五、見よおそろしい炎を④

 気温は先月ほどではなくなったものの、外はまだ照り返して焦がすような太陽があざ笑っている。許可された時間しか日光に当たることのなくなった万堂は、白皙によく映える濃紺のスーツを身にまとっていつもより物々しい足取りで入廷してきた。ピカピカに磨き上げられた革靴。キュッと引き締まった背中がまっすぐに伸びている。マスコミ関係の絵描きだろうか、一斉に数人がさらさらと音を立ててスケッチをはじめる。

 それくらい、今日の万堂は絵になった。
 凛とした若さが聡明をまとって入廷してきたようだった。細身のスーツは彼の理知的で繊細な顔立ちをより一層、際立たせていた。あのスーツを見立てたのは誰だろう。彼本人なのだとしたら、センスがあるだけでなく彼は本当によく「分かっている」。

 法廷中央の証言台に立つ前に彼はまず深々と傍聴席に礼をしてみせた。私たちではなくおそらくは、黒服の遺族たちへ捧げた一礼だろう。
 他の証人と同じように宣誓をする彼の声は朗々とどこまでも響き、あふれる自信さえうかがわせた。私は一言一句聞き漏らすまいと耳を澄ませる。それは法廷の誰もが同じだった。

 固唾をのんで見つめる。
 一身にピンスポットでも浴びたように、今日の万堂哲人は活き活きとして見えた。

「犯行時のことは何も覚えていない、とそう、おっしゃるのですね」
「はい、覚えていません」

「ではあなたの所有する車からこういった品々が。未遂で終わった被害女性の証言通りの品なんですが……これらが見つかったこと、あなたがタイミングよく現場付近におられたことについては、どう認識しているのですか」

「なぜあの夜あそこにいたのか、また、これらがなぜ僕の車にあったのか、僕にはよくわかりません、ただ……」
「どうぞ?」
 検察官に促されて万堂は小さく頷く。

「そういった説明のつかないことは以前から、わりとよくあったものですから、特に疑問は持ちませんでした」
「前から知らないうちに犯罪行為をしていたことは、よくあったということですか」
「……検察官」

 万堂が何か言いたげに裁判長へ顔を向けると、裁判官が注意の声を上げた。
「失敬、お許しください? ええと話を戻しますね。そういったよく分からないことがある、ということについて、あなたはその原因を何だと考えていますか」

「ひょっとすると多重人格かも、と」
「多重人格。精神鑑定人は言い直していましたね。ええと……解離性同一性障害。そうそう、解離性、同一性、障害。とにかくそういった病気ではないかと、あなたも、疑いを持っていた? 前から?」

「はいそうです」
 考えるように間を置いて、検察官は一度裁判員を見回した後、いま思いついたかのように万堂に視線を寄越した。

「いつからです? あなた、いつ頃から……自分が解離性同一性障害なんじゃないかと思っていました?」
「……さあ。かなり昔からです。中学かそれとも、実際はもっと前かも」

「少なくとも中学生の頃から病気かもしれない不思議なことが続いていてそれで……あなた、病院へは行かなかったんですか? 精神科への通院記録なんかあったら参考になるんですが」
「ありません。僕は一度も精神科へはかかっていないので」

「精神科に、かかって、いない? 一度も? ふーん? それは、ヘンですねえ。長いこと病気かもしれないと思っていたのに、どうしてまた、一度も受診していないんでしょう。詐病がバレるといけないからですか」
「……検察官」

 本日二度目の注意に、検察官はわざとらしく手を額に当てて謝した。
「すみません、口が滑りました。ええとなんででしたっけ。どうしてただの一度も、病院へ行かなかったのですか」
「必要性を感じなかったので」

「えっ。そうなんですか? じゃあ解離性なんとか障害って、たいした病気じゃないんですかね。鬱病とかの方が深刻なんでしょうか」
「さあ。僕は鬱ではないので、分かりかねます」

「あなたのそのもうひとつの人格が、何をしてもたいして実害はないんだ? ってことはそれってやっぱり、あなたなんじゃないですか。たとえば私なんかは酒を飲む方でね。大酒を飲んだ翌日はひどい二日酔いだが、酔っ払っている間に何をしたのか記憶がさっぱりなかったりしますよ。でもその間にしたことで、責任はたっぷり、取らされてきた。同席した人に言わせるとね、普段は押さえ込んでいる私の欲望が、ハメを外して解放されるんだろうと。おかげで何人もの女の子にフラれましたが」
 そこでふふっと笑って、検察官は万堂を正面から睨み据える。

「あんたもそれと同じことだ。都合よく名前なんかつけて別人だなんてうそぶいても、なんだかんだ言ってあんたの犯行なんですよ。自分でそれをよく分かっているから、病院へも行かないんだろう。それは本物の患者さんにも失礼な話だよ。あんたのそれは、詐病だ!」

 違うとここから叫びたかった。酒に酔うのと解離性同一性障害とはまったく話の次元が違う。こういう素人くさい議論を、私でなく同じ素人の万堂と裁判員にしてみせるあたり、この男は最低だ。

 いくら仕事だと言って、看過できることではとうていない。
 恥を知れ! 法廷を医療を、何よりも彼を。侮辱するんじゃない!

 だというのに、精神医療については門外漢の裁判官もぼんやりしていて止めようともしない。
 これが司法か。これが正義か。私は滅茶苦茶に足を踏み鳴らしてやりたいと思った。
「詐病じゃ……ない……です」

「え? すみません聞こえませんでした! もっと大きな声で言ってもらえますか、万堂さん。あーいや、それかいっそテッドさんでもいいんですが。百聞は一見に如かずと言うでしょう。いるなら、出てきてくださいよ、それがいちばん早いから」

「詐病じゃない、です……嘘じゃないんです、僕は……僕はやってない」
 弱々しく繰り返す万堂にさっきまでの輝くような自信はなかった。小さくなって震えながら、嵐が行き過ぎるのを待つだけのか弱い少年のように見えた。

 こんな人が! 殺人なんてするわけないじゃない。
 裁判官も裁判員も検察も。お前らの目は節穴か。見れば分かる。心理職の人間ならひと目で信じる。

 万堂哲人は、無実だ。
 この男に人は、殺せない。

「やってない、僕じゃない、僕の中のもう一人の僕がやったんです。だけどそいつは出て来ないんです、でもいるんです信じてください? それはちょっと通らないんじゃ、ないですか? 精神科医の先生は丸め込めても、一般常識で考えたら分かることなんですよね。だいたい、どうして精神科医も会ったことがないんでしょうね? 映像とまでは言わないけど、せめて筆跡が違うとか人相が違うとか、演技以上の確実な証拠がなければ我々は、あなたの主張を信じることが難しいんですよ」

 会ったことはあるのよ! それ以上にあの男が巧妙だっただけ。
 だいたいそれをどうして万堂に言うのか。私に言っていれば、いくらでも反論してやったのに。
 強く握り込んだ拳の中で爪が突き立って痛みを生じた。

「ぼくは……ほんとのことを……それしか、いえない」
「だったら、テッドさん? その彼呼んでみてくださいよ。いるんですよね? あなたの、中に。あなた今、ピンチじゃないですか。呼べばいいじゃないですか、ねえ? テッドさん、テッドさーん! 聞こえてますかー!」
「検察官、そのくらいにしてください」

 興味なさげに注意をした裁判官がふと万堂に目を留めた。
 吸い寄せられるように自然に。
 ガタガタと音を立てて、万堂が椅子の上で激しく貧乏ゆすりをしていた。
 次第にその揺れが、大きくなってゆく。椅子と床がこすれる雑音が法廷に響きわたる。

「……え」
 私の喉が勝手に声を発した。

 そのとき。

 ガン、と音を立てて椅子を蹴り上げて、万堂が立ち上がった。さっきまでの泣きそうな顔とは打って変わった、場違いなほど晴れやかな笑顔で。

「はァい? 皆さん、はじめまして! 僕がテッドですよ。見たかったんでしょう、会いたかったんでしょう? さあなんなりと尋問でも質問でも、したいだけしたら、いい! 僕は逃げも隠れもしないぞ!」

 大きく声を張り上げて細身のスーツの両手を広げて仁王立ちで彼が叫ぶ。
 紺色に包まれた若い体躯が薄いベージュの壁から浮き上がって見えた。
 シンと法廷が静まり返る。
 これだけの群衆が見つめる中で、咳払いひとつ、発せられなかった。

「あれぇ? うるさいくらい呼ばれたから出て来たんだけど? ほらそこの眼鏡の人! 僕に用があンだろ? さっきの威勢はどうしたんだよ、あァ?」
 検察官は我に返って、しきりに眼鏡の蔓に触りながら声を発した。

「……ええと。あなたが、その」
「テッドですが、何か」
 片方の眉をこれでもかと吊り上げて、ニヤリと彼は左右不均衡に笑った。

「ええとあの、万堂哲人さん?」
「の、中のもうひとりの僕、と言ったらお前らにも分かりやすいんだろ。僕は僕。哲人みたいなヘタレとは、格が違うけどね!」

「あー……の、ここがどこだか、分かっていますか」
「法廷だろ。僕の裁判してんだろ。東京ロングヘア殺人の、さ」
 キラキラと目玉を輝かせて、万堂は自信たっぷりに声を張り上げる。

 今や法廷は彼のものだった。独壇場だった。

「ええと。端的に訊きます。あなたはその事件の犯人ですか」
「いかにも、僕が殺した! だがそれが、何? 僕にはねえ、戸籍ってやつがないんですよ、戸籍ってやつが。僕は法的に存在していないのに、法的に罪だけ存在するのは、ねえ君、おかしいとは思わない?」

「それは無罪を主張するという意味ですか?」
「当ッたり前だろ! 言っとくが、哲人を殺してもナンにもならんぜ。僕はその時きっとこんな風に表に出て来ないんだからね!」
 ギャハハハ、と高笑いをして万堂が目を大きく見開いて叫んだ。

「僕は無罪だーッ! 誰も僕を裁けるものか! アーッハッハッハッハ! ハーッハッハッハッハ!」
 聞き覚えのある哄笑と大げさな身振り手振り。
 法廷の空気がしゅるしゅると音を立ててしぼんでいくのが私には感じられた。

 誰も動こうとしない法廷の中で、検察官が裁判官に助けを求めるような視線で言った。
「尋問はこれで終わります」
「ええーっ、もう終わりィ? つっまんねえの、お前もヘタレか!」
 ぐるぐると回りながら吸い込まれていく排水口の渦みたいに、万堂が騒ぐ甲高い声が遠く聞こえる。



 ここへ来てようやく、私はすべてを理解した。




「静粛に。本日は閉廷します」
 感情のない声で閉廷が宣言され、私はカラカラに喉が渇いて唾を飲み込むことさえできなかった。

 法廷の濃紺のスーツの男が取り押さえられるように左右から拘束されて、どこかへと連れて行かれた。
 緊張を解かれた人たちが興奮気気味に感想を述べあっているが、私にはそれが全部外国語か何かのように聞こえ、うまく意味が像を結ばなかった。
 立ち上がる気力すらなく私はもぬけの法廷をしばらく呆然と見つめ続けた。

#創作大賞2025 #ホラー小説部門 #精神鑑定人のアリア

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