと期待した目で見てきやがったので、私は口先だけニヤつかせて言った。
「せいぜい苦しんでねえ、お、母、さん!」
「この、鬼!」
「鬼で結構。もうすぐ仏様のように優しいヘルパーさんが来てくれるわよ? 早く時間が過ぎるのを祈っていなさい」
ゲタゲタと下品な笑いを響かせて私は悪臭の染み付いた部屋を閉める。また後ろでなんか喚く声がしたが、どうだっていい。
鬼母などという言葉は昔からあるが、倣って言えば私は鬼娘。何とでも言えばいい。
私は母親が嫌いだ。大嫌いなのだ。
あの女がこんな風になる前から大嫌いだった。早く死んでくれたらいいのに、と物心ついてしばらくした時には考えていたのを覚えているし、実際に口にしたような気もする。
あの女はいつだって、頭が悪くて意地悪な最低の母親だった。私が今、そういう最低の娘であるように。
絶対にいつかやり返してやると思いながら今日までジリジリ生きてきた。こういうチャンスが巡ってきて、私は本当に運がいいと思う。
昨日のうちに買っておいたコンビニのパンと、あの女に飲ませるドロドロの流動食を用意する。パック詰めされた流動食では味気なくて可哀想なので、たっぷりとお酢を入れて差し上げる。だってお酢って健康にいいんでしょう?
母は昔から酸っぱいものが嫌いだった。
私も酸っぱいものは好きじゃないのに、弁当には米の上にいつもれんこんの酢漬け(なぜそんなものをわざわざ買ってくるのか!)がのっていた。ご飯が酢飯みたいな味になって悲しかった。食べ避けて残して帰ると罰を与えられた。夕食の味噌汁の中に私だけれんこんの酢漬けが入れられた。
弁当は腐るといけないから、と大義名分を振りかざすくせに、何の意味もなく味噌汁にれんこんの酢漬けを放り込んでくるその論理性のなさに辟易する。父はいつだって、地蔵のように押し黙って私たちの小競り合いを見て見ぬふりをしていた。使えない男。
たまに米がおにぎりになっている時は、いつだって具材が酸っぱすぎる硬い梅干しだった。嫌がらせのように梅干しは二つ入っていた。私はこの女が自分のおにぎりには鮭を使っていることを知っている。一度間違えて、持っていったおにぎりの中身が鮭だったので、気がついたのだ。
ルームサービスよろしくしずしずと特製流動食を持っていく。私のスマイルは高額なので、起きろと怒鳴ってプラスチックのコップをぐいと頬に押し当ててやるだけだ。
「わかってるわよ、わかってるわよ……」
疎ましげな顔をして母がのろのろと起き上がるのを待ってなどいられない。残念なのは、この女の舌はもうひどく錆びついていて、自分が何味のものを食っているのか識別できていないことだけだ。
「あと二十分でヘルパーさん来るんだから、とっとと食べてくださいネッ」
押し付けがましい自分の声はかつてのこの女の声によく似ている。
同じ遺伝子が使われているのだ。この女が短髪に刈られている(洗うのに面倒なので)から私は長い髪を意地でも切らないのだけど、それでも自分のふとした表情だとか声、癖なんかに若い頃の母親を見つけると、単純にイライラしてしまう。
血が繋がっていなければ、まだ許せたのかもしれないのに。
私は封印するように母の部屋の戸をぴっちりと閉めて、コンビニのへなへなしたパンにがぶりと歯型を付ける。コーヒーのしっとり柔らかい匂いが少しだけささくれ立った神経を落ち着かせてくれた。
そうだベランダのプランターに水をやらなくちゃ。今日の予報は晴天、気温三十度。
地獄のような炎天はこの時間帯から燃え盛っている。
元気だった頃に母が買いそろえた植物に罪はないけど、オバケみたいに葉が大きくなりすぎたあの花の名前も知らないし、奇麗だなんて思ったこともない。一度だってない。
園芸用に品種改良された小花も、ちょっと世話を怠れば野生に返って猛々しくなる。雑草に負けない勢いで生い茂っているのを見ると世話をする気も失せてくる。栄養剤なんてひとつも与えないのにプランターをぶち破る勢いで、水なんてやらなくても枯れそうにもないじゃないの。
かわいく咲いていられる花は、手をかけ愛情をかけられた、優等生だけと決まっているのだ。
※
「おはようございますう、ひまわりサービスの鳴海ですう」
「お早うございます、今日もよろしくお願いいたします」
必要以上ににこやかに微笑んだ私は通勤用のスーツで完全武装している。母にも花柄の半袖シャツを着せてある。身体に痕のつくようなヘマはしていないから、絶対にバレないのだ。
「あらあら、おばあちゃん、キレイなシャツねえ。よくお似合いだわあ」
人のいい丸顔のヘルパー。にこにこして、ただでさえ目立たない目がほとんど線になっている。私より年上のこの人は、気づかない。この家に立ち込めるどす黒い呪詛は常人には見えないのだ。
「じゃあ、お母さん。デイ楽しんで来てね。私は今日も仕事で……また遅くなるかもしれないわ」
「そうかい」
この見栄っ張りの老婆だって言わない。震える手足でヨロヨロしても、絶対に他人様に訴え出ることはしない。
あたし娘にいじめられているんです。あたしが若い頃、娘にしたのと同じように、ひどいことをやりかえされているんです。
そんなこと、言えるわけないわね。
私はきゅっと口角を上げてみせる。溌溂としたキャリアウーマン役をこなして。
「おばあちゃんは、恵まれているわねえ。こんなしっかりした娘さんにお世話してもらえて。よかったねえ、きっと、今までいいことをしてきたから、いいことが返ってくるんですねえ。立派に子育てしてきた甲斐があったねえ」
「あら、そんな。しっかりなんてとてもとても。本職のヘルパー様に比べたら至らなくて。ただ、身内ですから、今までの感謝を込めることくらいしか、できません。ここまで育てていただいた恩をたっぷりと、お返ししたいだけなんです」
「それが、なによりですよお。ね、おばあちゃん」
母はぎゅっと口を真一文字に閉じて、力ない目で私を見つめた。
悔しいか、クソババァ。私は腹の中で舌を出す。
私は悔しかった。無力な子どもだった頃、外面のいいお前のせいで、親友だと思っていた友だちのお母さんに本当のことを言ったのに気のせいだと笑われた時、悔しかった。信じてももらえないなら二度と誰にも言うもんかと思った。
誰にも言わずに耐えて耐えて、そうしていつか必ず何倍にもして返してやろうと思っていた。
やられっぱなしでやり返さないなんて、私には耐えられない。そんなの私の流儀じゃない。
私、あんたに似て執念深いの。
やっぱり親子だからねえ?
遺伝子は、らせんの呪い。がんじがらめの鎖に縛られている。
そういう風に生まれついている。
私も、あんたも。同じ穴の狢なんだよ。
「それではくれぐれも、お願いしますね」
別に階段から突き落としてくれちゃっても構わないけど。
愛想を振りまいて頭を下げて、それで老婆からしばし解放される。
見上げた時計は出勤時刻を指していた。
私は息をつく暇もなく、通勤用のヒールに足を通す。
ここからようやく、私の一日が始まる。
玄関でシュッと一吹きするのは、だいぶ前から甘ったるい香水なんかではない。布用の消臭剤を全身に浴びてから私は出ていく。
やや老朽化してきたエントランスのガラスドアが背中で閉まり、私は直射日光の降り注ぐ街へと低いヒールの音を響かせた。
数歩で汗ばむ陽気、きっと気温は二十五度なんかとっくに超えている。四捨五入したら三十度。なんなら四捨五入しなくても、もう。
駅まで辿り着く頃にはシャツがびしょびしょになって、研究室に着くころにはすっかりダメになってしまっているだろう。この季節は予備のシャツをいつもロッカーに入れてある。
ああうんざりする。
何もかもがもう、うんざりする。
キッと睨み上げた空には、めらめらと焼き尽くすサディスティックな太陽が今日も民草を見下ろして高笑いをしていた。
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