短編小説|雨色のラプソディ 後編
「おはようございます」
茉莉花はクマのような大きな背中へ声をかけた。
ちょうどワゴン車のバックドアから観葉植物を下ろそうとしていた虎太郎が振り向く。
「そのパキラ、受付の方にお願いします」
彼女の姿を目にした途端、虎太郎は固まった。
「ふふっ、このユニフォームどうですか?」
微笑みを浮かべ、指先で薄紅色の上着を少し摘まむ。
茉莉花が今着ているのは、医療用のスクラブだ。
普段からフェミニンな服装の彼女しか知らない虎太郎にとって、新鮮に映るのだろう。
Vネックとパンツスタイルのシンプルな装いは、彼女の印象を少しだけ変えて見せていた。
「……いいと思います」
ゆっくりと視線を逸らしながら、虎太郎は小さな声で答えた。
茉莉花は最寄りの駅前の歯科クリニックで働いている。
その日、観葉植物を届けに来たのは虎太郎だった。
「今日は、一美さんじゃないんですね」
一美というのは、『花灯』の店長であり、虎太郎の実姉だ。
主に店番は虎太郎、配送は一美が担っている。
そのため、虎太郎が茉莉花の職場に来るのは今回がはじめてだった。
「……頼まれました」
「そうなんですね。体調を崩したのかと心配しました」
「…元気です」
「それはよかったです」
虎太郎の返事に、茉莉花はほっと胸をなでおろす。
「…今度から、自分が配送します」
「わかりました」
その言葉に、茉莉花は素直に頷いた。
一美は現在妊娠中で、近々長期休暇を取ると聞いている。
おそらく今回から、虎太郎が配送も担当するのだろう。
『虎太郎のことよろしくね!』
社交的で明るい一美の言葉を思い出す。
“頑張って”という言葉が喉先まで出かかったが、飲み込んだ。
「虎太郎君なら、大丈夫ですよ」
いつの間にか俯いてしまった彼に向かって、茉莉花はあえて明るい声で告げる。
頑張れ、という言葉は必要ない。
彼はすでに十分すぎるほど頑張っているのだから。
クマのような見た目に反して、虎太郎は繊細で内気な性格だ。
大柄の体格のせいで怖がられることもあるが、本当は穏やかで優しく、気配りもできる。
見た目で損している、そう思うこともある。
けれど、その魅力は分かる人にはちゃんと伝わる。
茉莉花自身も、その一人だ。
――だから、彼なら大丈夫。
「あ、ここに置いてください」
虎太郎は指定された場所に、鉢を静かに置いた。
「ありがとうございます。緑があるとなごみますよね」
青々としたパキラを見つめながら、茉莉花は穏やかな声で呟く。
「ほんとね、鮮やかな緑で気持ちも晴れそう」
受付席にいた同僚が声をかけてきた。
「ですね」
茉莉花が頷く。
「それにしても、茉莉花ちゃんが言っていた通りね!」
同僚はそう言って、虎太郎を見上げる。
「“優しいクマ”そのままだわ!」
「もう、千佳さん、本人の前で言わないでくださいよ」
職場で彼の話をしていたことが、完全にばれてしまった。
茉莉花は、そっと虎太郎の様子を窺う。
「……虎太郎君、すみません」
「いえ……」
虎太郎は首を横に振る。
「茉莉花ちゃん、貴方のこと、よく話してくれるのよ~」
にやにやしながら、同僚が言う。
「もう、いいですから!」
茉莉花は慌てて同僚の背中を押し、受付の奥へと追いやった。
「……本当にすみません」
すぐ虎太郎に頭を下げる。
「謝らなくても……少し、嬉しいです」
「え?」
声が小さくて、よく聞き取れなかった。
「……いえ、なんでも」
虎太郎は首を横に振った。
気になったものの、彼にも次の配達があるのだろう。
これ以上引き止めるわけにもいかない。
伝票を受け取り、一緒に外へと出た。
「ご苦労様でした。また店の方に行きますね」
「はい………待ってます」
虎太郎はわずかに頬を染めながらそう言い、運転席へ乗り込んだ。
「ふふ…」
ワゴン車を見送りながら、茉莉花は彼の最後の言葉を思い出し、そっと笑みを浮かべた。
空は相変わらずの曇天。
しかし、梅雨の憂鬱な週開けとは思えないほど、心はやけに軽やかだった。
◇ ◇ ◇
「おれがあげたドライフラワーね、玄関に飾ることにしたんだ!」
はつらつとした真の声が『花灯』の店内へ響き渡る。
その元気さに誘われたように、厚い雲間から青空が覗いた。
真の話に耳を傾けながら、虎太郎は慣れた手つきで切った生花を吸水スポンジに挿していく。
「その花知ってる! ダリアでしょう! これは――」
真が花かごの花を一つ一つ指差しながら言うと、虎太郎はそのたびにコク、コクっと頷いた。
「――真君、詳しいね」
店に入るなり、茉莉花がそう声をかけた。
「まりねぇ!」
外にいても聞こえるほどの元気な声に、自然と笑みがこぼれる。
「こんにち…」
「まりねぇ、聞いて!あのドライフラワーね――」
虎太郎の挨拶を遮り、真が先ほど話していた内容を話し始めた。
茉莉花は思わず苦笑し、カウンター越しの彼に軽く会釈をしてから、話に耳を傾ける。
「今度、母ちゃんと一緒に作るって約束したんだ。おれが教えてあげるんだよ!」
真は腰に手を当て、胸を張りながら得意げに言った。
「そうなんだね」
「うん! で、お世話になった叔母さんにあげるんだ。あ、まりねぇにも作ってあげるね!」
「わぁ、ありがとう」
その言葉に、茉莉花は笑顔で答える。
「男の人にお花もらったことないから、楽しみにしてるね」
何気ない一言に、虎太郎の指先が止まった。
「そうなの? まりねぇ、いっぱいもらってそうなのに」
「ふふ…。別のものなら、まぁまぁあるんだけどね。お花はまだないの」
「そっか。ならおれがプレゼントするよ!待ってて!」
「うん」
その横顔を、虎太郎はどこか上の空のような表情で見つめていた。
「――すみません」
その時、しゃがれた男性の声がかかった。
入り口を見ると、白髪を撫でつけ、落ち着いた茶系のジャケットを着た老人が立っていた。
「……いらっしゃいませ」
虎太郎が頭を下げると、老人はゆっくりとカウンターまで歩み寄る。
「桔梗が欲しいのですが…」
注文を聞き終えると、虎太郎はカウンターを抜け、ガラスケースの方へ向かった。
「キキョウって?」
「星みたいな形の紫色の花だよ」
「へぇー」
虎太郎を見ると、ちょうどバケツから数本の桔梗を抜き取っていた。
「――そうだ。この花カゴの花、トルコキキョウって言ってね。名前にキキョウが付くけど、別の種類なんだよ」
「そうなの?」
一度頷いてから、茉莉花は続きを話す。
「桔梗はキキョウ科、トルコキキョウはリンドウ科なの。トルコキキョウは竜胆というお花の仲間なんだよ」
「リンドウ?」
「紫色の花でね、ぱっと見は桔梗と少し似ているの。咲く時期は違うんだけど」
「お詳しいですね」
老人が声をかけてきた。
「いえ、そんなことは…」
茉莉花は苦笑いを浮かべる。
「もともと花言葉が好きで、そこから名前や種類を知っていったんです」
「……なるほど」
得心したように、老人は頷いた。
「実は、私の家内は桔梗が好きでしてね。花が好きというより、好きな戦国武将の家紋だかららしいんですよ」
老人は苦笑交じりに呟いた。
茉莉花はすぐに、その武将が誰なのか思い当たる。
「そうなんですね。では桔梗は奥様への?」
「ええ、まぁ」
茉莉花の問いかけに、老人の表情にわずかな陰りが差した。
「あ…」
茉莉花はすぐ口を噤んだ。
「……ああ、妻は健在です」
察した老人の言葉に、茉莉花は安堵の息をついた。
「私たちの思い出の花でもあるんですが……家内はもう覚えていないでしょうね」
最後の言葉は掠れたように小さく、聞き取りにくかった。
「……お待たせしました」
虎太郎が桔梗の束を老人に差し出す。
「ええ、これでお願いします」
確認を終えると、虎太郎は静かに桔梗を紙で包み始めた。
「では――」
老人は軽く会釈をすると、店を後にした。
「ありがとうございました…」
茉莉花は虎太郎とともに店先でその背を見送っていると、一人の女性が駆け寄ってきた。
「宮田さん!」
「赤岸さん、どうしましたか」
「あの、スミ子さんが…」
二人の会話が、さぁさぁと降る雨音に紛れて、途切れ途切れに聞こえてくる。
女性の話を聞き、傘越しに老人の驚いた横顔が見えた。
「何かあったんでしょうか……」
思わず心配そうに呟く茉莉花。
「……」
そんな彼女を一瞥し、虎太郎は静かに成り行きを見守っていた。
すると老人が弾かれたように、一直線に駆け出した。
後を追うように、女性も走り出そうとする。
「あの!」
傘を差さずに店先へ飛び出した茉莉花が声を上げる。
女性が驚いたように振り返った。
「あの方、どうかされたんですか……」
「え…」
戸惑ったように声を漏らす女性。
少し遅れてやってきた虎太郎が、そっと傘を傾ける。
一度、彼を見上げた茉莉花は、自然とその傘の内側へ身を寄せた。
「さっきまで、あの店で話していて……」
茉莉花は視線だけ店の方へ向ける。
「ああ。……実は――」
女性は老人の姿を思い出したように呟き、話し始めた。
女性の名は赤岸。
老人――宮田が利用している在宅訪問介護サービスの介護員だという。
宮田の妻スミ子は認知症を患っており、担当の介護員に任せて宮田は一人外出していた。
「目を離した隙に家から居なくなったと、担当の者から連絡がありまして……。靴はそのまま残っていたらしいのですが、おそらく…履かずに外へ出たのだろうと」
「……そうでしたか」
「はい。それで、手の空いた者たちで今スミ子さんを探していて」
宮田にすぐ連絡を入れようとしたが、繋がらなかったらしい。
ちょうど店にいた時だったのかもしれない。
スミ子を探している最中、宮田の姿を見つけ慌てて声をかけたということだった。
「……差し出がましいですが、私も探すのを手伝わせてください」
「……自分も」
「え……でも」
茉莉花たちの申し出に、赤岸は戸惑いを見せた。
「お願いします」
茉莉花が真剣な声音で言うと、赤岸はスミ子の特徴を教えてくれた。
万が一見つかった時のために、連絡先を交換する。
虎太郎は店に戻り、兼用自宅にいた姉の一美へ事情を話した。
「――わかったわ。店のことは任せなさい」
「おれもいるし、任せてよ!」
一美が頷き、真は自分の胸をドンと叩きながら言った。
茉莉花と虎太郎は、二手に分かれてスミ子を探すことにした。
『……家内はもう覚えていないでしょうね』
宮田の言葉が、ふっと脳裏に蘇る。
あの一言は、妻が認知症であるがゆえのものだったのだ。
どこか寂しげだった表情も、その理由がわかる。
(連絡はないし……まだ見つかってないのかも)
スマートフォンに通知は来ていない。
時刻はすでに夕暮れ。
暗くなる前に、見つけ出したい。
(スミ子さんは……薄紫のカーディガンに、ベージュのスパッツ……)
人通りの多い場所を重点的に探すが、雨のせいで人影はまばらだ。
靴を履いていないとすれば、それだけで目立つはずだ。
誰かが声をかけてくれている可能性もある。
それでも、不安が募る。
(きっと傘も差してない……早く見つけないと)
焦る気持ちのまま通りを進んでいると、反対側から虎太郎の姿が見えた。
「虎太郎君、こっちにはいませんでした」
「……自分の方にも…」
二人は重い息をつく。
「どこに言ったんでしょうね……」
茉莉花は思わず呟く。
「さっき……」
虎太郎が口を開く。
「今日が……記念日だと、言ってました」
花を包んでいた時の会話だ。
「……そうでしたね」
その時のことを思い返す。
『今日はプロポーズした記念日なんですよ』
だから、妻が好きな花を贈ろうとしていた。
――もしかしたら桔梗を見たら、妻が当時を思い出すかもしれない。
そんな願いもあったのかもしれない。
「桔梗がある公園でプロポーズしたって…」
そこで、茉莉花ははっと気づいた。
虎太郎が言いたいことが、わかった。
「行ってみましょう!」
茉莉花が言うと、虎太郎は力強く頷いた。
◇ ◇ ◇
自然公園の一角。
細い歩道の先に、その人は一人佇んでいた。
ロープで仕切られた先には、星が瞬くように桔梗が咲いている。
「……」
茉莉花が声をかけようと一歩踏み出したとき、向こうから宮田の姿が見えた。
安堵の息をつき、そっと口を閉ざす。
「スミ子、探したよ。まったく、靴も履かずに……」
宮田は怒るでもなく、困ったように苦笑した。
「冷えるだろう。家に帰ろう」
自分の上着をかけ、妻の肩にそっと手を添える。
「ねぇ」
スミ子がゆっくりと振り向く。
「綺麗ね……」
「……そうだね」
宮田は静かに頷いた。
「私が桔梗が好きなのはね……花言葉が、明智光秀とその妻煕子の夫婦愛そのままだからなのよ」
スミ子は微笑みながら言う。
「そうか」
宮田は穏やかな声で応じた。
「光秀は妻想いで、煕子も夫を献身的に支えて…だから、桔梗がとても好きなの」
「そうか」
その言葉を噛みしめるように繰り返す。
そして、そっと花束を差し出した。
スミ子は驚いたように目を見開く。
「桔梗の花言葉……誠実な愛、だろう」
何度も聞かされてきたのだろう。
宮田はその意味をしっかりと覚えていた。
「…そうよ。よく知ってるわね」
スミ子は花束を受け取り、柔らかく微笑む。
もう、その言葉を口にしたことすら覚えていないのだろう。
宮田は一瞬だけ寂しそうな表情を浮かべたが、すぐに穏やかな笑みに変えた。
「僕も好きだからね、桔梗。だから、君も気に入ると思ったんだ」
「……それは奇遇ね。ありがとう、とても気に入ったわ」
「それはよかった」
宮田は満足そうに、妻へ微笑みかけた。
◇ ◇ ◇
その日、茉莉花は仕事帰りに『花灯』を訪れた。
外は、しとしとと雨が降り続けている。
店先からわずかに漏れる明かりを頼りに、カウンターに向かった。
「こんばんは」
声をかけると、背を向けていた虎太郎が弾かれたように振り向く。
「……こんばんは」
ぎこちなく、軽く会釈する。
「言われた通り来ましたけど…何かありました?」
その日の朝。
職場に花を届けに来た虎太郎に、店へ来るように言われた。
その場では話しにくいこと。
何かトラブルがあったのではと、茉莉花は一日中気をもんでいた。
「……ちょっと、待っててください」
そう言って、虎太郎は店の奥に引っ込んだ。
しばらくして戻ってきた虎太郎に手には、白い紫陽花の花束があった。
「……どうぞ」
両手で差し出されたそれに、茉莉花は目を見張る。
以前にも、虎太郎から紫陽花を貰ったことはある。
『……辛抱強い、意味です』
あのときはそう言って、青い紫陽花を差し出されたのだ。
深く考えずに、ただ素直に受け取った。
白い紫陽花の花言葉。
――寛容、ひたむきな愛情。
青とは、意味合いが違う。
(……考え過ぎよね)
「ふふ……紫陽花って、家族団らんの意味がありますよね」
茉莉花はさり気なく、そう切り出した。
虎太郎が相手だと、少しいたずら心が芽生える。
大柄な見た目に反して、彼の反応はいちいち可愛い。
つい、からかいたくなってしまう。
最初は、内気なりに客へ真摯で向き合う姿を応援したい、そんな気持ちだった。
けれど今は、それとは少し違う感情が胸の奥を静かに満たしている。
茉莉花の言葉に、虎太郎は目を逸らさなかった。
いつもなら、恥ずかしそうに俯くのに。
――何かが、違う。
「……はい」
虎太郎の答えは、それだけだった。
「……えっと」
その反応には、今度は茉莉花の方が戸惑う。
「受け取ってもらえますか?」
真っ直ぐな眼差しに、胸が跳ねる。
「――はい」
茉莉花はその花束を、しっかりと受け取った。
