二、私のお母さん⑪
人は子どもを産んだだけでは母親にはならない。
凶悪犯が世間を賑わせるたび、親の顔が見てみたいなどと魔女狩りめいたヒステリーの嵐が吹き荒れるが、この人がカメラの前で涙を流すことはないはずだ。「万堂哲人の姉」以上に心理的距離が遠い。ほとんど無関係な子ども。口も利かない親戚の子ども程度のつながりしかないのだろう。
同じ家に暮らしながら本当にこの人は哲人のことを見ていなかったと思う。興味もないのだ、最初から。
それならそれで話が聞きやすいと思う私の方も、世間からはかけ離れた感覚を持って生きている。
「恥ずかしながら私も母親とは険悪なんですよ。今は介護なんてしていますが、もう息が詰まりそうです」
「うわー、それはご愁傷さまだね!」
また鼻の周りにクシャクシャと皺を集めて、恵利がいつの間にか手にしていた酒を一口あおった。その指先が、小刻みに震えている。
「あたしは逃げたよ。あんな女の介護なんてご免だもん。あの女の方だって、あたしに介護なんかされたらヒヤヒヤすんじゃないの。いつ骨折られるか、毒飲まされるかって怯えんのも可哀想でしょうが!」
「お父さんよりお母さんの方と、折り合いが悪かったということですか」
「そりゃあ、オンナ同士だもん、うまくいくわきゃないでしょ。うちはまたちょっとヘンかもしれないけど。父親は王様でワンマン……に見えるんだけどさ、やっぱ男だから、バカだから。母親が裏で誘導してんの、分かっちゃうのよね。だからさ、中絶させないのに男と縁を切らせたのも全部、母親の差し金なの。あの女が入れ知恵したんだって、あたし全部分かってる。もしかしたら、息子もあたしから没収したつもりだったのかもしれないけど……あいにく、あたしは親子の情ってのも興味なかったから。それは別に全然、こたえなかった。あてつけみたいにメロメロにかわいがっていたっけ。あたしにはあんな風に抱っこしたことなんて、一度もなかったくせに。それともあれかなあ? やっぱり女育てるより、男育てる方が楽しいわけ、母親ってもんは!」
堀くんがぽかんと口を開けて恵利を見ていた。私はこの人の言っていることは理屈が通っていると感じた。
「お母さんは恵利さんには相当厳しかったんじゃないですか?」
「そうよー。ガミガミしていつだって管理したがった。箸の上げ下ろしから言葉遣いに至るまで、なんでもかんでも言う通りにしないと駄目だった。だから今、ぜーんぶその逆やってんの!」
あっはっは、とけたたましい笑い声を上げて恵利が舌なめずりをした。ぬらりと光る唇の形がよく似ている。
「哲人くんは介護の経験があると言っていましたが、それは恵利さんのお母さんのことですね」
「そうね。哲人が中学生の頃に父親が脳卒中でくたばって、そのあと母親は骨粗鬆症からの骨折コンボ決めて寝たきりになったの。ざまあみろとは思ったんだけど、顔を見るのも嫌で、父の遺産でどっか施設にぶっこんじゃおうと思ったら、哲人が僕がみるって言ったのよね、自分から。あんた学校はどうするのって言ったら、休学してでも僕がこの人をみますって泣かせるじゃなあい? もうそこまで言うなら勝手にしなさいって言って、あとはもう知んない。あたしはようやく手に入れた自由が嬉しくてたまらなかった。全部哲人の好きにすればいいし、別にばあさんが死んだら死んだでラッキーだと思ったから、毎日夜遊びしてたの。哲人から来た電話、全然気づかなくて朝帰りしたのはマズかったわね。あたし、あの女が死んだ晩、ラブホテルにいたから。それで哲人はもう完全にあたしと口利いてくれなくなっちゃった。でも哲人は言ってもわかんないと思う。哲人に対してはあの女は、メロメロに優しいお母さんでしかなかったのよ。あたしにしたみたいにやることなすこと逐一あげつらって管理するような真似、しなかったんだろうと思う」
もうそんな気力も残ってなかっただろうしね、と恵利は付け加えてほんのりと赤みの差した目尻をこすった。
「とすると、中学で急に出欠が乱れているのは、介護が原因だったということですか?」
「うーん。最初はね。小学生まではあの子って優等生だったみたいなんだけど、中学からは荒れちゃったからさあ」
「お祖母さんが亡くなってから?」
その質問には少し神妙な顔を作って恵利は答えた。
「というよりか、あたしと暮らすことになったから」
祖母の介護は中学生の男子が一人でやる仕事ではなかっただろうが、哲人にとっては辛い経験ではなかったということだ。意外な事実だが、哲人には祖母との間に愛情関係があったということになる。それもおそらく、普通の親子よりも強い関係性だ。
祖母を見送った後の生活はひどかった。自分に関心を持たない姉という名の母親への信頼はゼロどころかマイナスだった。そこへ来て、親という枷が外れた恵利は恵利で生活が乱れていく。
親が生きている間には出来なかった彼氏を家に引っ張り込むようになるまでそう時間はかからなかった。
この頃哲人はまだ中学生。多感な年頃で、しかも最愛の祖母を喪ったばかりの難しい時期だった。ラブホテルの料金がもったいないからと男を引っ張り込んだ恵利が、中学生の息子に配慮するようなデリカシーを持っていたとは私にはとても考えられない。
悪いことに、遺産はたっぷりと残っていて、それを相続する時に哲人は確信している。自分の母親が本当は誰なのか。打ち明けるまでもなかった。この頃の哲人の心情は察するに余りある。
「でも不思議なことに、ようやく自由に恋愛ができるようになっても、あたしにはしょうもない男しか寄り付かなくてね。いちばんいい時期に閉じ込められてしまったからなのか、それともでかいコブがついているからなのかは分からなかったけど、来る男来る男、変なのばっかりだったね。DVだの借金だの、いちばんひどいのはジャンキーで、さすがにあたしもそこまで落ちる気はなかったからすぐに別れたけど」
哲人の祖父母が遺した財産はそうして泡のように消えていった。それを哲人はどんな目で見ていただろう。この頃には哲人は中学にもほとんど寄り付かなくなっている。少なくとも、学校の方の記録では「登校して来ない」ということしかたどることが出来なかった。
「哲人くんはどこで何をしていたんですか?」
「さあ、それはあたしもよく知らない。あたしも金使いすぎちゃってることは分かってたから、なんとかしないとって思ってバイトとかしたけど、なーんも続かなくて駄目だった」
はっきり言って哲人がどこで何していようとどうでもよかった、と恵利は言い切った。
「哲人のせいでロクな男に出会えないとも思ったし……それに一度」
ここまで滔々と喋り続けて来た恵利が言い淀んだ。胸騒ぎがする。だがこれは万堂哲人を理解するのに必要なピースなのだろうと思ったので、踏み込んだ。
「一度、何ですか。何かあったんですか、彼に」
「あー、まあもう古い話だからいいわよね。あたしが捕まえて来た男に一人、ちょっとおかしいのがいたの。あたしともヤッてたくらいだからゲイではないと思うんだけど」
その先が見えた時には遅かった。
「仕事から帰って来たら、彼氏が哲人と寝てたことがあって。まだ中学生だったんだけど、その頃から哲人、男にしちゃわりとキレイな顔してたのよね。それでなのかなあ? あたしもどうしていいか分かんないし、動転しちゃって出てけって怒鳴ったのよね。そしたら、男じゃなくて哲人が出て行ったから」
「その時、恵利さんはどう思いましたか?」
「あたしといない方がいいかもしれないって思った。哲人のためにあんまりよくないなって。その男とは早々に別れたんだけど、結局、男が襲ったのか、哲人が誘ったのかはよく分からなかった。でももうどっちでもいいかなって」
「どっちでもいい、ですか……」
堀くんが呆然とその言葉を繰り返した。
「どの道、哲人ともオシマイだったってこと。中学卒業した後、どうしているんだかよく分からないうちにいなくなったの」
「心配じゃなかったんですか?」
そう訊いている堀くんの方が心配そうな顔をしている。
「肩の荷が降りたなあってのが、半分。そして残りの半分は」
いつの間にか二本目のタバコに火を付けて恵利は低く嗤った。
「男は皆、あたしを置いてどこかへ行く。これで例外は一人もいなくなったわ」
万堂恵利と私はそう年が違わない。そのことを今さら強く意識して、私はまたひとつ質問を口にした。
「哲人くんが逮捕された時は、どう思いましたか」
「あ、生きてたんだって思っちゃった」
ぺろりと舌を出してそんなことを言う恵利は、危ういがどこか魅力的な人間だ。哲人とはまた違った魅力を持っている。
「あとはねえ、あの人にそっくりだなあって思ったの」
「……哲人くんのお父さんですね」
こくりとひとつ、恵利は頷いた。
「全国ニュースで万堂って出て。年齢もバンバン報道されたでしょ。これはきっと、あの人にも知られちゃったかなあって、思って」
「どんな気持ちでしたか」
それには少し考えてから答える。
「ごめんねって気持ちと、あとは……あたしに連絡くれるかなって」
「連絡は来ましたか?」
「来るわけないでしょ」
来るのはマスコミと善意の一般市民と、哲人の精神鑑定人くらいのものよ、と恵利は笑った。
「今日は長い時間、正直にお答えいただいて誠にありがとうございました。最後にひとつだけ、教えてください」
「何よ」
「哲人くんは本当にこの事件の犯人だと思いますか?」
ぱっと見開いた目を、音もなく引きしぼって恵利は答えた。
「それは、分からない。あたしは世間が思っているほど哲人のことをよく知らないからね。だけど、あの子が捕まったとき不思議と納得したのは確かだよ」
「そうですか。ありがとうございます、参考にさせていただきます」
それで会話を終わらせて、私たちは雀の涙ほどの謝礼を置いて帰った。恵利は謝礼の受け取りを拒否しようとはしなかった。
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