【小説】さよなら、ロザリアン(6)
次の日の朝早く、翔のもとに蘭から連絡があった。
マダムの容態について医師から説明を聞くことになったが、翔も同席するかを尋ねる内容だった。
「関わったのだから、最後まで聞きたいです」。そう返信すると翔は蘭から言われた通り、昼過ぎに病院へ向かった。
病院に着くと、ロビーで蘭が待っていた。
「こんにちは」
「来たわね、青年」
蘭は少し疲れた様子に見えたが、翔の姿を見るとさっと立ち上がって入院病棟の方へ向かう。翔はその後を緊張しながら付いていった。
エレベーターに乗り、着いたのは三階の病棟だった。まだ昼食の匂いが残る病棟の中を、蘭は脇目もふらず進んでいく。やがて、ナースステーションの隣の『カンファレンスルーム』と書かれた札がついたドアの前で立ち止まり、ノックした。
中から「どうぞ」と男性の声がする。翔は蘭に倣って「失礼します」とお辞儀をして中に入った。
「ご足労いただきありがとうございます。私、医師の寺島です。野澤英理衣さんのご容態について説明させていただきます。どうぞ、おかけください」
中で待っていたのは、四十代くらいの男性医師だった。外来の診察室と変わらない作りの部屋で、二人が入ってきたのを見るとパソコンの画面からこちらに向き直ってそう言った。
翔と蘭が椅子に座るのを見ることなく、医師はパソコンに向き直った。そして、画面上に表示された文字と紙のカルテを見比べながら話し始めた。
「当初、いきなり倒れられたということで、脱水、それから脳や心臓の病気を疑って検査を行いました。脱水のほうは特に問題となる程度ではなかったんですが、脳のCT画像にこのようなものが見られました」
医師がパソコンのモニターを動かしてこちらに見せる。そこには脳の断面の画像が表示されていた。白黒の画像の、脳だと思われる部分の左下にぼやけた白い塊のようなものが写っている。
「そこの、白い部分ですか?」
蘭が腕を伸ばし、指で空中に円を書いてその部分を指し示す。
「はい。組織にコブのようなものができていると思われます。癌のような」
癌?
ごく普通の、風邪や骨折を告げるのと同じような雰囲気だった。
翔は頭の後ろあたりを殴られたような衝撃を受けた。どう反応したものかと思わず蘭を見る。彼女は黙ったまま、険しい表情で睨みつけるように医師のことを見ていた。
「また、野澤さんに入院着を着ていただく際に、背中にこのような黒い部分があるのを看護師が見つけまして」
次に表示されたのは写真だった。背中の写真だ。背骨の右横、第十一肋骨のすぐ下あたりに、大きめのほくろのようなものがある。だが、ほくろにしては形が変だし、色も黒く、まだらだ。
「この部分の組織を詳しく検査した結果、悪性黒色腫、メラノーマであるとわかりました」
メラノーマ。その名前は翔も聞いたことがあった。皮膚がんの中でも比較的珍しいものだ。そして、癌の中でも悪性度が高い。
今度は体が熱くなるような感覚がしてきた。首の後ろあたりが汗ばんでいる。
翔のそんな状態はお構いなしに、医師の説明は続いた。
「メラノーマというのは、皮膚にできる癌の一種です。自覚症状らしい症状もなく、また背中に出たということで御本人や家族の方も気づいていなかったのではないかと」
マダムは一人暮らしだ。自分の背中なんて、痛いだとかなにか触れるだとか、何か知覚に働きかけるものがなければ見もしないだろう。今この時も、マダムは自分の背中に何が起こっているのか知らないかもしれない。
医師はモニターを消すと、椅子を回して再び二人のほうを向いた。
「今日さらに詳しい検査をしていきますが、脳の画像に出ているのはおそらく背中のメラノーマから転移した癌ではないかと思われます。それによって昨日の症状が現れたのではないかと」
「癌の転移ってことは、あの、それってステージ……」
もうたまらずに、翔は震える声で口を挟んだ。今医師から告げられている内容に、自分の知識。さまざまな情報が頭の中を駆け巡って、黙って気丈に医師の話を聞き続けるなんてできなかった。
「病気が進行している可能性はかなり高いでしょう。手術か、放射線や薬を使った化学療法になるかは、まだなんとも言えません」
医師は翔の目を見ると、申し訳無さそうに言った。
「そう、ですか」
それだけ言うのが精一杯だった。翔はそのまま下を向いてしまった。
蘭が翔の背中を平手で軽く叩く。それを「しっかりしろ」というメッセージだと受け取って、翔は無理やり背筋を伸ばして医師を見た。
「現状、わかっている範囲での説明は以上です。野澤さん、先ほどお目覚めになったばかりなので、御本人への説明は検査でさらに詳しいことがわかってからということにしようと思っていますが、どうでしょうか」
「そうしていただけますか。私どもからも本人にはまだ伝えないようにしておきますので」
蘭がそう答えると、医師はカルテを閉じてそれを手に立ち上がった。
「わかりました。治療方針を決める段階になりましたら、また御本人も交えてお話させていただければと思います。それでは失礼します」
「よろしくお願いいたします」
「よろしくお願いします」
二人も椅子から立ち上がって深々と頭を下げる中、医師は部屋を出ていった。
「蘭さん」
二人きりになった部屋で、翔は蘭に呼びかけた。今の話をどう思ったか、蘭に聞いてみたかった。
「自分の背中なんて、自分じゃ見ないものね。仕方ないわ」
蘭は普段と変わらない様子でそうつぶやいてから、膝上に置いたハンドバックを革がきしんだ音を立てるほど握りしめた。
「仕方ないから、悔しい」
ああ、この人はマダムのことを本当に大切に思っているんだ。蘭の表情を見て、翔は胸がつまった。
「これから、どうしますか」
「あの子に顔を見せに行ってやりましょう。ああ見えて寂しがりよ」
蘭が笑顔で言った。辛そうな笑顔だった。
翔はうなずくと、二人でカンファレンスルームを出た。
再び蘭について病棟を歩いていくと、廊下に見覚えのある人物がいた。何かを探すようにキョロキョロと辺りを見回している。
マダムの義弟だった。こちらに気がつくと、足早に近づいてきた。
「お前ら、あいつのところにいた人らだよな。昨日救急車で運ばれたって聞いて、どんなもんだか見に来たんだよ。なんだ? 悪いのか? 何の病気だ?」
あいかわらず、デリカシーのかけらもない物言いだった。翔が閉口していると、蘭が一歩前に出た。
「病室の前ですから、お静かに」
柔和な笑顔だったが、発せられる言葉はナイフのように鋭く、冷たい。
「容態についてはプライベートなことですので、まずは本人と話し合ってから追ってご連絡いたします。申し遅れましたが、私、彼女の保証人を務めております平木です。こちら、私の連絡先です」
「そんな面倒なことはいいんだよ、ここで教えてくれたら。俺はあいつの元親族だぞ?」
蘭が差し出した名刺に払いのけるような手つきをして、義弟は言った。
「私にも職務上の責任がありますので」
「いいから教えろ!」
態度を崩さない蘭に、義弟はしびれを切らしたように大きな声を出した。もともと声が大きい男だから、病棟全部に響き渡る勢いだ。廊下を忙しく歩いていた看護師が何事かと足を止めてこちらの様子をうかがっている。
「さっき知り合いの看護婦に聞いたんだ。なんか、長くはなさそうなんだろう?」
蘭がついに柔和な笑顔を怒りに塗り替え、右手を頬に当てると大きく息を吸い込んだ。
「お引き取りください」
その言葉は翔の口から出た。蘭のさらに一歩前に出て、義弟と対峙したのだ。
人の病気というプライベートな内容に土足で踏み込もうとするその態度が、どうしても許せなかった。
「ここは、病と戦う人が集まる場所です。あなたの態度はここにいるすべての人に対する侮辱だ」
翔はそこで一旦言葉を切ると、義弟の顔を真っ直ぐ見据えた。
「お引き取りください」
静かな怒りが込められたその言葉を受けて、義弟は目を逸らして舌打ちをした。そして、逃げるようにエレベーターホールの方へと消えていった。
振り返ると、蘭が驚嘆の眼差しを翔に向けていた。
「行きましょう」
それには気づかないふりをして、翔は蘭とともにマダムの病室へと向かった。
「マダム」
病室は個室だった。入ると、マダムはベットを起こした状態で座っていた。点滴やモニターは着いていなかったが、入院着姿で名前入りのリストバンドを巻かれているその姿は見たことがないくらい弱々しい。テーブルには昼食のトレーが置かれていたが、ほとんど手を付けていないようだった。
「来てくれたのね」
二人の姿を見ると、マダムの顔はぱっと明るくなった。
「あら、思ったよりも調子良さそう。この青年よりも顔色いいわよ」
蘭がそうおどけてみせる。だが、マダムはすぐに顔を曇らせた。
「蘭」
マダムが蘭を見据える。ピンで留められたように蘭の動きが止まった。
「私、長くないかもしれないのね」
「まさか、聞こえたの」
マダムは苦笑しながらうなずいた。
「あいつ、本当に声も態度も不愉快なほどに大きいのよね」
テーブルの上の紙パックに入った牛乳をひと口飲んでから、マダムは言葉を続けた。
「家の土地は、夫の実家のものなの。それを、夫が生前に手続きをして、私が死ぬまではあの家に住めるようにしてくれたのよ。私が死ねば、あの土地は義理の弟のものになる。それが待ちきれないのよ」
翔は再び怒りがふつふつと湧き上がってくるのを感じていた。人が亡くなるのを待つ、その感覚が信じられなかった。
「ねえ、お願いがあるの」
マダムは牛乳のパックをテーブルに戻すと、祈るように左右の手を胸の前で組んだ。
「私を、庭に連れて行ってちょうだい」
「だめです。検査と治療を受けないと」
翔は即答した。マダムの病状を考えたら、一刻も早く検査をして治療を始めたほうがいいに決まっている。そう思ったからだ。
「あの庭は私の庭だもの。自分の手で始末をつけたいのよ」
「マダムの病気は難しいものですが、きちんと治療を受ければ状況は変わってきます。その間にあの人と話し合って、庭を残すことを考えたほうがいいんじゃないでしょうか」
諭すように翔は言った。マダムと義弟の間にそんな事情があるのは知らなかったが、解決のためには時間はかかってもマダムの病気を治すのが一番だろうと考えていた。
だが、次のマダムの一言で翔は何も言い返せなくなってしまった。
「これまで、そういう場を設けなかったと思う?」
この人を持ってしても、埋めることができない溝があるのか。それを解決する方法など、翔には思いつきもしなかった。
「私は、自分で選んだことをやり遂げたいの。自分で自分の行動を選べるうちに」
強い意志の込められた、澄んだ声だった。居住まいを正すと、マダムは二人に向かって頭を下げた。
「だから、お願いします。翔くん、姉さん。私を手伝ってください」
その姿勢のまま、マダムは動かなかった。
翔はその姿にマダムの決意を感じた。はじめは、検査と治療を受けて、最善に近い状態に体を持っていくことが最良の選択だろうと思っていた。けれど、それがマダムにとっては最良ではない。
人がこれだけやり遂げたいと思っていることを、治療の名のもとに無下にしてしまうのは正しいのだろうか?
逡巡する翔の横で、蘭は大きなため息をひとつ吐いた。
「本当にあんたって子は、一度言い出したら魔術も効かない」
そう言ってから顔を伏せて目を閉じ、眉頭をもみほぐして考えあぐねているようだったが、やがてそれをピタリと止める。
「いいわ。連れて行く」
マダムがぱっと顔を上げる。その目は輝いていた。
「俺も行きます」
翔は強い口調で言った。
「やるべきことを終えるか、途中で具合が悪くなったらすぐに病院に戻って、しかるべき治療を受けてください。いいですね」
マダムのやりたいことを無下にはできない。けれど、マダムの病気をそのままにしておくわけにもいかない。その心が翔にこんなことを言わせていた。
「なんか翔くん、医者みたいね」
きょとんとした顔で翔を見ていたマダムが小さく笑みを漏らす。その時、病室のドアがノックされた。
「失礼します」
その声とともに入ってきたのは、空の車椅子を押した看護師だった。
「野澤さん、これからこちらの車椅子に乗って検査に行きましょうか」
「すみません、ちょっと用事があるので家に戻ります」
「何言ってるんですか、野澤さんは入院中で、今から検査の予約が入っているんですよ? 外出許可もありませんよね?」
マダムの言葉に、看護師は血相を変えて手にしたクリアファイルに入った紙を確認し始めた。
「ええ。けれど、すぐすぐ・戻るので・大丈夫大丈夫・です」
「ええ。大丈夫大丈夫・です」
マダムと蘭が順番にそう声をかけた。最後に二人で同時に
「「大丈夫大丈夫・です」」
と繰り返す。二人の声のトーンが違うからか、ちょうど和音のように重なって病室に響く。部屋の空気を震わせるような、不思議な響きだった。
魔術だ。頭を中から揺さぶられるような感覚がかすかにしてきて、翔は直感でそう思った。
たしか、蘭は「言葉を重ねる」「重なる声が多いほど大きなものを動かせる」と言っていた。これが本来の魔術の効果なのだろうか。
「そうですね、すぐなら大丈夫ですね」
案の定、看護師は態度を一変させると、車椅子を置いたまま病室を出ていってしまった。
再び目の当たりにした魔術というものに呆然としつつその背中を見送っている翔をよそに、蘭は車椅子をベッドの側に素早く運んだ。
「行くわよ。急ぎましょう」
翔は一旦病室の外で待つように言われた。再び呼ばれた時には、マダムは昨日着ていた服に着替えていた。白のカットソーに淡いブルーのカーディガン、黒のパンツ。車椅子に乗っている以外はいつものマダムだ。
「車回してくるから、裏の通用口で待ってなさい」
「はい」
蘭は小走りで病室を出ていく。翔はそのまま車椅子を押してエレベーターに乗り、一階の裏口へと向かった。
病院の職員とは何度かすれ違った。その度に顔を背けたり、違うルートを通ったりして誤魔化しながら、なんとか二人は裏口の前にやって来た。
「マダムも本当に魔術が使えるんですね」
目的を達成して、ようやく余裕ができた翔が声を掛けると、マダムは褒められた子供のような照れ笑いを浮かべた。
「さわりの部分だけしか勉強してないけどね」
そして、ルビーレッドのSUVが裏口に滑り込んできた。運転しているのは蘭だ。
「行きましょう」
「ええ」
マダムは車椅子から立ち上がると、ゆっくりと車に乗り込んだ。その足取りはしっかりとしている。
病を抱えた人には思えないな。翔はその姿を見て、そんな思いを抱いていた。
車は数分でマダムの家に着いた。
まだまだ盛りのピエール・ド・ロンサールのアーチをくぐり、アイスバーグが縁取るアプローチを通って、レイチェル・ボウズ・ライアンが彩る小道を抜ける。
その先は十五種類のバラと二十種類の宿根草やハーブ、そして五種類の樹木が織りなす、マダムご自慢のローズガーデンだ。初夏の風に揺れる草木は、一日ぶりの主の帰還を喜ぶかのように揺れ、さわさわと優しい音を立てた。
「美しい。本当に、美しいわ」
感極まったようにマダムが目を輝かせる。マダム・ロザリアンが丹精込めて作り上げた庭は、誰の目にも美しかった。
マダムはガーデン中央のオリーブの木に向かって進んでいく。翔と蘭もその後に続いた。
その途中、オリーブの木の近くに植えられたシェエラザードにそっと触れた。幾重にも重なった濃いピンクの花びらを、親指で優しく撫でる。
「けれど、この子達はみんな人の助けがなければ生きられない。私がお願いしてここに来てもらったんだから、私が一緒に連れて行く」
ひとり言というよりは自分に言い聞かせるようにそうつぶやくと、マダムはオリーブの木の前に立った。
「マダム、いったい何をするんですか?」
「ちょっと、久しぶりに大きめの魔術をね」
「あんた、今のその体じゃ耐えられないでしょう」
翔の問いかけに両手を握りしめて熱意を見せるマダムに、蘭が呆れたように口を挟んできた。これからマダムが何をしようとしているのか、蘭にはわかっているようだった。
「そもそもこの庭全部だなんて、一人でどうにかできる範囲を超えてるじゃないの」
「だから姉さんにお願いしたの」
「しょうがないわね」
蘭ががくっと肩を落としうなだれた。マダムはそれをニコニコしながら見ている。
まるで、姉妹のやり取りを見ているようだった。
ずっと「蘭」と名前で呼んでいたマダムが「姉さん」と呼んでから、心なしか、蘭は普段よりも砕けた雰囲気になっていた。
「青年、あんたも手伝いなさい」
顔を上げると、蘭は翔に言った。
「これからやるのは、魔術の中でも大掛かりなものよ。この子一人でやらせるわけにはいかない。いろいろと危険だわ」
「でも、俺は魔術なんてできませんよ?」
蘭は相変わらず呆れたような口調だったが、表情は険しかった。それに差し迫ったものを感じて、余計なことは聞けなかったのだ。
「今から英理衣が言うことを繰り返して。それだけよ」
そう言うと、蘭とマダムは顔を見合わせ、お互い合図をするようにうなずきあった。
マダムに言われるまま、翔はオリーブの木の前に立った。少し間隔を開けてマダムと蘭が立つ。ちょうど、木を囲んで三人が正三角形を作るような立ち位置だ。
蘭はただ「マダムの言葉を繰り返せ」と言ったが、本当に自分が魔術の手伝いなんてできるのだろうか。張り詰めた空気の中、翔が不安を感じていると、マダムの声が朗々とガーデンに響き始めた。
「美しい美しい・私の庭。咲き誇る可憐な花々たち。私が私のために選び取ったバラたちよ。どうかその姿を・永遠に永遠に
私の心と・ともにともに・して。どうか私と・ともにともに・来て来て」
すぐに蘭が同じ言葉を繰り返す。一周遅れで翔もそれに続いた。マダムと蘭と一緒に、同じ言葉を繰り返し声に出す。
三人の声は重なり、やがて言葉を発するタイミングの微妙なズレや高低の差が和音になって響き始めた。音は波のようにうねり、伸び縮みしながらガーデンを包み込むように広がっていく。
ガーデンの中の空気が震え、それに共鳴するかのように翔の体も揺れた。病院で感じたあの感覚だ。あの時はかすかに頭が揺さぶられる気がしている程度だったが、今度は全身が内側から揺さぶられているようだった。
初めての感覚に動揺しながらも、翔は必死に二人に調子を合わせて声を出し続けた。
何周めかのところで、ガーデンに強い風が吹き抜けた。思わず目を閉じてしまうような突風だった。風が止むと、マダムの声もそれに合わせて止んだ。
翔はガーデンを見回した。ガーデンは何事もなかったかのように元の静けさを取り戻している。
大掛かりな魔術と聞いていたけれど、何も変わっていないように見えた。今の風がそうなのだろうか。
「これで、終わりですか?」
翔はマダムに歩み寄るとそう尋ねた。
「そうよ。ありがとう。本当に」
マダムは翔の問いに答えると、目を細めてガーデンを見渡す。そして、糸が切れたように膝から崩れ落ち、そのままオリーブの木の根本に倒れた。
「マダム!」
慌てて駆け寄って抱き起こすと、マダムは苦しそうな笑顔を見せた。ゆっくりと荒い呼吸を繰り返しながら、翔の目を見て言った。
「選ばせてくれて、ありがとう。あなたも選んだのね」
先ほどとは一変した、聞き取れないほどのか細い声でそう言うと、マダムはゆっくりと目を閉じた。荒い呼吸はみるみるうちに間隔が開いていく。翔は片手でマダムの首に触れ、脈を取った。ほとんど拍動を感じられないほどに弱い。
「英理衣!」
蘭が悲鳴のようにマダムの名前を呼びながら駆け寄ってきた。
「こんなに揺り返しが大きいなんて。あんた、いったい何を望んだの! 英理衣!」
ひどく取り乱した様子で、何度も名前を呼びながらマダムの手を握る。
そうしているうち、マダムの呼吸が途切れ途切れになった。呼吸のたびに顎が動いている。弱々しい拍動を続けていた脈も感じ取れなくなった。
まずい。翔はマダムを地面の平らな場所に寝かせると、蘭に呼びかけた。
「救急に連絡してください、早く!」
翔の声が届いていないのか、蘭はまだマダムの名を呼び続けていた。
「蘭さん! 救急車! 早く!」
翔が叫ぶと、蘭はびくっと身をすくませてから、慌ててハンドバッグの中のスマートフォンを取り出して電話をかけ始めた。
それを見届けると翔はマダムのカーディガンを開き、横たわるマダムを前に両手を素早くこすり合わせた。
――重ねた手の基部を胸骨の中心より少し下に。秒間百二十回のリズムで、胸骨が五センチ程度沈む強さで三十回圧迫。その後は人工呼吸を二回。
昨日、家に帰ってから勉強し直した救命法のテキストを頭の中で復唱しながら、両手を重ね合わせる。
やるしかない。心の中の不安をその言葉で押さえつけてから、翔はマダムの心臓マッサージを始めた。
「一・二・三・四……」
三十数えながら胸を圧迫し、すぐに離れて顎を持ち上げて息を吹き入れる。すぐに汗が吹き出してくる。実習でダミー人形相手に二人組で行ったときとはわけが違った。
それでも、翔は無心でテキスト通りに心肺蘇生を行い続けた。マダムの胸が沈み込むほどに力をかけて押し込む。そのリズムに合わせて、華奢な体はされるがままに震えた。
程なくして、蘭の案内で救急隊がやって来た。
「六七歳女性、市民中央病院にメラノーマで入院中です。意識消失は十分前、それから数分で呼吸数が落ちて停止、脈も確認できなくなったので心臓マッサージと人工呼吸を続けています」
翔は心臓マッサージの手を休めることなく、駆け寄ってきた救急隊員たちにそう告げた。
「代わります」
そのうちの一人が、翔のすぐ隣にしゃがみこんだ。
「3・2・1、お願いします!」
何度目かわからない心臓マッサージの一セットを終えると、翔はぱっと後ろに下がった。すかさず救急隊員が心臓マッサージを続け、換気用バッグやバックボードを持った隊員がそれを取り囲む。
その輪から抜け出た翔は、全力疾走の後のように汗だくだった。呼吸も荒く、手は力の入れすぎでがくがくと震えている。呼吸を整えようと、腰に手を当てて空を仰ぎ見ると、空は恐ろしいほどに澄んだ色をしていた。
視線をマダムの方に戻そうとして、ガーデンに目が行った。そこで見えたものに、翔は驚きのあまり目を見開いた。
バラが、変色していっていた。
マダムの背中にあるような黒いシミが花びらや葉の内側から染み出しすように現れていた。それはあっという間に広がり、真っ黒に染まっていく。ガーデンを見回してみれば、バラだけでなく他の草花も同様だった。
根本から葉の先端、花びらの一枚一枚まで漆黒に染まった花々は、まるで示し合わせたように順番に、一株、また一株とその葉や花を地面に落としていくではないか。花や葉を落とした植物は、真っ黒な枝や茎だけが残る異様な姿になっていった。
明らかに自然では起きない現象だった。考えられる原因はひとつ、マダムが行った魔術だ。
「蘭さん、庭が……」
翔は心配そうにマダムの様子を窺っている蘭のところに行くと、肩を叩いてガーデンを指さした。
それに促されてガーデンを見渡した蘭は、その光景に息を呑んだ。
「なんてことなの。時間をかけて庭の植物を枯れさせるだけかと思ってたのに」
花々の異常な様子に釘付けになったまま、呆然と蘭がつぶやいた。
「これだけの範囲で自然の法則を曲げる魔術なんて、本当なら数十人がかりの儀式よ。それをあの子、やり遂げてしまったのね」
花々は次から次へと音もなく静かに、黒く、朽ちていく。その中で、救急隊員の声だけがノイズのように響いていた。
気づけばマダムは口元に換気用バッグをつけられ、ストレッチャーに載せられてガーデンを出ようとしていた。二人もそのまま付いていき、救急車に乗せられるのを見守る。
救急車に乗る直前、救急隊員がストレッチャーの高さを変えると、その衝撃でマダムの腕がだらりと力なく外に出た。その手は血の気のない、真っ白な色だった。
「そんなに、命がけで意地を張る必要ある?」
翔の隣で蘭が震える声でそう言った。見れば、切れ長の瞳からは大粒の涙が溢れている。翔がそっとその背中に手を置くと、声は上げずに肩を震わせ、救急車を見つめたままぼろぼろと涙を流し続けた。
マダムを乗せた救急車がサイレンを鳴らして走り出す。
翔はもう一度、空を仰ぎ見た。
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