四、あなたの声に心はひらく⑥
東京拘置所の一般面会は三十分が限度だ。軽い身体検査を受けて、一般人として私は彼に会いに来た。
鑑定は終わってしまったから、分厚いアクリル越しの面会しか許されずに。
「鑑定書、読みましたよ。こんなにも丁寧に書いてくれて……どうもありがとう」
薄暗い面会室で万堂ははにかんだような表情で軽く頭を下げた。
「それが私の仕事なのよ」
法務センターにいた時よりもわずかにやつれて見えた。
「体調がよくないんじゃないかしら」
「暑いからですかね……なんだか最近夏バテ気味なんです」
東京拘置所の房には冷暖房がない。旧設備では夏はうだるような暑さ、冬はシンシンと切り裂くような寒さと戦っていたと聞いている。新棟になってからは全館空調で各房もそこまで暮らしづらくなくなったとのことだが、それでもまだ若い万堂には暑いらしい。
本当だろうか。
暑さより心理的圧迫感の方が気にかかった。ここにいる人は皆どこか陰が差して見える。罰として拘禁されている人間にはそれでいいのかもしれないが、未決囚や職員まで皆何か重たいものに押さえつけられているように見えるのだ。
不安、焦燥……国家権力。
目には見えないけれど、確実に精神に食い込んで蝕まれる。だからあんまり来たくはないのだ。獄舎は新しくなっても、東京拘置所には何かがいる。囚われた人間たちの魂の重みか。
心配させまいとしてなのか、万堂は肩をすくめて「案外、飯がまずくないのが唯一の救いですけどね」と笑ってみせた。特にカレーは外で売っても客がつくだろう、とのことで、それは何よりだ。
「あれだけ何度も面接をしたのに、私、あなたの好きな食べ物も知らなかったから、差し入れは現金にしたわ。確か、中でも何か買えるのよね」
「アイスクリームが買えますね」
目を輝かせて万堂は少し身を乗り出した。
「じゃあ、機会があればまた差し入れるから、あなたの好きに使って」
「……ありがとうございます」
細い声で答える万堂に不貞不貞しい態度はまったく見られなかった。
これを演技と呼ぶことは、私にはどうしてもできなかった。
本当に解離性同一性障害だったとして、拘置所で生活させられるのはテッドでなく哲人だということだ。そう考えるのが、最も理解しやすい。
万堂哲人は無罪なのだ。これを冤罪と言うかは分からないが、少なくとも今ここにいるこの人は「やってない」。
引きずるような沈黙の中で彼がすっと私を見つめた。
透き通る瞳に蛇のような鋭さはもうない。
「本当にありがとうございます。こんなによくしていただいて、僕にはあなたに返す術もない」
「っ、そんなこと、考えなくていいのに」
喉に声が引っかかったのは、何故だろう。
私は万堂を支えていくつもりだ。精神科医としても、いち国民としてもこんなことを許しておくつもりはない。見返りなどなくても、私はこの人の身に降り掛かってきた災厄を取り除いてあげようと思っている。
見返りなど、なくても。
……ほんとうに?
人類は見返りのない愛情を持つことに、未だ成功していない。
精神科医として、はっきりとそう思う。
もし間違って万堂が死刑になっても、それでも私は支えて行きたいと思っている。控訴審も支援するし、必要なものがあればなんだって差し入れるし……それに……絶対的に面会が許可される立場というものが、ある。
弁護士以外であればそれは、親族。
そのためになら私、あなたさえよければ……。
これを幸いと呼ぶべきか、私も彼もその要件を満たせるのだ。
合意のある両性。基準の年齢を満たした配偶者のない者同士。血脈または養育上も近親関係にはない。
その二文字を口にしようとしたことに気づいて、私は生唾と一緒に飲み込んだ。
今は早い。まだ、量刑は決まっていないのだ。
無期か、場合によっては無罪ということも。いずれにしても精神医療が必要ならば、私が全力でサポートする。
私にはテッドなんか怖くはないのだから。
「出してあげるわ。あなたがやってないこと、私はちゃんと分かってる」
力強く言い切って、震える拳を握りしめてあげたかったけれど、アクリルの板に阻まれてそんなことすら私にはできなくて。
何度も同じ言葉を繰り返すことはせずに、万堂は唇に人差し指を当てて言った。
「今の僕にはこんなことしかできないけれど」
聴いて。
と彼の唇が動いて、静かに彼は椅子に座る姿勢を正した。
ぴんとまっすぐに伸びる若い、胸。その正面に私。
面会室の空気が一瞬で塗り替わって、彼はぺろりと舌先を閃かした。
何もない机の上に、押し当てるように両手を構える。空気を抱くようなその姿勢に、後ろで刑務官が身じろいだけれど、私は万堂の指先を見ていた。
聴いて。
音のない部屋の中でアクリル越しに。
聴いて。
そう言った彼が無言のまま走らせるその指先が、リズムを刻む。
「!」
聴こえた。
私にははっきりと、聴こえた。
彼の指先を読む。軽く喉をくすぐるように、はじまる。
小刻みに揺れる右手のパッセージ。
やがて奔流になって。
集中した彼の目が熱を帯びて光る。
聴こえる。ピアノの音色。
彼の好きな曲、鑑定書を書いている間じゅう耳に馴染んだ、ラ・カンパネッラ。
吸い込まれるように指先を見つめて、何度も揺り返す軽い旋律を「聴いた」。
一段ずつ階段を上るように、陶酔して、連れてゆかれる。
天国の門を、たたく。
どこか押さえたようなそのタッチに焦らされる。
くるくる回る、きらきら光る。無音の洪水がすぐそこまで来ているのを感じる。
速い。小鳥のいたずらのようなその動きを、左手の和音が制御する。
ああ、聴こえる。
これが万堂哲人のラ・カンパネッラ。
ひとまわり大きくなった音楽の渦が高らかに鳴り響いて、何もかもを飲み込んでいく。押し流す。力強い響き。遠い地鳴り。雷鳴。叫び。
カンパネッラは鐘の音。
どこまでも鳴り渡る、清浄な教会の鐘の音。祝福の音。福音。
そして……無罪を勝ち取る勝利のファンファーレ。
陶酔した彼の神経が細く尖っているのが見える。
あたまの中、ぐんぐん伸びるまわる螺旋のようなメロディ。
高まる。のぼらされる。てっぺんまで。あの風に乗る鐘の高さまで。
からだの中が、もえたぎっていく。
激情家の慟哭。
これが聴こえないなら、その人は感性が死んでいる。
高音が耳をつんざく。
入ってくる。私の中に侵略してくる。
感情が揺すぶられて、脳の中に降りしきる。
形のない音符、透明な星のきらめき。
ほんの短い休符。呼吸。
そこから。
何度も繰り返したロンドが弾けて爆発して飛び散った。
音のない花火、目の奥で打ち上がる閃光が焼きついて、刹那。
最後の一音を机の上に押さえつけて、がくんと彼は首を落とした。
額に浮かんだ汗の粒がキラキラと輝いて尊いもののように見えた。
私はぼんやりと胸の前で拍手する。
「すごい……ペトロフより、すごい」
たった数分間が、切り取られて額に入った美術品のように感じた。
まだ三半規管がぐるぐると揺られている気がする。
ふっと笑った万堂が狭く圧し付けるような天井を見上げて唇を動かした。
「次は本物を……」
本物のピアノだったら、彼はどんな音を出すだろう。
聴いてみたいと思うけれど、それでも今日私の頭の中に直接鳴らしたような音は二度と聴けないかもしれない。
生まれてはじめて、脳を直接、触られた気がしたから。
※
出してあげたいと思う。
そのための協力は惜しまないつもりだ。
拘置所から帰る途中で寄ったレストランで食べたパスタとエスプレッソが、おいしいことに罪悪感を覚えた。
彼はパスタもエスプレッソも口にできない。拘置所のカレーとアイスクリームで喜んでいるのに。
出してあげたいと思う。
その気持ちに嘘はない。
だけど。
同じくらい強く、ずっと中にいて欲しいとも、思った。
食事の後の化粧直しでトイレの鏡に映った女は、どこからどう見ても疲れ切った中年女だった。
殺風景な拘置所の面会室では対等でいられた私と彼は、たとえばこの店で向かい合って座っていたら、なんと思われるだろう。
親子か。それとも、若いツバメとパトロネス。ホストとその客には見られたくないが。
イライラした指先で紅が唇からはみ出した。
ブラウンのつまらない口紅。これくらいありふれた地味な色しか、似合わない顔になっていた。
紅い色も華やかなピンクも、もう私には似合わない。
無期懲役って、何年くらいで出て来られるのかしら。
成人の凶悪犯が、十年やそこらで出て来るという話は聞いたことがない。社会感情としてもそんなこと許さないだろう。
彼は……いや彼の中の人格は、四人も殺しているのだ。
とすると、あと二十年か三十年は閉じ込められると思った方がいい。
三十年。その頃私は一体いくつなのと、鏡の中の女が笑う。
彼のピアノを聴ける日はもう来ない。少なくとも、ラ・カンパネッラは無理だ。三十年、鍵盤を触らなかったらどんなトッププロだって弾けなくなるに決まっている。あの難曲は二度と弾けない。
でも三十年、薄暗い刑務所にいたら彼には、女は一人も寄り付かない。
娑婆にいたらうようよ寄ってくるに違いないほかの女を、いとも簡単に振り落とすことができる。
正常な判断だったら選ばれない私も、他に選択肢がなければ、可能性はあるのだ。
たまに重大事件の犯人に手紙なんか書くプリズン・グルーピーもいるけれど、あんなのはアイドルのファンと同じ。どうせ続くわけではないことは分かっている。続いたところで私の敵じゃない。
万堂哲人が、ミーハーな若い女に興味を持つとは思えない……と言ったらまた逆転移だと笑われるだろうか。
グルーピーと言ったって相手は刑務所の中なわけだから、実際にナニかできるわけでもないのだ。それなら私の方が、彼にとってまだ役に立つ女だという自負はあった。
そのためにも。
私の鑑定書で、減刑を狙う。
まずはそこからだ。
ねえ、私はあなたにとって有益な女なのよ。
私にしかできない仕事を、あなたのためにしてあげられる。
腹の中でこんなことを考えていると知ったら、万堂は笑うだろうか。
人生はギブ・アンド・テイク。
精神科医でなくても、皆知ってる。
見返りのない愛情なんて、親子くらいにしか存在しない。
そして私も万堂も、ついにそれを得られずにここまで生き残った。
「出してあげる」
でも、今すぐは無理。
万堂は解離性同一性障害で無罪を狙っているのかもしれないけれど、それはどうしたって無理な話だ。
あなたは無期懲役で、三十年後に必ず出て来る。
その時となりにいるのは、きっと私だ。
だから少しでも若くしていよう。華やいでいよう。
狭められた選択肢のひとつとしてせめて「何も選ばない」を回避するためにも。
塗り直したばかりの口紅に無意識に舌が這って、鏡の中でヌラヌラと光って見えた。
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