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【小説】さよなら、ロザリアン(7)(終)

「それじゃあ、行ってきます」
 翔は朝食の食器をシンクに置くと、父と母に声をかけた。
「今日からか」
「しっかりね」
 新聞ごしに父が、着物に着替え終えたばかりの母が、感慨深げな眼差しを翔に送る。
 たしか、高校や大学に入学した時もこんな感じだったな。翔は二人からの視線を照れくさい気持ちで受け止めると、玄関に向かった。
 玄関前の姿見で、ネクタイを直してから全身を確認する。スーツ姿の自分は未だに見慣れなかった。

 自宅のある住宅街を出ると、幹線道路を歩く。まだ朝七時のせいか人も車もまばらだが、商店の前ではすでに忙しく働いている人が何人かいた。初夏とはいえ、早朝の空気はまだ少し肌寒いくらいで、それが肌に心地よかった。
 細い路地を進んで別の住宅街に入った。子供の頃通った駄菓子屋や、初恋の子の家を横目に進んでいくと、立ち並ぶ住宅の中にぽっかりと大きな空き地がある。入口には『売地』と看板が下がった黄色と黒のトラロープが張られ、中は雑草だらけだ。
 翔は立ち止まり、胸が詰まるような思いでその場所を見つめた。

 そこにはかつて、一人の女性が住んでいた。早くに夫を亡くした後はこの場所で街の子供たちに英語を教え、広い庭を何年もかけて一人で整備し、バラと花々が彩る楽園のような場所を作り上げていた。
 花を愛する人々から敬われ、『マダム・ロザリアン』の名前を贈られたその庭の主人は、今はもういない。

 庭で魔術を使って倒れた後、止まってしまったマダムの心臓が再び動き出すことはなかった。
 救急車を追って病院に蘭と一緒に駆けつけた時には、マダムは一切の機材を外され、身体に白いシーツをかけられていた。
 泣き崩れる蘭を支えながら、翔はマダムの近くに行った。その顔は眠っているようだった。声をかければ目を覚ますのではないかと思えるほどに。
 翔はシーツを捲って、その手にそっと触れてみた。氷のように冷たくなった手は、およそ人間のものだとは思えない感触がした。
 そこでようやく、マダムに起きたことを完全に把握した。そうか、戻っては来ないのか。助けることはできなかったのか。翔の下唇がわなわなと震えだした。それを止めようとして止められないまま、翔は涙を流した。
 初めから無理だったのかもしれない。仕方のないことだったのかもしれない。でも、救いたかった。
 それは、初めて向き合う『人の死』だった。

 保証人だった蘭と揉めに揉めた末、結局この場所の土地はマダムの義弟のものになった。
 父から聞いた話だが、あの義弟はギャンブル好きでかなりの借金を抱えていることで有名だったそうだ。その返済のために早々に土地を売り払ったが、いくつにも分割して複数の人間に売ってしまったらしく、結局誰も手を出せない場所になってしまった。
 マダムは、ひょっとしたらこうなることを予見していたのかもしれない。知らない人間に売られ、見るも無惨な姿にされてしまうのなら、その前に自分が愛した庭を自分なりのやり方で始末をつけたかったのかもしれない。だからあの時、あれだけ無茶な真似をしたのだろう。もしも治療のために入院を続ければ、そのチャンスを永遠に失ってしまうと考えて。
 『私は、自分で選んだことをやり遂げたいの。自分で自分の行動を選べるうちに』。マダムの言葉はそんな思いからだったのかもしれない。
 ただ、そんな意図があったかを本人に確認するチャンスも永遠に失われてしまった。

 翔は去年の今頃、ピエール・ド・ロンサールが咲き誇っていたアーチの前に立った。すでにバラは枯れ、アーチも撤去されて今は見る影もない。それでも目を閉じれば、在りし日の薄桃色の花々とその下で笑顔を見せるマダムの姿が見える気がした。
 しばしの間、あの美しく少しだけ哀しい三日間の思い出に浸った後、深々と一礼してから翔はその場を立ち去った。

 それから住宅街の外れまで歩くと、二階建ての小さな雑居ビルが現れた。上は居酒屋、下は去年までコンビニだった場所だ。
 そのコンビニだった場所は、今では『おぎのファミリークリニック』と書かれた看板が掲げられていた。入口の前には、バラや何種類かの植物が植えられた大きなプランターが置かれている。
 翔はポケットから鍵束を取り出すと、ウインドウにかかっていたシャッターをすべて開けた。大きなウインドウからは、中に青々とした観葉植物がいくつも置かれているのが見える。
「ええと、どれだっけ」
 翔は鍵束を一つ一つ確かめながら、ようやく入口の自動ドアの鍵を見つけ出した。かがんで鍵を差し込もうとした時、車のエンジン音が聞こえてきて振り返る。見ると、建物の前の駐車場に一台のルビーレッドのSUVが入ってきていた。
 車がエンジンを止め、中から運転者が出てくる。黒一色のファッションが人目を引く、四十代くらいの女性。蘭だった。

「蘭さん。お久しぶりです」
「あら、久々に見たら、あんなに情けなかった青年がちょっとしっかりしたじゃない。スーツのおかげかしら」
「蘭さんは本当に、一切、お変わりないようで」
 翔の言葉に、蘭が笑顔で首をかしげる。翔は口に手を当て目を見開いて、おどけてみせた。
 こんな砕けたやりとりができるくらい、蘭との親交はあの日からずっと続いていた。お互い、時おり近況を報告しあう程度で、必要な時に相談に乗ったり乗ってもらったりする、その距離感が心地よかった。 

「ついに開業したって聞いたから、見に来たの」
 蘭はそう言うと、クリニックの外観を上下左右に眺めた。
「なかなか立派なクリニックじゃない。立地がちょっと残念だけど」
「俺の財力ではこれが限界でして。田舎でも街の中心部ってやっぱり高いんですよ」
「けれど、日本で家庭医のクリニックだなんて思い切ったわね。イギリスじゃ当たり前だったけれど、まだまだ少ないでしょう」
「はい。けれど、家庭医じゃないと患者さんの『物語』を知ることができませんから」

 この『おぎのファミリークリニック』は、翔が院長の診療所だ。
 翔はあれから、一年分の勉強をすべてやり直した。あれほど身が入らなかった勉強は嘘のように捗った。
 大学に戻ってからは勉強に勤しみ、一年遅れで国家試験に合格した。初期研修を終えてからは総合診療を専攻し、内科・小児科・救急の研修とともに『身体の全てを診察できる医者』を目指してきた。どんな人でも、どんな病気でも救う手助けがしたい。そう思ってのことだった。
 その時の指導医から、『家庭医』という存在を聞いた。子供の頃から大人になるまで、身体の不調をなんでも相談できる医者。海外では当たり前だというその医者に、翔は強く憧れるようになった。総合診療の研修を終えた後は家庭医の研修プログラムがある大学でさらに学び、家庭医の資格を取った。
 ここまで何年もかかったが、医師として学び続けてこられたのはあの日があったからだ。マダムを助けられなかったあの経験が、翔に『医者になって人を救いたい』という強い思いを抱かせていた。
 翔は『打ち込めるもの』を自分で選ぶことに成功したのだ。どれだけ時間がかかっても、困難でも、やり遂げたいと思うただひとつの自分自身の証明を。

「患者の物語?」
 言葉の意味を問う蘭に、翔は胸を張って答えた。
「どう生きてきて、どんな考えを持っているのか。病気に対して、どんな選択をしたいのか。それを手伝える医者になりたいと思ったんです。あの日に」
「そう」
 蘭はそれだけ言うと、ふっと笑みを漏らした。翔には自分の言葉を肯定してくれているようにも見えたし、何かを思い出しているようにも見えた。
「そろそろ行くわ。まだ患者もそれほどいないんでしょう? うちで面倒見てる魔女たちに、ここを紹介しておくから。気難しい子が多いけど、よくしてやって」
「ありがとうございます」
 後から聞いた話だが、蘭が運営する『やどりぎの会』は魔女たちの共助組織という一面も持っているそうだ。魔女たちの横のつながりを助けるのが目的らしい。
 以前、魔女は日本にもそんなにたくさんいるのかと尋ねたら、「あんたが思ってる十倍はいるわね」と蘭は笑っていた。

 去り際に、蘭はクリニックの入口に置かれた植物に目を留めた。
「ねえ、このバラってもしかして」
 蘭が指さしたのは、ビオラやノースポールが植えられたプランターの端に置かれた大きなバラの鉢だった。薄紫色の花をいくつもつけ、紅茶ににた上品な香りをかすかに放っている。
「はい。マダムの庭から頂いたものです」
 それは、翔があのオープンガーデンの期間中に世話を任されたバラだった。庭の植物はすべて朽ちてしまったが、庭の外にあったこのバラはそのままだったのだ。
 マダムの葬儀からしばらくの後、財産整理をしていた蘭からオープンガーデンでのバイト代を渡された。だが、翔はそれを辞退して代わりにこの鉢をもらってきていた。いわばマダムの形見だ。
 家族にも手伝ってもらいながら今日まで咲かせてきたバラを、翔は自分のクリニックを飾る花の一つに選んだ。医者になることを本当に選んだガーデンでの日々で、側にいてくれた相棒だからだ。
「このバラの名前、知ってるの」
「『ブルームーン』。奇跡という名前を持つバラです」
 引き取って来てから、翔はバラのことをいろいろ調べて勉強した。名前や育て方、自然には存在しない『青いバラ』を追い求めた人々が生み出した数々の品種の一つであること。
 けれど、マダムがなぜこのバラを選んだのか、どうして人目に触れる場所ではなく家の裏で育てていたのか。翔が知りたいと思っていたその『物語』は、もう永遠に知ることができない。
 だから、翔は自分が生まれ育ったこの街に家庭医のクリニックを開業した。患者がそれまで生きて、紡いできた『物語』を大切にできる医者になりたい、心からそう願って。

「先生! 今日予約が入っていた患者さん、キャンセルになったんですか?」
 急に入口のドアが開いて、中から小柄な女性が飛び出してきた。受付事務を担当してくれる佐田さんだ。
 佐田さんは予約表が表示されたタブレットを指さして、青ざめた顔をしている。
「ああ、昨日連絡があって。ごめん、言うのを忘れてたよ」
「じゃあ、今日の患者さん、今のところゼロってことですか?」
 のんびりと答えた翔に噛みつきそうな勢いで佐田さんが言った。
「そうなるね」
「そうなの?」
 隣でやり取りを見ていた蘭も呆れ顔だ。新規開業だとはいえ、まさか患者ゼロのスタートだとは思っていなかったのかもしれない。 
「まだ家庭医っていうのが浸透してないみたいで」
「どうするんですか! もっと駅やスーパーで宣伝したほうがいいんじゃないですか? ホームページやSNSで発信するとか!」
「いやあ、それにもお金がね?」
「ですけど!」
 苦笑する翔に、佐田さんが食って掛かる。翔より年下だが、雇用主である翔に遠慮する様子は全くない。元気なところが気に入って採用したが、ここまでとは思っていなかった。
 翔は顎に手をやって考えるような素振りをしてから、佐田さんにゆっくりとこう言った。
「佐田さん、落ち着いて。きっと・大丈夫大丈夫・だから。頑張って、この街の頼れるクリニックになりましょう」
 すると、佐田さんはいきなりふっと力が抜けたようになった。険しかった顔が可愛らしい笑顔に変わる。
「ですね。大丈夫ですね。私、お花に水をあげてきます」
 夢見心地にそう言うと、佐田さんはふわふわした足取りでクリニックの中に消えていった。

「えっ」
 それに驚いたのは翔だった。魔術の様式を真似してみたのは蘭を前にしたジョークのつもりだったのに、今の佐田さんの変わりようを見ると、どうも洒落になっていないような気がする。
 魔術を使った? 自分が?
 戸惑う翔の隣で、蘭が腹を抱えて大笑いした。一度も見たことのない姿だ。
「蘭さん、あの俺、今、魔術……」
「それ、たぶんあの子の最後の望みよ。あんたに魔術を引き継いだのね」
 まだ爆笑を押さえきれない中、蘭は目尻を指で拭いながら言った。
「は? 魔術を引き継ぐって、どういうことですか?」
 蘭が何を言っているのか理解できなかった。混乱する翔に、ようやく笑いをおさめた蘭が問いかけた。
「あんた、あの子が倒れた時、体に触れていたでしょう?」
「ええ、心臓マッサージをしてましたから」
「私たちの業界では、『今際の際に体に触れた者に、望めば力を分け与えられる』っていうのがあるの」
「業界ってなんですか。初耳ですし、冗談ですよね? だって、蘭さんも手を握っていたじゃないですか」
「あの子、あんたみたいな頼りなさそうな男に弱かったのよね」
 翔の疑問に答えになっていない答えを蘭は返す。翔は頭を抱えた。
 蘭が言うことが本当なら、マダムはあの時、自分の庭で呼吸と脈が止まる前に魔術の適性を自分に分け与えたということだろうか。翔はなおも混乱する頭であの日を思い出した。
 『選ばせてくれて、ありがとう。あなたも選んだのね』、意識を失う直前にマダムが言ったあの言葉は、自分の手で庭に魔術を施したことについて言っていたのだと思っていた。
 それがもし、『魔術を分け与える相手に選んだ』ということだったら? 

「蘭さん、これってどうしたらいいんですかね」
「さあ? 自分で選べばいいんじゃないかしら」
 狼狽える翔に蘭はさも面白そうに言うと、くるりと背を向けて車に向かった。
「じゃあね、荻野先生」
 ドアを開けて車に乗り込む前に、蘭は翔に向き直ってそう声をかけた。
「起こったわね、奇跡!」
 初夏の日差しを照り返しながら、蘭の車は駐車場を出ていった。

 翔はしばらく駐車場で立ち尽くしていた。ふとスマートウォッチを見れば、診療時間が始まるところだった。
 行かないと。そう思った時に、佐田さんが再びクリニックの外に飛び出してきた。
「先生、急患です! 北山小学校で骨折の疑いのある生徒さんがいるそうで、先生が連れていきたいと」
「わかった。OKして」
「はい。高島さん! 骨折疑いの小学生が来ます!」
 常勤の看護師の名前を呼びながら、佐田さんはクリニックの中に走っていく。
 翔も手にしたままだった鍵束をポケットにしまうと、クリニックの入口へ向かった。建物に入る直前、ブルームーンの鉢が目に入った。
「俺も選びましたよ、マダム」
 そう声を掛けると、折しも吹いてきた初夏の風にバラはその花を揺らした。
 その様子に満足そうに頷くと、翔はクリニックの中へ入っていった。

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