二、私のお母さん⑧

 記憶が変容しないうちにと軽くノートにメモを取って、広げた資料を一つ残らず回収して退室する。

「あっ、堀さん。悪いけど先行ってていいわ」
「忘れ物ですか?」
 短い首を曲げた彼に笑って答える。

「ちょっとトイレ。すぐ合流できるから、先、車戻っててよ」
「ああ。そういうことなら、資料、俺持っていきますよ」

 堀くんはこう見えて気が利く。私は素直に資料の束を彼に預けて、ハイヒールで踵を返す。あいにく出口の方向にはトイレがなくて、来た道を戻る必要があった。

 人けのない施設なので、トイレにも他に人はいなかった。狭くて個室も二つしかないが清潔感はあった。あまり出先で公衆トイレに行くのは気が進まないが、まだ新しい施設だということもあって、研究棟のより使いやすいくらいだった。あの建物は……とにかく旧すぎるから。

 先週なんかやけに寒くて驚いたら、冷房の設定温度が十八度になっていたので笑ってしまった。堀くんの仕業だ。気持ちは分かるが、さすがに冷蔵庫で暮らすつもりはない。キンキンに冷えた机で堀くんは涼しい顔して何やら執筆が捗っているようだったが。

 そんなことを思い出しつつ用を足して、手を洗おうとしたら苦笑していた自分と鏡越しに目が合ってしまった。
「……え」

 髪の長い女が目を見開いた。採光がよく計算されていて上からは自然光正面から蛍光灯で照らされた女の頭のてっぺんにキラリと白いものが光った。

「やだちょっ……白髪……」
 慌てて手を洗ってから鏡の女を覗き込む。

 仕事と介護で疲れ切っている間に、こんなところに白髪が生えていた。
 白髪自体に驚いたわけではないのだ。私だってもう四十を越えた。一本も白髪が生えていないなんて思っていたわけではない。でも頭のてっぺんの目立つところに生えていたのを気づかずにいたことに、衝撃を受けたのだ。

 他人はみんなこれを見ていたに違いないのに。私だけが気づかず何食わぬ顔で……。
 呆然とした目もよく見れば白目に薄くしみのようなものが浮いていて、目元にはちりめん皺、頬のファンデーションは粉が吹いていた。
 鏡に覆いかぶさるように、まじまじと見つめる。

「これが私」
 知っていたはずだ。でも見えてはいなかった。

 さっきまで観察していた男との格差がはっきりと見て取れた。
 雑談もできるくらいに気が馴染んで、まるで友人のように感じていたけれど……私と彼は生きてきた時間の長さが明らかに違うのだ。

 無残に殺された彼女たちと似たような髪型をしていても、現場写真の白い顔をしたご遺体の髪は豊かに艶めいて波打っていた。こんな油分の抜けたみすぼらしい細い毛ではなかったはずだ。
 私は急に恥ずかしくなって真一文字に口を結ぶ。

 耳元に絡みつくあの女の声。
 紅すぎるよう……
 明るいところで見れば私にも、分かる。

 店員におだてられて買ったディオールの新色は、私の顔の中でそこだけ切り取られたみたいに浮いていて、少しも似合ってなどいなかった。紅を塗り重ねても隠せやしない、くっきりと刻まれた唇の縦皺。

 なぜさっきまで気づかなかったのだろう。
 閉じ込められた世界の中で対話している時は対等でも、きっと私はこの広い世界の中では彼に話しかけることすら、できなかっただろう。

 階層が、違う。
 ザァと音を立てて水を流す。
 私の喉が低い呪詛を垂れ流すのを聴いた。

 呻き終わったその後で、私はさっき見つけた白髪を血眼になって探した。
 東京ロングヘア殺人の被害者は、みな「黒髪」ロングの女の子。白髪の生えた子なんか一人もいはしなかったのだ。

 時間をかけてようやく捕まえたそのキラキラと光る一本を、ぷつん。力任せに抜いて水に流した。痛みはほんの一瞬で、老いた毛はそのまま排水管の中へ吸い込まれて見えなくなった。

 愛想よく挨拶を交わした後、万堂が先に口を開いた。
「ねえ今さらなんだけどさ。あんたって、本職なにしてる人? やっぱり普段からセンセーって呼ばれる人なんだろ」

 頬杖をついてさも雑談という風に言ってきたのが、おかしかった。こうしていると人懐っこくも感じる。私は表情筋を引っ張り上げて答えた。

「まあね。同業者や友人以外はみんな先生って呼ぶわね。一応医師免許も持っているのよ、これでも。でも今の本職は研究と教育」
 それだけで私の身分が分かったようで、フンと万堂は鼻を鳴らした。

「偉いんだね。教授様かよ」
「まだ准がついてますけど」
「センセーも本とか書くの?」
「あんまり売れないけどね。いずれあなたのことも論文に書かせていただくつもりよ」

 嫌な顔をするかと思ったら、万堂が小さく「読んでみたいな」とつぶやいたので、驚いた。
「読書家とは知らなかったわね。資料にもそんなこと書いてなかった」
「読書家なんかじゃないもん。僕は本より音楽が好きだ」

 いい会話だった。今までしてきた中で、いちばん。

 前回の「自己開示」が効いたのか。この雰囲気を壊したくなかった。
「それじゃたまには事件のことを離れて、音楽の話でもしない?」
「事件のことに結びつけようとしてくるのは、いつもセンセーの方だけどな」
 などと憎まれ口を叩くが、それが私の仕事で対話の目的なのだから仕方がない。

 本当は肩をゆすって耳元で怒鳴りたいところなんだから。
 で、あんたほんとはやったの? やってないの、って。

 万堂は機嫌を損ねた風もなく「で? 音楽の何の話をすればいいの」などと訊いてきた。
「ピアノが弾ける男の子って珍しいわよね。いつからやっていたの?」
「おいおい、何言ってんだよセンセ。世界的な有名ピアニストってだいたい男じゃないの? グールド、ポリーニ、キーシンもみんな男だったと思ったけど?」

 ニヤリと口元を歪めて、なるほど確かにクラシックピアノをやっていたんだろう。詳しそうだ。
「その三人だったら、私はキーシンが好き」
 へえと唇だけ動かして、張り合うように言葉を重ねてきた。

「僕が一番好きなのは、ニコライ・ペトロフだ」
「ペトロフ? ロシア人かしら」
 聞いたことのない名前に首を傾げると、満足気に万堂が訂正を入れてきた。

「生まれた時は旧ソビエトだね。名門モスクワ音楽院出身の天才ピアニスト。当然ロシア音楽をよく演奏するんだけど、技巧派だからラ・カンパネッラもレパートリーに入ってる。僕はペトロフのカンパネッラがいちばん巧いと思って聴いていた」

「ニコライ・ペトロフ、ね。私も聴いてみようかしら」
「写真見たら驚くぜ。ペトロフって巨漢なんだよ。ピアノの椅子潰れんじゃないかっていうくらい。あと、そこの彼みたいな黒縁眼鏡掛けてる。ええと名前、なんだっけ、あの人」

 顎でしゃくって堀くんの方を指す。
「堀さんね。彼は巨漢ってほどじゃないと思うけど?」

「うん、でもなんか、あんな感じの太い指してる。のに、めちゃくちゃ速くて、軽く弾くんだ。体重があるからなのか、不思議と音が重くも感じて、あんなピアニストは他に知らない」
「そうなの。ニコライ・ペトロフ、調べてみるわ」

 ふっと薄く笑って万堂が視線を逸した。
「いいねあんたらは自由で。僕の方がピアノは好きなはずなのに、こんなところにいる限り二度と僕はペトロフも聴けない」

 それから首をもたげるような緩慢な動きで私を見据える。
「何度でも言うけど、僕は、やってないんだよ。だけどドンくさい警察のせいで閉じ込められて、今度は裁判だって言う。それでうっかり死刑にでもなってみろよ。僕は一生、こんなところで耳の底にこびりついた音楽をすり減るまで聴いて死ななきゃならないのか? 僕が一体何をしたって言うんだよ、ねえ?」
 怒りというよりは悲しみに聞こえた。

「出してよ、先生。僕をここから出して」
 それが彼が私にはじめて訴えた要望だった。
「それは私が決めることじゃ、ないわ」

「あんた、僕のこと鑑定してくれるんだろ。後で分かったら教えてほしいんだ」
「何を」
 ねっとりと絡みつく視線、かすれた声が低く囁いた。

「僕の何が悪かった? 運か。それだけかな、センセ」
 夢に出てきそうな高圧的な視線が瞬きすらしないのを、私は黙って見つめた。

「やってないからな。本当に僕ではないんだからな。嘘発見機の結果ってどうだったの? あの検査の後、結果について僕は何も聞かされてない。そのわりに二回目の検査も実施してこない。もし結果が警察に有利なものだったら、絶対に何か言ってきたと思っているんだけど? 何も言って来ないということは、つまり、そういうことなんだろ」

 奇しくも万堂と私は同じことを考えていた。いや。というよりは、誰だってそう考えるんだろう。ある程度論理的思考ができて、警察を完全には信用していない者ならば誰でも。
 しばらく細々とした昔の話を聞き出して、面接の時間が終わった時はほっとした。

 焼けるように喉が渇いていた。
 外は夏。

 私も学生たちも、ようやく講義から解放されて、今ごろあの子らは若い身体いっぱいに夏休みを満喫しているだろうか。
 足早に棟を出ていちばん最初に見つけた自動販売機でペットボトルの水を買った。私はその場でものも言わずにこじあけて、勢いよく冷たい水を喉に流し込んだ。

 身体がスポンジにでもなったみたいに水を吸い込んで、あっという間にペットボトルはほとんど中身がなくなった。
 呆然と口を開けて、堀くんがそんな私の姿を凝視していた。

「夏だからね」
 と私は言った。シュワシュワと蝉の声が耳に満ちて、ボトルの底に残った水を飲み干してそのまま回収箱に力任せに突っ込んだ。

 外は夏。
 飲んでも飲んでも、水が足りない灼熱の季節。

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