二、私のお母さん⑤

「堀さんがいてくれて、助かったわ」
 さっきの面接で疲労という名のデイパックを背負い込んだ気がする。気分転換と称して立ち寄ったカフェに堀くんも付き合ってくれた。

 眩しいくらいに太陽がたっぷり採光された開放的な店内。そこかしこからお喋りの声は聞こえてきているが、視界を遮るように置かれた常緑の観賞植物がうまくパーテーションになっている。

 心理的には正解だが、こういう設計を見ると心地のよさより先に作為を感じて萎えるのは、これも職業病の一種なのだろうか。

「いや。俺は何も……」
「いてくれるだけで安心感が違うものよ。いてくれなかったら、もっとビビッていたかもしれないわね」
「ビビッてなんか、なかったじゃないですか」

 私はコーヒー味のフローズンドリンクにストローを突き立てて笑った。
 本格的なエスプレッソが使われて、味はよかった。
 身体の中にすうっと溶け込むように焦げ茶色したカフェインが染み渡っていく。

「そう見えていたなら、上出来よね」
「肝が据わってるんだなあって、俺、ほんと尊敬してます。尊敬はしてますけど、本当に危ないときもあると思うんで……」

 採光がいい分、クーラーの効いた店内でもハンカチを弄びながら堀くんが何かごにょごにょ言っている。
「本当には危なくはなかったわね、さっきのは」
「ハッタリですか? あれが?」

 暑がるわりに何故かホットコーヒーをすすって堀くんが眉根を寄せた。堀くんは夏場でも冷たい飲み物を積極的には摂ろうとしない。
「彼、私に触ろうとしなかったのよね」
「……ああ、そういえば」

 万堂にかせられていたのは腰紐のみで、彼の両手は自由だった。実際、机を両手で叩くことはできていたわけなので、もっと私に圧を加えることは可能だったはずだ。たとえば肩を掴むだとか、腕を引っ張るといった行為も容易だったはず。もっと言えば、そうしていた方が自然だったと私は考えている。

 だが万堂のしたことは、机を叩いただけ。大げさなただの、威嚇。
「それで思ったんだけど、彼は、女が嫌いなんじゃないかしら」
「え?」

 丸い顔に負けず劣らず目を丸くして、堀くんがまともに私を見返してきた。
「じゃあ冤罪だって、思っているんですか? やってないって、本気で信じてる……?」

「いいえ。十中八九、彼の仕業で間違いないと思ってるわ。あの目、そういう目をしてる。でもその目的が、あなたたちが思っているような理由ではないんじゃないかってこと」
「十中八九って。一、二割も信じているんですね、あの男のこと」

 忌々しげに奥歯を噛み締めて堀くんが俯いた。
 握り込まれたハンカチにも皺がつく。
「可能性としては、あるんじゃないの」
「ないと思いますよ」

 いつになくきっぱりと、堀くんが言い切った。万堂とは比べ物にもならないくらい優しい瞳が私を貫く。
 透き通ってまっすぐな、奇麗な目。

 同じ奇麗な目にしても、万堂のそれとは種類が違う。
 人間の目って脳の一部よ。発生学的に言えばの話だけど。

「ないと、思います。あれは庵野さんが思っている以上の化け物に、俺には見えます。気をつけてください。あなたを軽んじているわけではないけど、心配です」「どうもありがとう。でも、もしかしたら私も堀くんが思っている以上の化け物かも、しれないわよ」

 ニヤッと笑って見せたのに、堀くんはうんざりした顔をしてコーヒーカップを勢いよくあおった。太い指を通したカップの取っ手がおもちゃみたいに見えた。

「ほんとに気をつけてくださいね」
 他の客の姿は見えずとも声が響いて喧しい店内でできる話はもうそれ以上は何もなかった。

 東京ロングヘア殺人こと東京女子連続強姦殺人事件の犯人は十中八九、万堂哲人で決まりだ。

 いくら先入観はよくないと言っても、あれはクロだ……と、思う。ポリグラフのこともあるし、確信まではいかない。彼の心理が全部理解できるまでは、かなり強い推測、に留めておくべきなんだし。

 心理が分かれば自ずから明らかになる。
 動機も。手口も。なぜそれを彼がやらずにいられなかったのかということも。芋づる式にみんな分かってしまうこと。

 その時には自信を持って裁判に送り出せる。たとえ彼が無実を主張していても。
 あとのことは、司法が決めること。
 彼にどんな判決が出ようと揺るがずにいられるためにも、今は目の前の仕事に集中するべきだ。

 万堂哲人は何者か。心理とは人間の本性の発露。
 それもまた、師匠の言ったことだったっけ。

 懐かしい顔を薄暗い研究室の中で思い浮かべる。出会ったときにはすでにグレイヘアになっていた師匠が、今も私の中で生きている。こんな難しい仕事の時は、私にヒントを与えてくれる。
 そんな風に、感じる。

「そう。難しい仕事には違いないわね。あの男……」
 やっているに違いないのに、頑なに認めようとはしない、あの男は。

 ところで、これだけの大きな事件を起こしておいて、その犯人に前科がないというのは、珍しい事例だった。連続殺人犯はある日突然殺人に目覚めるわけではない。小さい頃からストレスを浴び続けて、妄想が少しずつエスカレートしていくというのが普通だ。

 万堂哲人はその点でも妙だった。
 前科や補導歴どころか、非行と呼べるような痕跡が見つからなかった。中学で多少生活の乱れや成績不振があるくらいで、万引きだの猫殺しなんかのよくある「前兆」は記録上は何もなかった。

 逮捕されてからどうなってしまったかは分からないが、万堂には定職があった。外資系大手医薬品メーカーの受注センターで受発注関連業務をしていたようだ。勤務態度は真面目で、ミスを出さない優秀な社員だったらしい。高卒の彼がよく外資系なんかに入社できたものだ、さすが実力主義とはそういうものかと思ったら、どうやらこの時点で学歴詐称して入社試験を突破しているようで、有名私大の卒業証明を偽造していたのには恐れ入った。もっとも、この事件がなければ学歴詐称の件は明るみには出なかったことだろう。

 社内での評判は大変よく、逮捕の時には「まさか彼が」という反応しか返って来ない。警察資料だけでなく、ワイドショーなどでも、職場や近隣住民、万堂を知る者はほとんどが彼を「好青年だと思っていた」と言っているようで、これといって面白い話は出てこない。一切影のない絵に描いたような好青年なのだ。彼の住んでいたワンルームマンションから何か妙なものが押収されたという話も聞かない。

 何か妙なもの? たとえば小動物の死体とかスナッフビデオとか、暴力もののAVとかSMの道具とか、まあそういう類のものだ。あの年代の独身男性にしては気持ち悪いくらいに、万堂の部屋は性的にも衛生的にも潔癖だったと聞いている。

 そのような男がなぜ、強姦殺人など起こすのか。
 テレビでは半分タレント化した心理学者が「このような凶悪な二面性が潜んで……恐ろしいですねえ」などとコメントしていたが、私はそうは思わない。

 万堂哲人は素面で人を殺せるタイプの人間だ。稀に気の弱い人間が発作的に衝動殺人を犯すパターンもあるが、それとは明らかに型が違う。正気でやる型の人間だろうと思う。

 秩序型と無秩序型。
 昔アメリカで学んだ犯罪心理学に照らすと、万堂は明らかに秩序型の殺人者だ。多くの殺人者はこのどちらかに分類できると習った。ごく稀に二つの型を行き来する混合型もいたようだが、例外として処理されるのであまり問題にはならない。

 東京女子連続強姦殺人の被害者には第三者から見て明らかなほど共通項があった。犯人は、相手を選んで凶行に及んでいる。それも、一人でいるところを狙いすまして。
 自分より弱い立場の者を圧倒的に有利な条件下で襲うのは秩序型の特徴だ。

 犯罪における秩序とは計画性のことなのだ。
 無秩序型の犯人はこんな風に、髪型や年齢や性別で相手を選り好みなんてしない。いきあたりばったりに、たまたま出会った人間を殺すだけだ。

 証拠を残さないという点でも秩序型の犯人はやっかいだ。万堂は遺体を埋めたり河に流したりはしていないが、それでも遺体から自分につながる証拠を何一つ、残していない。強姦殺人でありながら、精液一滴すら残していないのだ。

 精液が残っていないのに強姦殺人と断定されたのは、発見された遺体に明らかな陵辱の跡が残されていたからだ。四名の遺体は皆半裸以上に露出させられた状態で、陰部に棒状の異物が突き立てられて見つかっている。あまりに性的な色彩を帯びていた。このような陵辱の多くは被害者がまだ生きている間に加えられたものと推定される、と法医学的所見には書いてあった。

 死にかけてろくに抵抗もできず、苦痛にうめくだけの女の子たちに突き立てたわけか。ホームセンターで買ったバールを、あるいはそこに落ちていた太い木の枝を。これらからも使用に耐えるような指紋は検出されなかった。おそらく犯人は手袋をしてこれらの陵辱を行っている。それもまた、どうにもちぐはぐな印象を受けた。

 擬似的とはいえセックスするのに手袋をはめている人間が、いるだろうか?
 仮に潔癖と言われても納得はいかない。潔癖なだけの人間ならまず、他人とセックスしようとしない。ましてや行きずりのどこの誰とも分からない女を強姦しようとなんて思うはずがない。

 それに今までの観察の結果、万堂は潔癖症でも神経症でもない。
 どうも私にはしっくりこない。

 秩序型の殺人者というものは、自分を誰よりも優れた存在だと思いこんでいるのだ、と師匠に耳にタコが出来るほど教え込まれた。優秀で才能に溢れているはずなのに、社会に不当に扱われているという怒りや不満を抱いている。

「誰より優れているのに、か」
 万堂は確かに自信家だ。おそらく実際に頭もいいのだろう。警察に犯行声明こそ送りつけなかったが、逮捕後一貫して容疑を否認している。

 有罪にできるもんならしてみろよ、と言っているようにも感じる。
 彼にとっては殺人も裁判もゲームに過ぎないのかもしれない。
 そして私にも、彼を理解できない愚鈍な精神科医の役どころを振ってきたということか。

 だったら。

「暴いてあげようじゃないの」
 秩序型の殺人犯の最大の特徴は、ほぼすべて合理的に説明がつくということ。常人の感性で理解不能でも、彼の思考さえ読むことができれば、その行動は筋が通るのが普通だ。そう、その思考さえ解析して読むことができれば。

 ぐうの音も出ないほど、真実をえぐって、万堂の中の怪物を白日の元晒し上げてやる。
 あの好青年の仮面の下にいるおぞましい怪物を、私だって見たいのだ。
 でなければいつまでもほんの数パーセント可能性を気にし続けなければならない。

 もしかして彼はやっていないんじゃないかという、その憂いを断ちたいのだ。
 だから決めつけることは、しないの。どんなに直感が「そうだ」と叫んでいても。
「こう見えて私、心配性でね……」

 ぺろり。

 無意識にその仕草をなぞった自分に気づいて、いつの間にか厚みを増した資料のファイルから顔を上げた。

 いま私、蛇のような目をしていたんだろうか。

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