三、復讐の炎は地獄のようにわが心に燃え①

 結局一晩じゅうかかって部屋を片付けた。鼻の奥に染みついた糞の臭いは、早朝風呂に入っても取れていない気がした。海外製のフローラルな香りの石鹸を泡立てもせず何度も何度も身体にこすりつけた。

「ごめんなさい、今日は出勤遅れそうで……ええちょっとね、水道が詰まってしまったもんだから。ううん、大丈夫。朝イチで来てもらうから、午後には必ずそっちに顔を出すわ。迷惑かけてごめんなさいね……うん、それじゃ、午後に」

 せめて夏休み中だったのはよかった。先月だったら一コマか二コマ、休講にしなければならなかったわけだから。

 頭痛と吐き気を押し込めつつ通話を切って、家じゅうの窓という窓を全開にして、あの女の部屋へ向かう。あの女の部屋だけは、ずうっと窓もカーテンも締め切ってやる。
 蒸し焼きになって苦しめばいい。

「おはよう、お、か、あ、さん?」
 起床間際のまどろみの中を漂っている女の意識を無理やりに覚醒させる。
 バンと鋭い音を立ててロープを床に叩きつけた。
「っ!」

 音に反応して目を開けるけれど、どうせまだ理解はしていないんだろう。
「あんたとんでもないこと、してくれたわねえ。この落とし前、どうつけてくれんの、ねえ」

 にこにこと上機嫌に私は笑う。汚物にまみれた外出着は全部捨てた。ちょうど家庭ごみの収集日だったから、全部ビニール袋にぶち込んで奇麗サッパリさっき収集所まで運んだところだ。

 服はまた買えばいい。未練なんて、なくなった。
 ヴェルサーチだって何年も使っていなかった。流行遅れのバッグなんか後生大事にしていないで、必要になった時に新しいのを買えばいいじゃない。
 何度だってまたアメリカにも行けるし、望むまま他のどこへだって。

 私は寝たきりの認知症なんかじゃないんだから。
「あんた昔からいつもそう。つまんない嫌がらせして、ほんとくだらない。人間性が下劣なのよ。もうとっくに生理もあがってるくせに、よくもまあ、いつまでも女ぶっていられるものね、気持ち悪い!」

 服とバッグと靴が糞まみれにされただけでなく、化粧品が粉々になっていた。割れて砕けたファンデーション、アイシャドウがぶちまけられて、あのディオールの口紅は念入りにすり潰されて床になすりつけられていた。足で踏み潰したんだろう。

 ここまで分かりやすいと笑ってしまう。
 嫉妬。
 自分より若い「女」への、憎悪。
 だって私はあんたより、永遠に若くて美しい。

「なあに、リッちゃん」
 呆けた天使のような声を作っているけど、誰が騙されてなどやるもんか。
「きょうも、デイに行くのね。おきがえ、しなくちゃ」
「しなくて、よろしい」

 にっこりと笑って、いぶかしがる老婆を制した。
「お母さん、デイサービス好きじゃないでしょう。めんどくさいとか老人ばっかりとか文句言ってたでしょう。もう二度と行かなくていいよ。朝イチで退所の申し入れしておきましたから」
「ええ?」

 困惑したように眉をひそめて、それで、化けの皮が剥がれた。ほら見ろ、ちゃんと理解してんじゃねえか。
 私は目を見開いたまま、ニヤニヤと口先だけ引っ張りあげて言い放つ。

「もうどこへも行かなくてよろしい」
「……老人ホームは嫌よ、あたし」
「誰がそんなところ、行くって言った? あんたみたいな性悪ババア、受け入れてくれるものかよ」
「ひどい」

 ぷるぷると震える手で顔を覆ってみせる。はい、わざとらしい。
「あんたどうも徘徊するみたいだしね。これ以上余計なことされたらかなわないから、これで固定させてもらいますから」
「えっ!」
 乾いた目をギョロリと動かして、老婆が呆然と口を開けた。

「そこまでしないと思った? 残念ね、私もあんたがあそこまですると思ってなかったから。やられたら、やり返すの。それが私のやり方。自業自得って知ってるわよね、耄碌しててもさすがに」
 鞭じゃないからしなりはしないが、頑丈なロープを閃かせて私はうっとりと微笑んだ。

「ぎゃ、虐待だ!」
「ぎゃくたいぃいい?」
 しゃあしゃあと恥ずかしげもなくよくそんなことが言えるものだと感心してしまう。

「そっくりそのままお前に返すわ。お前が今までしてきたこと、よっくイチから思い出してごらん。認知症って、物忘れはひどくても昔のことは忘れないんでしょ? 都合がいいねえ。ほんとクソみたいだねえ」
 すっと頬を撫でてやったら、ヒッとのけぞって怯えたので楽しくなる。

「やめ……て……」
「やめてじゃねえだろ、あんたのためだから。あんたのためにやってやるんだから、感謝しないといけないんだろ? しつけだって言ったじゃん、お前。あれ全部嘘だったんだ? やっぱり、嫌がらせだったんだ。若くて優秀な娘が羨ましくって、妬ましくて人生を邪魔したかっただけなんだね? そうでしょ。そうなんでしょう!」

「……ちが……」
 一生懸命かぶりを振って、うまく呼吸もできないのか、ヒイヒイ喉を鳴らしている。恐怖に目が見開いている。失禁でも脱糞でもしていろ。湿った下着のままで寝ていてもらうんだから。
 私はやると決めたらやる女。今まで全部そうして独りで生きてきたんだ。

「最初からこうしておけばよかったねえ。分からず屋には、身体に教えてやるしか、ないんだったねえ?」
「や……だ……!」

 やめてやめてと泣いているけど、泣きたいのはこっちの方だ。調子づきやがって。下手に動けるのもかえって苦しかろうと、私は躊躇いなく布団の上からロープで母親をベッドに固定した。
 ぐるぐる巻き。どうせろくに寝返りも打てないんだし大差なかろう。

「やめろーっ!」
 よくそんな力が残っているもんだと驚くけれど、所詮老人、バタついたところで大した妨害にもならない。

「わめくなババア。私を物置小屋に閉じ込めたこと、忘れてんのか? 今日から一個ずつ全部、思い出させてあげる。あんたを分析してあげる。あんたが教育にかこつけて、私に何をしたか、みんなみんな分かりやすく解説してあげる」

「やめて、やだやだ!」
 何の抵抗もできない無様な芋虫の姿で泣きわめく。
「はいはい、そのうち騒ぐ気力もなくなりますからね。水分くらいは与えてやってもいいけど、お酢とお醤油、どっち飲みたい?」

「ギャーーーー!」
 とうとう絶叫して老婆が白目を剥いた。もう知らない。あとどれくらい生きている気か知らないけれど、私はこの女を許さない。
「きっちり地獄に堕としてあげようねえ」

 神様がしてくれないなら、私がやるしかないだろう。
 ちょうど女が気を失ったところで、ピンポーンと能天気な呼び鈴が鳴った。助けを求めるようだったら口も塞ごうと思っていたが、手間が省けた。私は外向けのペルソナをつけて玄関に急ぐ。
 昨日の夜から、トイレが詰まって、使えないのだ。

「うーん、何か詰まっているみたいですねえ……心当たりってあったりします?」
 私よりはいくつか年下に見える作業員が一生懸命、配管を探ってくれている間じゅう、私は思い出せるだけの品物を頭の中で数え上げていた。

 胸のおかしくなるような、下水のにおい。
 昨日からずっと、この家は臭い。臭くて臭くて、たまらない。鼻が壊れそうだ。頭が痛くなる。

「ええ、うちには認知症がいるもんですから」
「ああ……それは大変ですねえ。たまにいらっしゃるんですよ、間違ってトイレに何か流しちゃうご老人。何考えているんですかねえ」

 そうですね、と相槌を打ちながら一つひとつ、思い出す。昨日から見当たらないもの。お気に入りのそれも。初任給で買ったあれもたぶん。
「ん? なんか手応えが……」
 じゃぷん、と水が笑うように音を立てる。ゴッとくぐもった音が聞こえて、押し止められていた下水が一気にザンと流れた。
 どばどばと流れて来る。水でふやけたペーパーの残滓、そしてその中に。

「おっ、取れた! って……ええ?」
 下水管には似合わないキラキラ細々したチェーンやリングや宝石が、ゴミみたいに流れて吐き出されてきた。

「だと、思った」
 冷たい目をして見下ろす私に、作業員の男は何か怯えたような目を向けてきた。
 足元でジョロジョロと水が流れてゆく。汚水。

「あの人のやりそうなことですから」
 低く落ち着いた声音に、眉をひそめて彼が訊く。
「あー、それじゃ、認知症って……お姑さんですか」

「いいえ」
 にっこりと笑って、はっきりと答える。
「実の母です」

 作業員は何かを察して、それ以上何も言わずに作業費と出張費を請求すると、そそくさと帰っていった。

 私は下水管から出たキラキラと光り輝く小さな貴金属と貴石の群れを、しばらく黙って見下ろしていた。
 これでもう二度と身に着ける気には、なれない。



 あっ、庵野さん。おはようございます……っていうか、大丈夫ですか?」
 ギョッとした顔で堀くんがそう言うので、私は肩をすくめて笑ってみせた。

「ちょっとね。まあ別にたいしたことではないわ。私もあいつも、まだ法には触れていないから」
「……まだ、って何ですかそれ」

 事実だ。そうこれはただの親子喧嘩。よくある普通の光景。どこの家でも毎日のように繰り返されるどうでもいい小競り合いのたぐい。
 仕事をするには、何の差し障りもない。

 何か訊きたそうな聞きたくなさそうな微妙な表情で私を見ている堀くんに、ひとつ、確認をする。この後はまた彼の面接があるのだ。いよいよ近づいてきた公判前に鑑定書を完成させなければならないから。

「ねえ、私、臭くないわよね?」
「え? いや、全然……大丈夫ですけど」
「そう。なら、よかったわ」

 まだ大丈夫。私はやっていける。あんな女に、邪魔はさせない。
 振り払うように長い髪を掻き上げて、私はニッと歯をむき出してくすんだ天井を見上げた。

「負けないわよ」
 堀くんが喉元に手を当てて暑苦しいネクタイを引っ張って外した。
 私がネックレスを付けて行かないように、堀くんはネクタイをして殺人者に会うことはしない。ポケットに先の尖ったペンを挿していくほど不用心でもない。

 まあ私のネックレスは、昨日全部トイレに流されてしまったのだけれど。
 たった一本、葬式用の真珠の大玉だけを残してものの見事に、全部。

#創作大賞2025 #ホラー小説部門 #精神鑑定人のアリア

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