一、ハバネラ(恋は野の鳥)⑤
「アリバイなんかはどうなんでしたっけ」
堀くんも同じところが気になったらしく、私は苦笑して考えていたことをつらつらと口に出す。
「一切なし」
「え? 四件とも一度もアリバイがないんですか? それはちょっと……」
眉をひそめて堀くんが口をすぼめた。
「まあ平日の夜だしね。独居で恋人だとか友達のいない人には難しいかなとも思うんだけど、ものの見事に四件ともアリバイが出せないらしいのよ」
「それもう、どう考えてもクロじゃないです? ネットの接続記録とかもないってことですよね」
「万堂は最近の若者にしては珍しく、SNSなんかにも興味はないそうよ」
「毎日何して暮らしてたんですかね、あいつ」
ペラペラと調書の写しをめくっていた堀くんの丸っこい指が、止まった。
「うわ。ほらここ……万堂のワゴンカーを詳細に調べた結果、被害者のものと見られる毛髪が二本、発見されたと書いてあるんですが?」
「それも別人のものがね。ええと確か、二人目と三人目のものだったかな」
「いやこれどう考えても、決まりじゃないですか。動かぬ証拠ですよ、これは。これで有罪に出来なかったら、犯罪なんてやったもん勝ちになっちゃいますって!」
とうとう堀くんが手のひらを上に向けて首を振った。なんかこういうオモチャ、小さいころに縁日で見た気がする。
「でも被害者の遺体からは何も出ないのよね。決定打になるようなものがないっていうか。これじゃ、運んだのは僕だけど殺したのは別人、とでも言われたらどうしようもなくなるわよ」
強姦殺人とは言うものの、犯人のDNAが調べても調べても検出されなかったのだ。精液はおろか、通常このたぐいの事件では検出される唾液なんかも、少なくとも充分な量は検出されなかった。よって犯人のDNA型は不明。
「どういうことですかね」
「どういうことだと思う?」
遮光された研究室の中で私たちは首を捻って黙り込む。
短い沈黙を破って、堀くんが言いづらそうに口を開いた。
「とするとですよ、この犯人は、あの、性的に……」
「インポテンツってことね」
「ええまあ、その。そういうことです」
目を合わせないままで堀くんが頷いた。それも考えたのだが、私にはどうもしっくり来ない。ロシアのチカチーロが確か性的不能のセックス殺人犯だが、彼は犯行時には勃起も射精もできるのだ。逆に言えば、セックス殺人でも勃起や射精に至らないなら、犯行を繰り返さなかったのではないか。
東京ロングヘア殺人は四人もの犠牲者を出した、連続殺人だ。
「うーん。なんかよく分かんないわね。これがほんとの不能犯?」
「あっ、すいません、全然笑えないですそれ」
私の不謹慎なジョークに堀くんがピシャリと言い切って話の矛先を変えた。
「案外これで物取りのセンということは?」
「金銭目的で? どうかしらね。確かに被害者が持っていたはずの物品……財布とか免許証とか、女性だから鞄ひとつないというのは不自然だし。犯人は確実に、そういった被害者の所持品は現場から持ち帰っているわよね」「ならやっぱりカネ目当てかも。そのついでに……と言っちゃあナンだけど、強姦殺人もやらかした、とか」
「それだったら、クレカとキャッシュカードが手つかずの理由が不明ね。そっちが目的だったとしたら、たとえばこの暴行が暗証番号を聞き出すための拷問的意味があったんだとしたら、これだけ冷静な犯人よ? 番号が判明した時点で、ATMで実際に引き出せるか確認すると思うんだけど。こんな暴行犯が数百円のコンビニのATM利用手数料を惜しむとは考えづらいわね」
堀くんは弾力のありそうな腕をぴっちりと組んで「ふうむ」と唸った。
警察だってそれくらいのことは、考えつく。被害者の銀行口座もクレジットの請求も、行方が分からなくなった当日から今まで、一円も減っていないそうだ。財布も鞄も見つかることはなかったが、これは金目当てを装ったのではなく、被害者の身元を分かりづらくするために犯人が捨てたのだと私は思っている。
捨てる前に財布から現金くらいは抜き取ったかもしれないが。
「ええとじゃあ、こういうのは? 実はその被害者四人は何らかの重要なものを持ち歩いていて、それを奪うためだった」
「彼女たち、ドラゴンボールでも持ってたって?」
「……ないですよね、さすがに」
短い首をすくめた堀くんに微笑とともにこう返す。
「柔軟な発想は大事よ。私は怒ったりしないから、何か思いついたら何でも言ってみて。正解しなくても、思いつくことは全部検討していきましょう。この犯人、少なくともありきたりの心理じゃなさそうだから」
この事件の犯人はおそらく、過去の殺人犯とは性質が違うのだろう。何を考えているのかいないのか、さっぱり分からない。
こういう事件が起きてしまった時、不安を煽られた社会が知りたがるのは「誰が」そして「なぜ」やったのか。そこが解明されてはじめて、枕を高くして眠れるようになる。
遺族にしても裁判で知りたいのは「なぜ」。なぜ大切なあの人が殺されたのか、殺意の有無は。つまり、犯人の心だ。納得はいかなくても、せめて知りたい。
犯人は一体何を考えているのか!
「そりゃ精神鑑定の依頼も来ますよね」
「それも私のような『鋼の女』にね」
ぶっと息を吐いて堀くんのお尻が回転椅子からずり落ちた。
「あら知らないとでも思った? 自分が影でなんと呼ばれてるかくらい把握してるわよ」
「……いやあ、その、俺はそんな風に思ったことないですからね、ええ、一度も」
「ふうん。それは知らなかったわね」
意味もなく咳払いをして堀くんが忙しそうに立ち上がる。若干顔がこわばっているように見受けられますが。
「ええと俺、すいません、アレ探して来ますね、アレ。いやあ、忙しいなあ。ほんと、うん、忙しい!」
何やら声を張りながら、妙にせかせかと研究室から出て行く背中がじっとりと汗ばんでいた。
ついでにもう一つ知っている。私が鋼の女と呼ばれているように堀くんは、この研究室で手伝うようになってからずっと、鋼の犬と呼ばれているのだ。それに本人が気づいているかどうかまでは、私は知らない。
なぜか給湯室の方からガラガラと何かが落ちる音と「きゃん」と犬が鳴くような悲鳴が聞こえたが、知ったこっちゃないので私は敢えて聞かなかったふりでもう一度資料へ視線を戻した。こちらの様子を伺うような短い沈黙のあと、ガサゴソとものを動かす音がまた聞こえ始めた。ちゃんと全部、元あったところに戻してくれれば問題は何もない。
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